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振ったら後悔か否か?  作者: 平松豊政


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「第2部 五万着の罠」

第2部では、愛菜が会社を守るため、大きな契約や出資と向き合います。大虎がどれほどの力を持っていても、選択の責任を引き受けるのは愛菜自身です。


一方、ゆみと西条も、それぞれの選択によって少しずつ違う道へ進んでいきます。


第1部の続きとして、彼らが何を守り、何を失うのかを見届けていただけたら嬉しいです。

第42章 返品の条件


「五万着を全部返品されたら、製造費だけで四十億円」


夜の工場で、愛菜は電卓を置いた。


大虎は契約案を開く。購入代金の一部は先払い。ただし、品質上の問題が認められた場合、買い手は全数を返せる。前払い分も返還する。その「問題」を判定するのは買い手が指定する検査会社だった。


「このままなら、相手が一着でも気に入らないと言えば終わりだね」


「そう。しかも、返品された後の輸送費も私たち持ち」


大虎が顔を上げた。


「俺の意見、言っていい?」


「聞く。でも決めるのは私」


「分かってる。先払いがあっても、その金を製造に使い切れば、返せと言われた時に詰む」


愛菜はうなずいた。


「だから、一括では受けない。最初の五千着だけ正式発注にしてもらう。検品基準は数値と写真で決めて、第三者にも見てもらう。合格した分から代金を確定させる」


「残りは?」


「五千着が店に並んだ結果を見てから。欲しいと言われても、作れると約束するのはその時」


愛菜は赤字で条文に線を引いた。


「期限が明日までだって書いてある。だったら明日、『今の条件では契約しない』って返す」


大虎は彼女の横顔を見つめた。


「最初から、そのつもりだった?」


「五十着の注文をもらった時から。私は、作った服を届けたいの。契約書の数字だけ大きくしても、着てもらえないなら意味ないよ」


「愛菜ちゃんらしいな」


「褒めても、お茶しか出ないよ」


「十分」


愛菜は紙コップに温かいお茶を注いだ。大虎が受け取った時、二人の指先が少し触れた。


***


翌朝、ゆみの店に西条から封筒が届いた。


西条企画と会場関係者の連絡記録の写し。それに短い手紙が添えてある。


『確認できた事実を送ります。佐伯との通話内容は記録がなく、調査中です。新店の件は、君が納得するまで進めません』


ゆみは記録を順に読んだ。設備室へ入った男へのメッセージはあったが、会場の許可を取った書面はない。


電話をかけると、西条はすぐに出た。


「資料、見たよ。佐伯さんは、どうして許可がないまま入らせたの?」


「本人は、止めるつもりだったと言っている。ただ、電話の録音は残っていない」


「それじゃ分からないよ」


「ああ。だから僕も、問題ないとは言わない」


西条はそれ以上、契約の話を持ち出さなかった。以前なら安心したかもしれない。今日は、その慎重さまで含めて、ゆみには判断できなかった。


「調査の結果が出るまで、お店の話は止めるね」


「分かった」


通話を終えたゆみは、手紙をしまわず机に置いた。


大虎も西条も、自分に見せたい資料を持っている。今度は、自分で会場に問い合わせよう。ゆみは担当窓口の番号を探した。


***


愛菜が修正案を送って三時間後、海外の買い手から返事が来た。


『五千着からの取引には応じる。ただし、当社指定の検品会社は変更できない』


添付された会社案内を見て、愛菜の手が止まった。


検品会社の役員欄に、知っている名前があった。


「……冬彦?」


父が結婚相手として押しつけようとした、海王グループの男。彼はその検品会社の取締役に就いていた。


愛菜はすぐに大虎へ電話した。


「五万着の話を持ってきた会社、検品を任せたい相手が冬彦なの」


「確認する。契約にはまだ署名してないよな」


「してない。五十着の注文は別の店からだから、そっちは予定どおり作る」


愛菜は窓の向こうの作業台を見た。工場の人たちが、今日納める生地を確かめている。


「あの人たちの手を、誰かの思惑に預けるわけにはいかない」


その時、愛菜の携帯に知らない番号から着信があった。


出ると、懐かしくもない声がした。


「久しぶりだね、愛菜。契約書、読んでくれた?」


第43章 選べない契約


「読んだよ。だから、署名しない」


愛菜は工場の窓から離れた。作業台の向こうでは、五十着のための裁断が始まっている。


「ずいぶん早い返事だね」


冬彦は笑った。


「検品会社の取締役が、あなたなの。買い手が決めた曖昧な基準で全数返品できる契約を、私が結ぶと思った?」


「君の会社には金が要る。発表会の後始末もあるんだろう」


「だからこそ、条件は選ぶ」


「五万着だよ。君一人のブランドには二度と来ない話かもしれない」


愛菜は机の上の五十着の注文書に目を向けた。


「私を選んでくれたお店は、もう二つある」


「五十着と五万着を比べてるのかい?」


「比べてるよ。五十着は、ちゃんと届けられる」


受話器の向こうで、冬彦が息を吐いた。


「君のお父さんは、この話を知ってる」


愛菜の指が止まった。


「誉グループの物流を海王が引き受ける代わりに、君のブランドの海外展開を手伝う。いい話だろう?」


「私の会社は誉グループじゃない」


「今はね」


冬彦は声を低くした。


「君が困れば、お父さんは助けに来る。君も意地を張らず、家に帰ればいい」


「助けが必要なら、私から頼む」


「フリーターの彼にかい?」


愛菜は一瞬、返事を忘れた。


冬彦は大虎のことを調べていた。それでも、彼の正体までは知らないらしい。


「だいごくんに相談はする。でも、会社の契約は私が決める」


「いつまでそう言っていられるか、楽しみにしてるよ」


電話が切れた。


愛菜はすぐに通話の時刻と内容を手帳に書いた。冬彦の言葉に腹は立ったが、推測と事実を混ぜてはいけない。父が本当に取引を知っているのかも、まだ確かめていなかった。


***


ゆみは会場の調査窓口に、自分の名前と用件を伝えた。


「私、西条さんと仕事の契約をするところでした。西条企画が会場に何を頼んだか、公開できる記録を見せてもらえますか」


担当者は、ゆみに当事者ではない記録の提供はできないと説明した。ただ、会場が設備室への立ち入りを許可した記録はなく、調査は続いていると言う。


「西条さんからも書類が届いてるんです。そこに許可証がなかったから、確かめたくて」


「現時点で、許可証は確認できていません」


ゆみは礼を言って電話を切った。


西条の手紙に嘘があったわけではない。けれど、許可を取らないまま人を入れた会社と新しい店を始めていいのか。その問いへの答えも、まだなかった。


***


夕方、大虎が工場に来ると、愛菜は冬彦との会話を話した。


「父が知ってるって言われた。確かめてから判断する」


「取引先の持ち株と、検品会社の役員の情報は確認できた。冬彦が取締役なのも間違いない」


「海外の買い手とは、どうつながってるの?」


「出資してる会社が何社か間に入ってる。資料を整理して渡すよ。契約を断る材料には、確認できた事実だけ使って」


愛菜はうなずき、冬彦に送るメールを開いた。


『指定検品会社の独立性が確認できないため、現行の契約案はお受けできません。第三者による検品と、合格品ごとの代金確定が可能であれば、改めて協議をお願いします』


「これでいい?」


「愛菜ちゃんの返事だ」


送信ボタンを押すと、愛菜は大きく息を吐いた。


「お腹すいた」


「俺も。何食べたい?」


「ハンバーグ」


「今度こそ?」


「……メニューを見てから決める」


二人で笑った、その時だった。


工場の担当者が、電話を手に駆けてきた。


「誉さん。五十着に使う生地の出荷が止まりました。仕入れ先から、今朝の便には載せられないと」


愛菜は顔を上げた。


「理由は?」


「先方も、まだ確認中だそうです。ただ、仕入れ先の担当者が気になることを言っていました。出荷停止の指示が入ったのは――」


担当者はメモを見た。


「海王グループの担当者から連絡があった、直後です」


第44章 五十着を届けるために


「海王の人は、何て言ったの?」


愛菜が尋ねると、工場の担当者は仕入れ先から聞いた言葉を読み上げた。


「同じ生地に色落ちの疑いがあるから、出荷を止めて確認してほしい、と。海王グループの取引先から連絡があったそうです」


「検査結果は?」


「まだ出ていません」


冬彦からの電話の直後だった。愛菜は腹が立った。だが、本当に色落ちするなら、仕入れ先が出荷を止めた判断は正しい。


