ゆずれない一線③
翌日の昼休み──
「うわあ……それはメイ、いろいろ大変だったね」
楓とメイは教室を抜けだし、屋上にいた。
体育祭帰りに倒れて救急搬送されたのに、たった一日休んだだけで元気に登校したメイは、クラス中の好奇の的だった。謝罪されたり、心配されたり、詮索されたり。
楓とふたりっきりで話せる場所を探すうち、屋上にたどりついたのだった。
幸いお天気は上々で、風もつめたくない。
でもメイはさっきから、ため息ばかりついていた。
「いつかばれるって、覚悟はしてたけど……あそこまで反対されるとは思わなかったなー」
「するでしょ、ふつー」
「そう?」
「当たり前! だってさ、搬送された時のメイ、やばかったよ? 顔真っ白だし手とかどんどんつめたくなるし、ああ、これ死んじゃうやつだ、って、あたしでさえ思ったし」
「ごめんね……」
「あたしに謝ることないよ。でも、もし、あれが自分の子どもだったら、あたしがあんたの母親だったら、娘が死にそうになった原因作った仕事なんて、なにがなんでも! 辞めさせるね」
「えー」
メイは、購買で買ったパンをもそもそ食べ終わり、紙袋を片づけた。
さすがに今朝は、お弁当を作る元気というか、心の余裕がなかったのだ。
ぼーっと遠くを見ながら野菜ジュースを飲んでいる楓も、ちょっと疲れているようだ。
「ごめんね……」
「だーから謝ることないって。それで、メイの神さまは今日はどこ?」
「うち」
「会えるかなーって、ちょっと楽しみにしてたんだけど」
「それが……調子悪そうで心配なの。わたしに気を合わせるなんて、無理させちゃったから」
「気が荒れてるとか?」
「ううん、その逆。ずうっと寝てて起きないの。ゆうべのお供え、朝まで受け取った様子がなくて、しかたがないからわたしが燃やして……〈送った〉の」
「送った?」
「捧げ物を燃やすと神さまが受け取ってくれる、みたいな感じになるかなあ、って思って、そうなるといいな、と思いながらマッチで火、つけたらね、ぱっと……スサノオがさわった時みたいに一瞬で燃えて灰になって、なんか……ちゃんと祈念が届いた感じがしてね」
「へえ……」
「だから朝のお供えもわたしが燃やして〈お届け〉して……それから学校に来ました」
「休んでも良かったんじゃない?」
「そうしようかな、ってちょっと思ったけど、元気だったし」
「ほんとにびっくりするほど元気だよね」
「野々宮さんと会って話もしたかったし」
「あはは」
「あと、お母さんが……」
「ちゃんと学校行きなさい、って怒られたとか」
「……ぜんぜん口きいてくれなくて」
「うわあ」
「朝ごはんはいつもと同じに作ってくれてあったけど、いただきます、って言っても、ごちそうさま、って言っても目も合わせてくれなくて、うちに居づらくて……」
「うわああ」
「でも零課、辞めたくないし……」
「辞めなくていいんじゃない?」
「さっきと言ってることちがうよー」
「ちがわないよ。お母さんなら反対して当然、って言っただけ。でも、メイの人生はメイにしか生きられないんだから、なにを大事にしてどう生きるかは、自分で決めていいんだよ」
まっすぐ、遠くを見つめたまま言う楓に目をみはりながら、メイはふと気づく。
はた目からは順風満帆に見える楓も、自分の進路について、誰かに反対されたことがある──あるいは今も、反対されているのかもしれない。
でも楓はそれでも、自分の選択を信じてまっすぐ進む。
誰かが敷いてくれたレールの上ではなく、誰かの真似でもなく、うまくいっても、いかなくても、いつでもめげずに自分のハートに従って選び直し、まっすぐ進んでいく。
「野々宮さんって……」
「うん?」
「ちょっとスサノオに似てるかもー」
「えええー、いやいやいや、それはないない!」
「ふたりともすごくかっこよくて、憧れます」
