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ゆずれない一線②

 メイはすっきり目覚めた。

 横たわったまま見知らぬ天井を見つめて、目をぱちくりする。


(え……ここどこ?)


 常夜灯がついていて、機器類が静かな作動音を立てていた。

 間仕切りカーテンの向こうには、眠っている人の気配。薬のにおいがする。

 病院だ。


 数秒考えてやっと、体育祭の帰り、バス停で倒れたのを思い出した。

 霊力を使いすぎ、体力の限界を超えてしまったのだった。

 そのうえ、おさめたつもりの霊力がさらにあふれてきてしまって……。


(えっ……わたし、なんでまだ生きてるの……? 絶対、死んじゃうと思ったのに……)


 むくりとベッドの上に起き直る。

 驚くほど身体が軽い。

 両手を見た。

 霊力はきちんとおさまっている。


 うっすら、不思議な違和感があった。

 ひどく散らかった家を、よその人が片づけてくれたあとのような──ほんのりした違和感。


 メイより厳しく、メイより強い。

 とてつもなく強い意志の余韻が残っていた。

 こんな意志に折り目をつけられたら、一生かかっても消せないと感じるほど強い意志。


(スサノオだ……! スサノオが……わたしの代わりに霊力をおさめてくれたんだ……!)


 破壊神はしかし、メイの魂に傷をつけないよう、細心の注意をはらってくれたらしい。

 あとまで残るような強い「痕」は、ひとつも残っていなかった。


 いや、ひとつだけ。


 霊力全体に、平時から自己治癒を促進し続ける傾向がくっきり、刻みこまれていた。

 死を覚悟したほどの疲労がすっかり消えているのは、そのおかげだ。


 この力の使い方はおそらく、破壊神の無意識にしみこんだもの。

 無害ゆえに見過ごされ、波長を合わせている間に、メイの心身に灼きついたのだろう──。


「……だめ」

 メイは思わずつぶやいた。


(こんなことしちゃだめ……! スサノオが壊れちゃう!)

 他者に波長を合わせると、心身に思わぬ負担がかかることを最近知った。

 人間同士でもそうなのに、夜叉神と人では異質すぎる。

 メイの心に傷ひとつ残らないほど気を「合わせた」なら、破壊神側の負担は計り知れない。


(食べていいですって言ったのに! どうしてこんな無茶なこと……!)

 考えるまでもない。

 神と戦うという言あげ、約束がまだ果たされていないからだ。

 スサノオはなにがなんでも、メイと戦いたいのだ。


「!」

 瞬間、メイはむちゃくちゃに腹を立てた。

 これを予測できなかった自分に腹を立て、無理を無理とも思わない破壊神にも腹を立てた。

 同時に熱烈な感謝と、破壊神の期待になにがなんでも応えたい、という熱意に火がつき──


 すぐ平静を取り戻した。

 あまりに完璧に平静になったので、ああ、この平静さもきっとスサノオの「余韻」ね……と気づくことができたほど。長くは残らなさそうだが、今は助かる。


 次にすべきことを考える。

「…………」

 小さな破壊神の姿は見当たらない。気配もない。


 今までになく感度を増した霊感を通し、すでに家に帰った、という心象がひらめく。

 眠っているのを感じた。

 お供えが必要だ。それもたくさん。

(早く帰らなくちゃ)


