千葉朝陽の挑戦②
小さな破壊神が離れると、千葉朝陽は長い布袋を手に立ちあがった。
折り返した袋の口に巻かれたひもを解く。
中身を抜いた。
(木刀……!)
メイは息をのんだ。木刀を見るのは初めてだが、ひと目で古いものだとわかる。
全体に磨いたようなつやがあり、何十年も使いこまれたもののよう。
とても、高校生の持ち物には見えない。
だが木刀を片手に千葉朝陽が背筋をのばしたとたん、メイはふたたび息をのんだ。
(あ……すごい)
素人目にも強そう、と感じるほど姿勢がいい。
いつもの、肩を丸め周囲に遠慮して小さくなっている千葉朝陽はもうどこにもいなかった。
片手で軽く、木刀を振る。
流れるようになめらかで、無駄のない動きだった。
少なくとも十年は修練を積んでいる。今も毎日、素振りをしているにちがいない。
驚嘆して見つめるメイに気づいて、千葉朝陽はしかし、悲しげに笑った。
「中学まで……剣道をやっていました。いちおう二段です」
「すごいですね……! でも千葉さん、二段とかよりずっと……強そうに見えます」
「はは……」
「剣道って竹刀だけだと思ってました」
「木刀は昇段試験の時、使うんです。素振りの練習にも」
なのにその大切な木刀を、破壊神に捧げて灰にしてしまいたいとは、どういうわけなのか。
メイはわけを聞きたかったが、千葉朝陽は見えない破壊神を求めて河原をにらんだ。
「メイさん」
「はい」
「メイさんの神さまは、小さくていらっしゃるんですよね?」
「はい。人間サイズにもなれますけど今は手のひらに乗る……スズメぐらいの大きさです」
「しかも速い、と」
「すごく、速いです。ええと……たぶん……弾丸ぐらいの速さは、軽く出ちゃう感じです」
小さいうえ、速い。
たとえ見えたとしても木刀を当てるのはほぼ不可能、と理解して千葉朝陽はうなる。
そこへ頭上から、小さな破壊神が機嫌良く口をはさんだ。
「おまえの得意な技はなんだ」
メイが伝える。
「スサノオが千葉さんに、得意な技はなにかときいています」
「突きです」
即答した千葉朝陽の表情は硬く、誇る様子はまったくなかった。
しかし小さな破壊神の気配は逆に、浮き立つように高揚する。
「よし。なら突いてこい。かわさないから安心しろ」
「なら突いてこい、と言っています。かわさないから安心しろ、と」
メイが伝えるのを待って、上機嫌の破壊神はさらに譲歩した。
「なんならメイ、おまえがそいつに、どのへんに的があるか教えてやってもかまわんぞ」
だが小さな破壊神がそう言うのとほとんど同時に、千葉朝陽が言った。
「メイさん、神さまのいる方向とかは教えないでください」
「えっ、で、でも今、スサノオが教えてもいいと……」
「自分で、当てたいんです」
千葉朝陽は、河原の方を見たまま言った。メイの視線からヒントをもらいたくないのだ。
メイは息をのみ、一歩さがる。
小さな破壊神は、炎がこぼれるように笑った。
弧を描いて飛び、河原の開けたところで停まる。
人の胸ぐらいの高さだ。木刀は届く。ただし、見つけられれば。
「…………」
千葉朝陽はひとつ、息をついた。力みが抜け、立ち姿が風にそよぐ葦のようになる。
無造作に、河原の開けた方へと歩を進めた。
初動としては正しい。しかし小さな破壊神の浮かぶ位置は、十メートルほど左だ。
千葉朝陽はそのまま、川の流れに向かって両手で木刀を構えた。まさにその瞬間、
(あ……!)
