いいことがありすぎて①
週明けのその日。
神納順子はなんとなく、ついていた。
朝は目覚ましが鳴る前に目覚めたし、ひとり娘のメイも、起こす前に起きてきた。
目玉焼きは焦がさないですんだし、髪型も一発で決まった。
家を出る時、めずらしく忘れ物も探し物もなく、余裕でいつものバスに間に合った。
そのうえ、目の前で席が空いた。いつもは駅までずっと立って乗るのに、
「こんなことも、あるのねえ」
好みの席にすわって、思わずつぶやく。
外を見ると、よく晴れた空に思いがけず、大きな虹がかかっていた。
雲は見当たらないが、にわか雨があったらしい。
なんとなくスマホを取りだし、撮った。きれいに撮れたので、アプリで娘に送信する。
『今日はついてる気がする!』
すぐ返信があった。
『ラッキーのおすそわけ、ありがとー』
続けて、もうひとこと来た。
『今日、体育祭本番です。でも、なんだかうまく走れそう』
あら、体育祭、今日だっけ? すっかり忘れていた順子はちょっと、びっくりする。
メイは小さい時から走るのが遅い。
でも陸上部の子にリレーの代走をたのまれて、ちょっと前から昼休みに練習をがんばっている、と聞いていた。最近、タイムが少し、良くなってきたらしい。
『がんばれ! めざせ自己ベストタイム!』
と送信すると、笑顔マークとVサインマークが戻ってきた。
順子はついふふっ、とほほ笑んでしまう。
メイの、モデル初撮影が実現! というニュースで、土日はずっと気分が高揚していた。
もちろん、単身赴任中の夫にもすぐ知らせた。
のんびりマイペースな夫は素直に、「良かったねえ」と、一緒に喜んでくれた。
デビューしたあとが大変なんだよ、とか、それで出来はどうなの次はあるの、とか、うるさいことを言いそうな親戚には内緒にしてある。
メイの夢をくさされて腹が立つから、と言うより、彼らの意見を聞くと、もともと心配症の順子もついあれこれ、よけいな心配をしてしまうからだ。
(メイちゃんの夢は、なるべく純粋な気持ちで応援してあげたいし)
メイが真剣なのは見ればわかる。メイがあんなにがんばれる子だとは知らなかった。
よっぽど、好きなことなのだ。
それに研修生なのに、学費がかかるどころか給付金までもらっている。
才能を認められている、ということだろう。
真夜中すぎに、ぼろぼろのくたくたで帰宅するのはやりすぎだと思うけれど……。
ふたたびこみあげてくる不安を、あわてて頭をふって追い払う。
内気で、身体が弱くて、人前でなにかを積極的にやるところなんて想像もできなかったメイが、モデルデビューを果たしたうえに、体育祭のリレーで走るという。
最近、前よりよく食べるし、笑顔も明るくなった。なにより健康そうだ。
(好きなことをやってるからだわ、きっと。絶対……絶対、応援してあげなくちゃ!)
順子は、出勤した。
勤め先は繁華街の片隅にある、服飾雑貨の店だ。
エスニックテイストでおしゃれ、でも比較的リーズナブルな価格帯がメインの店で、女性向けの品揃えがいい。民族色のある手作りアクセサリーもよく売れる。
学生時代にもバイトしたことがあり、十数年ぶりに雇ってもらった。倉庫管理からレジ打ちまで、ひととおりのことはできるので、入りたてなのに古株扱いされている。
「神納さん、この棚、一緒に入れ替えていいですか?」
「あ、そこは来週、冬物がそろってからです」
バイト学生に教えながら、手早く開店準備を進めていく。
商品のタグがはずれている、とか、すそがほつれている、布地の糸がとびだしている、目立たないシミがついている……すべて見つけてよける。
新着商品の品だしでは、縫製ミスのチェックも欠かさない。