「工場にある試作品と、仕入れ先に残っている生地を別々に検査しよう。結果が出るまで裁断は止めて」


「納期はどうします?」


「お店には私から話す」


愛菜は大虎を見た。


「海王が妨害したって、今ここでは決められないよね」


「ああ。先方がどの生地を指してるのかも、まだ分からない」


「じゃあ、それを聞く。だいごくんは取引の資料をお願い」


「分かった」


大虎は携帯を取り出したが、愛菜がかける電話の邪魔にならないよう、廊下へ出た。


***


最初に注文してくれた店主は、愛菜の説明を最後まで聞いた。


「検査で問題がなければ、納品予定日に間に合わせます。結果が遅れたら、その日のうちに新しい日付をご連絡します」


通訳の向こうで、店主が言う。


「分かりました。映像で見た発表会では、最後まで服を見られなかった。今度は、店でゆっくり見せてください」


「はい。必ず」


約束した後で、愛菜は唇を結んだ。まだ生地の検査も終わっていない。「必ず」は早すぎたかもしれない。


彼女はすぐに言い直した。


「もし品質に問題が出たら、その生地では作りません。納期については改めて相談させてください」


「その方が安心です」


店主の声が、少し柔らかくなった。


電話を切った愛菜は、五十着の発注書に『品質確認後に製造』と書き込んだ。


***


誉家への電話は、父が出た。


「冬彦さんから聞いた。私の海外展開の契約、パパも知ってたの?」


「海王が物流の協力を提案しているとは聞いた。五万着の契約書までは見ていない」


「私が戻るように仕向けてる?」


父はすぐに答えなかった。


「戻ってほしいとは思っている」


「それと、私の会社に悪い契約を結ばせるのは違うよ」


「悪い契約?」


愛菜は返品条項と、冬彦が役員を務める検品会社のことを説明した。父は途中で口を挟まずに聞いた。


「その条件なら、私でも判を押さん」


「じゃあ、冬彦さんと話して。私の名前を、二人の取引に使わないで」


「確認する」


父の言葉を聞いても、愛菜はまだ安心できなかった。家を飛び出した日の「確認する」は、彼女の意思を変えるための時間稼ぎだったからだ。


「結果は、私にも文書で送って」


「……分かった」


愛菜は電話を切った。今日は、父が約束を守るかどうかを見ようと思った。


***


大虎は戻ってくると、机に資料を広げた。海外の買い手には海王の出資先が関わっている。ただし、買い手の全ての判断を冬彦が動かせるとまでは分からない。


「生地についても、海王側から仕入れ先に送った通知の写しを、正式に取り寄せてる」


「ありがとう。私は工場にある生地を検査に出した」


「五十着、どうする?」


「結果を見て決める。間に合わなかったら、お店に謝って納期を相談する」


「そっか」


大虎は隣の椅子に座った。


「だいごくん。今日も一緒に帰れる?」


「もちろん」


「ご飯、まだだった」


「ハンバーグ?」


「今日はオムライスかも」


大虎が笑った時、愛菜の携帯に仕入れ先からメールが届いた。


海王側が問題を指摘した生地の番号と、愛菜の注文した生地の番号が、添付されている。


愛菜は二つの番号を並べ、もう一度読み直した。


末尾の数字が違う。


「……これ、別の生地だよ」


第45章 止められた理由


愛菜が注文したのは、末尾が「七三」の生地。


海王側が色落ちを指摘したのは、末尾が「三七」の生地だった。


「数字を入れ違えたのかな」


大虎は画面をのぞいた。


「かもしれない。まず、どっちの生地を調べたのか聞こう」


愛菜は仕入れ先に電話をかけた。


「届いたメールを見ました。指摘された番号は、私たちの注文と違います」


担当者は謝った。


「私どもも気づきました。ただ、染めた工場が同じなので、安全確認が終わるまで関連する生地も出荷を止めています」


「そういう理由なら分かります。私の注文分は、いつ検査できますか?」


「明朝、試験機関へ出します。急ぎますが、結果をお約束できるのは明後日です」


愛菜は工場の予定表を見た。


「結果が出たら、出荷できるかどうか文書で教えてください。こちらも先に裁断はしません」


「ありがとうございます」


電話を切ると、愛菜は五十着を注文した二つの店へ、検査結果が分かる日を伝えた。納品が遅れる可能性も隠さなかった。


「明後日まで待つのか」


大虎の声が、いつもより低い。


「うん。服を買う人を不安にさせたまま、急いで作れない」


「愛菜ちゃんの判断は正しい。ただ、海王の通知がなぜ違う番号だったのかは調べる」


「お願い」


大虎は短くうなずいた。


愛菜は見慣れた横顔を見た。怒っているのは分かる。それでも彼は、愛菜の代わりに仕入れ先へ命令しなかった。


***


翌朝、海王側が仕入れ先に送った通知の写しが届いた。


最初の文面は、色落ちの疑いがある生地の番号を挙げていた。末尾は「三七」。


だが、一時間後に届いた二通目には、こうあった。


『誉愛菜氏が扱う関連商品については、調査終了まで出荷を見合わせていただきたい』


生地の番号ではなく、愛菜の名前で止めようとしている。


「これ、品質の話から変わってる」


愛菜は工場長にも写しを見せた。


「仕入れ先は、この二通目に従う義務があるんですか?」


「ありません。ただ、大口の取引先から言われれば、無視しづらいでしょうね」


「じゃあ、うちの生地を検査する。問題がなければ出荷してもらう。それでも止めると言うなら、理由を文書で聞く」


愛菜は仕入れ先へ、その内容をメールで送った。冬彦への抗議も書きかけたが、送らなかった。まず確かな検査結果が必要だった。


***


昼過ぎ、大虎は藤川と本城から届いた別々の資料を照らし合わせていた。


海王グループの事業一覧と、大口取引先の公表情報。誠一郎も圭一も、頼まれた記録だけを寄こしている。


電話をかけると、藤川が出た。


「会長。何か動かしますか」


「まだです。愛菜ちゃんの生地は検査中です」


「海王の二通目は、ずいぶん露骨ですね」


「愛菜ちゃんの仕事を止めようとしたなら、俺は怒ります。でも、怒ったからって、確認を飛ばしていいわけじゃない」


「承知しました。追加の指示を待ちます」


大虎は窓の外を見た。


愛菜は五十着を作るために、一着分の品質も妥協しない。それを邪魔するために「安全」という言葉が使われたのなら、許す気はなかった。


***


夕方、父から愛菜に書面が届いた。


『海王グループとの物流協議に、愛菜の会社を含めることは認めない。先方にその旨を通知した』


愛菜は何度も読んだ。父が約束を文書にしたのは、家を出てから初めてだった。


すぐに電話をかける。


「受け取ったよ。ありがとう、パパ」


「礼を言われることじゃない。お前の会社だからな」


少しだけ、以前の父の声に戻っていた。


「冬彦さんは、何か言ってた?」


「返事はまだない」


父はそこで言葉を切った。


「どうしたの?」


「いや。お前は生地の検査に集中しなさい」


「パパ」


「結果が出たら、私にも知らせてくれ」


電話は切れた。


愛菜は書面に目を戻した。父は初めて自分の会社を認めてくれた。なのに、最後の声だけが気にかかった。


その頃、誉グループの本社では、経理責任者が父の机に一通の通知を置いていた。


差出人は、海王グループ。


次回の出資金の払い込みを、延期するという通知だった。


第46章 守るための書面


「延期の理由が書かれていない」


誉グループの会議室で、父は通知を机に置いた。


今月入る予定だった資金は二十億円。新しい物流拠点の設備代と、すでに着手した工事の支払いに充てる計画だった。


経理責任者が資金繰り表を開く。


「今ある現金で今月末までは払えます。ただ、来月の支払いは別の手当てが必要です」


「銀行には?」


「海王の出資を前提にした融資枠です。延期の通知を隠して借りるわけにはいきません」


父はうなずいた。愛菜に結婚を迫った時、海王と組めば誉グループは安泰だと言った。その資金が、娘の会社を取引に含めないと伝えた直後に止まった。


偶然かどうかはまだ分からない。


「出資契約のどの条項に基づく延期か、海王に文書で聞いてくれ。取締役会にも通知を共有する」


「愛菜様には?」


「私が話す」


だが父は、携帯を手にしたまま、すぐにはかけられなかった。


***


愛菜のもとに届いたのは、生地の試験機関からの報告だった。


注文した「七三」の生地は、洗濯後の色落ちも摩擦による色移りも基準内。仕入れ先も出荷可能と判断した。一方、海王が指摘した「三七」の生地は別の色、別の生産分で、結果はまだ出ていない。


