~幕間~ 吸血姫の贈り物①
旧作「ハートレス・ハート」+未刊の2巻「蝿の王」で活躍した化け猫少女ミコ、久々の登場です☆
ご存知ない方のために簡単な紹介を☆
化け猫のミコは、スサノオ/天魔王に熱烈に片想い中で、メイを一方的に敵認定しています。
2巻ラストで吸血公女アナスタシアの誘いを受け、外国に旅立ちました。
アナスタシアはなんでも願いをかなえてくれると言うけれど……?
石づくりの回廊に、ヒールの靴音がこだまする。
化け猫のミコは、異国の城の中を威勢良く歩いていた。
深い森に囲まれ、美しい庭園をふところに抱く城である。小さいが、神聖ワラキア公国最古の建造物で、砲弾のあとが残る武骨な外観には古参兵の風格がただよう。
観光客には開放されていない。
公国の元首にして吸血鬼の盟主、〈魔公女〉アナスタシア・ドラクルの居城だからだ。
ミコがこんなところにいるのは、アナスタシアが「手助けしてくれたお礼に」と、招いてくれたからだった。恋敵メイへの敗北感に打ちのめされ、すっかりくさくさしていたミコは、吸血公女の誘いに乗った。
生まれて初めて飛行機に乗り、海を渡り──ここに住みついて、もうひと月以上になる。
日射しは明るいが、庭園の木々は葉を落とし、すっかり冬支度だった。
北国なのである。
石壁にはめこまれた大きな鏡の前で、ミコは足を止めた。
野性的な大きな瞳をいろどるアイシャドウを小指でちょいと直し、白と黄色のメッシュの入った短い髪が、ちゃんと自分好みに逆立っているか確かめる。
その場でくるりとターンした。
すると身につけていた丈の短い革ジャンが、一瞬で黒いコートに変化する。
深いスリットでふたつにわかれた長いすそが、ふわっとかっこよくなびいた。
「んん、もうちょっとかな」
またくるっとターン。
すると今度はサイズが変わって、肩とそでがだぼっとなる。
「いいねいいね」
くるっ、くるっと回るたびにチェーンの飾りが増えたり、ブーツの丈が変わったりする。
霊衣なのだ。
物理的な衣服ではないから、持ち主の意のままに形を変える。それどころか、持ち主と気を共有し、破れたりちぎれたりしても自然に再生さえする。
人間から盗む普通の服とは大違いだ。
なにより便利なのは──
「えいっ」
軽くその場で跳ねたかと思うと、ミコは猫の姿に戻って音もなく着地した。
今や、鏡に映っているのはふたまたの尾を持つ、美しい三毛猫だけ。
霊衣は毛皮に溶けこんで、着けているかどうかさえわからない。
これが人間の衣服だと、猫に戻るたびに全部脱げてそのへんに散らばってしまい、お気に入りの服を捨てて逃げなくてはならないこともあった。
服なしではもう一度人間の姿に化ける時、裸になってしまって困る。そのうえ好みの服が見つかるまではどんなにダサくても、手に入る服で我慢しなくてはならない。サイズだって、めったにぴったり合うことはない。ぶかぶかか、きついか。たいていどちらかだ。
でも、今は。
先が黒い、自慢のふたまたしっぽをくねらせ、ミコは三毛猫姿のまま、ひょいと後ろ足で立ちあがった。鏡を見つめたまま、みるみる背をのばして人間の姿に戻る。
「ふふふん、ふん」
まるで自分の毛皮の一部のように、さっきデザインしたとおりの着心地のいい衣服が「生えてくる」のを確認して、ミコは満悦のあまりのどをゴロゴロ鳴らした。
踊るように、でも今度はヒールでも足音を立てず、回廊のつきあたりまで進む。
ノックもせずに重い扉を押し開け、するりと室内にすべりこんだ。
「はいよ、お姫さん、見せに来たよー」
「まあ猫さん、今日も可愛いこと」
この城の女主人、アナスタシアがぱっと、そばかすだらけの顔を輝かせてふり返った。
いつ見ても変な女、とミコは思う。
恐ろしいほど力のある吸血鬼のくせに朝起き、夜眠る。
日を浴びるのが大好きで、今も大きな窓をおおう分厚いカーテンはすっかり開けてある。
