いいことがありすぎて②
野々宮楓は額に手をかざして日射しをさえぎり、体育祭進行表を見やった。
「おっ、いよいよ次だね、花のクラス対抗リレー! メイ、代走がんばれー」
「や、やめてー、これ以上プレッシャーかけないでー」
準備運動しながら弱気な声をあげるメイを、松葉杖をついた陸上部女子が激励する。
「いつもと同じに走ればだいじょうぶ! 神納さん、ほんとによく練習してくれたし、ポイントはちゃんと身についてるから、自信持って!」
「で、でもバトンの受け渡しがまだ……」
「あわてず、丁寧にやればオーケー」
「き……競争なのに?」
「そう! 競争だからこそあわてず、丁寧に、覚えた基本に忠実に! 神納さんならできる」
「そ……そうかな」
「あとね、わりとみんな忘れちゃうんだけど、リレーはみんなで走る競技だから」
「あ……」
「自分だけでなんとかしよう、とか、自分のせいで順位が下がる、とか余計なことは考えないこと! となりのトラックを走ってる人のことなんか忘れちゃって! ただ、今できることをする……全力を出し切って、昨日の自分より少しでも速く、走りきれればそれで良し!」
「そ……それならできそう……」
不確かにつぶやくメイに、陸上部女子はにっこり、つけ加えた。
「勝ちに行こうね!」
強気な言葉にメイは思わず笑顔がひきつってしまう。
メイのウォーミングアップが順調なのを見届けて、陸上部女子はメイにぐっと親指をあげてみせ、松葉杖をついているとは思えないすばやさで、他の人にアドバイスしに行った。
「いい気合いじゃねえか」
メイの頭の後ろでコメントしたのは、小さい破壊神だ。
「おまえも少し見習え」
「ええー」
苦笑しながらも、メイは実のところ、お祭り気分だった。
リレー代走のプレッシャーも、言うほど気にならないほどだ。
(だってスサノオが学校について来てくれるの久しぶりだし、体育祭だから野々宮さんも登校してて……出場する時以外は、好きなだけおしゃべりしてていいし……なんかもう最高!)
お天気も上々、一緒にお弁当も食べた。
楓は複数の種目で大活躍し、応援にも熱が入った。
クラスは別だけれど、メイと楓が幼なじみで仲良しなのはみんな知っている。そのうえ楓の成績は華々しすぎて全員が拍手していたので、メイだけが悪目立ちすることもなかった。
ちなみに小鬼は、今日は子猫と留守番している。
先日の撮影スタジオでメイの霊力が暴走した時、あてられて酔いつぶれてしまったためだ。
今のところメイの霊力はふだんどおりにおさまっているが、再暴走しない保証はない。
酔いつぶれてしまうと役に立たないからと、あれ以来、破壊神と交代していた。
小鬼が来られなかったのはちょっと残念だが、
(今日はほんとにうれしいことばっかりで……幸せすぎてなんだか罰でも当たりそう)
メイは横目でちらっと、宙に浮かぶスサノオの様子をうかがう。
小さな破壊神は、機嫌が良さそうだった。
眠そうでもない。
体育祭のさまざまな「模擬戦」で、全校生徒が盛りあがっているからだろう。
あるいは逆に、縮身しているとはいえ戦神が観戦しているせいで、ただの「模擬戦」が白熱している可能性もあるが──。
今、グラウンドでは騎馬戦が行われていた。
騎手の帽子を奪い合う、オーソドックスルール。
追いつ追われつの大接戦だが、そろそろ決着がつきそうだ。
「そういえば野々宮さん、ずっとよそのクラスの席にいていいの?」
「いいのいいの。誰も気にしないから!」
と笑う楓を、メイは今さらのようにつくづく見直す。
学校指定のジャージを着てノーメイクでも、ぱっと目を惹く輝きがある。
「なに?」
視線に気づいてきく楓に、メイはもごもごと答えた。
「あの……おんなじジャージ着てても、あたしなんかとはくらべものにならないって言うか……やっぱり本物のモデルさんはちがうなあ、って、見とれてました」
「そこはまあ、経験?」
楓はおどけてちょっとポーズを取る。
それがまたさりげなく絵になるのをながめて、メイはため息をついた。
「そのうえ運動まで得意とか、すごすぎ。野々宮さんがリレーの選手じゃなくて良かったー」
「ま、ね。ひとりが出場できるのは三種目まで、って制限あるから」
「幅跳びと高跳びと障害物競走! 野々宮さん、どれもすごかったよー」
「それを言うなら千葉さんだってすごかったじゃん。砲丸投げで大会記録出してたし」