「怖い神さまと並べないで!」
「わたしもがんばるね」
「それ以上がんばっちゃだめ! あんたはすでにやりすぎでしょ!」
「あう」
ふたりはそろって吹き出し、楓はドライフルーツのタッパーを開け、メイに勧めた。
「ありがとー」とつまむメイをつくづくながめて、コメントする。
「いやほんとのところ、あんたは零課、向いてると思うよ。って言うか、もう零課にいる方がベテランにフォローしてもらえるぶん、むしろ安全なんじゃないか、って感じ」
「そーなの?」
しみいるように甘いドライフルーツに感動するメイの、身体から数センチのあたりを、楓は手ざわりを確かめるようにつんつん、とつついた。
「あんたの霊光、ぱっと見は前と同じサイズだけど、厚みが段違いになってるし、こんなふうに指つっこむと、あたしでもちょっとぴりっとするし」
「えっ、ごめん! 攻撃する気はぜんぜん……」
「あ、攻撃的ではないよ。存在感が分厚いってこと。大きい生き物みたいな」
「そうなんだ」
自分はちっちゃい方だけど……と考えるメイの頭上に、楓の視線がちょっと流れる。
興味深そうに続けた。
「それと、あんたの感情が揺れたり、なにか考えたりすると、こう……太陽のプロミネンスみたいな感じにぱあっと光が、炎の帯っぽく流れるの」
「えー、ほんとに?」
「妖怪ならともかく、人間からこんな光出てるの見たことないし、これはもう、プロのフォローが絶対必要なんじゃないか、って感じ」
「へえ。わたしのまわりってそんな、スペクタクルな光が出てるんだ……見たことないから」
どうやったら見えるんだろう、と建物の影に手をかざしていて、メイはふと気づいた。
「そういえばお母さんが、妖怪とか、見えるようになっちゃったらしいんだけど」
「さっき言ってた、零課の手帳の光に気づいて見つけちゃった、ってやつね」
「うんそう。キバさんも見つかって、ネズミとまちがわれたって。でもお母さん、昨日、空を飛んでた大きな人面鳥にはぜんぜん気がつかなくて……〈見える〉基準がわかんなくて」
メイは、「妖異を見る」大ベテラン、楓に期待のまなざしを向けた。
「どういうことなのか野々宮さん、わかる?」
「うーん、そうね。〈見える〉範囲ってだいたい、感度と波長で決まるのよ」
「感度……はわかる気がするけど、波長?」
「感度の高い人は見ようと思えばほとんどなんでも見える。それほどでもない人は強いもの、自分に関係のあるもの、波長の合うものだけ見える感じかな」
「波長が合う……」
「落ちこんだり弱気になってるとユーレイに波長が合って〈見え〉やすくなるのとおんなじ。関心の種類でフィルターがかかって自動選別されるんだと思う。暗いもの、怖いものに波長が合いやすい人もいれば、きれいなもの、やさしいものしか〈見え〉ない人もいるし」
「そ……そーなんだ」
「あと、同じもの〈見て〉も、おんなじように見えるとはかぎらないんだよ」
「え」
「感度の高い人が〈見る〉と神さまや妖怪の具体的な姿が見えるけど、感度の低い人が同じもの〈見て〉も、光の玉にしか見えないとか、存在は感じるけど姿は見えない、とかね」
「な……なるほど。そうするとうちのお母さんの場合……」
「キバ君をネズミとまちがえたのはまだ〈見〉慣れてないからかも。でも人面鳥は……」
野菜ジュースのパックを置き、指先で鳥のシルエットを宙に描いてみせる。
「こんなやつだったんじゃない? 大きさは小型の飛行機ぐらいで髪がなびいてる」
「そう! それ! なんかすっごく、強そうだったの!」
「それ、秋から冬の境目にかけて出る、通りすぎる系ヌシさまの一種です。毎年出るわけじゃなくて、出現すると冬が寒くなる」
「えええー、なんかすごい」
「お母さん、ちゃんと窓のぞいて、見あげたんだよね?」
「うん」