痩せぎすで、たっぷりした赤毛を太いおさげに編み、左右に長くたらしていた。
若草色の瞳はあくまで明るく、表情は人なつっこい。
よく見れば高貴で端正な顔だちにもかかわらず、直系の真祖らしさなど影も形もなかった。
白衣をはおり実験器具の並ぶ作業台の前に立つ姿は、人間にしか見えない。しかし、
「霊衣の着心地はいかが?」
幻のような速さで、気づくとそばにいる動きは吸血鬼ならではだ。
膝まで届くおさげをなびかせ、人型のそよ風のように音もなくミコのまわりをめぐる。
ついでにミコの目にさえとまらない速さで、ミコの髪や首筋、耳、背中をなでる。吸血鬼の魔性の愛撫にミコはぞぞっとなるが、それが恐怖なのか快感なのか、よくわからない。
吸血公女は、満足げに微笑んだ。
「良かったこと、よくなじんでいますわ」
「言われたとおり、ちゃあんと三日三晩、身につけ続けたよ」
「いい子ね。この霊衣はこれで、ミコさんのものになりました。あなたが滅びる日まで、あなたと命を共有し、ともに存在します」
「ほんとかい? やったァ!」
ミコは興奮のあまりくるくるとその場でターン、コートの色を黒からラメ入りの金へ、また黒へと戻してはしゃぐ。
霊衣は、超のつく希少品だ。
古い夜叉神の時代にはありふれた品だったらしいが、なにしろ持ち主と気を共有する、ということは持ち主が滅びる時は共に塵になってしまう。
しかも持ち主が自発的に他者に譲った場合をのぞいて、奪うことも盗むこともできない。
そういうわけで、現代の世にはほとんど残っていなかった。
値のつけようもない高級品だ。
「あんた、こんなもの……いったいどっから手に入れたんだい」
他人に恩義など感じない方だが、さすがに気になってたずねるミコに、吸血公女は笑った。
「作りましたの」
「えっ?」
ミコは耳を疑った。
伝説級の幻の品を、作った? しかもこんなふうに、誰にでも使える形で?
ミコはたちまち泥棒猫の目つきになり、吸血公女の部屋の中をちらちらと見まわす。
「へえ! さっすが、吸血鬼のくせに太陽に当たれる魔薬とか、作っちまうだけあるね! それで……こいつはどーやって作ったんだい? やっぱり霊糸紡いで、霊布を織ったのかい? どこで作ってんの? たくさんあんの?」
たくさんあるなら、ひとつやふたつちょろまかしてもバレないだろう、金のあるやつに売りつけて、ついでに、万一自分の霊衣がダメになった時のために予備をひとつ確保して……と、ずうずうしい計算をはじめるミコに、アナスタシアは吹き出した。
「なんて可愛い猫さん! このわたくしから、なにかを盗んで行けると思うなんて」
「えっ? ええっ? あっ、あたいは別に、あんたから盗む気なんか……」
実はふだんから城の中で小さな光り物を物色していて、ここを出る時にごっそり持って行ってやろう、と計画しているミコは、生きた心地もなくとぼける。
「盗んだりなさらなくても、欲しいとおっしゃるならなんでもさしあげますのに」
吸血公女は誘惑的なつぶやきとともにミコにすり寄り、首すじに細い指先を伝わせる。
ミコはまたぞぞっとなり、無理やり話を戻した。
「そっ……それでこの霊衣とやらは、いったいどーやって作ったんだい? まあ、あたいはただ、お姫さんのあんたが夜通し、ぎっこんばったん機織りして作ったんだとしたら、そりゃあさすがにご苦労さまだったなァ、とか思っただけで……」
「育てました」
「……はァ?」
理解できずに目をむくミコのあご先をちょっとくすぐり、アナスタシアはくり返す。
「育てたのですわ。苗床で」
「なっ……苗……」
「霊衣の正体は、寄生型妖異です」
「き……寄生っ? これ、寄生虫かなんかだって言うのかいっ?」
ぞっとして霊衣を脱ぎ捨てようとするミコの手を、吸血公女はそっと押しとどめた。
「胞子から育ちますから、あえて分類するなら虫より、粘菌の方が近いかしら」