「うん、すごかった! あー、野々宮さんのスピードと千葉さんのパワー、どっちも欲しー」
「いやいや霊力測る種目あったら、あんたがぶっちぎりのトップだから!」
「そんな実感、ありません……」
「あはは、それはいいけど、このあいだみたいな暴走だけはしないでね」
真顔で釘を刺されて、メイも思わず姿勢を正す。
「それがね、いちおう気をつけてはいるんだけど……昨日も一日〈お掃除〉して回ったのに、いつもとちがう感じとかぜんぜんなくて……」
「え、昨日? 零課って日曜も仕事するの?」
「うん。日曜は学校ないから、朝から晩までずっとお仕事だよ」
「えー、それはひどいよ! ブラックすぎ!」
「前にも言ったかもだけど、零課って申請しないかぎりほぼお休みないから」
「いやそれ、まずいでしょ。いくら公務員だからってあんたまだ学生なんだし……」
「だから一昨日、めずらしく土曜日一日オフになって、すっごいうれしかったです」
「……人事かなんかからちゃんと休み取らせろ! って圧力かかったんじゃない?」
「ふふっ、このまま毎週土曜がお休みになったら、ちょっとうれしいかもー」
と笑った時。
トラックわきに集まり始めていたメイのクラスのリレーチームに、動揺が走った。
体育委員もまじえてなにか議論している。
ひとりがあわてて、メイの方へ手をふった。
「神納さん! ちょっと」
呼ばれて、メイは楓をその場に残し、チームが集まっているトラックわきまで走った。
たどりつき、なにごとだろう? と思う間もなく、体育委員が言った。
「実は中井さんが騎馬戦で足くじいちゃって……今、医務室」
「!」
中井さんは一番走者の女子だ。
クラス対抗リレーは男女混合。女子五人、男子五人で、男女交互に走る決まりだ。
ひとり欠けても出場できない。
(ど……どうすればいいの?)
息をのむメイに、リレーチームのひとりが気まずそうに切り出した。
「神納さん、九番走者だよね。悪いけど……できれば一番も走ってくれないかな」
「…………はい?」
頭が真っ白になるメイに、アンカーの男子が冷静に指摘する。
「二百メートルトラック一周、平均三十秒として、九番走者の神納さんなら二番から八番までの間、四分休める。走順、なるべく変えたくないし、他の人が二回走るより現実的だから」
「い……いやあのっ、だ、誰かリレーに登録してない人にたのめば……」
「体育委員は許可するって言ってる。でも、ひとり三種目までの制限ははずせないから……」
「あ……」
どのクラスにも運動部の子はいるが、みな、勝てそうな種目から優先でエントリーする。
だからクラス対抗リレーに出るのは必ずしも、足が速い子ばかりではない。
とはいえ──人数合わせでメイに白羽の矢が立つ時点で、クラスにもう、走るのが得意な女子が残っていないのは確かだった。
「もう競技開始まで時間ないし……」
ちらっと時計を確認する体育委員の横から、バレー部女子が身を乗り出した。
「運良く誰かが出てくれたとしても、リレーの練習一回もしてない人にぶっつけ本番たのむより、神納さんが二回走る方が絶対! マシな結果になると思うの」
正論だ。
気圧されてなにも言えないメイに、他のメンバーも口々にたたみかける。
「だいじょうぶ! 一番走者の中井さんも速い方じゃないし……」
「神納さん、中井さんと同じぐらいの背だし、二番のおれもバトンもらいやすいと思う」
「お願い、走ってぇ。でないとせっかく練習したのに棄権になっちゃうー」
「抜かれてもコケても気にしなくていいから! 参加すればビリでも点数になるから!」
「神納さん、意外とスタミナあるしイケるよ」
全員の期待のまなざしを浴びて、メイはか細い声で訴えた。
「あの……でもわたし……スタートの練習、してませ……」
「そうだったね! 今、教える!」
松葉杖の陸上部員女子が威勢良く割りこみ、バレー部員の肩をたたく。
「一番走者やるかも、って練習したよね? クラウチングスタートのお手本、見せたげて!」
まず、スタートラインからこれぐらいさがって立って……と、運動部員のお手本つきで解説が始まるころには、メイもあきらめの境地に達していた。
これは、断れない。
やるしかない。
(だいじょうぶ! とにかく走ればいいだけだもの……殺し合いじゃないんだし……!)