「それで見えなかった、ってことはオバケにぜんぜん関心ない、ってことだと思う。関心ない人はたいていの情報きれいにシャットアウトできるから、感度にかかわらず、結局あんまり〈見〉ないですむの。なのに零課の警察手帳見つけたのは、メイのものだったからだよ」
「そういうものなんだ……」
「そーだよ。あたしだって、ふだんはかなりシャットアウトしてるしね」
「してるんだ!」
「ユーレイやオバケって意外と数多いから。全部見てたらジャマよ、ジャマ」
「そっか……わたし、今まで自分の霊光って目に入ったことなくて、実は感度低いのかな、って思ってたけど……」
「鼻のいい人でも自分の体臭わかんなかったりするのと同じじゃない? 自分の光ばっかり見えてたら目がくらんじゃって、ほかのものなんにも見えないじゃん」
「言えてる」
ふたりして笑い、メイは少しくつろいで足をのばした。
「そっか。じゃあ、心配しすぎなくてもだいじょうぶかな」
「なにが?」
「お母さん、妖怪見えるようになったから、いつかスサノオも見つけちゃうかも、って心配で……それで念のためキバさんに、なにかあったら教えてね、って留守番お願いしててね」
「あ、それでキバ君、今日いないのか!」
と納得して、楓はしかし眉をひそめる。
「えっ、メイのお母さん、勝手に部屋に入ったりするの? 高校生の娘の部屋に?」
「ふだんは入らないよ。ただミーちゃん……子猫がスサノオにすごくなついてて、わたしの部屋に入りびたるから、迎えに来たりしてて」
「あらら」
「でもでもね、今は大丈夫! 子猫がみんなの留守に冒険してケガすると困るから、って、お母さんに言われて部屋のドア、きっちり閉めるようになったから! それからはさすがのミーちゃんも、ひとりで部屋に侵入したりしてないし」
「あ、このあいだメイんち遊びに行った時、二階に行こうとしたら『連れてってー』って感じでついて来たのはそれでか」
「そーなの、可愛いのー」
にこにこと相好を崩すメイをよそに、楓はふと考えこんだ。
「メイの部屋のドアについてるの……確か、丸いドアノブじゃなくて、がちゃっと下げるレバータイプの、ハンドルだったよね」
「あ、うん」
「あれ、猫さん開けられるよ」
「えっ?」
「跳びついてぶらさがって、体重かければ開くから、賢い子ならすぐ覚える」
「! か……鍵つけます」
「ついでに丸いドアノブに交換してもいいかも」
「そうする! 野々宮さんありがとう、今日さっそく、丸いドアノブ買って帰るー」
あわててスマホにメモしている最中に、メッセージが着信した。
なんだろうと開いてメイはあっ、とのけぞる。
楓が興味津々でのぞきこんできた。
「どーしたの? お母さんから?」
「ち……千葉さんからメッセージが……」
「えっ」
ふたりは一緒に、メッセージを読んだ。
『メイさんが体育祭のあと、救急搬送されたらしいと聞きました。
人違いだといいのですが…… ご無事をお祈りしています。 千葉朝陽 12:48』
「……あんたが倒れたの、学校前のバス停だったし、体育祭のあとでどの学年も一気に下校してたし……見かけた人から口づてで伝わっちゃったんだね」
「わーん、ごめんなさいごめんなさい、千葉さんのことすっかり忘れてて……」
「そんなこと書いちゃだめだよ!」
「書かないよー。ええと……『昨日、退院しました! もうすっかり元気ですので安心してください! ご心配おかけしてすみませんでした!』……送信!」
あわただしく千葉朝陽とメッセージをやりとりするうちに、昼休みは終わった。
楓と別れ、教室に戻りながらメイはあらためてスマホをチェック。帰りに丸いドアノブと、ついでに鍵も仕入れるべく、最寄りのホームセンターの住所を調べる。
(ミーちゃんまだそんなに高くジャンプできないし……これでだいじょうぶ!)