愛菜は工場長と報告書を読み合わせた。


「出荷できるなら、今日届いた分から裁断を再開していいですか」


「はい。ただ、工場でも一着目を洗って確かめたい」


「やりましょう。最初の一着を見てから、残りを縫う」


愛菜は仕入れ先に礼を伝え、海外の二つの店に新しい予定を送った。納品日は当初より一日遅くなる。どちらの店からも、品質確認を優先してほしいという返事が届いた。


大虎が来たのは、最初の一着が仕上がった頃だった。


「どうだった?」


「生地は合格。でも、できた服もこれから洗う」


「そこまでやるか」


「だいごくんに着せる服だと思ったら、気になるでしょ?」


「俺の分もあるの?」


「これは店の商品」


大虎が残念そうな顔をすると、愛菜は笑った。


「だいごくんのは、いつか別に作る」


「いつか、ね」


「社長、今は五十着で忙しいの」


二人が笑っているところへ、工場の担当者が封筒を持ってきた。


仕入れ先から送られた、海王への照会結果だ。


愛菜はその場で開いた。


海王は一通目の生地番号の誤りを認めた。しかし二通目については、『製品全般の安全を考慮した依頼であり、撤回しない』と回答している。


「検査で合格しても?」


愛菜がつぶやく。


「仕入れ先は?」


「独自の検査結果に基づいて出荷を再開した、と書いてあります」


大虎は写しを手に取り、最後まで読んだ。愛菜の名前で出荷を止めるよう求めた部分は、一字も訂正されていない。


「冬彦の言い分を、直接聞く」


「だいごくん」


「愛菜ちゃんの会社の交渉は、愛菜ちゃんがする。それは分かってる」


大虎は紙を戻した。


「でも、俺も関わる会社に、確認したいことがある」


彼が立ち上がった時、愛菜の携帯が鳴った。


父からだった。


「まな。生地の結果は出たか」


「うん。合格した。今、五十着を作ってる」


「そうか……よかった」


父はしばらく黙った。


「パパ、何かあった?」


「海王から、出資の払い込みを延期すると通知が来た。今月、二十億円入る予定だった」


愛菜は大虎を見た。


「それで、誉グループはどうなるの?」


「すぐには止まらない。だが、このままでは来月の支払いに届かない」


父の声は、愛菜が初めて聞くほど弱かった。


第47章 二十億円の条件


「パパ。今月入るはずだったお金は、契約で決まってたの?」


愛菜は携帯を耳に当て直した。


「払い込みの予定日は契約書にある。ただ、海王は事業計画の変更を理由に、確認が必要だと言っている」


「私の会社を物流の計画に入れないと伝えたこと?」


「先方の通知には書いていない。私が勝手に結びつけてはいけないな」


父がそんなふうに答えるとは思わなかった。愛菜は少し黙ってから言った。


「契約書を見直して。銀行にも本当のことを話して。必要なら、私も自分の会社のことは説明する」


「お前の会社に借金を背負わせる気はない」


「分かってる。私を理由にされたくないだけ」


「……すまなかったな、まな」


「それ、何について?」


父はしばらく答えなかった。


「会社を守るためだと言って、お前の話を聞かなかったことだ」


愛菜は窓の外を見た。工場の灯りが、夕暮れの中で一つずつ点いていく。


「謝ってくれて、ありがとう。でも今は、会社で働く人たちに何ができるか考えて」


「ああ」


電話を切ると、大虎がそばにいた。


「聞こえてた?」


「愛菜ちゃんの声だけ」


「パパ、謝った」


「そっか」


「すぐに昔みたいには戻れないけど、話はできそう」


大虎は愛菜の手を取った。


「それなら、よかった」


***


翌朝、誉グループは海王へ、払い込み延期の根拠と必要な確認事項を文書で尋ねた。銀行にも予定資金が未入金になったことを伝え、支払い予定と保有資産を洗い直す。


父は役員たちに言った。


「今月末の給与と取引先への支払いは守る。設備投資で止められるものを今日中に挙げてくれ。従業員には、決まっていないことを決まったように話さない」


経理責任者がうなずく。


「代替の資金は、金融機関にも相談します」


「条件が分からない金には飛びつかん。まず全部、紙にしてくれ」


自分にも、愛菜に言った言葉が返ってきたようだった。


***


大虎はカルソック本社で、海王との取引一覧を確認していた。海王は物流だけでなく、複数の事業でカルソックの支援を受けている。


秘書が尋ねた。


「後見契約を見直しますか」


「その契約と、愛菜ちゃんの生地の件は分けて調べる。今切れば、理由が分からない社員も取引先も困る」


大虎は二枚の書面を机に並べた。誤った生地番号の通知と、愛菜の名前を挙げた出荷停止の依頼。


「ただ、俺たちが支えてる会社の取締役が、この文書を出させたのかは確認したい。海王の窓口へ照会を」


「承知しました」


怒りは消えていない。だが大虎が向ける先は、会社で働く人間ではなかった。


***


工場では、一着目の洗濯試験が終わった。


愛菜は縫い目と袖の色を確かめ、工場長と一緒に記録へ署名した。


「残り四十九着、お願いします」


「予定を組み直しました。納品が一日延びた分も含めて、無理のない人数で進めます」


「ありがとう」


愛菜が完成した一着をハンガーに掛けたところで、父から画像が届いた。


海王グループからの回答書だった。


払い込み延期の理由として挙げられていたのは、事業計画の再確認。それに続けて、早期の払い込みに応じるための新たな提案が記されている。


『誉グループに対する出資比率を、過半数へ引き上げること』


二十億円を予定どおり払う代わりに、会社の経営権を渡せと言っている。


愛菜は、縫い上がったばかりの服を見た。


冬彦が「今はね」と笑った声が、ようやく意味を持った。


第48章 値段をつけられた会社


「二十億円で、パパの会社を渡せってこと?」


愛菜は父に電話をかけた。


「まだ正式な契約案ではない。海王からの提案だ」


「提案って言えば、何を書いてもいいの?」


父は苦く笑った。


「私も同じことを思ったよ」


「どう返すの?」


「断る。だが、今月の払い込みを待っていたのも事実だ。銀行に相談し、止められる支出を止めている。それでも足りなければ、事業を一部売ることまで考える」


愛菜は口を開きかけて、閉じた。自分には父の会社の数字が分からない。無責任に「売らないで」とは言えなかった。


「資料を見せて。私に分かる範囲で、一緒に考えたい」


「お前の事業だけでも大変だろう」


「だから、私の会社からお金は出せない。でも、娘として話を聞きたい」


父は少し間を置いて答えた。


「明日、来られるか」


「行くよ」


***


誉グループからの回答を聞いた冬彦は、机を指でたたいた。


「過半数は無理、か」


向かいの役員が言った。


「物流拠点の計画自体は利益が見込めます。予定どおり払い込む選択もあります」


「それじゃ愛菜が戻ってこない」


役員は手元の資料を閉じた。


「出資の判断と、誉さんの娘さんの話は分けるべきです」


「分かってる。僕は、誉グループが安定した方がいいと思ってるだけだよ」


冬彦の声は穏やかだった。だが、役員は返事をしなかった。


そこへ秘書が入ってきた。


「カルソックから、問い合わせが届いています」


「何の?」


「生地の出荷停止を求めた二通目の通知について、発信した部署と判断の根拠を確認したいと」


冬彦は初めて指を止めた。


***


翌日、愛菜は誉グループの会議室で資金繰り表を見た。


父と経理責任者が、来月までに必要な支払いと、保有資産を一つずつ説明する。先送りにできる設備投資はある。それでも、海王との資本提携を前提に動かしてきた仕事が多かった。


「今の計画を続けるだけなら、足りないのは二十億円。でも、その場をしのいでも、次の払い込みを止められたら同じことになる」


経理責任者の言葉に、愛菜はうなずいた。


「海王から離れるには、いくら必要?」


「返済や既存の出資分の整理も含め、条件によっては百億円近くになる。ただし、一度に全額使う話ではありません」


父は愛菜を見た。


「見せたのは、お前に金を頼むためじゃない。私が何を選ぼうとしているか、知ってほしかった」


愛菜は表を閉じた。


「分かった。私も、自分の仕事に戻るね」


***


工場へ戻ると、大虎が五十着の進み具合を見に来ていた。


「どうだった?」


愛菜は父の許可を得た数字だけを話した。海王から離れるには、目先の二十億円だけでは足りないことも。


大虎は、縫製台の上の服を見た。


「海王は生地の番号を間違えた。でも、愛菜ちゃんの名前を出した通知は撤回しなかった。その上で、誉グループの経営権を求めた」


「まだ全部つながったと決まったわけじゃないよ」


「分かってる」


その声には、愛菜も知っている怒りがあった。大虎は彼女の手を取ると、静かに続けた。


「誤りだった部分は誤りとして扱う。それでも、俺には許せない。愛菜ちゃんの仕事も、お父さんの会社で働く人たちも、誰かを従わせるための道具じゃない」


「だいごくん……」


「カルソックから誉グループへ、出資を提案できる」


愛菜は息をのんだ。


「百億円を上限に考えてる。条件を決めるのは俺だけじゃないし、受けるか決めるのはお父さんと会社だ」


「そんな大きなお金を、私のために?」


「愛菜ちゃんの会社には入れない。誉グループの事業と返済計画を見て、投資として判断する。俺がその審査を正式に始めたい」


大虎は愛菜の目を見た。


「その前に、君に話しておきたかった」


愛菜は答えを急がなかった。大虎の手を握り返し、縫い上がった服に目を向けた。


五十着を守るために選んだ道が、今度は父の会社の未来につながろうとしていた。


第49章 百億円の提案


「私に、パパを説得してほしいの?」


愛菜は大虎の手を離さずに聞いた。


「違う。お父さんが断るなら、それで終わりだ」


「カルソックの名前を出しても?」


「うん。会社を渡す相手を、自分で選べなきゃ意味がない」


愛菜は縫製台の向こうを見た。社員たちは生地を確かめながら、五十着を一枚ずつ仕上げている。


「私はパパの会社に戻らないよ。今の会社を続ける」


「分かってる」


「そのうえで、パパには提案があるって伝える。話すかどうかは本人に決めてもらう」


「ありがとう」


「まだお礼は早い。百億円って、どこからどう使うのかも聞いてないもの」


「そうだな」


大虎は少し笑った。


***


翌朝、誉グループの会議室にカルソックの投資担当者が来た。大虎も席に着く。


愛菜の父は、以前、川辺で大虎の正体に気づいた時のことを思い出していた。あの時は娘のそばにいる男として話した。今日は、会社の未来について向き合う。


「娘には、この話を受けるよう言われていません」


父が先に告げた。


「そうでしょうね。愛菜ちゃんは、自分の会社の服を作っています」


大虎は用意した資料を開いた。


「上限百億円です。一度に振り込む話ではありません。まず必要な支払いと事業の数字を確認し、当面の資金をどう用意するか決める。その後、海王との資本関係を整理する費用を、段階ごとに審査します」