立ち位置、手のつき方、スタートのコツ。
文字通り、手取り足取りコーチされるうちに霊感が高まってきて、メイは突然、気づいた。
熱心に教えてくれている陸上部員の心の中は、罪悪感でいっぱいだ。
(ごめん! ごめんね神納さん!)
「!」
耳もとで言われたみたいに相手の心の声が脳内に響き、メイは目を丸くする。
スサノオからの念話以外の「思念」を、こんなに鮮明に「聞く」のは初めてだ。
「そう! 腰から頭は一直線、足はピストンみたいにまっすぐ蹴る感じ。やってみて」
てきぱきとフォームを教えながら、彼女はしかし、心の中では泣きべそをかいていた。
(神納さんがたのまれると断れない性格なのわかってて、みんなして押しつけて……ほんとにごめん! そもそもわたしがケガなんかしなければ……わたしのせいでこんな……)
責任感の強さ、まっすぐな性格、みんなに、とりわけメイに迷惑をかけてしまったという思いがどっと押し寄せてきて──メイはたまらず小声でささやく。
「川村さんのせいじゃないよ」
「えっ……?」
不意を衝かれて息をのんだ彼女の、心の声も一瞬、止まる。
メイは相手を見あげて、にっこりした。
「だいじょうぶ! 川村さんのコーチのおかげで、前よりずっとうまく走れるようになったところ、見てほしいし……走るって決めたのは、わたしだから」
と、口に出したとたんに心がふっと、と軽くなる。
(あ、今の、討伐術の宣言みたいだった……?)
討伐術以外で「わたしは自分の意志で、必ず××します」的な「宣言」をほとんどしたことがなかったからだろう。「宣言」につられて討伐術を使う時のように雑念が消え、そのとたん、
「!」
陸上部の川村さんが夢見る「理想のクラウチングスタート」のイメージが、「降りて」来た。
いきなりモデルの代役をすることになった時、カメラマンやスタイリストの「理想のイメージ」を無意識に写し取った時と同じだ。
川村さんのダッシュ、彼女が練習でつかんだコツ、手のふり方、膝の角度、スタート時に足に感じる抵抗──すべてがそっくり、乗り移ったようにメイの心身にしみわたる。
しかし一緒に、川村さんが目にしたさまざまな風景、耳にした声、中学時代の練習、大好きだったコーチ、水の味。あらゆる記憶と心象風景が津波のように押し寄せてきて──
メイは一瞬、自分を見失った。
「おい」
耳もとで、スサノオの声がした。
ひややかなほど冷静で、しかしかすかにおもしろがっているようだ。
ふり向かなくてもはっきりわかった。
小さな破壊神の存在感は、楓と一緒にクラスの観覧席にとどまっている。念話だ。
「のまれてどうする。手綱をとれ」
(はい)
心の中で答え、メイは平手でぴしゃぴしゃと自分の頬をたたいた。
眠りかけみたいに鈍っていた身体感覚がよみがえり、頭がしゃっきりする。
リレーチームのひとりが心配そうに声をかけてきた。
「神納さん? だいじょうぶ?」
「だいじょうぶ! 気合い入れただけです」
いつもおとなしいメイのやる気満々な返事に、チーム全員がにわかに活気づく。
そこへ、スピーカーからアナウンスが響いた。
『一年生クラス対抗リレー、出場者は待機位置に移動してください』
◆
一年生は五クラスあるので、走者は五人。
メイは外側から二番目のコースだったが──周囲を見る余裕はなかった。
実際にトラックに「第一走者」として並ぶと、グラウンドがいつもよりぐっと広く見える。
てきめんにあがってしまい、心臓がのどから飛び出しそうにどきどきしてきた。
(だいじょうぶ、できるわ。わたしはただ、川村さんの走りを再現するだけ……)
スタート係が号砲を頭上にかかげた。
「位置について!」
バトンを握りしめ、覚えたての立ち位置を確認、メイはぎこちなくスタート姿勢を取る。
(これじゃだめ)
深く、息をついた。
陸上部の彼女の、理想のイメージに意識が焦点を結ぶやいなや、身体が自動的にフォームを微調整する。そう。足はこう。肩はこう。ほどよい緊張感。澄んだ意識。
「用意」
腰を高くし、身構える。
パン! という号砲を聞くと同時に、足が力強く地面を蹴った。
