わたあめとキバ①
古い民家の玄関ががらりと開き、
「どうしようバスっ、今からじゃ絶対間に合わ……ち、遅刻しちゃう!」
セーラー服の少女が、つんのめるように飛び出してきた。
靴にかかとをねじこみながら同時に走りだそうと、あぶなっかしく片足で跳びはねる──その鼻先で大ぶりなメガネがどんどんずれていき、今にも落ちてしまいそう。
よく見れば色白で華奢な、桜の若木を思わせる美少女であった。
三つ編みにした髪を左右で輪にまとめているのも、ちょっと風変わりだがよく似合う。
とはいえこうもあたふたじたばたしていては、桜の小枝でゴミ捨て場を掃いているかのよう。だいなしである。
一方、玄関の中から響いた女性の声は、竹を割ったようにからりと明るかった。
「ちゃんと時間に起こしたのよー。でもメイったらうんともすんとも言わなくて」
「そんな……お、お母さん……」泣きそうにか細い声。
「よっぽど疲れてるんだなぁ、って思って、そっとしといたの! よく眠れた?」
「うん……じゃなくて! あのね、ちゃんと起きるまで、起こしてほしいって言うか……」
「そーなの? じゃあ今度からそうするわ」
「あう」
「行ってらっしゃい、車に気をつけてねー」
「い、行ってきます」
やっと靴に足がおさまった少女は、夢中で走り出した。バス通りへの角を曲がる。
こけた。
路面のヒビかなにかに、つまずいたらしい。
見事に路上につっぷしてしまい、抱えていた鞄は数メートル先にすっ飛んでいってしまっている。幸いあたりに人目はなかったが、これは恥ずかしい。
「…………」
少女はもそもそと立ちあがった。ぶつけたひざの、すりむき具合を確かめている。
思いっきり転んだわりに奇跡的にケガはしていなかったが、けっこう痛かったらしい。
ななめにずり落ちた大ぶりな眼鏡の向こうで、大きな瞳がうるんでいる。
かろうじて、泣かなかった。
眼鏡をかけ直し、そそくさと制服の汚れをはたいて鞄を拾いあげると、
「そうよね……どうせもう、遅刻確定だもん。落ちついて、ゆっくり行けばだいじょうぶ」
小声で自分に言い聞かせ、とぼとぼと歩き去る。
ややあって。
誰もいない電柱のあたりから、憐れむようなため息がもれた。
「むう。いつ見ても、なんたるポンコツぶりよ」
つぶやきにつれて電柱の影が、水面のようにかすかに波打つ。
「二十日見張ってただの一度も、すぐれているところなど、見かけておらんが……」
あの娘はバケモノだと、小妖怪たちから耳にタコができるほど聞かされていた。いわく、
──「小娘のくせに、山をも揺るがす霊力の持ち主だそうな」
──「なんの! 揺るがすどころか消し飛ばすほどと聞いたぞ」
──「大きな声では言えぬがなんと、かの災いの大神、不敗のロキ様をしりぞけたとか」
──「ありえぬ!」
──「とはいえあの暗黒神を、恐れげもなく連れ歩いておるのは事実ぞ」
──「零課の課員にもなったとな」
──「なったのか」
──「なった、なった。ケイサツテチョウも持っとるぞ」
警察庁霊能局零課は、平安の陰陽寮に起源をもち、千年の伝統を誇る対妖異機関である。
市井の霊能者にもすぐれた者は少なくないが、零課に採用される者の霊力は折り紙つきと言っていい。か弱いちび妖怪たちにとっては、できれば一生、出くわしたくない相手である。
一同はぶるりと身をふるわせ、
──「剣呑剣呑、さわらぬ神……いやさ、さわらぬ零課に祟りなし」
──「命あっての物種じゃ」
──「我らごとき小物はさようなバケモノの住処には近づかぬにかぎる」
──「然り、然り」
と、うなずきあうのであった。
異論はない。ただし、うわさが半分も真実であれば、だ。
影の中の存在はふん、と小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「なぁにがバケモノか。あれはどこをとっても無害な、凡骨の小娘ではないか」
そのまま影から姿を現そうとして──はっと気配をひそめる。
「メイちゃんも無事学校行ったし、わたしもバイトバイト」
玄関の引き戸が勢いよく開き、今度は母親が出て来た。
娘とはタイプのちがう目鼻立ちのくっきりした美人である。しかし戸締まりしようとして、
「ん? あらやだ、鍵、どこ入れたっけ」
あわてて取りに戻る。その後も、財布がない! カードがない! とバタバタ行ったり来たり、探し回ったり、を繰り返すこと数分。ようやく、出発。