経理責任者が尋ねた。


「見返りに求める持ち株は?」


「そこも、事業の評価をしてから提示します。最初から経営権を取る条件は付けません。条件に納得できなければ断ってください」


父は大虎を見た。


「愛菜との結婚を望むから、この話を?」


「愛菜ちゃんを取引の条件にはしません」


大虎は迷わず答えた。


「投資する理由は、事業を続けられる見込みがあるからです。見込みがなければ、どんなに好きな人のお父さんでも投資とは呼べない」


会議室が静かになった。


父は、海王から届いた提案書を机の中央へ置いた。


「私は娘の結婚を条件に、会社を救おうとしました。今は、その間違いを繰り返したくない」


「では、決めるのは数字と条件です」


「ええ。帳簿も契約も見せます。そのうえで判断してください」


二人は初めて、同じ目線で書類を開いた。


***


昼過ぎ、愛菜の携帯に父から短い連絡が届いた。


『話をした。会社の資料を提出する。受けると決めたわけではない』


愛菜は『うん。それでいいと思う』と返した。


工場長が、仕上がった服を数えながら声をかける。


「誉さん、二十着できました」


「ありがとう。残りも、確認しながらお願いします」


大きな会社の話が進んでいても、自分が今日見るべきものは目の前にある。愛菜は服の袖を持ち上げ、縫い目を光にかざした。


***


一方、海王グループの会議室では、冬彦がカルソックからの回答を読んでいた。


二通目の出荷停止通知は、海王の品質管理部門の判断ではなかった。通知を出すよう指示したのは、冬彦の直属の部下だと記録にある。


役員が言った。


「彼が独断で、誉愛菜さんの名前を指定したのでしょうか」


冬彦は書類から目を上げない。


「本人に聞けばいい」


「聞きます。それと、誉グループへの出資延期も、理由と決定手順を整理してください」


「なぜ急に?」


「カルソックが、誉グループと正式な面談をしたそうです」


冬彦の顔から笑みが消えた。


「大虎は、愛菜の父親にまで会いに行ったのか」


役員は答えず、もう一枚の資料を差し出した。


そこには、海王グループ自身の主要な出資者と、次に資金を借り換える日付が並んでいた。


冬彦は初めて、自分の会社の資金繰り表を最後まで読んだ。


第50章 それはだいちゃんの仕事


「二十億円の払い込みは、延期したままでいいんですね」


海王グループの役員が冬彦に尋ねた。


「誉側が条件をのまないなら、仕方ない」


「契約にある払い込みを止める理由として、その説明は使えません」


役員は声を荒らげなかった。代わりに、資金繰り表の一行を指した。


来月、海王グループ自身が返済期限を迎える借入金。その借り換えには、複数の出資者との協議が必要だった。


「カルソックがどう動くかも分かりません。誉への出資と、生地の通知について、社内で正式に調べるべきです」


冬彦は表を押し返した。


「大虎の紹介で愛菜が融資を受けたくらいで、カルソックが海王にまで口を出すのか?」


「その判断をした人間に、会って確認しましょう」


役員は立ち上がった。


***


誉グループでは、カルソックの投資担当者が帳簿を調べていた。


大虎は父に言った。


「当面の資金は二十億円を目安に審査します。残りの枠は、海王との契約を整理する費用と、事業を続けるための資金です。使わない分は出しません」


「持ち株の条件は?」


「事業評価が終われば文書で提示します。海王のように、娘さんの仕事を条件にはしません」


父は苦い顔でうなずいた。


「そちらに経営権を渡さずに済むなら、検討したい。ただ、社員にも取引先にも説明できる条件でなければ受けられません」


「当然です」


その場で決まったのは、資料の提出と審査の日程だけだった。それでも父の肩から、わずかに力が抜けた。


***


夕方、五十着の最後の一着に検品札が付いた。


愛菜は工場の人たちと一緒に箱を数え、二つの店への送り状を確かめた。予定より一日遅れたことを詫びる手紙も入れる。


「ちゃんと届くかな」


「発送の控えはここにあります」


工場長が差し出した紙を見て、愛菜は笑った。


「分かってる。でも、着てくれる人の顔を見るまでは落ち着かない」


その夜、大虎が迎えに来た。


「五十着、出したんだって?」


「うん。だいごくんの分は入れてないけど」


「まだ覚えてたのか」


「約束したからね」


二人は工場から駅まで歩いた。大虎は誉グループの審査が進んでいること、海王についても資料を見ていることを話した。


「愛菜ちゃん。海王との関係は、お父さんの会社だけじゃ終わらない。俺も後見人として、あの会社の事業に関わってる」


「うん」


「怒りに任せて切るつもりはない。でも、事業の中身と、誰が何を決めているかは見直したい。海王そのものに、カルソックが資本参加する選択肢もある」


愛菜は足を止めた。


「私に、していいか聞いてるの?」


「君にも関係するから。嫌なら――」


「それはだいちゃんの仕事だよ」


大虎は言葉を止めた。


「私の会社をどうするかは私が決める。パパの会社はパパが決める。だいちゃんが関わってきた会社をどう支えるかは、だいちゃんが決めて」


「……そうだね」


「ただし、冬彦さんが嫌いだから買うんじゃなくて、そこで働く人のことも考えてよ」


「もちろん」


「それなら、私はだいちゃんを信じる」


大虎は愛菜の手を握った。世界中の企業を動かしてきた男が、その一言には少し照れていた。


***


翌朝、カルソックの会議室に藤川誠一郎と本城圭一がいた。


「海王の主要事業と資金の流れを、公開できる資料から整理しました」


圭一が書類を置く。誠一郎は、借り換えを控えた取引先の一覧を添えた。


「会長の後見を頼りにしている部分も多い。手を引けば早いでしょうが」


「それはしません」


大虎は資料を開いた。


「返済に困る会社を叩いて安く買う気はない。株主や銀行に同じ条件を示して、賛成する人から持ち株を買う。経営に入るなら、事業を続ける計画も一緒に出します」


「承知しました」


「二人には、出資者との接点と契約を確認してほしい。誰にも圧力はかけないで」


「はい」


誠一郎も圭一も、迷わずうなずいた。


会議が終わる頃、秘書が一通の返事を持ってきた。


海王グループの会長からだった。


『カルソック会長と、直接お話ししたい』


大虎は日時を指定した。


その面談に冬彦も同席すると聞き、短く答えた。


「ちょうどいい。彼にも、俺が誰か知ってもらおう」


第51章 名刺の裏側


海王グループの会議室に、冬彦は誰より早く入った。


正面の席には父である海王会長が座っている。カルソックからの問い合わせが届いて以来、父は冬彦の説明を一つずつ書面で求めるようになっていた。


「今日の相手が誰か、聞いているな」


「カルソックの会長でしょう」


「名前は?」


冬彦は答えられなかった。これまで重要な面談でも、相手の顔と名前を先に調べてきた。だが今回は父が担当し、秘書からも教えられていない。


扉が開いた。


入ってきた男を見て、冬彦は椅子から立ち上がった。


「……大虎?」


愛菜のそばにいた、フリーターだと聞いていた男だ。


大虎は冬彦にも会釈し、海王会長へ名刺を渡した。


「カルソック会長、大虎です。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」


冬彦は名刺を見たまま、座るのを忘れた。


「君が……カルソックの?」


「そうです」


大虎はそれ以上、自分について説明しなかった。冬彦が抱いた驚きは、冬彦自身のものだった。


海王会長が椅子を示す。


「座れ、冬彦。話を始めよう」


***


大虎は三通の書面を机に並べた。


愛菜の名前を挙げて生地の出荷停止を求めた通知。検査会社を冬彦の関係先に限定した契約案。誉グループへの二十億円の払い込みを延期し、出資比率の過半数を求めた回答書。


「これらが、すべてあなたの指示だと決めて来たわけではありません」


大虎は冬彦を見た。


「誰が判断し、何を根拠に出したのか。それぞれ会社として回答をください」


「生地は安全のためだ」


「愛菜ちゃんが注文した生地は検査に合格しています。誤った番号の通知のあと、なぜ彼女の名前で出荷を止めようとしたんですか」


冬彦は口を開いたが、父が先に言った。


「品質管理部門は、二通目に関わっていないそうだ」


「部下が、行き過ぎた判断をしたのかもしれません」


「なら、その判断を許した仕組みを調べてください」


大虎の声は荒くなかった。それがかえって、冬彦には答えづらかった。


次に大虎は誉グループの書面を指した。


「二十億円を出す代わりに過半数を求めるのは、新しい提案です。もともとの契約にある払い込みを延期する理由とは、別に説明が要ります」


海王会長がうなずいた。


「私も経理と法務に調べさせている。予定していた出資の扱いは、回答する」


「ありがとうございます」


「ただし、カルソックが誉グループに投資するなら、当社とは競争相手だな」


「そうですね」


大虎は笑った。


「だからこそ、海王にも話したい。あなたの会社にも、借り換えを控えた事業があります。カルソックが後見している部分を含め、今の形が一番いいのか、数字で見直しませんか」