ふだんは小さな失敗が多い順子だが、仕事場では注意力のギアをめいっぱいあげ、「たよりになる人」として働いているのだった。迷惑をかけてはいけない、というプレッシャーをいい方へ生かし、むしろ細かいことに気がつく。
「えっ……これタグちぎれてる? すいません、見落としてて……」
恐縮する同僚に、順子はあっけらかんと笑う。
「気にしないで! 人間、間違えて当然だから何人もでチェックするんだもん。あたしなんて家ではもう、つまんないケアレスミスの嵐で……」
「えー、そんな風には見えませんけど」
「いやもう、うち出る時に鍵忘れたり、お財布忘れたりね。それも毎回」
「あはは、まさか」
「ホント! そんなわけで、職場ではもうこれ、めちゃくちゃがんばってるの! でも、いつかきっと大ポカやらかすと思うから、その時にはフォローお願いします」
「喜んで」
開店時間までに余裕をもって掃除もすませ、開店。
週明けだけれど、秋物セール目当てに立ち寄る客が多く、意外と忙しかった。
素材やサイズについてたずねられれば答え、悩んでいるお客にはさりげなく声をかける。
試着の案内をし、服をたたみ、クレームに対応し、問い合わせの電話に笑顔で応え──
客足がひいた時には、昼を過ぎていた。
「すみません、今日早番で……これであがります」
午後、授業があるというバイト学生があわただしく去り、
「すぐ戻りますんで、よろしくお願いします」
「はい、いってらっしゃい」
同僚が先にお昼休憩に行くのを見送って、順子は店にひとりになった。
実のところ、順子は店でひとりになる時間が、けっこう好きだ。
店内には耳ざわりでないていどのボリュームで、ムーディーな音楽が流れている。
曲名は知らないが店長のお気に入りで、おかげでフレーズをあちこち覚えてしまった。
無意識にハミングしながら、お客がかきまわしたセール品をきれいにたたんだり、ハンガーに戻したりするのは楽しい。
間口の狭い店内は照明がひかえめで、おかげで今日みたいにお天気のいい日は、外がすごくまぶしく見える。それも楽しい。
見知らぬ異国を、ひとりで旅しているような気分になれるからかもしれない。
その時──
「?」
軒下にずらりとさげてある、クリスタルつきのウィンドチャイムが、いっせいに鳴った。
めったに聞かない華やかな異音に、よほどの突風でも吹いたかと驚いてふり向く。
しかし店先に吊るした衣類はひとつも、はためいていなかった。
きらきらとまばゆく揺れているのは、ウィンドチャイムだけ。
どういうことかと確かめに出かけた時、関西イントネーションで声をかけられた。
「すんまへん、ちょう……おたずねしたいこと、あんねんけど」
「はい、なんでしょう?」
道を教えてほしいのかな? と思って順子は笑顔でふり返る。
すらりと背の高い、細面の若者が立っていた。
色白で、ありふれた量販品をおしゃれに着こなしている。芸能人かも。
ちょっと見とれる順子に、若者は店のロゴの入った袋をかかげ、恐縮した様子で言った。
「あのう……商品の交換、してもらえまっか」
◆
「えらいすんまへん、おみやげに買うたんやけど……値札はずしてる時、サイズ違いに気づいて……Mサイズの子ぉにLL渡したら当分口きいてもらえへん! ほんまにドジで……」
「ああ、それはお困りですよね。レシートはお持ちですか?」
「それが……のうなってもうて……レシートあれへんと交換、無理でっか」
通常はお断りしていますが、今は手がすいていますので……とは言わず順子はうなずいた。
若者が持ちこんだ紙袋は確かにこの店の袋だったし、商品のフレアースカートには特別、汚れたり、傷んだりしているところもない。対応可能だ。
「販売履歴と照合してみます。お買い上げの日付は?」
「昨日です」
「お時間は」
「午後三時半……から四時前ぐらいやったかなあ」
「同じ会計でご購入いただいたものは、なにかございましたか?」