前傾姿勢のまま、ふだんのメイよりずっと速いサイクルで、足が、機械仕掛けのピストンのように続けざまに地面を蹴る。
うわあ、陸上部の人って、こんな走り方するんだ……! と、人ごとのような感想がちらっと心の片隅に浮かび、生まれて初めて出すスピードに、吹っ飛ばされたように消えていく。
だが、五十メートルもいかないうちに、気づいた。
(あ……これ、まずいかも)
身体がきしんでいる。
メイと、陸上部員の川村さんとでは、身体能力が根本的にちがうからだった。
スタートの模倣はうまくいったが、うまくいきすぎて肉離れを起こすか腱を断裂するところだった──と気づいて内心青ざめる。
無意識に霊力で護身してなんとか切り抜けたものの、でなければスタート直後に転倒し、そのまま脱落するところだった。
すでに全身の筋肉が悲鳴をあげていた。
柔軟性もスタミナも肺活量も、なにもかも足りない。
たちまち身体に「降ろして」いる「理想の走りのイメージ」に、実際の動きが遅れ出した。
タイミングが合わない。
フォームが乱れ、酸欠で視野の周囲が暗くなってくる。
バトンを持っている手までしびれてきた。
(だめ! バトン落としたら元も子もない! ペース落とそう! 自分のペースで……)
思うのにすぐには自分に戻れず、川村さんの「理想のイメージ」にひきずられたまま最後のコーナーを回る。
第二走者がこちらを確認、リードをとって走り出すのが見えた。
最後の二十メートルは無我夢中、なにも考えられないほど死にものぐるいだった。
どうにかこうにか第二走者に追いつき、「理想のイメージ」とはほど遠かったけれど、なんとかバトンを渡すことに成功。
受け取ったバトンを手に走り出す第二走者を見送って、メイはたたらを踏んだ。
がくがくするひざに手をついて、必死で呼吸を整える。
ふらつきながら、他の走者のじゃまにならないよう、なんとか待機位置に戻った。
「神納さん、すごい! すごくいいスタートだった!」
「今うちら二位! 二位だよ!」
チームメイトから口々に声をかけられても、返事する余裕もない。
列の後ろ、九番走者の位置に入り、へたりこんだ。
足の筋肉がぶるぶる震えていた。
川村さんの経験値で、無意識にマッサージする。でもその手も震えている。
一分ほどすると呼吸は少し、落ちついてきた。でもこの状態では、またすぐに走るのはムリだと……これも、川村さんの経験値から確信する。
(でも走るしかない……走らなきゃ! 速くなくていいから、なんとか……)
歩くよりはマシ、ぐらいのスピードで、よたよたふらふらとトラックを回る自分の姿が目に見えるようだった。さすがにちょっと泣けてくる。
(そんなのやだ! せ、せめて普通に走りたい……! でも、でも、どうしたら……)
「手はあるぞ」
ふたたび、耳もとでスサノオの声がした。
すごく機嫌がいい。メイがあきらめずにがんばっている時はいつもそうだ。
破壊神の機嫌の良さに励まされ、メイはきいた。
(ど……どんな手ですか?)
「おまえ、遠くの紙切れを、念ではじけるようになったろう」
(? それは、できますけど……)
「同じ要領で、地面をはじけばいい。足で触れてるから楽勝だろ」
(ええっ!? そ、そんなムリですよ! 付箋一枚と、自分の体重とじゃぜんぜんちが……)
「やれ」
絶対、笑っているにちがいない楽しげな雰囲気で言われて、メイは腹をくくった。
その目の前で、六番走者にバトンが渡った。
走り出す六番走者を見送り、七番走者の女子が、トラックに出てスタンバイする。
見ると、走り終わった三番、五番の女子は、メイにつられて全力を出し切ったらしく、どちらもメイ同様地べたにすわりこみ、まだ息を切らしていた。
どう見ても、メイの代わりに九番を走る余裕のある人はいない。
(もう、ムリとか言ってる場合じゃない……失敗しても……やらないよりマシ!)
メイは目をつむり、深呼吸した。
全身を包む霊力、その輝きを意識する。
護身の「防ぐ」「硬い」パワーは使い慣れているが、身体を支えるには──?