「後見をやめると言うのか」


「今日はその話をしていません。海王の株主が望むなら、カルソックから資本参加の提案を出します。事業を残し、社員の仕事を守る計画も付けて」


冬彦が身を乗り出した。


「僕らの会社を買うつもりか!」


「買えるかどうかを決めるのは、俺一人じゃありません」


大虎はまっすぐ答えた。


「株主と、海王グループの皆さんです」


海王会長は冬彦を見た。


「お前は愛菜さんの会社にも、同じことを言ってやれたか」


冬彦は何も言えなかった。


***


面談が終わると、大虎の携帯に愛菜から写真が届いた。


海外の店に並んだ一着目の服。鏡の前で袖を広げる店主が笑っている。


『五十着、届いたよ。まず一店舗目!』


大虎の頬がゆるんだ。


「会長、どうされました」


秘書に写真を見せる。


「仕事の話をしてる時より、嬉しそうですね」


「かもな」


その時、別の連絡が入った。


海王グループの大株主三社が、カルソックの提案を聞きたいと言っている。三社の持ち株を合わせると、議決権の三分の一を超える。


大虎は返信画面を開いた。


『まず、三社それぞれの考えを聞かせてください。同じ資料と条件で話します』


送信すると、愛菜の写真をもう一度見た。


彼女は服を届けた。


自分は、自分の仕事を進める番だった。


第52章 三社の返事


「売ると決めて来たわけではありません」


海王グループの大株主の一人が、開口一番に言った。


カルソックの会議室には三社の代表が座っている。大虎は、それぞれに同じ資料を渡した。


「それで構いません。今日は皆さんが、海王の何を守りたいか聞きたい」


最初の代表は、長く続けてきた港湾事業を挙げた。二人目は、従業員の雇用。三人目は、先月から急に増えた取引先との揉め事について話した。


「冬彦さんが出す文書を、会長や担当部門が後から知る。あれでは出資者に説明できません」


大虎はメモを取った。


「生地の通知と、誉グループへの出資延期は、海王側が社内調査中です。結果が出る前に、個人の責任を決めつけるつもりはありません」


「そのうえで、あなたは何を望むんです?」


「出資者が望むなら、持ち株を適正な評価額で買う。海王には新たな資金計画と、取締役の判断を後から検証できる仕組みを提案します」


大虎は資料の最後のページを開いた。


「誉グループへの投資とは別の案件です。そちらに用意した百億円を、海王の買収に回すことはしません」


三人の表情が少し変わった。


「では、買った後に事業を切り売りするつもりも?」


「事業ごとに見ます。今ここで、何も売らないと軽く約束するのは違う。ただ、従業員や取引先の行き先を決めずに、数字だけで手放すつもりはありません」


代表たちは資料を持ち帰った。返事は、各社の取締役会を通してからになる。


大虎は引き止めなかった。


***


海王本社では、会長が社内調査の報告を読んでいた。


生地について最初に寄せられた色落ちの疑いは、実在する別の生産分のものだった。だが愛菜の名前を挙げて出荷停止を求めた二通目には、品質試験の記録が添えられていない。


起案したのは冬彦の直属の部下。承認欄には冬彦の名前がある。


「これはお前の判断か」


父が報告書を置くと、冬彦は顔をそむけた。


「止めた方が安全だと思った」


「生地の番号も違うのに?」


「同じ工場のものだ。もし問題が出たらどうする」


「だったら工場の生産分を調べればいい。なぜ愛菜さんの名前を書く」


冬彦は答えなかった。


父は別の書面を示した。誉グループへの出資延期について、取締役会で承認された形跡がない。冬彦の部門が、予定どおり払い込める資金を一時的に留めていた。


「この件は私が先方へ説明する。お前は、関係する決裁から外れる」


「父さん、僕を切るのか?」


「会社の金を、誰かを戻らせる道具にした時から、お前が先に会社を切り離したんだ」


冬彦の唇が動いたが、声にはならなかった。


***


夕方、ゆみの店に西条が訪ねてきた。


「新店の件、まだ止めておく?」


「会場の調査が終わるまでは」


「分かった。今日は契約の話じゃない」


西条は、ゆみがまとめた今季の商品一覧を見た。


「これ、君が一人で作ったの?」


「社員もいるよ」


「なら、社員と君の力だ」


ゆみは答えなかった。以前なら褒められて嬉しかったかもしれない。でも今は、大虎が三年間、裏からどこまで支えていたかを知っている。


「私一人でここまで来たとは思ってない」


「そうか」


西条はそれ以上踏み込まず、店を出た。


ゆみは、彼が置いていった名刺を見た。新店の契約を止めても、連絡は途切れていない。自分が何を信じたいのか、まだ決められなかった。


***


夜、海王会長から大虎へ連絡があった。


「冬彦を、生地と誉グループの案件の決裁から外しました。誉側への払い込みも、元の契約に沿って進めるつもりです」


「その件は誉グループへ直接伝えてください」


「そうします」


会長は少し黙った。


「それとは別に、あなたの提案を聞きたい。私が保有する持ち株についても」


大虎は窓の外を見た。


「まず、海王グループの将来をどうしたいか、聞かせてください」


「冬彦の判断一つで、社員の仕事が揺らぐ会社にはしたくない」


「なら、その話から始めましょう」


電話を切った大虎の机には、三社の代表が持ち帰った資料と、もう一通の封筒が残っていた。


差出人は海王の取引銀行。


『借り換えについて、カルソックと協議したい』


株主に続いて、銀行も大虎の返事を待っていた。


第53章 会長の持ち株


「借り換えを断ると、おっしゃっているのではないんですね」


大虎が確認すると、銀行の担当者は首を振った。


「海王グループの事業には返済原資があります。ただ、決裁の流れに不安が出ている。新たに大口の出資者が入るなら、経営の体制を確認したいんです」


「俺が株を買えば、それだけで融資を続けると?」


「いいえ。事業計画と返済計画を改めて審査します」


「それでいい」


大虎は資料を閉じた。


「海王への後見を人質にして、銀行に判断を迫るつもりはありません。御行の審査は、御行でしてください」


銀行の担当者は一礼した。


「では、正式な計画が出た時に」


***


同じ頃、誉グループには海王会長から書面が届いた。


予定されていた二十億円は、当初の契約に沿って払い込む。過半数の出資比率を求めた提案は撤回する、とある。


父は経理責任者と内容を確かめた。


「口約束ではなく、入金日まで記載されています」


「銀行にも共有してくれ」


「カルソックへの資料提出はどうしますか」


父はしばらく考えた。


「続ける。今回は払われても、海王に依存したままでは同じことが起きる。こちらが独立して選べる条件を知りたい」


その返事を愛菜に送ると、すぐに返信が来た。


『うん。パパの会社だもん。決めるのはパパだよ』


父は画面を見たまま、小さく笑った。


***


海王会長は大虎を、自社の古い港湾倉庫に案内した。


壁の写真には、最初の荷役車両と、泥だらけの作業服を着た若い社員たちが写っている。


「昔は、ここ一か所だった」


「今は各地に倉庫がありますね」


「広げることばかり考えて、誰に渡すかを考えなかった」


会長は写真の一枚を指した。


「冬彦にも、ここで働く人を見てほしかった。だが、会社を自分の言うことを聞かせる道具にしてしまった」


大虎は答えを急がなかった。


「私の持ち株を譲れば、あなたが経営の中心に立てる。三社も応じれば、過半数に届くだろう」


「株は、評価して価格を出します。その前に、お聞きしたいことがあります」


「何だ」


「あなたは、海王で何を続けたいですか」


「利益の出ている仕事を、そこで働いている人と続けたい。赤字の仕事は、数字を隠さずに直したい。冬彦の責任も、親だからといって見逃したくない」


「その方針なら、話を進められます」


大虎は窓の外の作業員を見た。


「ただ、あなたが株を売るかどうかは、俺の言葉だけで決めないでください。銀行や他の出資者にも会い、条件を比べてほしい」


「世界一の会社の会長が、ずいぶん商売下手なことを言う」


「安く買うために、あとで揉める方が高くつきます」


海王会長は初めて声を出して笑った。


***


その晩、大虎は愛菜と食事をした。


「一店舗目の写真、見たよ」


「二店舗目からも届いた。店主さんが、売り場を一番見やすい所にしてくれたって」


「よかったな」


「うん。でも発表会のお金の話は残ってる。明日も協賛してくれた会社と話す」


愛菜は箸を置いた。


「だいごくんは、海王の話どうなった?」


「会長と話した。まだ誰も株を売ると決めてない」


「そうなんだ」


「待てる。返事を急がせたくない」


愛菜は目を細めた。


「だいごくん、意外と気が長いよね」


「君の服ができるのも待てるしな」


「それは忘れて」


「無理」


二人が笑ったところで、大虎の携帯が震えた。


大株主三社のうち、一社からの返事だった。


『持ち株の売却を検討します。ただし、冬彦氏が経営に残るなら応じられません』


大虎は画面を伏せた。


誰かを会社から外す判断は、愛菜を守るための腹いせでは済まない。


海王自身が、冬彦に何を任せられるのか決めなければならなかった。


第54章 父の決裁


「カルソックに株を売るなら、冬彦さんを経営から外してほしい」


海王会長は、大株主から届いた文書を読んだ。


売却を検討する条件としては理解できる。だが、息子をどうするかを他社に決めさせる気はなかった。


会長は秘書を呼んだ。


「臨時の取締役会を開く。生地の通知と、誉グループへの払い込み延期。調査資料を、冬彦本人も含め全員に渡してくれ」


「カルソックからの提案は議題に入れますか」


「別にする。まず、うちの会社の問題だ」


***


取締役会で、冬彦は二通目の出荷停止通知について話した。


「同じ工場で染めた生地だった。愛菜の服に問題が出たら困ると思ったんです」


品質管理の責任者が尋ねる。


「でしたら、なぜ私たちに検査を依頼しなかったんですか」


「急いでいたから」


「愛菜さんの名前を指定した根拠は?」


「彼女の会社の服が対象だったからだ」


「通知には、他の生地まで止めるよう書かれています。試験結果も添付されていません」


冬彦は唇を結んだ。


続いて経理責任者が、誉グループへの二十億円を留めた経緯を説明した。事業計画を見直すという名目だったが、必要な決裁は経ていなかった。


「会社には払い込める資金がありました。延期を決めたのは冬彦さんの部門です」


「誉から条件変更の返事をもらうまで、待つつもりだった」


「過半数の出資比率を求めた提案ですね」


冬彦は父を見た。


「会社のためでもある。誉を傘下にできたら、海王の物流も広がる」


「愛菜さんが君との結婚を断ったことと、無関係だと言えるか」


父の問いに、冬彦は答えなかった。


***


二時間後、決議がまとまった。


冬彦は担当事業の決裁権を失い、取締役の職務も停止する。正式に取締役を退くかは、必要な手続きと調査を経て決める。生地の仕入れ先と誉グループには、会社として経緯を説明する。