 しかしまだ点滴の針が刺さっているし、モニター用コードもつながっている。

 どうしよう、と思ったところへ折良く看護師さんが通りかかり、目を丸くした。

「神納さん! 良かった、目が覚めたのね。でもまだ起きちゃだめよ、すぐ朝の検温……」


 メイは、小さく挙手して発言の許可を求める。

 驚いて口を閉じる看護師さんに、言った。

「大変お世話になりました。もうすっかり良くなりましたので、退院させてください」


 もちろん、そんなわけにはいかなかった。


 時間どおりに担当医が回診に来て、まず一般病棟へ。

 歩いて行けますと言ったのに、点滴つき車椅子で運ばれて居心地の悪い思いをした。

「だって神納さん、昨日はほんとにあぶなかったのよ? 元気になって良かったけど、まだ原因がわかってないし、搬送されてからなんにも食べてないんだし」


 たくさん検査された。

 薬物中毒まで疑われているようだった。

 途中で小鬼がいることに気づいた。

 隠形(おんぎよう)で完全に姿を消していたのだが、たまたま手が触れて見えてしまったのだ。


 大部屋で、同室の患者さんもたくさんいたので、お手洗いに立った時に話しかけた。

「キバさん……! 来てくださったんですね、うれしいです」

「うむ。元気になったようでなによりじゃ」

「ありがとうございます。でもどうしてわざわざ姿を隠してらしたんですか?」


「世の中意外と、妖異を見る者が多いらしいのでな、見られて騒ぎになっては困るであろ」

「それは困ります」

「おお、そういえばそなたの母者がのう」

「?」


「今まで鼻先を飛んでも気づかなんだのに、急にもののけが見えるようになったようでのう」

「えっ」

「昨日は台所でネズミとまちがわれ、大騒ぎされてしもうた」

「ええっ」


「今後は母者の目にとまらぬよう、重々気をつける所存じゃ」

 小鬼はいかめしい顔つきで言い、はたと気づいてそわそわと浮き足立つ。

「母者と言えば、午後にはそなたを迎えに来るのだったな? 万一にも見られてはかなわぬゆえ先に帰ろうと思うが、それで良いか」


「もちろんです。付き添いありがとうございました」

 一礼するメイに、小鬼は照れてもごもごなにかつぶやいた。

 そのまま手近な影に飛びこもうとしてふと足を止め、真顔でふり返る。


「母者はのう、そなたが死ぬのではと、たいそう心配しておったぞ」

「あ……」

「あまり心配をかけてはいかんぞ」

「……はい」


 とぷん、と影に沈んで去る小鬼を見送って、メイは罪悪感のあまり立ちすくんだ。

(ごめん……ごめんなさい! お母さんの気持ち、わたし……ぜんぜん考えてなかった!)

 母が聞いたら卒倒する……いや、祟られそうだ。


 バス停で死ぬと感じた時から今まで、メイが考えていたのはほぼスサノオのことだけ。

 母のことも父のことも、楓のことさえ、意識にのぼりもしなかった。

(も……もしかしてわたし……人でなし?)