走ると揺れる、たわわな巨乳の持ち主(しかもいい大人)が、カラフルなスカートをはためかせてあたふた急ぐあられもない後ろ姿を見送って──
「やれやれ。似たもの母娘。そろってポンコツよのう」
電柱の影からひょっこり、小さい頭がのぞいた。
子ねずみぐらいの、ごくちいさい頭で、ふさふさの毛並みは麦わら色。しかし。
ねずみ──ではない。
そこだけ毛がない猿に似た赤ら顔の、口もとからは小さな牙がはみ出し、額にはごま粒より小さいが、たしかに角が二本。
鬼だ。
ちびだが、鬼だ。
肩から下を影に沈めたまま、ぎょろ目をすがめて、しばし家の気配をうかがう。
「うむ。人間は出払った。父親はたんしんふにんとかで当分帰らんしな。よし、今日こそ」
意を決したように大きく息を吸いこみ──
とぷん。
影に沈んだ。
影から影へくぐり抜けるのが、このちび鬼の特技である。まあ、さほど遠くへは行けない。
ひょっこり顔を出した先は、明かりの消えた玄関の、靴箱の影だった。
次いで台所のテーブルの影、階段の影、と気配もなく移動して行き、二階の狭い廊下に置かれたゴミ箱の影を経由し──薄いドアひとつへだてた、めざす部屋の中へ。
「…………」
水たまりならぬ影だまりから、用心深く、顔の上半分だけのぞかせる。
そこは、さっき出かけるのを見送った、メイという少女の部屋の中。学習机の影だった。
ここまで入りこむのは初めてである。
そろそろと周囲を見渡す。
狭い。四畳あるかどうかのスペースはベッドと机、本棚ひとつでほぼ埋まっていた。
タンスの代わりに作りつけのクローゼットがある。クローゼットの引き戸にはカレンダーや行事予定表、手書きのトレーニングメニューなどが貼りだしてあった。
全体に、よく片づいている。だが、めざすものはまだ、見つからない。
「…………」
日当たりはよく、明るい部屋だ。
おかげで影も濃い。
小鬼は音もなく影から抜け出すと、毛むくじゃらの手を床についた。
小さな指先で、意外に鋭いツメがきらりと光る。
全身をあらわにしても、大福もちより小さかった。ふわふわの毛皮におおわれた丸っこい胴体に細い手足──キーホルダーにしがみついたら、マスコットにしか見えないだろう。
とはいえその、てのひらの中でころがしたくなるような愛らしい丸さは、毛が逆立っているせいだ。
小鬼はむちゃくちゃに、バキバキに、ちょっと目が回るほど、緊張しているのであった。
だが、やらねばならぬ。
すすす、と音もなく机の前の椅子へよじ登る。
椅子の背にかけられたいちご模様のパジャマの陰から顔だけのぞかせ、探す。
探す。
いた!
本棚の上に飾られた編みぐるみと、折り紙細工のくす玉の間で──
暗黒神が、眠っていた。
思ったより、小さい。縮身の術にちがいない。小鬼とほぼ同じサイズで、石ころほどの気配もなく、物音も立てず──寝そべった胸をすやすやと、人そっくりに上下させている。
小鬼はしばし、息を殺して見守った。
相手の気に変化はない。寝息のペースに乱れはなく、殺気を放つ予感さえない。
正直、驚いた。
そのへんの山や川より古い、いにしえの夜叉神ともあろう者が、なんと、ほんとうに眠りこんでいる?
しかし──小鬼の全身の毛はいまや、これ以上ないほど逆立っていた。
恐ろしい。
無情の夜叉神、天魔王。触れただけで切れそうな白銀の髪、磨いた鋼さながら暗色の肌は別にしても──つくりだけなら人の少年に見えないこともない。
だが、その本質は〈暴〉であり〈威〉であった。
〈猛〉であり〈獰〉であった。
万物を塵に変え、あるいは灼きはらい、大陸をも両断する刃をもつ、名にしおう戦神。
破壊神、建速の素戔嗚尊。
双のまなこを閉じ、無防備に寝入っていてさえ──見ているだけで寿命が縮みそうだ。
「…………」
小鬼はたまらず、目を伏せた。せわしなくまばたきする。目が痛い。息が苦しい。
くじけかけた。
だが、踏みとどまった。牙を噛みしめ、震える小さな拳を握りしめる。
そろり、と椅子の背にはいあがった。破壊神の眠る本棚の上までの距離を、慎重に測る。
逆立ったままの毛の中、腹のあたりに小さな右の手を深く、さしいれた。
ゆっくりひき抜く。
小さい拳が握っているのは同じく小さな、青光りする剣の柄。
柄に続いて──小鬼の身の丈の数倍におよぶ、肉厚な青竜刀が抜き放たれる。
とうてい大福もちサイズの鬼の毛の中に隠れていたとは思えない大きさ、重量感であった。刃には蛇紋が刻まれ、まがまがしい邪気のあまりの重さに、明るい部屋の空気がうっすら濁る。
しかし相手はまだ、目覚めない。
チャンス!