冬彦は議事録を見た。


「僕を追い出せば、カルソックが助けてくれるとでも?」


「カルソックが来る前から、お前の出した文書を調べていた」


父は息子の目を見た。


「株の話は別だ。これは、お前に任せた仕事の結果だよ」


冬彦は椅子を引いた。


「分かった。好きにすればいい」


扉が閉まるまで、父は追いかけなかった。


***


その頃、愛菜は発表会の協賛企業と話していた。


会場で中断したため、当初予定した宣伝を全て届けられたわけではない。返すべき費用と、別の方法で実施できる仕事を、一社ずつ決めていく。


「小さな試着会の映像を、追加でご紹介いただけるなら」


担当者が言った。


「できます。ただ、私たちが撮った映像と、出演した方の許可を確認してからお渡しします」


「それでお願いします」


全ての損失が消えるわけではない。けれど、一つ話すたびに、まだ終わっていない仕事の形が見えてくる。


休憩中、愛菜は大虎へ電話した。


「今日は一社、条件がまとまったよ」


「よかった。こっちも海王の取締役会から正式な連絡が来た」


大虎は決議の内容を伝えた。


「冬彦さんを外したの、だいごくんの条件?」


「違う。海王が調査して決めた。一社の株主は売却の条件にしていたけど、俺から要求はしてない」


「そっか……お父さんにはつらい決断だったろうね」


「ああ」


愛菜は電話を切った後、亡くしたはずの自分の居場所を思った。父との関係は、戻らない部分もある。それでも話せるようになった。


冬彦と海王会長にも、いつか話せる日が来るのだろうか。


***


夜、大虎の机に二社から返事が届いた。


一社は売却協議へ進む。もう一社は、取締役会の決議を見てから条件を検討すると言う。海王会長からも、保有株について正式に評価を依頼したいとの連絡があった。


まだ過半数には届かない。だが、誰も強いられずに、話が前へ進んでいた。


その頃、冬彦は車の中で一件の番号を呼び出した。


画面に表示された名前は、西条。


「もしもし。君が言っていた、大虎の話をしよう」


第55章 同じ舟


西条は電話越しに笑わなかった。


「会う場所を送る。君の家の人間にも、うちの人間にも知られたくない話だろう」


一時間後、冬彦はホテルの小さな会議室にいた。西条の隣には、見覚えのない男が座っている。


「佐伯です。資金の相談を受けています」


男はそう名乗って名刺を差し出した。会社名は東辰キャピタル。冬彦の知る大手金融機関ではなかった。


「先に言っておく。僕はもう、海王の金を動かせない」


「聞いているよ」


西条は紙の上に、海王の大株主三社の名前を書いた。


「まだ、どこもカルソックに株を売っていない。先に買えば、大虎の計算は狂う」


「買う金は?」


「佐伯さんが短期の資金を用意できる」


佐伯は数字を書いた資料を冬彦の前に滑らせた。金利、返済期限、担保の欄がある。担保に挙げられているのは、冬彦が個人で持つ海王株と、不動産だった。


「こんな条件で借りろと?」


「株主が応じて、買い手としての信用が確認できた場合の案です。まだ契約ではありません」


佐伯の声は静かだった。


「西条さんからは、条家もこの計画を支えると伺っています」


冬彦は西条を見た。


「一族に話したのか」


「これから話す。まず僕らの方針を固めたい」


佐伯はペンを置いた。


「では、条家の正式な承認をいただいてから、次の審査に進みます」


西条は笑顔を崩さなかったが、資料の端を押さえる指に力が入った。


***


佐伯が席を外すと、西条は声を落とした。


「金だけで勝つ必要はない。大虎は三年間、ゆみの会社に名前を伏せて金を入れていたんだろう」


「それがどうした」


「愛菜さんが知れば、元恋人の事業を裏から支えていた男をどう思うかな」


冬彦は鼻で笑った。


「愛菜は大虎の正体を知っている。そんな話で離れる女じゃない」


「だったら、発表会の損失の話は? 恋人が世界一の金持ちなのに、協賛企業へ返金の相談をしている。見せ方はいくらでもある」


「愛菜の仕事に触るな」


思わず出た言葉に、冬彦自身が驚いた。


西条が眉を上げる。


「君はまだ彼女の味方なのか」


「違う。彼女を利用して大虎を叩けば、僕のところにも戻ってこなくなる」


「……正直だね」


冬彦は資料を閉じた。愛菜のことを言い訳にした自分の声が、耳に残る。彼女を困らせたのは、自分だった。


「株の話だけにしろ」


「分かったよ」


西条はうなずいた。だが、その手元の携帯には、ゆみの店の新店計画書が開かれたままだった。


***


翌朝、愛菜は小さな試着会の会場を見て回っていた。


発表会のような大きな舞台はない。客が鏡の前で服を着て、店員と話せる部屋を二つ借りた。協賛企業への代替企画として提案するため、会場費と撮影費を一つずつ確認する。


「前より地味かな」


スタッフが言うと、愛菜は首を振った。


「服を着た人の顔が、前より近くで見えるよ」


その場で決められない費用には印を付けた。誰かが勝手に穴埋めしてくれる前提にはしない。


***


カルソックの会議室で、大虎は海王株の評価資料を読み終えた。


秘書が新しい報告を置く。


「大株主の一社に、別の買い手から面会の申し込みがありました。先方が当社にも知らせてくれたそうです」


「誰だ」


「窓口は西条氏。冬彦氏も同席を希望しています」


大虎は少しだけ目を細めた。


「その株主の判断だ。会うなとは言わない」


「資金の出どころも調べますか」


「こちらが交渉する相手の信用を確かめる範囲で。先回りして邪魔はするな」


秘書はうなずき、別の書類に目を落とした。


そこには、西条が相談を持ち込んだ資金会社の名があった。


「東辰キャピタル……」


大虎は書類を受け取らなかった。


「分かってる」


それだけ言って、愛菜から届いた試着会の会場写真を開いた。


秘書は会社名をもう一度見た。東辰の事業を後見している人物の名を、秘書も知っていた。


本城圭一。


第56章 値札の裏


「カルソックより高く買います」


西条の言葉を聞いても、海王の大株主は資料を開かなかった。


「金額はまだ聞いていません」


「では、なぜ面会を?」


「誰が買い、買った後にどう経営するか。それを聞くためです」


冬彦は身を乗り出した。


「私が海王の事業を知っています。港の現場も、海外の物流網も」


「取締役会から職務を止められた理由も、ご自身で説明いただけますか」


冬彦の動きが止まる。


「調査はまだ終わっていません」


「だからこそ、待ちたいんです」


株主の代表は、西条に向き直った。


「資金の裏付けはありますか」


「条家の支援を得ます」


「得ましたか」


「これから正式な手続きを」


「でしたら、今日はお申し出として預かります。売却の返事はできません」


西条は笑みを保った。だが、帰りの車に乗るなり、ネクタイを緩めた。


「カルソックの名前だけで、あっちに傾いてる」


「違う」


冬彦は窓の外を見た。


「向こうは僕が海王の人間だった時から株を持っている。僕が何をしたか知りたいんだ」


言ってから、父に問われたことを思い出した。愛菜との結婚を断られたことと、会社の金を留めたことは無関係なのか。あの時、答えられなかった。


西条が携帯を取り出す。


「なら、別の持ち株を探す。買えるところから買えばいい」


「条家の承認は?」


「説得するさ」


冬彦は返事をしなかった。


***


東辰キャピタルの会議室で、佐伯は面談の報告を本城圭一に渡した。


「株主から売却の約束は取れていません。条家の支援も未承認です」


「その状態なら、貸付の判断はできないな」


本城は短く答えた。


「冬彦さんは個人資産を差し出す意向のようです」


「意向と契約は別だ。評価を取れ。借りた後、どう返すかも聞け」


「承知しました」


佐伯は資料の余白に、ゆみの会社の名前を書いた。


「西条さんから、こちらの新店事業も収益計画に組み込みたいと」


「本人は承諾しているのか」


「確認できていません」


「なら消しておけ。他人の会社を、勝手に返済原資にするな」


佐伯は線を引いて名前を消した。


本城が席を立つと、佐伯はためらいがちに尋ねた。


「大虎さんには、この件を?」


「取引の事実は伝えてある。融資するかどうかは、お前たちの審査だ」


本城は扉の前で振り返った。


「俺の名前で審査を通すなよ。断る時も同じだ」


佐伯は深くうなずいた。


***


夕方、ゆみは店じまいの前に在庫表を見直していた。発注を小さく刻み、売れ残りを増やさない。大虎がいなくなってから、間違えながら覚えたやり方だった。


そこへ西条が来た。


「新店、もう一度考えてくれないか」


「会場の件が片づくまでは止めるって言ったよね」


「今回は別の場所だ。出店費用も僕が用意する」


「条件を紙で見せて」


「もちろん」


西条は薄い封筒を置いた。


ゆみは一枚目だけでなく、後ろの添付資料まで読んだ。途中に、聞き慣れない一文がある。


『対象事業から生じる将来債権について、別途指定する資金提供者への譲渡に協力する』


「これ、どういう意味?」


西条は一瞬だけ言葉を探した。


「資金を出す側に必要な手続きだよ。実際に何か取られるわけじゃない」


「誰が資金を出すの?」


「佐伯さんが手配してくれる」


ゆみは封筒を閉じた。


三年前なら、大虎に『これ読んで』と渡していたかもしれない。今は自分で、分からないものに印を付ける。


「持ち帰って、うちの顧問に見てもらう」


「僕を信用してない?」


「信用したいから、読んでるの」


西条は返す言葉を失った。


ゆみは資料を机に置いたまま、店の照明を一つ消した。


その時、西条の携帯が鳴った。画面には条家の本部からの着信が表示されている。


彼はゆみの前では出ず、店の外へ出た。


電話の向こうで、低い声が告げた。


「西条。海王の株を買うために、条家の名を使っているそうだな」


第57章 名前を借りた代償


西条は店のガラス越しに、書類を読み続けるゆみを見た。


「まだ買っていません。提案をしただけです」


「株主に『条家の支援を得る』と話したそうだな」


電話の主は、西の条家を取りまとめる伯父だった。


「これから承認をお願いするつもりでした」


「相談より先に名前を出したのか」


西条は黙った。


「条家は海王株の購入に資金を出さない。保証もしない。先方には、こちらから誤解を解く」


「そこまでしなくても――」


「投資したいなら、自分の名と自分の金でやれ」


通話が切れた。


西条は携帯を握ったまま、夜の通りに立っていた。これまで差し出せば扉が開いた名が、初めて自分の前で閉じられた。


店から出てきたゆみが、封筒を差し出す。


「これ、明日返事する。今夜はサインしない」


「分かった」


「顔色、悪いよ」


「家と少し揉めた」


「無理して新店の話、進めなくていいから」


西条は彼女を見た。心配してくれている。だからこそ、この話から手を引くという選択が、余計に屈辱的に思えた。


「大丈夫だ。君の店は、僕が大きくしてみせる」


「私の店だよ」


ゆみの返事は短かった。


***


翌日、冬彦は父に呼ばれた。


海王会長の机には、社内調査の追加報告が置かれていた。冬彦が出荷停止を求めた通知によって、関係のない生地まで出荷が遅れた取引先の一覧だ。


「相手に経緯を説明し、補償が必要なら会社で対応する」


「僕に払えと?」


「まず何が起きたか、お前自身の説明を聞く。責任の範囲はその後で決める」


父は資料を閉じた。