「ええと……ピンクのぽんぽんがついとるピアスと、おっきなハンカチみたいな……すんまへん、持ってくるんやった……!」
眉をハの字にしてしきりに恐縮する若者に、そのピアスはこちらのデザインでしたか? ハンカチとおっしゃるのはこのシリーズ? お色は? と確認を重ねていく。
手間はかかったが、幸い他の客が来ないうちに無事、販売記録の確認がとれた。
「ではまず、返品手続きをさせていただきますね」
「えっ、交換でええねんけど……」
「こちらの商品ですが、あいにく店頭在庫のみとなっておりまして、このお色はこのサイズしか残っていないんです。色違いでしたらまだ全サイズ残っているんですが」
「ええー……」
「藍染め素材をお求めでしたら、このあたりはいかがでしょう? 今、一番の売れ筋です」
「ううーん」
若者が悩んでいるうちに、先にお昼に行った同僚が戻ってきた。
だいじょうぶ? と目顔できくのへ、だいじょうぶ、と目顔で応える。
順子はむしろ、はりきっていた。
サイズ違いに気づいてわざわざ店を再訪してくれた客を、手ぶらで帰らせたくない。
だが手助けには少し、情報が必要だ。
うんうん悩んでいる若者に、順子は笑顔で切りこんだ。
「あの、おさしつかえなければ……どなたへの贈り物ですか? 彼女さん? お母さま?」
若者は目に見えてひるんだ。
「…………と……年下です」
ぎこちない返事に、順子は勝手に彼女さんだな! と決め、遠慮なくたたみかける。
「背丈はどのぐらいでいらっしゃいますか」
「こ……こんくらい?」
あ、メイと同じぐらいだわ、と思う順子に、若者は恥ずかしそうに声を落として続けた。
「高校生ですねん」
あら、じゃあ彼女さんではない? と思う間もなく、若者はため息をつく。
「妹なんやけど、いろいろあって歳離れとるさかい、ワイが保護者やっとって……せっかく色白で可愛ええのにガリ勉で、いっこもおしゃれせえへんから時々、服買うたりますんや」
「あはは、うちの子もそんな感じです。お小遣いあげても服は買わないの」
「あ、お宅もそうでっか」
「おしゃれとかお化粧とかね、もうぜんっぜん、興味ないみたいで」
なにげなく言ったとたん、順子は気づいた。
そう。
メイは年ごろの娘のくせに、おしゃれや化粧に興味がない。
ファッション雑誌も持っていないし、化粧水でさえ使わない。長い髪も、きちんと編んではいるがリンスも整髪料も使わない。ぱさつきや枝毛を気にしている様子さえない。
(え? モデルをめざしてるのに? え? え? それってかなり……すごくヘンよね?)
なぜ今まで気がつかなかったのだろう。
驚きのあまりぼうぜんと立ちつくす順子に、若者が心配そうに声をかけた。
「どないしはったん? 心配ごとでっか」
「あ……いえ! すみません、忘れてた用事、ふいっと思い出しちゃって……あたし、そそっかしいたちで忘れ物、多いんですよー」
「ワイもです」
若者は深くうなずき、順子をはげまそうとするかのように笑顔になる。
「せやかて、おしゃれにもお化粧にも興味あれへん子は、安心言うたら安心やねんなあ! 着飾って夜遊びなんか絶対せえへんし、保護者からしたらごっつええ子や」
「そ……そうですね!」
無理やり笑顔をつくって調子を合わせながら、順子は心の中で叫んだ。
(夜遊び!)
──は、メイにかぎってしていないと思うのだが、ジャージ姿で竹ぼうきを持ち、真夜中に帰ってくるのがモデルの勉強だとは、もう、信じられなかった。
むしろ、どうして今までそんなヘンな話を信じていられたのか、自分の頭を疑ってしまう。
(でもでも……野々宮さんちの楓ちゃんが、初撮影できた! って話、してくれたし、メイの恥ずかしがり方からして、モデルデビューはホントだと思うし……うううーん???)