 どんな顔をして母を迎えたらいいかわからない。


 せめて、搬送時に付き添ってくれたという楓にお礼のメッセージを送ろうと思ったが、看護師さんによると荷物は全部、母に渡してしまった、という。

 スマホがないとなにもできない。

 着替えもない。

 人見知り対策の眼鏡さえ、持って帰られてしまってなかった。


 しかたなく同室の患者さんたち──ゆうべはよく眠れた、今日は調子がいい、と、みなご機嫌──の話を聞き、残りの検査をこなしているうちに午後になった。


「お母さんがいらっしゃったわよ」

 看護師さんに声をかけられ、メイはあわててベッドから立ちあがった。

 病室の入り口まで迎えに行こうとしたが、母が先に入ってきた。


「どうも、娘がお世話になりまして」

 いつもと同じくったくのない笑顔で、看護師さんや同室の患者さんたちに挨拶している。

 ぼうっと立っているメイを見るや、ぱっと顔を輝かせた。

「メイ!」


 駆け寄ってくると、母は両手の荷物をそのへんに落とし、メイの頭、おでこ、肩、腕まで、確かめるみたいにあちこちさわった。そのまま、小柄な娘をぎゅっと抱きしめる。

「ああ……良かった! ほんとに良かった……!」

「お母さん……」


 メイは母の背をおずおずと抱き返しながら、思わずつぶやく。

「……ごめんなさい」

「あら、なにが?」

「心配……かけちゃって……」

「んもう、なに言ってるのこの子は!」

 母はぐしゃぐしゃっとメイの頭をなでた。


 微笑ましそうに見ている同室の患者さんたちに会釈し、間仕切りカーテンを閉める。

 てきぱきと着替えを出し、メイ愛用のブラシと、度なし眼鏡をそっと上に載せた。

「ちゃんと全部、忘れずに持ってきたわよ。靴はこっちね。ひとりで着替えられる?」

「だいじょうぶ! もうすっかり元気だから安心して」


「お医者様もそうおっしゃってたけど……昨日の今日なのに……」

「ほんとに平気! 体育祭の筋肉痛も全部、治っちゃった」

 ばんざいして見せるメイに、母はそんなバカな、という顔をしたが、しぶしぶうなずく。

「じゃあ、先に退院の手続きしてくるわ。でもいきなりばたばたしちゃダメよ!」

「はーい」


 メイは母が持ってきてくれた私服に着替え、髪をといてきちんと編み直す。

 眼鏡をかけるとほっとした。

 荷物を片づけているうちに母が戻ってきて、同室の患者さんたちに見送られて病室を出る。


 母はメイにほとんど荷物を持たせてくれなかった。

「お母さん! わたし、それぐらいひとりで持てるのに……過保護すぎて恥ずかしいよー」

「だめ。昨日、死にかけたひとはおとなしくしてなさい」

「あう」


 エレベーターで一階に降りる。

「今日の検査の結果、二週間後に教えてくださるそうよ。予約入れといたけど、その日はメイ、学校ある日だし、一緒に来なくてだいじょうぶだから」

「ありがとう」


「娘さんが常用してる薬やサプリメントはありますか、ってきかれたけど……ないわよね」

「ないよ。わたしも問診で、学校の近くで殺虫剤の散布とかなかったか、とか、ふだんとちがうものを食べなかったか、とか、お弁当のメニューまできかれたー」

「メイはアレルギー持ちじゃないのにねえ」

「突然、なることもあるんだって」


 メイは、心の中で担当医師に心から謝罪した。

 普通の医学書に、霊力の暴走による不調なんて載っているはずがない。

 病因も、突然治った理由もわからず、若いお医者さんはしきりに首をひねっていた。


 でもとにかく、非の打ち所がないほど健康な状態になってしまったから、入院させておくわけにもいかない……と退院させてくれたのだった。


「あ、そうだ、お医者様がね、念のため数日は、激しい運動は避けてくださいって」

「えー、そこまでしなくても……」

「でも、倒れたの体育祭直後でしょ? 原因がわかるまでは、とうぶんおとなしくしててちょうだい! メイが毎週搬送されたりしたら、あたしがもたないもん」

「ご……ごめんなさい」


 病院を出ると母は迷わずタクシーを奮発し、メイはますますいたたまれなくなる。

(ほんとにもう元気だし、バスとかでも平気なのに……)

 とはいえ、タクシーが走り出すとすぐ、そこが知らない街であることに気づいた。

 走っているバスも知らない路線だ。


 午後の明るい空を、異様に大きな鳥が飛んでいた。

 なんだろうと目をこらしてどきっとする。

 人の顔がついている。

 妖怪だ。それもヌシ級の強い()()


「なに見てるの?」

 母が横から窓をのぞきこんで言ったので、メイは跳びあがりそうになった。

「えっ……あ……あの……」


 小鬼が、母は妖怪が見えるようになった、と言っていたのを思い出したが、とっさにどうフォローしたらいいかわからない。母はしかし、なにに気づいた様子もなく空を見て言った。

「よく晴れてるわね。洗濯物、外に干して出たから助かるわー」


 大きな妖怪鳥はそのまま飛び去り、メイは内心ほっと胸をなでおろす。

(お母さん……見えるようになった、って言ってもそんなに感度、高くはないのかな?)

 それなら助かるけど……などと考えているメイの横で、母は明るい声を出した。


「でもほんとに、たいしたことなくすんで良かった! やっぱり小さいころとはちがうのね、大きくなって体力がついたのよ」

 無難に「そうだね」などと調子を合わせながら、メイはふと気づく。


(あ! もしかして、わたしが小さいころ何度も死にかけたっていうの……霊力のせい?)