小さな破壊神の気配が、消えた。
姿が消えたわけではない。メイの目にはちゃんと、いつものように見えている。
なのに、気配がない。
霊能力にめざめてから、メイはあらゆるものに存在感があることを知った。
鳥や獣はもちろん草木、家や道具、岩や山にだって気配はある。
破壊神も例外ではない。縮身して小さくなっていても、なにもしていなくても、そこにいるだけで常にかすかな〈圧〉のようなものを放っている。それが、完全に絶えた。
(気配って……ここまで消せるんだ……!)
霊的視覚は直感に近しいからかもしれない。見えているはずなのにだんだん印象がおぼろになり、向こうの風景が透けてくる。メイは驚いて目をこすった。
(すごい! けど、妖怪が見えない千葉さん相手に、そこまでする……?)
おとなげない……と思った時、千葉朝陽がすう、と体ごと、木刀の切っ先をめぐらした。
ようやく目に入ったその横顔に、メイは息をのむ。
千葉朝陽は目を閉じていた。
木刀の先は下段にさがっている。
ごついスニーカーをはいた足で石だらけの河原を探りながら──にもかかわらず平らな道場を進むかのようにあぶなげなく、するすると距離を詰めていく。
(えっ、方向……だいたい合ってる!)
あわてて見くらべようとして、メイはあっけにとられた。
小さい破壊神の姿が見当たらない。
消えた。
もうメイにも、スサノオがどこにいるかわからない。
なのに千葉朝陽は目を閉じたまま迷いなく進み、止まった。
目を見開く。
そのとたん大柄な全身から、殺気と見まごう凄烈な気合いが放たれた。
霊力の有無など関係ない。
妖怪でも肝をつぶして逃げ出すほどの気合いだった。亡霊なら消し飛んだにちがいない。
その余韻がすう、と薄れかけた、刹那。
「!」
メイには、千葉朝陽の動きは見えなかった。
コマ落としの速さでひと跳びに間合いを詰めた千葉朝陽は、すでに突きを放っていた。
硬質な激突音が、あとから耳に響く。
「……!」
突きを出した体勢のまま固まっていた千葉朝陽の手が、木刀から離れた。
衝撃で手がしびれてしまったらしい。よろめくように一歩さがる。
木刀はしかし、当然のようになにもない中空に浮いたまま。
次の瞬間──
まぶしい白光が刀身を包んだ。
瞬時に燃え尽き、真っ白な灰が風に散る。
「たしかに受け取った」
破壊神の声がした。
獰猛な喜悦の波動が突風となって広がり、河原の枯れ草がなぎ倒され川面が波立つ。
千葉朝陽は風にあおられ、よろめいた。
蒼白にこわばった顔のまま、くずれるようにその場に正座し、両手をついて頭をさげる。
「あ……ありがとうございました」
小さい破壊神がやっと、姿をあらわした。
満腹した猛獣のように鷹揚に、千葉朝陽に近づく。
「うまかったぞ。また来い」
言ったかと思うと音もなく飛び去り、いなくなった。
千葉朝陽はゆっくり頭をあげた。
姿勢正しく座したまま、放心したように動かない。
メイも動けなかった。
ありえないほどすごいものを見た、ということだけはわかる。でもメイには、それがどれほどすごいのかさえ、実はよくわからないのだ。
小さい破壊神は、千葉朝陽をちらっと見ただけで「あれは戦士だろう」と言った。「今の世の人間にしては闘い慣れている。悪くない」とも言った。でもまさか……まさか、見えない妖異相手に一撃で突きを命中させるほどとは──!
そういうことができる剣士を、人は剣豪と呼ぶ。達人とみなし、名手と尊ぶ。
しかも千葉朝陽には遠慮も斟酌もなかった。全霊をこめ、一撃必殺の気合いで攻撃した。
だからこそ、破壊神は手放しに喜んだ。見たこともないほど満足げだった。
今のメイにはとても、できないことだ。
(でも、いつかわたしも千葉さんみたいに闘えるようになりたい……ううん、絶対、なる!)