「ネンキンなんか知らないよっ! 菌ってことはカビ? こいつキノコの仲間なのかい? やだっ、やだやだ気持ち悪いっ!」
ミコは半泣きで霊衣を身体からひきはがそうとするが、吸血公女の細腕をふりはらえない。
アナスタシアは幼子に言い聞かせるように、優しくささやいた。
「おやめなさいな。宿主のあなたがそんなに嫌うと、ほら」
「……!」
ミコは、お気に入りのかたちに仕立てた霊衣が急に輝きを失い、しおれ始めるのを見て息をのむ。コートの飾りチェーンが錆び崩れてぽとりと床に落ち、塵になった。
「気に入っていたのでしょう? いつでも、何度でも、あなたの思うままの形に変わってくれるし、猫の姿に戻っても脱げてなくなったりしない。なくすことも奪われることもない、あなただけの、あなたにだけ永遠に忠実な、魔法の衣」
ほんのり魅了の魔力がこもった言葉になだめられ、ミコは少し落ちつく。
アナスタシアはミコの背を愛撫しながら、穏やかに続けた。
「霊衣は宿主であるあなたと一心同体、ともに栄え、ともに滅びる存在。それゆえ常にあなたを守り、助けてくれますわ。あなたの代わりにダメージを吸収し、あなたの治癒を早め、万一焼けたり砕けたりしてすっかりなくなってしまったように見えても、あなた自身に霊的な根を張っているので、たちまち復元します」
「う……うれしいよーな……気持ち悪いよーな……」
「それに、あなたと気を共有する霊衣は、あなたとともに強くもなりますのよ」
「……ほんとかい?」
「古い古い、夜叉神時代の戦女神に、〈完全武装して生まれてきた〉という逸話が残っている存在があります。なのに、その伝説的武具はひとつも残っていない。おそらくすべて、霊衣だったのですわ。それで、持ち主とともに滅びてしまった」
「もったいない話だねぇ……」
「ふふっ、あなたの、今はまだ生まれたてでか弱い、ふつうの衣服のようなこの霊衣も……」
アナスタシアは、つやとはりを取り戻してゆくミコの黒いコートをそっとなでて微笑する。
「あなたが強くなれば共に強くなり、望みに応じて鎧にも、翼にも、剣にも盾にもなることでしょう。さらに、あなたと共に在るうちに、いずれはあなたよりもあなたらしくなり、あなたがいちいち指示しなくても、もっともあなたらしい形をとるようになるはずです」
「それは……すごいじゃんか」
「ですからどうか、この子を大切にしてあげてくださいな。宿主であるあなたに拒絶されたら、まだ弱いこの子は、簡単に枯れてしまいます」
「うん……大事にする」
ミコは思わず黒いコートのえりをかき合わせ、自分の身体ごと霊衣を抱きしめた。
するとたちまち衣服の存在感が増すのを感じ、急に、霊衣がすごく可愛く思えてくる。
ミコは、もごもごとつぶやいた。
「ええと……その……あ……ありがと」
めったに口にしない、ミコの不器用な感謝の言葉に、吸血公女はぱっと顔を輝かせる。
「どういたしまして! ああ、猫さん可愛い、ますます可愛いわ」
「ま……まといつかないでくんないかな」
「霊衣の試作品がこんなにうまくいって、ほんとうに良かったこと」
「えっ? これ、し、試作品?」
「けっこう苦労しましたのよ。太古の神々と広く共生していた原種はもう絶滅していて、胞子も見つかりませんでしたの。珠貴様の霊衣から胞子を採集させていただこうともしましたけれど、胞子を作らせる条件がわからなくて採集できなくて」
「え、じゃあどうやって……」
「現代の寄生型妖異を片っ端から調べて、近い種を探しました。これは南米産の、取りついた妖異を食い殺す凶暴な寄生種を……」
「食い殺すぅっ?」
「品種改良して無害化しましたの。でもそうしたらとても繊細で、弱い種になってしまって。宿主への移植に耐える苗にたどりつくまで、千株はムダにしましたわ」
根っから研究者肌なのだろう。試行錯誤の苦労すら喜びであるかのように生き生きと語る吸血公女をあきれてながめるうちに、ミコははたと気づいた。