しかし。
大丈夫では、なかった。
◆
子猫は、メイの母の足もとをちょろちょろしていた。
朝からずっと、母が家にいるのでご機嫌だ。
母は居間の掃き出し窓の外、外干し用の物干し竿から、洗濯物を取り入れたところ。
子猫は窓の外に興味津々だった。
洗濯物と一緒に入ってきた戸外のにおいに魅了され、鼻をぴすぴすさせる。
明るい窓の外には猫の額ほどの狭い庭があり、古いブロック塀で囲われていた。
ちょうど日射しがさしこんで、雑草の穂がキラキラ、金色のしっぽみたいに揺れている。
子猫はわくわくのあまり目を真っ黒にして見とれる。
母が、取り入れ忘れたハンガーをとろうと、ちょっと窓をすかした。
子猫は迷わず、窓の外へ向けてダッシュ──したが、
「あ、こら!」
意外とめざとい母の手にぱっとすくいあげられ、抱えこまれてしまった。
みーみー抗議してじたばた暴れたものの、たちまち窓はきっちり閉められてしまい、
「ミーちゃんったら! お外はあぶないから出ちゃダメ、って言ってるでしょ」
床におろされた子猫が急いで駆け寄り、前足でたたいても、びくとも動かなかった。
「やんちゃな子ねえ」
子猫はふり返ってみー、と返事した。
そうすれば母が窓を開けてくれるかと思ったのだが、母はすわって洗濯物をたたみ始めた。
「でも、元気になった証拠よね。うちに来たころよりずっと大きくなったし……子猫の成長って、早いのねえ」
すり寄っていくとなでてくれたので、子猫はうれしくなってゴロゴロのどを鳴らし、母の膝によじ登った。ついでに母の身体をところかまわず踏み踏みし、寝る態勢になり、そのままうっとり、まぶたを閉じようとする。
スマホが鳴った。びくっと目を見開く子猫を、
「あ、ごめんね。ちょっと降りてて」
母はやさしく抱きあげて床に降ろし、立ちあがった。
「はい、神納……あ、太志さん? メール読んでくれた? そう、そうなのよ、メイが……」
太志というのはメイの父の名だが、子猫には関係ない。
興味もない。
「え? 警察庁霊能局零課ってなにって……あたしが知るわけないじゃない! ネットで調べてもなんにも出てこないし……ううん、詐欺じゃないと思う。だって詐欺ってふつう、お金だましとるじゃない。なのにメイにはちゃんとお給料振り込まれてて……うん……うん」
子猫はもう一度膝に乗せてもらいたくて、みーみー鳴きながら母の足に身体をすりつける。
「ええっ? なにもかもモデル事務所のプロモーションじゃないかって? そんなバカなことあるわけ……メイの警察手帳、ほんとに光って……見間違いじゃないってば!」
母の声が大きすぎて、子猫は耳を伏せ、ちょっと背中の毛を逆立てた。
大きい声はキライ。
怖い。
でも母はスマホを手に居間をうろうろ歩き回りながら、どんどん感情的になっていく。
子猫は居間から逃げ出した。
少し声が遠くなる。
ほっとして玄関を見、廊下奥の階段を見た。
メイは留守だが、小鬼は二階にいる感じがする。
本棚の上で、いつも一緒に寝てくれる神さまもいる感じがする。
子猫は迷わず階段に向かった。
ぴょん、と一段めに跳び乗る。
きょとんと小首をかしげた。
おぼろげに、登るのがすごく大変な階段、という印象が残っていた。
それでなるべく抱っこしてあげてもらっていたのだけど──
こんなに簡単だったっけ?
身体が大きく、強くなったからだが、子猫にとっては理由などどうでもいい。
とてとてとてん、と、苦労なく、あっという間に階段を登り切り、勇んでメイの部屋へ。
ドアの下端をかりかりとひっかいた。
前はこれで開いた気がするが、今はなんだぴっちりはまっていて、びくとも動かない。
子猫はふたたび、小首をかしげた。
つい先日、メイに抱かれてこの部屋に来た。
その時、メイはどうやってこのドアを開けたっけ?
上から押した。
なにを?