(ええと……もっとやわらかくて、でも地面を蹴ったりできるパワーがほしいから……)
ふと、霊力が暴走して身体から意識がはみ出した時、「巨大化した」自分の手が、樹木をしなわせたことを思い出した。
(そうだ、あんな巨大ロボじゃなくて極薄の、着るパワードスーツみたいな感じなら……?)
イメージできた。
目を開き、自分の念の力を信じておそるおそる、立ちあがってみる。
身体はあちこち痛いし、最初、バランスを取りにくくてふらついたが、でも、立てた。
意外にも、遠くの紙切れをはじくよりずっとやさしい。
歩いてみた。
歩けた。
軽く屈伸。
できた。
七番走者女子がスタート、八番走者男子がトラックに出る。
「神納さん、いけそう?」
へたりこんだままの三番女子が心配そうにきいてきたので、メイはにこっとした。
「うん」
無意識に陸上部川村さんから読み取った経験を生かし、手をぶらぶらさせたり足をストレッチしたりして、できるかぎりコンディションを整える。
(でもムリしない! いつものように走るだけ……!)
軽く、その場でジャンプしてみる。
なんのことなく、できた。
念の力でジャンプしている、などという大それた感覚はない。
ただ、不思議なほど身体が軽かった。
負荷がない。無重力空間に浮いているかのようだ。
これなら手足に力が入らなくても、多少あちこち痛んでも、霊力さえとぎれなければ動ける。
八番走者がスタートした。
メイはひとつ深呼吸して、トラックに出る。
今まで積み重ねた「自分の経験」に意識を集中し、陸上部川村さんの「理想の走り」のイメージを丁寧にぬぐい去った。
(落ちついて、いつものように……練習したとおりにバトンを受け取って……走る……!)
八番走者がコーナーを回った。
練習どおり、バトンを受ける手だけ後ろにのばして、軽く走り出す。
「はい!」
手のひらに打ちつけられたバトンをつかむと同時に声で知らせ──走り出した。
いつもと同じペース、いつもと同じ歩幅。
速くはない。
コーナーを曲がってすぐ、他の走者に抜かれた。
でも、走れるだけでうれしい。
夢中で、一心に、いつもと同じに走りきり、確実に、アンカー男子にバトンを渡した。
(やった! やったあ! 走れたー)
待機場所で待ち構えていたチームメイトと思わずハイタッチし、俊足アンカー同士のデッドヒートを見守る。
結果は三位。
練習でも出たことのないベストタイムが出て、全員がわっと躍りあがった。
「うっし!」
「マジ? 入賞だよ、入賞!」
「うそみたい!」
「神納さん、がんばったね!」
「ありがとー。みんなが教えてくれたおかげー」
陸上部の川村さんも交えて盛りあがり、和気あいあいとクラスの観覧席に戻るころには、霊力の補助が切れ、メイはよれよれのくたくたに戻っていた。
「お疲れ! ひとりで二回走るなんて大変だったね」
クラスメイトと一緒に、楓がねぎらいの拍手で迎える。
「スタート、うまくてびっくりしたよ」
「やりすぎちゃった」
メイは苦笑して、楓のとなりの椅子にへたりこむ。
「もしかして……陸上部の人のイメージで走った?」
周囲に聞かれないようこそっとささやく楓に、メイも小声で返した。
「うん。運動部の人と自分の、身体能力の差を思い知りました」
「ケガしなくて良かったね」
「ぎりぎりなんとかー」
「楽勝だったろ」
小さな破壊神が機嫌良く口をはさみ、楓がいぶかる。
「なにが楽勝?」
「あ、実はね、一周めでがんばりすぎて力尽きちゃって、ちょっともう動けないかな、って感じだったの。それで、二周めはその……霊力で走りました」
「え」
「紙はじく要領で地面蹴ればいい、ってスサノオが言ってくれて。やってみたら、できたの」
「ええー」
楓はまじまじとメイを見直し、意外そうに言った。
「ぜんぜんそんな風には見えなかったよ! オーラもいつもと同じ明るさ、大きさのままだったし、走り方もなんというか……霊力で走るんならどんなスピードだって出せそうなのに、すごーくいつもどおりのメイだったし」
「それでいい」
と言ったのは小さな破壊神だった。
「力に慣れるまでは当分、加減しておけ。手綱を放すなよ」
「はい、気をつけます」