「あのう、これとこれやったら、どっちがええ、思われまっか」
きかれて、順子はあわてて頭を切り替え、仕事に戻る。
おしゃれに興味のない高校生の女の子が、それでも喜んで使ってくれそうなアイテムをあれこれ提案し、相談に乗るのは楽しかった。
若者は結局、代わりのスカートだけでなく、可愛いワンピースも一着買った。
会計をすませ袋詰めした商品を手渡し、
「ありがとうございました!」
自分のことのようにうれしくて、にこにこと挨拶する順子に負けず、若者も笑顔だった。
「こちらこそおおきに。親身につきおうてもろて、めっちゃ助かりましてん! ……あ」
とレジのカウンター越しに順子の顔をのぞきこみ、真顔で指摘する。
「まつげんとこになんかついてまっせ」
「えっ……」
「あ、こすったらあかん! とったりまっさかい、良かったらちょお目ぇつむってぇな」
「あ、はい」
素直に目を閉じてしまったのは、ここまでのやりとりで相手に親しみを覚えていたのと、若者の態度やふるまいが一貫して礼儀正しく、上品だったからだろう。
つまみとるのかと身構えていたら、手であおいだらしい。
つむったまぶたの上を、不思議に涼しいそよ風が二度、なでた。
「終わりましてん。目ぇ開けてええで」
明るく言われて、順子は目を開ける。
「……?」
驚いた。
世界がやけに輝いて見える。
思わず何度もまばたきしてしまう順子に、若者はにっこりした。
「うん。これで、よう見えるようにならはったで」
「ほんとですね! 不思議……なんだかなにもかもカラフルに見えるって言うか……いつもより細かいところまでよく見える気がするし……なにをなさったんですか」
「ちょお、ほこりをはらっただけや」
なんでもないことのように言う若者を店先まで送りながら、順子は思わずたずねる。
「あの、お客さんってもしかして……すごい人?」
「いや全然、そんなんちゃうねん」
「ご謙遜! ほんとになにかできる人って、やっぱり謙虚なんですね」
「せやからちゃうねんて!」
店先にたどりつくと、若者は笑顔でひらりと、白い手を挙げた。
「ほなさいなら。ええことありますように」
「またのご来店をお待ちしています」
頭をさげ、ふたたびあげた、その一瞬。
光の加減だろうか。
こちらに背を向けようとする若者の瞳がまばゆい金色に見え、順子は目をみはった。
そのうえ、雑踏にまぎれて遠ざかっていく若者の後ろ姿が、なぜか純白の後光のような輝きでにじんで見え、思わず目をこする。
「すみません、ちょっといいですか」
後ろからお客に声をかけられ、気を取り直してふり返る。
「はい、なんでしょう」
「これって洗濯機で洗えます?」
「あ、それは……」
対応を終え、もう一度道に目をやった時にはもう、若者の姿はどこにもなかった。
◆
「ええ人やったなあ! 親切で、お客本位で、献身的で」
人型の霊狐は機嫌良く、繁華街を歩いて行く。
「おかげでご褒美やりやすうて、助かったわ!」
順子から買った、スカートとワンピース入りの紙袋をひょいと持ちあげると、通りすがりのバス停のベンチにそっと、丁寧に置いた。
ふり返らず、同じ歩調で遠ざかる。
バス停にはバス待ち中の客がふたりいた。
昼時で、周囲に往来も多かったが誰ひとり、ベンチに紙袋が置かれたことに気づかない。
直後。
到着したバスから、若い女性が飛び出すように降りてきた。
ベンチに置かれた紙袋を目にして「あった!」と喜びの声をあげる。
あわてて中身を見、自分が買い、置き忘れたのと同じ商品、同じサイズなのを確認して、ほっと全身の力を抜いた。
まさかそれが、霊狐がたった今「たまたま」買った品だなどと、気づくはずもない。
なくした物が見つかったと信じ、うれしそうに紙袋を抱きしめ、足取りも軽く立ち去る。
そのころには霊狐はずいぶん先まで歩いていたが、にっこり相好を崩した。
「物を粗末にしたらあかんねん。ちゃんと使われへんともったいないわ。せっかく親切なええ人が見立ててくれはったんやし。それにしても……」
すう、と左右にひくように笑った口もとに、ほんのり狐の印象がにじむ。
「あないにええ母御に心配かけよって、クシナダ姫もあかん子や。零課に勤めるためちゅうても、母御だますんは反則やろ……うん。悪い子ぉにはちょい、罰当てたろ。運気下げたる」
歩きながら右の手で軽く、ほこりをはらうような仕草をした。
左へ一回。
右へ一回。
小首をかしげ、透明な瞳で透かし見るのは時空の向こう、おぼろに広がる光の網だ。
もつれ、分岐し、からみあい、果てしなくつむがれゆくその光こそは、因果の流れ。
過程でなにが起きるかはわからないが、結果はわかる。
うれしい驚きに金の目を丸くして、霊狐は笑った。
「ええあんばいやん! おかげで結果実現の時期が早うなった……! ああ、楽しみやなあ」
という声の響きも消えぬ間に──
霊狐は真昼の路上から忽然と、誰にも見とがめられることなく姿を消した。
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