 幼すぎて力のコントロールがきかず、暴走までいかなくても負担になったのかも──。

「田舎のおばあちゃんもね、メイのこと心配してたわよ」

「おばあちゃんが?」

 メイは目を丸くした。


 田舎と言えばメイのうちでは父方の実家のこと、おばあちゃんといえば父方の祖母のことだ。

 メイは小柄で元気な祖母が大好きだ。

 うんと小さいころは、祖母の家の近くに住んでいた。


 祖母にあずけられることもあって、祖母がひとりで切り盛りする美容室のかたすみで絵本を広げ、閉店まで待つのも楽しかった。

 祖母の手作り草もちがまた、おいしいのだ。お餅の緑が濃くて、あんこたっぷりで、かじると晴れた日の原っぱみたいないい香りが、口いっぱいに広がる。


 そのうえ祖母の家は古くて広くて、縁側がある。

 夏は蚊取り線香をくゆらして涼み、冬は猫といっしょにひなたぼっこできる広い縁側だ。

 不思議と自分のうちよりくつろげる、魔法のような場所だった。


 例年、夏休みは祖母の畑でトマトやきゅうりの収穫を手伝うのに、今年は行けなかった。

 祖母のあけっぴろげな笑顔、しゃんと伸びた背筋、やさしい手を思い出し、メイはなつかしさに胸が温かくなる。


「おばあちゃん、元気?」

「元気よ、すっごく。昨日、電話くださってね、近いうちに、メイの様子見に来るって」

「ええっ、だっておばあちゃん、お店あるのに……」

「そう言ったんだけど……」


 タクシーが家の近所にさしかかっているのに気づいて母は話を中断、身を乗り出した。

「あ、すみません、次の角を左でお願いします」

 なにごともなく家につき、母は子猫に挨拶、

「メイは先にお風呂に入っちゃいなさい。長湯はだめよ」

「はーい」


 メイは急いで二階にあがった。

 母のことも祖母のことも気になるが、今はなによりスサノオが心配だった。

 自室に入るとすぐ小鬼が寄ってきたので目顔で挨拶し、ドアを閉めて本棚の上を見る。

 小さな破壊神は定位置で、なんの気配もなく眠っていた。


「ただいま戻りました」

 メイは敬愛する神に手を合わせ、丁寧に一礼する。

「命を救っていただきありがとうございます。ご期待に添えるよう、全力を尽くします」

 目を閉じ、自分の言葉で祈るメイの横で、小鬼が小さく息をのんだ。


「? どうかしましたか」

「そなたの祈念……強くなりすぎてまぶしいぞ。少しおさえぬと母者に見られるやも……」

「き……気をつけます!」

 なるべく気を拡散させないよう心がけながら、メイはそのまま、祈りを捧げ続ける。


 破壊神には今こそ、メイの祈念が絶対に必要だ、という確信があった。

 そうして集中するうちに、初めて、「お供え」という媒介なしでも、自分の祈念が海に水をそそぐように、神へと流れこんでゆくのをありありと感じた。

 うれしくて時間を忘れた。


「メイー? 寝ちゃったの? お風呂、たまってるわよー」

「は……はーい! 今行きまーす」

 母に呼ばれてあわてて切りあげ、お風呂へ。


 髪も洗い、湯船につかってほっとしている時にはたと思い出す。

「そうだ! 野々宮さんにもお礼言わなきゃ……」

 湯上がりの髪をふきながらあわてて二階に戻り、スマホを取りだしたとたん、もうひとつ、絶対忘れてはいけない連絡先を思い出した。


「いけない! 零課のサポート係に今日のお仕事、休ませてくださいって連絡!」

 さすがに昨日の今日だし、力の大きさになじむまでは無理は禁物。

 それに今日これから外出なんて、母が許すはずがない。


「ええと、なにから言えばいいかな、昨日倒れました……ってとこから?」

 電話をかける前に頭をまとめようとうろうろしながらつぶやいていると、小鬼が言った。

「そなたが倒れたことなら、零課にもう伝えてあるぞ」

「えっ? キバさんが? いつ?」


 仰天してきくメイに、小鬼は自分のスペースの、読みかけの本の上からふり向く。

「ゆうべ……今朝早くじゃ。街中で見つけた零課の者に伝えて助けを乞うたら、すぐ、なにやらものすごい千里眼が、そなたの無事を確かめてくれてのう」

「キバさん、まさかひと晩じゅう、零課の人探してくれたんですか?」


「もそっと簡単に見つかると思うたのじゃが……時間がかかってしもうてすまんの」

「そんなことぜんぜん……! なんで今までひとことも……」