胸に誓った時、千葉朝陽がようやく立ちあがった。
「千葉さん! すごい……すごかったです!」
駆け寄ってやっと、メイは気づく。
「あ、最後にスサノオが千葉さんに言ったこと、お伝えしていませんでしたけど……」
「聞こえました」
と、千葉朝陽は口もとをゆるめた。「えっ?」と息をのんで見あげるメイに、うなずく。
「『たしかに受け取った』と『うまかったぞ。また来い』だけですが、聞こえました」
「やった! そうです、確かにそう言いました!」
思わず小さく万歳し跳びはねてしまうメイに、千葉朝陽は笑った。
「メイさんの神さまは、あんなお声なんですね」
「イメージとちがいました?」
「十代の自分が言うのもなんですが、若々しいお声だなあ、と。それなのに……なんだろう、なんだかそこらに見える山より古い、というか、たった今、火山から吹き出した溶岩がいきなり口をきいた、みたいな感じで、怖いのにちょっと……わくわくしてしまいました」
(! それ、わたしがいつも感じてることとおんなじです!)
と口に出す余裕もないほど感激してしまい、メイはがらにもなく千葉朝陽のごつい背をぺしぺしたたく。だがその時、千葉朝陽の両手がまだ震えていることに気づいて我に返った。
「千葉さん、手……! だいじょうぶですか?」
「だいじょうぶ、ケガはしてません。しびれたのと、あと……死ぬかと思ったので」
「そっ……そうなんですか?」
青ざめるメイに、千葉朝陽はからになった木刀袋をひろいあげ、たたみながら説明する。
「自分は……神さまといってももう少し、生き物っぽい存在を……想定していたんです」
「?」
「つまり……たとえばなにかがぶつかったとして、生き物はそもそもやわらかいですし、よほど重たい生き物でも、なにかが衝突してきたら揺れたり、よれたりしますよね」
「それは……そうですね」
「しかし神さまはちがう、というのがぶつかった瞬間にわかりました。やわらかくないし、たぶん……ある場所にとどまろうとご本人が決めたら、一ミリも動かないでいられそうです」
「あ! 確かにそんな感じです……」
「石垣や岩にぶつかる方がまだマシだったかもしれません。岩だって削れたり、割れたりする可能性が少しはあります。神さまには、それさえない。なのに自分は、生き物に対するようなつもりで全力で突いたので……」
千葉朝陽はまだ震えている自分の両手を、ちょっと見た。
「ぶつかった瞬間、あ、死ぬ、と思いました。なぜかと言うと……突きというのは、ただ的に当てるのではなく、突き抜くつもりで打つんです。体重も、勢いも乗っています。止まれません。握力と腕の力だけで止まれる人もいるかもしれませんが、自分には無理です。もしあのまま、木刀を持つ手がすべっていたら……」
「!」
ようやく状況が飲みこめてきて、メイもぞっと背筋が寒くなった。
絶対に動かない的を、ズレもブレもなく正確無比に突いたがゆえに──
千葉朝陽は目の前で急停止した木刀の柄に、激突するところだったのだ。
柄はほぼ、のどの高さにあった。あの勢いで当たったら首の骨が砕けてしまう。即死だ。
「しかし」
と千葉朝陽は震える手を握ったり開いたりしながら、言った。
「メイさんの神さまは、絶妙のタイミングでさがってくださいました」
「!」
「あくまで厳密に必要なだけ、です。自分が木刀を握っていられる限界を見切って、受け止めてくださった……おかげで、手がしびれただけですみました」
深いため息をつく。畏怖と感嘆をこめて続けた。
「まさに神業です! とても……勉強になりました」
「べ……勉強、ですか?」
「はい。たとえばラグビーのタックルの練習の時、もし自分が……神さまの千分の一でも正しく判断して加減できれば、後輩を吹っ飛ばさずにすみます」
「あ……!」
忘れていた。千葉朝陽はラグビー部員なのだ。