あの、飛び出してる出っぱりを。
がちゃ、って。
子猫は高揚感に目を真っ黒にして、後ろ足で立ちあがった。
せいいっぱいのびあがり、前足をのばしてちょいちょいする。
届かない。
ぜんぜんだめ。
身構え、軽くジャンプしてみた。
前足は出っぱりに届かず、しがみつこうと出したツメもひっかからず、むなしくすべった。
ドアは、布張り本棚とちがって、よじ登れないようだ。
子猫はみたび、小首をかしげた。
やる気といらだちに、しっぽをぶんぶんふった。
できる。
届く。
目を真っ黒にして出っぱりにねらいを定め、身体を縮め、後ろ足に力をためる。
無意識にお尻をふり──ジャンプ!
「!」
出っぱりにしがみつくことができた。
でも、出っぱりは動かない。
なんで? わからない。
出っぱりにもツメがぜんぜん立たなくて、しがみつく前足がつるつるすべってあせる。
落ちる、落ちちゃう、落ち──
どんどん傾いていく出っぱりからあえなくすべり落ちかけた時。
がちゃ。
音がした。
「!」
床に転がり落ちた子猫は、あわてて起き直り、ぶつけたところをせかせかなめて気持ちをなだめてから、ドアを見あげる。
ドアは、開いていた。
◆
十分ほどして、電話を切ったメイの母は泣きそうだった。
「なによなによ、太志さんのバカ! なにが『じゃあ、次に僕がうちに帰った時にもう一度、事務所の人と話そうか』よ! そんなんじゃ遅いのよ! あれは絶対、モデル事務所なんかじゃない、よくわかんないけど本物の警察なのよって言ってるのに……!」
ハッと我に返って口おさえる。
「もしかして……太志さんも催眠術にかかってて……あたしのはもう解けてるけど、太志さんのは解けてないとか……? ありうるわ! あそこまで信じてくれないひとじゃないはずだもん……それに……もしこれが逆の立場だったらあたしだって……信じないかも」
両手で顔をおおってはああ、とため息をつく。
「そうね……信じないわ。警察手帳が光ってたとか、メイが死にかけて搬送されて、翌日は元気で退院したとか、なにもかもヘンすぎて……そんな話する人の正気の方、疑っちゃうかも」
でも夫は終始のほほんと、いつもと変わらずお気楽な調子だった。妻の心配をよそに「おおー、ついにメイも反抗期かー。良かったねえ」とさえ言ってのけた。
研究者肌ゆえか、いろいろ抜けすぎていてときどき腹が立つ。
でも、今はもしかすると、話を信じてもらえなくてラッキーだったかもしれない。
「一度病院に行けば、とか、頭大丈夫? とか……深刻な反応されなくて良かった……」
もうひとつ、大きなため息をついて──
メイの母は、決意も新たに顔をあげた。
「あたしがしっかりしなきゃ! 誰も信じてくれなくても……メイにも歓迎されないとしても……メイを守ってあげられるのはあたしだけなんだから!」
てきぱきと洗濯物をたたんで片づけ、部屋の掃除をすませて、はたと気づく。
「あら……? ミーちゃん、どこ?」
ケージのベッドにもぐりこんでいるのかと思ったが、いない。
ソファのクッションの陰にも隠れていない。
キッチンの椅子にも。
ようやく、夫との電話で子猫を怖がらせてしまったにちがいない、と気づいて反省する。
「ミーちゃん、どこですかー? さっきは大きな声出してごめんねー。今からお母さん、晩ご飯のお買い物に行くからケージに入ってほしいの。ミーちゃーん。おやつあげますよー」
やさしく呼びながらドライフード入りの缶を鳴らしてみたが、反応がない。
「……もしかして、また二階?」
ぱたぱたと階段をあがって、顔をしかめた。
メイの部屋のドアがすいている。
「んもう、メイったらまた……! ちゃんと閉めてって言ったのに……! ミーちゃんもなんでメイの部屋がそんなに好きなのかしら……」
ぼやきながら部屋に入り、なにげなく子猫の定位置、本棚の上を見る。
「?」
なぜか、寝ている子猫の姿が白っぽくかすんで見え、思わず目をこすった。