「それから、お前が西条と株主に会ったと聞いた」


「僕の持ち株は僕のものだ。誰と組むかも自由だろう」


「そうだ。ただし、海王を代表しているように話すな。今のお前に、その権限はない」


「カルソックに売るなら、いずれそうなる」


「売るかどうか、まだ決めていない」


冬彦は父を見た。


「大虎を信用するんだな。僕より」


「あの人には、持ち株の価格と会社の先を聞いている。お前には、お前が出した通知の理由を聞いている」


父の声は静かだった。


「話をすり替えずに答えてくれ」


冬彦は立ち上がった。扉に手を掛けたところで、父が言う。


「まだ、お前の答えを待っている」


「僕にはもう、ここに席がないんだろう」


返事を待たずに出て行った。


***


愛菜の試着会は、その週末に開かれた。


大虎は会場の入口で、届いた箱を一つ持ち上げる。


「それ、スタッフに頼んでいいのに」


「人が足りなさそうだったから」


「カルソックの会長に荷物を運ばせたって、あとで怒られない?」


「ここでは俺、だいごくんだろ」


愛菜は笑って、箱の行き先を指さした。


客が鏡の前で一着を羽織る。袖口を直した愛菜に、その人が言った。


「写真で見た時より、着るとずっと軽いですね」


「ありがとうございます。歩いてみてください」


客が部屋を一周した。愛菜の目は、売上表より先に、その足取りを追っている。


大虎は箱を置き、壁際からその姿を見た。


協賛企業への説明も、返済も、まだ残っている。だが愛菜は、自分の服を着た人の言葉を受け取っていた。


***


夕刻、東辰キャピタルに西条から連絡が入った。


「条家の支援は得られませんでした。私個人の資産で、審査をやり直してください」


佐伯は一拍置いた。


「冬彦さんにも、その条件をお伝えします。お二人別々の資産を、別々に評価します」


「いい。次に話せる株主がいる」


「売却の意思を確認できたら、資料をください」


電話を切った佐伯の机に、別の着信が入った。


冬彦からだった。


「僕の持ち株と家を、担保に入れる場合の額を知りたい」


「額を出す前に、返済の計画が必要です」


「株を買ってから考える」


「それでは貸せません」


しばらく沈黙があった。


「……なら、返済計画を作る。いつ会える?」


佐伯は日程を答えた。


冬彦はまだ何も借りていない。だがその夜、自宅の権利証を机に置き、初めてその家に値札を付けた。


第58章 小さな勝利


「配当金で返す計画になっていますが、直近の実績では利息にも足りません」


佐伯は冬彦の返済計画書に赤い線を引いた。


「カルソックが入れば海王の業績は上がる」


「あなたは、そのカルソックに株を渡さないために借りるんですよね」


冬彦は言葉に詰まった。


西条が横から口を挟む。


「なら、買った株を高く売ればいい」


「売れる相手と価格が決まっていない以上、返済原資には数えられません」


佐伯は計画書を二人に返した。


「現金で返せる道筋を作るか、借入額を下げてください」


冬彦は席を立たなかった。


「僕が持っている株の一部を売れば返せる。家の売却も、期限までに必要なら考える」


「その場合、海王株を買い増す意味は?」


「父が誰に会社を渡すか決める前に、僕にも発言権があると示せる」


佐伯は冬彦の顔を見た。


「それは借入の動機です。返済計画は、資産の評価が出てから組み直しましょう」


冬彦は書類を引き寄せた。頭ごなしに断られる方が、まだ楽だった。


***


西条が連れてきた売り手は、海王の古い個人株主だった。


持ち株は三パーセント。三社の大株主ほど大きくないが、冬彦にとっては、父に声を届けるための三パーセントだった。


「なぜ売るんですか」


冬彦が尋ねると、年配の株主は湯のみを置いた。


「家族のために現金が要る。だが、海王を恨んで売るわけじゃない」


「僕が買えば、海王は僕の手に戻ります」


「三パーセントで会社は戻らんよ」


その言葉に、西条が顔をしかめた。


株主は続けた。


「価格と支払いが確かなら、誰に売るかは自分で決める。君のお父さんとも長い付き合いだが、頼まれたから売らないという話でもない」


冬彦は深く頭を下げた。


「お願いします。条件は、きちんと書面にします」


「まず、金を用意することだ」


***


数日後、東辰キャピタルの審査を通ったのは、二人が最初に望んだ額よりずっと小さい融資だった。


西条の家の名前は保証に入らない。ゆみの店の売上も入らない。冬彦の持ち株と不動産の評価、西条が個人で用意する現金、その範囲で組んだ期限付きの契約だった。


佐伯は契約書の最終頁を開いた。


「株の取得ができなくても、既に借りた分の返済義務は消えません。担保は、期限に返せなかった時のためにあります。意味は分かっていますか」


「分かってる」


冬彦は答えた。


「家を売ることになっても?」


「そこまで行く前に、海王を取り戻す」


佐伯はペンを差し出さなかった。


「取り戻せなかった場合を考えてください」


冬彦は初めて佐伯と目を合わせた。


「その時は、僕の金で返す」


署名したのは、冬彦自身だった。西条も、自分の出資分について別の書面に名を記した。


***


売り手の株主との手続きが終わると、冬彦の携帯に保有数を示す通知が届いた。


「買えたな」


西条が笑った。


「たった三パーセントだ」


「ゼロよりは大きい。カルソックにも見せてやろう」


冬彦は画面を見つめた。父の会社に、まだ自分の席が残っているような気がした。


***


カルソックにも、株式の移動が正式な経路で伝わった。


「冬彦氏と西条氏の組成した会社が、三パーセントを取得しました」


秘書の報告に、大虎はうなずいた。


「売り手には事情があった。希望した条件で決まったなら、それでいい」


「海王会長の持ち株の評価も間もなく出ます」


「急がせるな」


大虎は机の写真を伏せずに置いた。愛菜の試着会で、客が笑いながら袖を広げている写真だ。


「勝ったつもりでいる間に、冬彦は何を借りたのかな」


秘書は答えなかった。


その夜、海王会長の元にも株式の移動が報告された。


冬彦に電話をかけようとして、父は指を止めた。


代わりに、まだ返事のない社内調査の質問書を机に置く。


株は買えた。


だが、父が待っている答えを、冬彦はまだ一つも買えていなかった。


第59章 誰が漏らした


試着会の翌朝、愛菜の会社に取材の電話が入った。


「カルソック会長とのご関係について確認したいのですが」


広報を兼ねる社員が、愛菜に受話器を渡した。


「何を確認したいんですか」


「発表会が中断した後も返金を求められずに済んでいるのは、会長の資金援助があるからだという話です」


「返金を求められていない、という前提が違います。協賛企業とは今も一社ずつ話し合っています」


「会長が代わりに払っている事実は?」


「ありません」


愛菜は手帳を開き、質問と自分の答えをそのまま書き留めた。


電話を切ると、社員が心配そうに言う。


「記事になったら、昨日来てくれたお客様も驚きますよね」


「うん。だから、私たちが確認できることを先にまとめよう。協賛企業との交渉内容は、相手の許可なく出さない」


愛菜は試着会の注文数と、当日掛かった費用の表を机に並べた。服の売上と協賛企業への返済は、別々に記録してある。


***


大虎が愛菜から電話を受けたのは、会議の直前だった。


「私と付き合ってること、隠してないよね」


「隠してない」


「なら、そこは答える。会社のお金については、帳簿と契約で答える」


「藤川さんからの融資の件は、先方と公開できる範囲を確認しよう」


「うん。だいごくんが代わりに声明を出さないでね」


大虎は少し笑った。


「社長の仕事を取ると怒られるからな」


「怒るよ。かなり」


通話が切れた後、大虎の表情が変わった。


秘書に、取材で示された情報を確認するよう頼む。ただし愛菜の会社や取引先から、無理に話を聞き出さないことも付け加えた。


***


西条の携帯には、その記者から礼の短いメッセージが届いていた。


『ご提供の背景情報を基に、当事者へ確認を始めました』


隣にいた冬彦が、画面を見た。


「お前、何を渡した」


「大虎の立場と、発表会の損失。それだけだよ」


「愛菜の会社の話じゃないか」


「記者が自分で取材する。僕が記事を書くわけじゃない」


「株の話だけにしろと言った」


「三パーセント買って満足したのか? 残りの株主がカルソックに売れば、君の家まで担保に入れた意味がなくなる」


冬彦は西条を睨んだ。


「あいつの会社を傷つけてまで勝ちたいわけじゃない」


「なら、僕との会社を抜ければいい。借金と買った株をどうするか、佐伯さんと相談しなよ」


冬彦は立ち上がったが、出て行けなかった。


西条は携帯を伏せた。


その沈黙を、同意と受け取った。


***


夕方、愛菜の会社は取材への回答を文書で送った。


大虎との交際は事実。だが、会社の赤字や協賛契約の負担を大虎個人またはカルソックが肩代わりした事実はない。中断した発表会については、相手ごとに履行と精算を協議している。


愛菜は最後の一文を、自分で書いた。


『私たちの服を選んでくださった方への仕事は、今後も私たちの責任で続けます』


送信してすぐ、試着会で注文をくれた店から連絡が来た。


「記事が出る前に聞いておきたかったんです。納品、予定どおりできますか」


「できます。明日、進行表を送ります」


「なら、待っています」


愛菜は机に手をついた。一つずつ答えれば、仕事はまだ進む。


***


夜、大虎の秘書が取材の経緯を持ってきた。


記者は情報を提供した人物を明かさなかった。ただ、カルソックへの質問と同じ文面の取材依頼が、条家本部にも送られている。


「取材元を追いますか」


「愛菜ちゃんの回答はもう出た。記事を見て、事実と違うところがあれば対応する」


大虎は資料を閉じた。


「冬彦には、一度だけ直接聞く」


「何をですか」


「愛菜の仕事に、どこまで関わったのか」


同じ頃、冬彦の携帯に大虎から着信が入った。


画面が暗くなるまで、冬彦は出なかった。


着信が途切れると、今度は父から短いメッセージが届いた。


『調査への回答期限は明日だ。お前の言葉で答えてほしい』


冬彦は二つの名前を見つめた。


どちらにも、まだ返事をしていなかった。


第60章 返事をする夜


冬彦は大虎にかけ直した。


呼び出し音は一度で止まる。


「愛菜の会社への取材の件か」


「ああ。西条が記者に話した。僕は事前には知らなかった」


「知った後は?」


冬彦は窓に映る自分の顔を見た。


「止めろと言った。でも、取材は始まっていた」


「西条とは、まだ一緒に株を持っているな」


「そうだ」


「じゃあ、知らなかっただけで終わる話じゃない」


大虎の声は荒くなかった。その方が、冬彦には答えにくかった。


「愛菜は自分で取材に答えた。俺が代わりに解決するつもりはない。ただ、お前が西条を止めると言うなら、今度は言葉だけで済ませるな」


「僕に株を売れって言いたいのか」


「それを決めるのはお前だ。西条と何を一緒にやるかもな」


通話はそこで終わった。


冬彦は携帯を下ろした。責められる覚悟はしていた。選べと言われる覚悟は、していなかった。


***


翌朝、記者の記事が公開された。


見出しは『世界最大企業会長の恋人、発表会中断後の資金を語る』。本文には愛菜の回答も載っていたが、冒頭には、会長との交際で事業が救われたのではないかという疑問が置かれている。