戦国武将の異相を持つ内気な少年は、噛みしめるように言った。
「自分は、うぬぼれていました。恥ずかしながら、強すぎるような気でいたのですが……」
「そんな……」
「今日、初めて知りました。強さは……あそこまで磨けるのだと。自分など、まだ山を登り始めてもいない……せいぜい登山口に立っただけだと、思い知りました」
千葉朝陽は姿勢を正し、なにも握っていない手を構えるようにあげた。どう打ちこもうかと考えるかのようになにげなく動かす手の動きがあまりにみごとで、メイは見とれてしまう。
そこにないはずの刀と重み、切っ先がどこに届いているかまで目に見えるようだ。
現代を生きる若き無名の剣豪は、しみじみと言った。
「自分と同じ条件までハンデをつけていただいても、あの方には歯が立たないと思います。勝負にすらなりそうにない……悔しいなあ。一生かかっても一本、取れるかなあ」
「えっ、まさか千葉さん、またスサノオに挑んでみたい、とか……」
「もちろんです。神さまも『また来い』っておっしゃってましたし、お言葉に甘えようかと」
言葉の端々に高揚感がにじむ千葉朝陽はいつもより年相応に見えて、メイは笑った。
「それはきっと……スサノオも喜ぶと思います」
「そうなるよう、精進します」
千葉朝陽がバーベキュー用の大きな鉄板を片づけはじめたので、メイはバケツにくんであった消火用水を川に戻した。動かした石をもとどおりにならし、荷物をまとめる。
あっという間に片づけはすみ、ふたりは土手道に戻った。
駅へ向かって、並んで歩き出す。
千葉朝陽が背負った大袋はかさばる中身が燃えてしまって、ずっと軽そうだ。
ふと、千葉朝陽が口を開いた。
「あ、ところで神さまの言ってらした『うまかった』って、なにがおいしかったんでしょうか。木刀ですか? それとも、自分のやる気かなにかでしょうか」
「両方だと思いますけど、なにより、千葉さんの気合いがおいしかったんだと思います。スサノオはもともと、闘志をもって向かってくる命しか食べられない神さまなので」
「それは……難儀ですねえ。あそこまで強いと……」
「そうなんです。誰も向かってこないから、わたしが会ったころは飢え死にしかけてて」
「今は、だいじょうぶなんですか」
「わたしのお供えで栄養? は足りてるみたいで……だいたい元気そうです。でも今日は、大好物をもらった猫みたいでした」
「いやいや、神さまに猫はないでしょう」
千葉朝陽は笑って、しかしすぐ真顔になって言い添える。
「まあ……猛獣みたいな気配の方ではありますが」
「あ! やっぱり千葉さん、スサノオの気配が読めるんですね!」
「正直に申しあげれば、最初はまったくわかりませんでした」
「えっ、そうなんですか?」
「はい。でも、目と鼻の先で、ものすごく楽しそうにあおってらしたので……」
言われてメイは、破壊神が千葉朝陽の大事な木刀を踏んだことを思い出し首をすくめた。
「あう……す、すみません」
「いいんです。おかげで鈍い自分もさすがに、わかるようになりました」
千葉朝陽はむしろ、おもしろがるような表情で記憶をたどる。
「小さい、とうかがっていましたが、特大の肉食獣みたいな気配でした。すごく強くて、自信がある。だんだん表情みたいなものも読めてきて……見えませんでしたけど」
「千葉さん、声が聞こえてるみたいに反応してらしたんでびっくりしました」
「はは……でも、こちらが木刀を構えたとたん、気配が消えてしまった」
「あ、やっぱり! あの時はわたしにも、ぜんぜん見えなくなっちゃったんです!」
「なんと」
「千葉さんいったいどうやって、気配も姿もないスサノオに突きを当てたんですか?」
「それは……まず、直前まで感じていた気配の位置へ、向かいました。目から情報が入るとイメージを見失ってしまう気がしたので、目をつむって……」