「結局なんの役にも立たなんだ、言うだけ野暮であろ。礼なら暗黒神(マハーカーラ)に……」

 ばつが悪そうに顔をそらす小鬼をよそに、メイは感激に目をうるませた。


「ありがとうございます! わたしなんかのためにそこまで……ありがとうございます」

「!」

 メイの感謝の祈念をまともに浴びて、小鬼は感電したように立ちすくむ。

 全身の毛をちょっと逆立て、両手で顔をかばうようにして後ずさった。


「待てい、落ちつけ! ワシに今のそなたの気は強すぎ……バチバチするわい……!」

「す……すみません」

「ワシはそなたの護法、そなたを守るのは当然じゃ。礼なぞ無用。それよりさっさと零課に、休みの断りを入れてはどうじゃ」

「あ」


 まったくこのポンコツめ、とかなんとかつぶやきながら小鬼は読書に戻る。

 メイはあらためて電話で言うべき言葉を頭の中でまとめ直し、スマホのロックを解除した。

 さあ、電話しよう……として初めて、メッセージの着信サインに気づく。


「? えっ? 千里班長から?」

 着信時間は今日の午前中だ。あわてて開いた。


『千里です。

 メイちゃんの霊力暴走の件、把握遅れてごめんなさい。

 おさまってほんとうに良かった! メイちゃんの神様に感謝です。

 しばらくお掃除やお祓いはしないでください。

 もちろん業務も休んでください。


 あとでサポート係から正式な通達が届くと思うけど、当分、休職扱いになります。

 あ、神様へのお供えとお祈りは大丈夫。訓練にもなるので続けてください。

 元気になったそうだけど、くれぐれも無理しないようにね!

 また連絡します!』


 スマホを見つめたまま立ちつくすメイに、小鬼がけげんそうな目を向けた。

「なにをぼーっとしとるのじゃ。はよう電話せんかい」

「それが、千里班長からメッセージが来てて……わたし、休職になっちゃいました」

「休めて良いではないか」

「それは……そうですけど……」


 メイはしばらくためらってから千里に、『未熟でご迷惑をおかけしてすみません。これからもどうぞよろしくお願いいたします』というようなメッセージを返送した。

 それからようやく我に返って楓にもメッセージを送り、髪を乾かす。


 母に呼ばれて一階に降り、なにもなかったみたいに普通に晩ご飯を食べた。

 後片づけの手伝いをし、ふたりして子猫を遊ばせ、テレビでニュースを観た。

 母もすっかり落ちついたようだったので、安心して二階に戻ろうとする。と──

 呼び止められた。


「ごめんね、ちょっと話したいことがあるんだけど、今いい?」

「? いいけど、なに?」

 メイは立ちかけたソファにふたたびすわる。

「これのことなんだけど」


 母はエプロンのポケットから黒いものを取りだし、居間のテーブルの上に置いた。

 なにげなく目を向けたメイは、ぎょっと凍りついた。

 零課の警察手帳だ。

 どうしてお母さんがこれを……と考える間もなく、母が続けた。


「これね、あなたの鞄の……ポケットの中で光ってたの」

「!」

 空飛ぶ妖怪鳥には気づかないのに、零課の手帳が放つ霊光は「見え」たとは──!

 見え方にムラがあるようだが母は確かに小鬼の言うとおり、「見える人」になったらしい。


「なにかが電源入りっぱなしなのかと思って、消そうと出してみたらこれだったのよ」

 心臓が口から飛び出しそうで、メイはなにも言えない。

「これ、本物よね」

 きかれて、メイはこわばった首で小さく、うなずいた。

 母は続ける。


「それでね、これ見たら思い出したの」

「…………」

「この春……五月ぐらいだったかしら、警察の人がアポとってうちに来たわよね。眼鏡をかけた、くたびれた感じの、でもわりと若い男のひと」

 大矢野課長だ。


「お父さんがうちに帰って来る日に予定合わせて……メイも同席して、家族みんなで会ったのよ。そうしたらその人、メイを警察にスカウトしたい、って」

「…………」

「もちろん断ったわ! メイに警察官なんて、絶対無理に決まってるじゃない!」

「…………」


「でも言い合ってるうちになにか、催眠術にかかったみたいになって、ぼうっとなっちゃって……そう! 確か、どんな職業だったらご許可いただけますか? ってきかれた気がする。それでなんとなく、モデルとかなら、スカウトされるっていうのもわかるけど、みたいなこと言って……気がついたら、そういうことになってて……」