光の反射かな、と窓を見たが、窓に当たる日射しはもう陰っている。
もう一度、子猫を見た。
ぐっすり眠っている。半分あおむけでおなかを見せて、安心しきった寝姿だ。
でもその毛色がやはり、霧がかぶったみたいに、白くかすんで見える。
「ミーちゃん……?」
小声で呼びかけたが、熟睡している子猫はぴくりともしない。
母はおそるおそる手を伸ばし、子猫の頭に触れた。
子猫は寝たまま、口もとをむにゃむにゃさせる。
「ミーちゃん、ごめんね、一階に降りてほしいの」
なるべく起こさないようにと、片手で子猫の首のうしろを軽くつかみ、もう一方の手を子猫のおなかの下にすべりこませた、その時。
指先がなにか、触れてはいけないものをかすめた──という恐ろしい直感と同時に、痛いほどまぶしい銀の閃光に、目がくらんだ。
「えっ……?」
他者の接触で破壊神の隠形が破れたためだが、母が知るよしもない。
母は反射的に、子猫を胸もとに抱き取った。
びっくりして目を覚まし、じたばたし始める子猫を捕まえたまま、後ずさろうとした時──
「!」
ものすごい気配を感じた。
太陽が落ちてきたような。
見えない竜巻が突如、目の前に出現したような。
メイのこぢんまりした部屋におさまるはずもない、ありえないほど巨大で、危険な、家どころか街すらひとたまりもなく消し飛ばす、神話的な災厄の気配に息が詰まる。
目覚めたのだ、と直感する。
なにかは知らない。
けれど、起こしてしまった。
見られている、という実感に肌どころか全身がひりつく。火傷しそう。
母は暴れる子猫を抱きしめ、恐ろしい光から目をそらしたまま、気力をふりしぼってドアの方へと後ずさった。なんとか廊下に出、ドアを閉める。
「……!」
気配が消えた。
少なくとも消えたと感じ、そのとたん緊張の糸が切れて、母はその場にへたりこんだ。
子猫が母の、ゆるんだ腕を蹴って床に降りた。
向き直り、みーみー抗議の声をあげる。
母は、なにもかもわからなかった。
なんで子猫が、あんなもののそばで平気で熟睡してたのかわからない。
なんであんなものが、ひとり娘の部屋にいるのかわからない。
誰に相談したらいいかわからない。
夫は信じてくれないし「零課」とやらは信用できない。でも、それなら誰に……?
「…………」
母はしばらく、メイの部屋のドアを見つめていた。
次の瞬間、ドアが爆音とともに粉砕され、怪物があらわれるのではないかと見つめていた。
でもなにも起きなかった。
子猫は母が動かないので、母の膝によじ登ってきた。
手当たり次第にあちこち踏み踏みし、ゴロゴロのどを鳴らして丸くなる。
母は震える手で子猫をなでた。
そのままそっと抱きかかえると、ゆっくり立ちあがり、転ばないよう気をつけながら一階に降りた。居間のソファにすわり、スマホを出す。
義母の連絡先を表示して──やっと気づく。
実は自分も、義母からの電話を、夫のように聞き流していた。
神納の家は巫女の血筋だ、とか、櫛が割れた、とか、メイには力がある、とか。
警察庁「霊能局」零課、という名前も、悪い冗談みたいに聞き流していた。
今の今まで、メイに「零課」とやらを辞めさせさえすれば、万事解決だと思っていた。
でもちがう。
二階にいるあれは、辞職願い一枚でどうにかなる問題ではない。ありえない。
「…………」
母はひとつ、深呼吸した。
義母の連絡先をタップした。
スマホを耳に当てる。
呼び出し音ふたつで、義母はすぐ電話に出た。
「もしもし、お義母さん……? 順子です。実は今……」
◆
スマホに向かって話し続ける母の声は今度は大きくなく、ほとんどささやくようだった。
膝の上の子猫は安心してうーん、とのびをする。
鼻面を抱きかかえ、たちまちすこやかな眠りに落ちた。
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