「なるほど」
「だいたいこのあたり、というところまではそれで良かったのですが、そこからがわかりません。さっぱりです。なので、気合いで打診しました」
「打診……!」
「ええと……変なたとえかもしれませんが……超音波ソナーってありますよね」
「あ、はい。よくは知りませんけど……コウモリみたいな?」
「そうです。超音波の反射で小さいものでも見つけることができる……あんな感じです。神さまは霊的な存在なんだと思いますが、ものすごい生命力を感じました。だから、同じ生命同士、自分のようなただの人間の気合いでも、浴びせればなにか反応があるだろう、と」
メイは思わず、となりを歩く千葉朝陽の横顔を見あげた。
「あったんですか、反応」
「あるといえばある、ないといえばない、ぐらいのかすかな違和感でしたが、ありました。なんだかものすごく集中できていたので、そのへんを飛んでる羽虫もわかりました。羽虫はふらふら飛んで行くけど、その小さな違和感は動かなかったので……間違いない、と」
「すごい……!」
たったそれだけの手がかりで、あれほどの確信を持って突きを打ち、しかも当てたのか。
あらためて感じ入るメイに、千葉朝陽は前を向いたままぽつりと言った。
「実は……」
「はい」
「今日は、剣道をやめるつもりで……それで木刀をお供えに持ってきました」
「えっ……」
「剣道は、好きで始めたわけではありません。小学校にあがる前から自分は体ばかり大きくて気が小さい、なさけないいじめられっ子で……見かねた親が、親戚のつてで剣道場に入門させたんです。『剣道やらせると、内気や人見知りが治るよ』とか言われて」
「そ……そうなんですか?」
目を丸くするメイに、千葉朝陽はちょっと笑った。
「治った、とは言えませんね。でも、剣道は面をかぶるので人と対するのが少し楽になりますし、大きな声を出す練習もするので……声は出せるようになりました」
剣道のお面に自分の度なし眼鏡と同じ効果があると知り、メイは親近感がわいてしまう。
千葉朝陽は気づかず、なつかしそうに語を継ぐ。
「それでも対戦は苦手だったのですが……先生がとても目をかけてくださって。自分も身体を使うのが性に合っていたのだと思います。やっているうちに楽しくなって、すっかり剣道中心の生活になって……教えてもらった技は、すぐ使えるようにしないと気がすまなくて」
ふっと内気な目に悲しみがよぎる。口もとをひきしめて続けた。
「突き技も中三で使えるようになりましたが、中学生が試合で使うことは禁止されています」
「…………」
「早く対戦で使ってみたい、とはやる自分に、先生が、では相手をしてあげよう、と……」
千葉朝陽の声が急に細り、聞いているメイは首筋の毛が逆立つ心地がした。
二年前の話だとしても、対戦に使うのは竹刀だとしても……破壊神を喜ばせるほど威力がある千葉朝陽の突きを、ふつうの剣道の先生が受けられるとは思えない。
「三度、打ちそこないました」
淡々と、千葉朝陽は続けた。今も克明に、立ち会いの詳細をおぼえているのだ。
「名手はなかなか突きなど打たせてくれません。突きは放ったあとの隙が大きいので使いどころがむずかしい。力や勢いで揺さぶろうとしてもいなされます。先生が先に二本取って……」
千葉朝陽はまぶしいものを直視してしまって、目が痛むかのような顔をした。
「今思うと先生は、故意に隙をつくって……打たせてやろう、技を試させてやろう、としてくださったんだという気がします。でも自分は……なにも考えずに突進しました」
「…………」
「得物は竹刀でしたし、防具もきちんとつけていたのですが……先生は……吹っ飛びました」
「ま……まさか……亡くなって……」
「救急車を呼びました。幸い、脳しんとうと頸椎捻挫だけで命に別状はなかったのですが……後遺症で手に麻痺が残り……先生は剣道を、い、引退されました」