「お姫さん、あんた……まさか……」
「なあに?」
「まさか、あたいにこいつをくれるためだけに、そこまでしたってのかい?」
「もちろんよ」
なまめかしく身を寄せてくる吸血公女に、ミコは思わずのけぞった。
「なっ、なんでそこまですんだよっ、逆に気持ち悪い……怖いよっ」
「まあ、つれないこと。でもそういうところも、猫さんらしくて大好き」
「ちょっ……ち、近すぎっ! 向こう行けって……」
「可愛い猫さん! わたくしがあなたに霊衣を作ってさしあげたのは、あなたがわたくしの命の恩人だから……それだけでは足りなくて?」
アナスタシアは抵抗などものともせず、ミコの頭や耳の後ろ、首筋をするすると風のようになでる。あまりに絶妙に心地よい愛撫にミコの抵抗がゆるむと、やりすぎは嫌われると心得ているらしく、す、とみずから痩身を離した。
「それと……欲しい物はないかとおたずねした時、猫さんが『強くなりたい』『強さが欲しい』と望まれたからですわ」
「うー……そ、そういうこと? あたい、この霊衣のおかげで強くなった?」
「猫さんはどうお感じになって?」
「そ……ど……どーだろ」
ミコは軽くその場で跳びはね、バク転してみたり、半身に構えて軽く、猫パンチを繰り出してみたりする。眉をしかめてしばし考え、うなった。
「うーん……作ってくれたお姫さんには悪いけど、あ……あんまり変わってない気がする」
「そう?」
「す……少し動きやすくなったみたいな、服がジャマにならない感じはするけど……」
「さすが猫さん! そのとおりですわ。先入観に左右されない、すばらしい観察力ですこと」
にっこりほめられてミコはぽかんとし、次いでカッとなって牙をむきだした。
「あんた、あたいをバカにしてんのかい? そりゃあ霊衣もらえたのはうれしいけど、けど、あたいの望みは強くなることで、強くなれないんならこんなもの、なんの役に立つって……」
「猫さんが欲しいのは、猫さんご自身の強さでしょう?」
吸血公女の若草色の瞳が、ふっと赤く光った。
ミコを魅了し、強引に説き伏せてしまいたい、という表情が浮かんだがかろうじて自制し、まばたきして瞳の魔力をひっこめる。
ため息をついて続けた。
「猫さんは血統正しい化け猫。でもまだ一世紀も生きていらっしゃらない。まだお若いのですもの、あせらなくてもこれから強くなれますわ。あと百年もすれば自然に力がついて……」
「待てないッ!」
ミコはわめいた。
「どうして……」と言いかけるアナスタシアをさえぎって、地団駄を踏む。
「百年もしたらメイは寿命で死んじまうだろ! どんなに長生きしたって人間は……」
「猫さん……」
「あたいはあのクソ憎ったらしい小娘、神納五月に勝ちたいんだッ!」
「勝つって、そんな……」
「見返してやりたいんだよッ! いつも、いっつも負けっぱなしで……あたい、初めて会った日からあいつをおとしいれてやろう、殺してやろう、ってそんなことばっか考えてんのに、なんでかあいつはあたいのこと嫌わないし、助けるし……」
古い女神の宮殿から脱出するため、魔法の門を開く代償として命をとられるかもしれなかった時、メイはミコと代わってくれた。
たのんでもいないのに、当たり前のことのように助けてくれた。
その結果、あのものすごい霊力……破壊神スサノオに見こまれ、零課にスカウトされるほどの力を根こそぎ奪われてしまっても、なんでもないみたいに明るく笑っていた。
最後の門を前に、もう代償を取られていないのはミコだけになってしまった時も、そうだ。
さすがにもう、自分が行くしかない、と泣きべそをかきながらも前に出たミコを、メイは「待って!」とひきとめた。
きっと他になにか方法がある、と夢みたいなことを言い出し、バカげたアイデアを出し──
しかもほんとうに成功させてしまった!