メイは痛む身体できちんとすわり直す。あらためて小さな破壊神に向かって手を合わせた。
「あの今日は……今日もいろいろ、ありがとうございました」
「まあ……おまえにしてはよくやった」
「…………え?」
もしかして今、ほめられた? スサノオがほめてくれた!? と、メイは目を丸くする。
一方小さな破壊神はあからさまに、しまった、という顔をした。
口がすべったらしい。
メイと楓の無言の注目を浴びて、苦々しげに目をそらす。
「ふたりしてなに見てるの? 飛行機?」
通りかかったクラスメイトに声をかけられてしまい、その場は流れたが──
おかげでメイは全身筋肉痛にもかかわらず、そのあとずっと浮き浮きしていた。
体育祭最後の種目、全員参加の玉入れにも霊力補助のおかげでなんとか出場できた。
投げた玉はひとつも入らなかったけれど、それでも大満足だった。
閉会式も片づけも無事すんで、今日ばかりは全員ジャージ姿のまま下校する。
「神納さん、来年もリレー出てねー」
「またあした!」
今までほとんど話したことがないクラスメイトにも次々声をかけられ、メイはうれしいよりも居心地が悪くて、ぎこちない笑顔のまま、逃げるように足を速める。
楓がとなりを歩きながら、いたずらっぽく笑った。
「すっかり人気者じゃん」
「からかわないでー」
「平気平気、そんな気にしないでもたぶん明日にはもう、おさまってるよ」
「そーだよね! そうだといいな。でないと……」
「でないと?」
「……どんな顔して学校来ればいいか、わかんなくなっちゃうー」
気弱につぶやくメイが、少し片足をひきずっているのに気づいて、楓は真顔になった。
「メイ、あんたまさか今日、このあとも仕事?」
「あ、ううん。今日は体育祭ですごく疲れちゃうかも、って前から思ってたから、今日の夜のシフトは先週のうちにお願いして、オフにしてもらってあるー」
「良かった! 帰ったら特にその右足、ちゃんと湿布貼るんだよ。もしどこかはれてきたり、明日の朝になっても歩けないほど痛むようなら病院に行くこと」
「うん、そうする」
こっくり、素直にうなずく小柄なメイを横目に、楓は感慨深げにため息をつく。
「それにしても、陸上部の子の心読んで走り方写し取れたり、バテバテで身体動かなくても霊力で走れちゃったり……いよいよ本格的に魔法使いっぽくなってきたね」
「えー、魔法は使えないよー」
「そのうち空飛んだりして」
「飛ばない飛ばない! 高いところ怖いし!」
「あはは、けどもしかして今も、霊力で歩いてたりするんじゃない?」
「あ、ちょっとだけ。その方が楽だから」
「ほらあ、やっぱり魔法使いだ」
などと言い合いながらバス停にさしかかった時、つんざくような幼児の悲鳴が響いた。
ぎょっとふり向くと、大通りをへだてた向かいの歩道で乳母車に乗った小さな子が、手足をばたつかせて泣きわめき、猛烈に駄々をこねている。
乳母車を押す母親は買い物帰りらしく、エコバッグを肩にかけ、手も荷物でいっぱいだ。
おろおろとかがみこみ、しきりに幼児をなだめているが泣き声は大きくなるばかり。
「あらー、どーしたんだろーね」
楓が気の毒そうにつぶやいた──その声がふっと遠ざかり、気づくとメイの意識は乳母車のかたわらに立っていた。
大通り越しには聞きとれなかった母親の言葉が、はっきり耳に入る。
「もう! だからちゃんと持ってなさいって言ったでしょ? また今度、買ってあげるから」
「やだー! やだやだー! ふぎゃあああ!」
顔を真っ赤にして泣きわめく幼児はまだ語彙が少なく、言えるのはほとんど「やだ」だけ。
だがメイは、幼児の原色の悲しみを感じた。
言葉を介さない、純粋な思念とイメージが脳裏に、閃光のようにひらめく。
お出かけ先で、きらきらと宙に揺れていたメタリックピンクの風船。
欲しくて欲しくて、なんとかつかまえようとがんばっていたら、母親がとってくれた。
うれしい。うれしい。
おみみがついている。うさちゃん。おめめもある。かわいい。だいすき。
ふわふわ、そばにいたのに、にげちゃった。
おそらに、にげちゃった。
「おい」
耳もとで、小さな破壊神の声がした。
体育祭の時とは違い、真顔の声だった。楽しんでいない。かすかに心配そうでさえある。