千葉朝陽はぐすっとすすりあげ、乱暴に顔をぬぐった。
「お見舞いに行った自分に先生は笑って『朝陽君のせいじゃないから』と……くり返し言ってくださいましたが……自分は……おわびのしようもなく……道場のみなさんに合わせる顔がなく……そのうえ対戦が……怖くてたまらなくなってしまい……道場を辞めました」
メイはかける言葉もなく、もらい泣きしそうになりながら千葉朝陽の腕をそっとさする。
「竹刀や防具もその時、処分してしまいました。そうしたら少しして……先生から宅配便で、さきほどの木刀が送られてきたんです」
「!」
「先生がずっと、何十年も愛用してこられた素振り用の木刀だと、メモが入っていました。これからも剣道から離れないでくれるとうれしい、と」
「…………」
「いただいた木刀で、素振りだけは続けました。でも道場にはどうしても足が向かず……高校に入ると体格を買われてラグビー部に誘われたので、そちらに」
長い、長いため息をついた。
まっすぐ前を見、小柄なメイに歩調を合わせて歩きながら、続ける。
「先日、先生の訃報が届きまして」
「!」
「ご病気だったそうです。お葬式にはなんとか……勇気をふりしぼって行きました。驚くほど大勢の方が参列なさっていて……自分が先生におケガをさせたことをご存じの方も……けっこういらっしゃったようで……お焼香だけして……逃げ出してしまいました」
「…………」
「帰ってから、先生の木刀を前に、考えました。やっぱり自分は、もう剣道はできない。どんなに好きでも……続けても、どこにも進めないのだから、と」
「そ……それで……」
ようやくおずおずと口をはさむメイに、千葉朝陽は恥ずかしそうに笑った。
「はい。今度こそほんとうに剣道をやめよう、と思ったのですが……自分には先生の木刀を捨てるなんてことは絶対、できないし、先生にお返ししようにも先生はもう、この世にいらっしゃらない。それで……メイさんの神さまに灰にしていただいたら剣道への未練を断ち切れるかも……と……すごく身勝手で、神さまにも先生にも……失礼なことを考えたんです」
ゆったりと流れる川から、涼しい風が吹いてくる。
水鳥が、翼をはためかせて川面に降りた。きらめくさざ波を立てて泳ぎ出す。
メイは午後の日射しのまぶしさに目を細めた。
「それで……千葉さんの未練は……」
「かえって燃えあがりました!」
千葉朝陽は分厚い殻をついに手放した人の、すがすがしさと痛々しさ半々の笑みをこぼす。
「剣道は続けます。対戦できなくても、ひとりででも続けます。自分などまだまだなのだと……ほんとうに、真に強くなれば加減もできるのだと、神さまに見せていただきましたから」
「千葉さんの大切な木刀、灰になってしまいましたけど……」
「それはいいんです。神さまにさしあげると申しあげたのは自分です。だから、いいんです。ご挨拶にふさわしい品物なんて、他に思いつきませんでしたし……自分のなさけない……煮え切らないもやもやまで吹き飛ばしていただいて、感謝しかありません」
しみじみと言って、はたとメイの顔を見た。
「こんなことをおたずねすると、ずうずうしいやつと思われるかも……しれませんが……」
「なんでしょう」
「メイさんの神さまに稽古をつけていただくというのは、その……可能でしょうか」
「…………はい?」
目が点になるメイに、千葉朝陽は、子どもっぽいほど純粋な熱意に目を輝かせる。
「あれほど強い人に会ったことがありません」
「あの……人ではないので……」
「大きくもなれる、とおっしゃってましたよね。普通の人間ぐらいの大きさでしょうか」
「はい……まあ……千葉さんよりは小柄ですけど……」
「ハンデにもならないはずです。ぜひ人の大きさで、一手ご教示願いたい」