ミコは結局、あの恐ろしい宮殿でひとりだけ、なんの代償も払わなかった。
「こっ……このままじゃヤなんだ! 一度、一度ぐらいあいつにいいとこ見せたい……『すごい』って言わせたいんだよッ!」
ミコは、本気だった。
今まで生きてきて、これほど強くなにかを望んだことはない、というぐらい本気だった。
グズでまぬけな、お人好しのメイ。
そのくせ、並みの妖怪であるミコなど、いつでも消し飛ばせる霊力を秘めた少女。
あのメイに今すぐ感心されたいなんて虫のいい望みなのはわかっている。でも、それでも。
「あたいは強くなりたいんだ。百年後じゃなく、今、すぐ!」
本気のあまり瞳がきゅっと縦にすぼまり、本来の金色に輝く。
アナスタシアはかすかに首を傾け、悲しそうな顔をした。
「強欲な猫さん」
「……なんでそんな顔、すんのさ」
「あなたの望みをかなえる魔法は、あります」
「あるのかい?」
期待に目をまん丸にしてぴょんと跳ねるミコに、アナスタシアはますます悲しげになる。
「とても危険な魔法ですわ。試練を乗りこえられれば、まだ幼く未熟な存在であっても、遠い未来に得るはずの力をたちどころに獲得できる。けれど、もし失敗すれば……」
「ど……どーなんの?」
「死にます」
「!」
息をのんで固まるミコの肩に、吸血公女はそっと手を置いた。
「どんな魔法かお教えしましょう。魔法が発動した瞬間、あなたは持てる力すべてを失い、あなたを知る者に、あなたをあなただと、知ってもらうことさえできなくなります」
「えっ……」
「神も人も、このわたくしも……誰ひとり、あなたがどれほど訴えても、もはやあなたがそこにいることにさえ気づかないでしょう。誰もあなたを助けられない。途中で逃げ出すこともできない。あなたは……おそらくもっとも苦手なこと、大嫌いなこと、想像することさえ避けたいような試練に、たったひとりで立ち向かうことになります」
ミコはぞっと身体中の毛が逆立ち、声も出ない。
アナスタシアは淡々と続けた。
「しかも試練解決には時間制限があります。日がたつにつれ、あなたは記憶をなくしていきます。今まで身につけた知識も、思考する力も、ついには人格まで……」
と言う若草色の瞳が涙にうるみ、ミコは吸血公女が真実を語っていることを痛感する。
「最後にはあなた自身も、あなたがなにものであったか忘れてしまうことでしょう。そうなればもう、なにが試練かもわかりません。そして……すべてをなくしたあなたが命尽きて死ぬ時には、あなたを知る者すべての者の心から、あなたの姿、声、話した言葉……すべての記憶が消えてしまいます。もう誰も、あなたのことを、二度と思い出せなくなるのです」
「!」
「……ねえ、猫さん」
アナスタシアは涙ぐんだまま、ミコの恐怖に逆立った髪を愛おしそうになでた。
「わたくしは……可愛いあなたを失いたくないのです。あなたを忘れるなんて、嫌。今のあなたに足りないところなどありませんわ。あなたはあなたのままですばらしいのに……」
「すばらしくないよ」
ミコは目を見開いたまま、吸血公女の優しい手から身をひいた。
「あたいはぜんぜん……すばらしくなんかない。みっともない」
「そんなこと言わないで……」
「あたいは、だまされやすくて妬み深くて、自分のことしか考えられない、みっともない猫」
口に出して認めてしまったとたん、あまりにみじめで涙があふれそうになる。
悔しくて恥ずかしくて腹が立って、ミコは頭をかきむしった。
「ちくしょうちくしょう! ずぅっと、平気だったのに! 自分のこと、世界一最高でイカしてるって、信じてたのにッ! けど……気づいちゃったら、なかったことにはできないじゃんか……このまま、あと百年も生きるなんて……死んじまった方がマシだよ!」
ミコは吸血公女に向き直り、牙をむいてくり返した。
「あたいは強くなりたいんだ! 今すぐッ!」
震える拳を握りしめ、思いの丈を吐き出す。
「そのためなら……死んだって、世界中に忘れられちまったっていいッ! みっともないバカなあたいのことなんて、誰もおぼえててくれなくていい……むしろせいせいするよッ!」
吸血公女の、そばかすだらけの細面から表情が消えた。
「あなたの決意が、試練に挑むに足るものであると認めます」