 母の声が震えた。

 メイは怖くて母の顔が見られない。


「この手帳を昨日見つけて、これ、なんなんだろう、って、ひと晩考えたわ。でも答えが出なくて、今日、オフィスが開く時間になってから、いつも問い合わせしてるモデル事務所の番号に電話したの。娘のことでご相談が、って言うつもりだったんだけど、ゆうべからずっと警察手帳見てたもんだからつい『警察庁ですか』って言っちゃって。そしたら……」

「…………」

「『警察庁霊能局零課です』って、オペレーターの人が」

「!」


 沈黙が落ちた。

 母は深呼吸する。

 気を落ち着けようとしているようだ。

 ひとり遊びしている子猫が鈴つきおもちゃを転がす、ちりりり、という音がした。


「メイは……お父さんとお母さんに嘘、ついてたの?」

「…………ごめんなさい」

 メイはうつむいたまま、蚊の鳴くような声でつぶやく。


 母は、怖いほど淡々と語を継いだ。

「このあいだの、モデルさんとして初撮影した、って話も嘘?」

「ううん、それは本当」

「野々宮さんは、メイのほんとの仕事、知ってるの?」

「…………うん」


「霊能局零課って、なに? 聞いたことないし、どこにもサイトとかないし、なのに電話がつながって、公務員っぽく普通に働いてて、こんな本物っぽい警察手帳……」

「本物っぽいんじゃなくて……本物です」

「あ、そう。でも本物の警察手帳、子どもに持たせるなんてどうかしてるわ」


「わたし、もう子どもじゃ……」

「子どもです! このあいだ十六になったばかりの未成年じゃないの」

「それは……そうだけど……」

「辞めなさい」

「!」


 仰天して目をあげると、母は大きな瞳に涙をためて、メイをにらんでいた。

 うろたえたメイがなにも言えないうちに、怒濤(どとう)の勢いでたたみかける。


「今すぐ辞めなさい! こんな……死にそうになるほど具合悪くなったのもその仕事のせいなんでしょ! あなたは未成年なの! こんな就職、許可したおぼえはありません!」

「……!」

 メイは息をのんだ。


 母の本気が痛いほど伝わってきて、とっさになにも言い返せない。

 母はひとつ息をつき、ひと晩考え抜いたセリフなのだろう、なめらかに続けた。


「辞職願い出しなさい。警察手帳って、辞める時返却する決まりなんですってね、それまで、お母さんがあずかっておくから……」

「だめ!」


 メイは母より一瞬速く、テーブルの上の警察手帳をひったくった。

 まさかそんなことをされるとは思っていなかったのだろう。母はあぜんと固まっている。

 メイはソファから立ちあがり、母から距離をとった。


 大事な警察手帳を胸に抱きしめ、決然と告げる。

「わたし、絶対、辞めません」

 今まで反抗らしい反抗をしたことのないおとなしい娘の宣言に、母は当惑した。

 当惑のあまり、力なく笑った。


「メイ……? なに言ってるの……! あなたもきっと、催眠術かなにかでだまされて……」

「だまされてません。わたしはわたしの意志で、零課に入ったの」

「み……未成年のあんたにそんな判断、できるわけないでしょう!」


「できるもん! わたしは、わたしにしかできないことをしてお役に立ってるの!」

「許しません! 十六歳の女の子の帰りが真夜中すぎたり命があぶなくなったりする仕事に、親が賛成するわけないでしょ!」

 母も立ちあがった。

 鬼も道をゆずりそうな気迫でくり返す。


「辞めなさい」

「絶対、イヤ。お母さんが賛成してくれなくても、続けます」

 母娘は数秒、本気でにらみあい──


 母が先にひるんだ。

 メイの目からぽろっと涙がこぼれたからだ。


 その涙を見た瞬間、母は、娘がどれほど内気で、自己主張が苦手かを思い出したのだった。

 母がひるむのを感じたとたん、メイは身をひるがえして居間から逃げ出した。


 トイレに飛びこんで鍵を閉め、しばらく泣きじゃくった。

 落ちついてから顔を洗って気を取り直し、二階にあがる。


 悲しみの気を嫌う破壊神の眠る部屋で、泣くわけにはいかなかった。





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