「ええー……き、きいてみるぐらいはできますけど……なに考えてるんだって言われそう」
「かまいません」
「そ、それに千葉さん、いくら気配がわかっても、スサノオのこと見えないのに……」
「見えなくても学べます。いや……見たいな。メイさんの神さまを見えるようになりたい」
「千葉さんって……」
「はい?」
「けっこう……変わっていらっしゃいますね」
「いや、メイさんほどでは」
ふたりは思わず顔を見合わせ、同時に吹き出した。
歩いている間、会話がとぎれることはなかった。
つきあいの浅い相手とこれほどうちとけて話すのは、どちらも生まれて初めてだったが、それに気づくことさえなく──駅につくと、礼儀正しく別れた。
帰宅途中。
メイは寄り道して専門店に寄り、千葉朝陽のために木刀を一本買った。
それで木刀というものが、思っていたよりずっと重たいことを知って驚いた。
夕ご飯のあと。
時間をかけて、真新しい木刀におぼえたばかりの護身法術を、丹念に吹きこんだ。
祈念と、口頭で唱える祭文だけでかけられるシンプルな術だから、刀身に変化はない。
見る目を持つ人が見れば、うっすら光っているのがわかるぐらい。
できばえに満足し、それから折り紙で、初めて、小さな剣を折った。
折りあがると、これにも丁寧に、全身全霊をこめて、護身法術を吹きこんだ。
小さいけれど、きちんとした退魔の剣となった折り紙製の剣を、工夫して折った花の小枝と一緒に耐熱皿に載せた。
ぐっすり眠っている小さな破壊神の前に、供えた。手を合わせる。
「今日も一日、ありがとうございました。ほんとうに……ありがとうございました」
言い尽くせないほど大きい敬愛と感謝の気持ちをそのままさしだし──
一礼して、寝床に入った。
すぐ眠った。
夜半。
小さい破壊神は、不意に目覚めた。
起きあがり、眠っているメイを見、机の上に置かれた木刀を見た。
千葉朝陽は今日、手持ちの、おそらく唯一の武器を失った。
その代わりになるものだ、とすぐ理解する。
理解して、薄く笑う。
真新しい刀身にはメイの強力な護身の祈念が刻まれ、うっすら光っていた。
これを千葉朝陽ほどの武人が振るえば、並みの妖異はあっさり討ち滅ぼされるだろう。
持ち歩くだけでも、たいていの妖異は近づくことすらできまい。
そして──
〈お供え〉皿の上では、折り紙で作られた小さな剣が、金の炎をまとって揺らめいていた。
小さなかたちに木刀一本分以上の祈念をつめこまれ、意図せず、立派な霊器と化している。
破壊神は吸い寄せられるように、霊気に燃え輝く小さな剣の、柄を握った。
持ちあげる。
握った手の内から、かすかに煙が立ちのぼった。
剣が燃えているのではない。
破壊神の手が、灼けているのだ。
今までメイが捧げてきた霊気は、どれほど強くても、破壊神に害をおよぼすことはなかった。
だが、これはちがう。
千葉朝陽の挑戦が、メイに挑戦のなんたるかを教えたのだった。
あくまで意図は護身、触れなければ害はない。どこまでも礼儀正しい挑戦。しかし。
「くくっ、やっとか」
小さな破壊神は炎のように笑った。
ヌシをも吹き飛ばす威力を秘めた小さな霊器を、一瞬で握りつぶし灰にした。
燃え立つような歓喜に銀の髪を揺らめかせ、目を細めてメイの「挑戦」を味わい尽くし──
守護する娘の、平和な寝顔を見おろす。
「もっとだ。もっと強くなれ」
慈しむような、鼓舞するような、飢餓に狂った魔獣のような──
三つの響きを持つ神の異形の声に触れ、夜闇そのものがかすかにおののく。
夜明けはまだ、遠かった。
この回で、「神さまの飼い方、教えます」日常篇はいちおうひと区切りになります。
次回は新章へのつなぎの、幕間です。
引き続き、お楽しみいただければ幸い☆
■
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