メイはしかし、自分が自分であるという感覚を失ってはいなかった。
(だいじょうぶです。手綱は握ってます……つもりです)
すでに、幼児の手をすり抜けて、夕空高く舞いあがってしまった風船も見つけている。
ビルの六階の窓あたりを、風に流されてさらに高度をあげていくところ。
意識を向けたとたん、念がひもをつかんだのを感じた。
手は使っていないのに、「ひもをつかんだ」感触が確かにあった。
集中が切れないよう注意しつつ、風船の浮力に逆らってゆっくり、地上へひっぱりおろす。
「え……?」
幼児が突然泣きやみ空を見つめて顔を輝かせたので、母親も頭上を見た。
飛んで行ったはずのウサギの風船が、すぐそこにふわふわ浮いているのに気づいて、あわててひもをつかむ。
「いったい……どうして……」
母親は狐につままれたような顔をしたが、考えても答えが出るわけではない。
二度と飛ばしてしまわないよう、乳母車のガードにひもの先をくくりつけてから、待ちかねて暴れている我が子に、ひもを持たせた。
たった今まで大泣きしていたのがうそのように、きゃっきゃはしゃぐ子を前につぶやく。
「ガスが……運良く抜けたのかしらね」
問題なくふわふわ浮いている風船を見つめ、その仮説がありえないことを確認。
首をふってそのまま乳母車を押し、歩き出す──。
「……できた!」
メイはきっちり、自分の身体に意識を戻してまばたきした。
楓が目を丸くする。
「え? あの、風船が勝手に乳母車のとこまで降りてきたのって、メイが霊力でやったの?」
「うん!」
「えーっ、すごいじゃん! そのうち付箋はじくの見せてもらおうって思ってたけど……あんな高いとこに浮いてた風船、よくつかまえられたね!」
「できそうだな、って思ったら、できたのー」
なんだかもう最高の気分でバス停にたどりついた時、小さな破壊神が言った。
「すわれ」
「え?」
メイは驚いたが、素直にベンチに腰をおろす。
バス停はちょうどバスが一台出た直後で、メイと楓の他は誰もいなかった。
「えと……なにが……」
戸惑うメイのまわりを音もなくめぐり、小さな破壊神は硬い声で命じる。
「力をおさめろ」
「? もうおさめてます」
「身体を動かすのに使ってるだろ。それもおさめろ」
「あう……はい」
メイは目をつむり、深呼吸。
覚えたばかりの身体補助の霊力を、衣類をたたむようにきれいに「片づけ」た。
そのとたん、身体が急にずしっ、と重たくなって息をのむ。
(あれっ? わたし……こんなに疲れてたっけ……?)
手足が鉛のようだ。頭まで重たい。
ベンチにまっすぐすわっていることさえできず、ずるずると身体が傾いていく。
「メイ!」
楓があわてて身体を支え、そっとベンチに寝かせてくれたが、お礼を言う力もなかった。
(え……もしかして力、使いすぎた……? 死んじゃう……?)
今日はうれしいことがありすぎて、つい調子に乗ってしまったかも、とぼんやり思う。
しかし、後悔先に立たず。
視界がぼやけ、意識が急速に薄れていくにつれ、なにか、把握しきれないほど大きな力が、魂の奥底からふくれあがってくるのを感じ──
「手綱をとれ」
無慈悲なまでに揺るぎない、破壊神の声が脳裏に響いた。
生死の境で高まったメイの感応力はしかし、鋼の声に隠れた感情をありありと読み取る。
不安。
後悔。
恐れ。
悲しみ。
そして怒り。
悠久の時を生きる古き神。変化と無縁なはずの夜叉神が、ありえないほど多くの感情を抱き、それゆえにひび割れていく恐ろしい音が聞こえた。
まぶしいほど鋭い、殺意も感じた。
メイへの殺意だ。
破壊神の少なくとも一部は、メイが獲物として十分に熟したと考えている。
ここでただ死なせるぐらいなら、その命を刈り取ってしまいたい、と考えている。
(どうぞ)
薄れゆく意識の中で、メイはほほ笑んだ。
一点の曇りもなく、晴れやかな気持ちで宣言する。
(わたしの命は、スサノオのものです)
瞬間。
せきをきった光の洪水が、メイの意識をかき消した。
「面白い!」「続き読みたい」と思われた方は、はげみになりますのでぜひぜひブックマーク、下の評価をよろしくお願いします~☆