小鬼は気力をふりしぼり、かきあつめ、青竜刀をふりかざして、跳んだ。
ぬくぬくと眠る破壊神ののどもとめがけ魔性の刃を、渾身の力でふりおろす。
「!」
涼しい音がはじけた。
あっけなく砕け散る刃を、小鬼はぽかんと見つめる。
逆襲されたわけではない。夜叉神は目を覚ましてさえいない。小鬼のとっておきの武器は古い神の肌に触れただけで、薄氷のように砕け散ったのであった。
「!!!」
小鬼はいきりたった。
宙を踏みしめ仁王立ちになり、刃を失った青竜刀を投げ捨てるなり、深い毛の中から、次の武器をひき抜く。
今度は槍だ。大きく、長い。小鬼の身の丈の十倍はあろう。切っ先には幾重にも呪いが宿り、風もないのにたなびく飾り布にはべっとりと、妖怪どもの古い血のりがこびりついている。
両手で握りしめ体重を乗せ、声なき気合いとともに相手の胸めがけて突きおろす。
「!」
穂先が砕け、柄もへし折れた。
反動でしびれた腕の感覚が戻るより早く、塵となって消滅してしまう。
小鬼はしかし、ひるむヒマも惜しんで次々に新たな武器を引き抜いては、眠る相手めがけてたたきつけた。斧。太刀。小太刀。神刀。邪剣。鎌。獣頭の棍棒。火を噴く小手。
どの武器も、古い神の肌に傷ひとつつけることさえできず、塵となって霧散する。
「ぐおおおおっ、なぜじゃあああっ!!!」
いらだちのあまり気配を消すことも忘れ、小鬼は手もとに残った砕け残りの武器を床にたたきつけた。小さな頭をかきむしり、空中で地団駄を踏んで悔しがる。と──
部屋の空気が、変わった。
あっ、と凍りつく小鬼の眼下で小さな破壊神の目が半分開き、むくり、と上体を起こす。
ねぼけまなこであたりを見回し、けげんそうな顔をした。
「なんだ、メイが帰ってきたかと思ったが……」
つめたい銀の双眸はまだ眠たげで、ぶあつい霧の向こうの太陽のようにかすんでいる。
あふれた霊気は微々たるもの。
にもかかわらず、小鬼はぴくりとも動けなかった。
動けるわけがない。
砕け散った武器のうち、まだ床で形を残していたものも、破壊神の目覚めのあおりを受けただけで、塵になって崩れ去った。空気を濁らせていた妖気の残りカスまで──最初からなかったかのように、きれいさっぱり消滅する。
強い、などという言葉ではとうてい足りない。
山より巨きい。海よりも深い。
格のちがいに圧倒され、空中で生きた心地もなく固まる小鬼の下で、破壊神はなにに気づいたふうもなく、大あくびをした。
ごろりと横になり、なんとそのまま目を閉じる。
あっさり意識を沈め、ふたたび寝入ってしまった。
すうすう、と平和な寝息まで立てて。
小鬼は、震えた。
見つからなかった、という安堵の震え。
絶対的恐怖の余韻の震え。
傷を負わせるどころか、あれだけ攻撃しても気づいてももらえないという悔しさの震え。
だが、やつは眠った。小鬼の存在に気づきもしなかった!
これがチャンスでなくてなんだ? とみずからを鼓舞し、手持ち最後の武器をひき抜く。
短刀だった。たいした武器ではない。だがもうこれしか残っていない。やるしかない!
小鬼は腰だめに構えた短刀を先に、まっさかさまに夜叉神に体当たりする。
「!」
夜叉神のまぶたに命中した短刀は、なんの手応えもなく、くしゃり、と、ひとひらの雪片ようにつぶれて散った。相手は、蚊に刺されたほどにも感じなかったにちがいない。だが──
手の届く距離で、破壊神の銀の目がふたたび、開いた。
小鬼を、見た。
万事休す。
逃げようにも身がすくんで動くに動けず、小鬼は悔し涙を浮かべて破れかぶれでわめく。
「ええいっ、殺るなら殺れっ! ワシはまだ負けたとは思っておらんっ! 年経た夜叉神、戦神とてなにするものぞ! 千年も生きればワシだとて、こうもやすやすとは……」
破壊神は、うっとりと目を細めた。
キイキイわめきたてるちび鬼の、身の丈に合わぬ闘志の甘さに気を良くしたのだが、小鬼は知るよしもない。ただ、本能的恐怖に声が出なくなる。
破壊神が、口を開いた。
「誰だ、おまえ」
夜叉神が木っ端妖怪に名をたずねるなど、希有のできごとである。奇跡である。
それぐらいは小鬼とて、理解している。つい応えて、
「ワシ……ワシは鬼じゃ! 名もなき鬼じゃ!」
「ふうん」
破壊神はひんやりと、厳寒の月のように笑った。
「なかなかいい気合いだったぞ。精進しろ」
「!」
小鬼のちいさな身体を、衝撃がつきぬけた。
まったくかなわない相手への畏怖と怒り──そして、あろうことか神話の神に対等に言葉をかけられたという感動と驚愕がないまぜになって、全身の毛がぶわあっとふくれあがる。
「いっ、言われんでも精進するわ! 見ておれ、いつか必ずこの手でっ、貴様の首を打ち落としてくれる!」
「やってみろ」
破壊神の即答に、あざけりの響きはなかった。
純粋すぎるほど純粋な激励に、小鬼はぶるるっと武者震い。そのとたん金縛りが解け──
とっさに影に飛びこんで、逃げる。
その影の中まで破壊神の笑みの気配が炎のように迫り、ちろりと背をなめた。
わたあめとキバ②へ続く
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