片手をかかげ、軽く横にふる。
かすかにちん、とガラスをはじくような音がしたかと思うと、その手にワイングラスが出現した。血のように赤い、しかし透明な液体がゆらゆらと、グラスの中で揺れている。
「この魔薬をお飲みになれば、試練の魔法はあなたのものですわ」
「!」
「もとの儀式には天体の合が必要でしたけれど、ミコさんは、次に条件がそろう二十一年後なんてとても待てない、と言うにちがいないと思いましたから、圧縮して薬にしましたの」
「よ……よしッ、飲むよッ……!」
吸血公女からグラスをひったくろうとしたミコは、難なくかわされてたたらを踏んだ。
悪態をつこうとふり返ったミコはしかし、アナスタシアの、さっきまでとは打って変わった厳粛な雰囲気に飲まれて、口を閉じる。
不死族の盟主にして、現代でもっとも力のある魔術師のひとりである吸血姫は、今や、真昼の陽光をも陰らせる妖気をまとっていた。若草色の瞳に、小さな赤い光を宿して命じる。
「ピアスを全部、はずしなさい」
「えっ? で、でもこれ全部……お気に入りで……」
「試練の魔法に持ちこめるのは、本人と一心同体の霊衣のみ。護符はもちろん、あなたが誰であるかを他者に知らしめる可能性のある装身具、愛用品は、たとえリボン一本でも、身につけていくことは許されません」
吸血公女はグラスを持っていない方の手で、デスクの方を指さした。
すると銀のトレイが浮きあがり、ミコの前まですべるように飛んできて空中に停まる。
ミコはためらい、しかし覚悟を決めた。
緊張にこわばった指で愛用のピアスを順にはずし、トレイに入れていく。
ピアスは、猫の姿に戻ってもなくさないですむ。
そこが気に入って、だんだん増えた。
はずすと、化け猫の耳の穴はすぐにふさがってしまう。
だから、何十年もつけっぱなし。
最後の、一番古くから着けているひとつをはずし、トレイにかちん、と置くころには、耳たぶには傷ひとつなくなっていた。
ピアスを失った耳がやけに軽く、たよりなく感じられた。
まだ魔薬を飲んでもいないのにもう、自分の輪郭が薄くなった気がするほどだ。
心細い。なんだか背中がすうすうする。
無意識に自分の肩を抱いて……その時、ミコはやっと気づいた。
アナスタシアは「試練の魔法に持ちこめるのは霊衣だけ」だと言った。
だから、わざわざ作ってくれたのだ。
ミコが試練の魔法にのぞむ時、少しでも助けになるものを持って行けるように、と。
「お姫さん……」
「なあに?」
「霊衣……その……助かったよ。服も脱げって言われたら、猫になるしかないとこだった」
赤毛の吸血公女は、優しい微笑を浮かべた。
「今ならまだ、やめられましてよ」
「それはダメ。ここでやめたらあたい一生、自分のことがキライになっちまう。ちょうだい」
決然と手を出すミコに、アナスタシアはうやうやしくワイングラスを手渡した。
「どうぞ」
ミコは、手にした大きいグラスをこわごわのぞきこむ。
波打つ赤い液体はゆっくり、渦を巻いていた。
見ているだけで、異世界かなにかに吸いこまれそうだ。
しかも、ミコの化け猫の嗅覚をもってしても、なんのにおいもしない。見れば見るほど怖くて、グラスを持つ手が震え出す。ミコはぎゅっと目をつぶり、
「えやっ……!」
勢いをつけてグラスを一気にあおった。
ごくりと飲みこむ。しかし味も、温度さえ感じず、ミコはまばたきした。
なんの変化もない。
「ど……どうしてなにも起きないんだい?」
戸惑うミコの手から吸血公女がそっとグラスを取りあげた。作業台に置く。
「この魔法は、あなたの望みにもっともふさわしい、時と場所を選んで発動します」
「えっ……それってどういう……」
「あなたの試練は、ここにはないと言うことです」
アナスタシアはミコを、愛おしそうに抱擁した。
「ごきげんよう、可愛い猫さん。お国にお帰りなさい。あなたの試練はそこにあります」
「……!」
「望むものを勝ち取りなさい。良い知らせをお待ちしていますわ」
その日。
〈魔公女〉アナスタシアに見送られ、ミコはふるさと、日本に向けて旅立った。
~幕間~ 吸血姫の贈り物②へ続く
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