愛菜は社員と一緒に、記事を最後まで読んだ。


「『会長が損失を肩代わりした事実はない』とも書いてあるね」


「でも見出しだけで連絡してくる人、いそうです」


「そうだね。注文先には、納期と窓口をもう一度送ろう」


協賛企業の一社からは、追加の試着会映像の公開を、状況が落ち着くまで待ちたいと連絡があった。


「了承します。ただ、費用の精算については予定どおり話し合いたいです」


愛菜は返信した。映像の公開が遅れれば、代替企画として認めてもらえる時期も遅れる。痛くないふりはできなかった。


大虎に電話をかけたくなったが、机の上の注文書を見て、まず取引先に納期を伝えた。


***


冬彦は海王の調査室に入った。


父と、調査を担当する社員二人が待っている。


「遅くなりました」


冬彦は用意した回答書を差し出した。


二通目の通知には品質試験の裏付けがなかったこと。出荷停止の範囲を広げるよう指示したこと。誉グループへの二十億円の払い込みを、正式な承認なく遅らせたこと。


「なぜ、愛菜さんの名前を入れた」


父が尋ねた。


「愛菜に結婚を断られた後、彼女の仕事だけが順調に見えた。危険を確かめるより先に、止めたいと思った」


「それを品質管理の問題として通したのか」


「……はい」


言い終えると、部屋が静かになった。


父は書面に目を落とした。


「話してくれてありがとう。だが、答えたから責任が消えるわけではない。取引先への説明に同席してもらう」


「分かってる」


「もう一つ。西条と買った株は、お前個人の話だ。調査への協力と交換にはしない」


冬彦はうなずいた。父がほしかったのは、三パーセントを差し出すことではなかった。


***


その夜、西条から冬彦に電話があった。


「記事、見ただろう。会長との関係がもっと知られれば、株主も考え直す」


「愛菜に関する情報を、これ以上記者に渡すな」


「一緒に会社を作った仲だ。命令される筋合いはない」


「なら、共同事業の資料を全部見せてくれ。誰に何を渡したかも」


西条は笑った。


「疑ってるのか」


「今はな」


電話の向こうで、紙をめくる音がした。


「明日、佐伯さんのところで会おう。資金の話もある」


「資金?」


「次の株を買うには、今の契約じゃ足りない」


冬彦は机の上の権利証を見た。


父にはようやく本当のことを話せた。


西条にはまだ、一番聞かなければならないことが残っている。


「その前に答えろ。ゆみさんの店を、返済に使うつもりなのか」


西条は、すぐには答えなかった。


第61章 借りた名前


「使えれば、と思った」


西条は電話の向こうで言った。


「使えれば?」


「新店が軌道に乗れば収益が出る。ゆみも得をする」


「本人は承知しているのか」


「契約書を渡した。今、確認してもらってる」


冬彦は目を閉じた。


「まだ承諾してないんだな」


「なら、承諾を待てばいいだろう」


「お前、彼女の店を僕らの借金の返済計画に書いたのか」


「佐伯さんから、その数字は使えないと戻されたよ」


事実を隠してはいなかった。だが、先に資金計画へ名前を載せてから本人に契約を渡したことを、西条は悪いと思っていないらしい。


「明日、僕も佐伯さんに確認する」


「好きにすればいい」


通話が切れた。


***


翌朝、冬彦は東辰キャピタルで佐伯と向き合った。


「ゆみさんの会社が、返済計画に入っていますか」


「いいえ。正式な融資審査からは除いています。ご本人の承諾もない」


「西条は、次の株も買うと言っています」


「売り手と返済原資を確認できるまで、追加の貸付はしません。先に実行した融資の返済日も、契約どおりです」


「僕が共同事業から抜ける場合は?」


佐伯はすぐには答えなかった。


「株の持ち分をどう処分するか、共同事業の契約を見なければ言えません。ただし、あなた個人の借入は、退くと決めただけでは消えません」


冬彦はうなずいた。


その説明を聞いた後で、なお西条の横に立つなら、選んでいるのは自分だ。


***


同じ日の午後、本城圭一は藤川誠一郎とともに、山王会本部の一室にいた。


神宮寺は東辰キャピタルの報告書を読み、顔を上げた。


「圭一、お前の関わる会社だな」


「ああ。融資は担保と返済計画を見て決めた。大虎から口は挟まれてない」


「西条の名も、海王の息子の名も、審査の代わりにはならん」


誠一郎が資料の端を指でたたいた。


「大虎が海王株を買おうとしている。それと、こっちの貸付は別だ。俺たちの都合で返済を免じても、逆に追い込んでも、筋が通らない」


神宮寺は短く笑った。


「お前ら二人に、そんな講釈をする日が来るとはな」


圭一も笑った。


「大虎には昔から、耳に痛いことを言われてきたからな」


神宮寺は報告書を閉じた。


「契約は契約だ。東辰の担当者には、誰の顔も見るなと伝えろ」


「もう伝えてある」


「相変わらず早いな」


三人とも、大虎が後見から手を引けば、自分たちの事業の多くが立ち行かなくなると知っている。だからこそ、大虎の名前を勝手に使って商売するわけにはいかなかった。


***


ゆみの顧問は、新店契約の資料に付箋を二枚付けて返した。


「売上債権を第三者に渡す条項は、このままでは受けられません。しかも、相手が誰か空欄です」


「やっぱりそうだよね」


「出店費用を西条さんが出す話と、あなたの会社が将来の売上を担保に出す話は、別です」


ゆみは頷いた。西条に頼らずに店を回せたら、どれほど楽だろう。だが、仕入れの支払日が近づくたび、手元資金が薄くなるのも事実だった。


西条へ、問題の条項を削らなければ契約しないと伝えた。


返事はすぐに来た。


『分かった。削る。ゆみの会社には負担をかけない』


ゆみは画面を見つめた。彼を信じたい気持ちは、まだ残っていた。


***


その夕方、海王会長は大虎に評価書を見せた。


外部に依頼した持ち株の評価と、カルソック側が示した算定には差があった。二人は倉庫事業の将来利益と借入の見込みを、一項目ずつ確かめる。


「これなら、私も他の株主に理由を説明できる」


会長は書類を閉じた。


「私の持ち株は、あなたに売る方向で進めたい。ただし、社員への説明と銀行の審査を先にする」


「分かりました。契約前に必要なことを揃えましょう」


「冬彦の三パーセントは気にならないのか」


「本人の株です。買ったことより、借りた金を何で返すつもりかの方が気になります」


会長は小さく息を吐いた。


「私もだ」


そこへ会長の秘書が入ってきた。


「会長、冬彦様から、社員と取引先への説明に同席したいと連絡がありました」


父はすぐに答えなかった。


息子がようやく会社に戻ってくる。


それが謝罪のためなのか、まだ自分の席を探すためなのか。会って聞くしかなかった。


第62章 戻れない席


会議室に入ってきた冬彦は、父より先に品質管理の責任者へ頭を下げた。


「検査結果を待たずに通知を出しました。あなたの部署に確認もせず、判断を押しつけました」


責任者はすぐには答えなかった。


「現場の人間は、止めた理由を取引先に説明できずに困りました」


「はい」


「私たちが知りたいのは、誰が悪かったかだけではありません。次は、同じことをどう防ぐかです」


冬彦は父を見なかった。


「通知を出した部門が、品質管理の承認なしに生産分を広げられないようにしてください。僕のような立場の者が急げと言っても」


父はうなずき、同席した社員に記録を頼んだ。


***


午後、出荷を遅らされた仕入れ先との説明が始まった。


先方の担当者は、冬彦が差し出した書面を読み終えると、手元の予定表を開いた。


「うちも工場も、二日止めた分の人員を組み直しています。謝っていただけるのは分かります。でも、来週の納品は誰が守るんですか」


「海王が責任を持ちます」


父が答えた。


「追加の検査結果と、生産の振り替え予定を本日中にお渡しします。費用については実績を確認して協議させてください」


冬彦は頭を下げた。


「僕が根拠のない範囲まで止めました。申し訳ありません」


先方は「分かりました」とだけ言った。許されたわけではない。翌週の生地が届くまで、仕事は終わらない。


廊下に出ると、冬彦は壁にもたれた。


「父さん。これで僕は会社に戻れるのか」


「今決めることではない」


「いつ決まる」


「調査を終え、損害を確かめてからだ。お前の謝罪を復職の条件にはしない」


冬彦は笑いかけて、やめた。


***


海王会長は、その日のうちに幹部社員を集めた。


事業の継続、銀行への説明、独立した品質判断の仕組み。そして、個人で持つ株についてカルソックと売却協議を始めたことを伝える。


冬彦は廊下の先から、その会議室を見た。呼ばれていない。だが扉の隙間から、父の声だけは聞こえた。


「私の持ち株をどうするかで、社員の仕事が急に変わらないようにする。具体的な条件は決まってから説明する」


父が嘘をついていないことは、冬彦にも分かった。


それでも、廊下に立つ自分の足元だけが冷えた。


***


西条は冬彦の話を聞き、呆れた顔をした。


「株を売ると社員に話した? 父親が自分でカルソックを招き入れたんじゃないか」


「正式に決まったわけじゃない」


「決まる前に、僕らが次の株を取る」


「追加の融資は出ない。佐伯さんに確認した」


「別の金を探す」


「ゆみさんの店には触るな」


西条は肩をすくめた。


「あの条項は削ったよ。本人が納得する条件で新店を出す。それなら問題ないだろ」


「愛菜の話を記者にしたことは?」


「もう済んだ話だ」


冬彦は携帯を取り出した。


「共同事業をやめたい。僕の借金は僕で返す。買った株の扱いを決めよう」


西条の表情が変わった。


「君が抜けたら、誰が次の株主を説得する?」


「それは僕の責任じゃない」


「三パーセントを売るには、二人の承認が要る。共同保有会社を作る時、一緒に決めただろ」


冬彦はうなずいた。知っていて署名した条項だ。


「だから協議を申し込んでる」


「カルソックに売るなら承認しないよ」


「まだ売り先は決めてない」


「だったら、僕との会社にいればいい」


西条の言葉には、もう友人を引き留める響きがなかった。


冬彦は椅子を立つ。


「明日までに返事をくれ。株をどうするか話し合えないなら、代理人を立てる」


「好きにすれば」


部屋を出た冬彦の携帯が震えた。


東辰キャピタルから、次回の返済予定を知らせる通知だった。


会社に戻る道と、西条から離れる道。


どちらも、頭を下げただけでは開かなかった。


第63章 別々の署名


約束した翌日になっても、西条から返事は来なかった。


冬彦は弁護士に、共同保有会社の契約書と東辰キャピタルの借入書類を見せた。


「西条と事業を分けたい。株も、借金も」


弁護士は二つの書類を別々に置いた。


「会社の持ち株については、相手との協議が必要です。あなた個人の借入は、共同事業をやめても残ります」


「分かっています。自分の分は返す」


「買った三パーセントを売却するか、一方がもう一方の持ち分を買い取るか。まず価格の出し方と期限を提案しましょう」


「西条が拒んだら?」


「それでも、何を求めたか書面に残せます。契約に沿って次の手続きを検討します」


冬彦は頷いた。昨日までなら、大虎に負けたと思って、この部屋に来なかっただろう。


「送ってください。僕の名前で」


***


ゆみの事務所には、修正された新店契約書が届いていた。


問題だった将来債権の譲渡条項は消えている。顧問もそこは確認した。


「ただ、初回に並べる商品は二千着。ゆみさんの会社が製造し、売れ残りも引き取る条件です」


「新店に並べる分だから」


「西条さんの会社が出すのは店舗の費用です。商品を作る資金は、こちらで用意します。売れる前に支払いが来ますよ」


ゆみは生地と縫製の見積書を見た。二千着を作れば、今の取引先への支払いと重なる月がある。


「最初は半分にする」


「それなら、資金繰りを組めます」


ゆみは西条に電話した。


「千着から始めたい。売れたら追加する」


「棚が寂しくならないかな」


「棚を埋めるために在庫を抱えるわけにはいかないよ」


しばらくして、西条が折れた。


「分かった。千着で始めよう。足りなくなったら、その時は僕も手伝う」


ゆみはほっとした。前の契約より安全になった。そう思ったからこそ、出店を決めた。


電話を切った西条は、手元の売上予測表に付けていた『二千着』を消した。別の欄には、新店の開店予定日が残っている。


***


誉グループの役員会では、カルソックから示された百億円の出資案が検討されていた。


海王からの二十億円は契約どおりに入る。それでも、資金を一社に頼り切る状態を変えたいという父の考えは変わらない。


「百億円を一度に使い切る計画ではないんですね」


経理責任者が確認した。


「設備投資、物流拠点、既存の借入の整理。用途ごとに実行時期を決める。株式の評価と、どこまで経営に関わってもらうかも協議する」


父は役員たちを見た。


「カルソックだから安心、というだけで決めたくない。海王の時と同じ依存を作れば意味がない」


役員の一人が頷いた。


「条件を詰めるための意向書なら、進めましょう」


父は愛菜に、役員会の結果だけを伝えた。


『百億円の案、協議を続けることにした。私たちで計画を作る』


愛菜から返事が来る。


『うん。パパたちの会社だもん。いい仕事してね』


父は笑い、机の上の事業計画書をもう一度開いた。


***


夕方、西条は二通の書類を受け取った。


一通は、ゆみが署名した千着からの新店契約。もう一通は、冬彦の代理人から届いた共同事業の解消協議の申し入れだった。


西条はゆみの署名に指を置いた。


「手に入ったと思った方から、先に離れていく」


佐伯から着信が入る。


「共同事業の解消について、冬彦さんからも相談を受けています。融資の返済期日は変わりません」


「分かっています」


「新店の契約は、株の借入と混ぜないでください」


「もちろん」


西条は電話を切り、二通の書類を同じ鞄に入れた。


紙の上では別々の事業だった。


だが西条は、どちらか一方が思うように進まなければ、もう一方で取り返すつもりでいた。


そこへ新店の貸主から、保証金の振込期限を知らせるメールが届く。期限は明日。


西条は自分の口座を開いた。冬彦と株を買う時に出した金が、まだ戻っていない。約束した保証金には足りなかった。


「先に店を開ければいい」


誰もいない部屋でそう言って、別の番号を押した。


第64章 最後に頼る相手


「珍しいな」


電話に出た大虎の声を聞き、西条は背筋を伸ばした。


「お話ししたいことがあります」


「電話で聞く」


「ゆみの新店の件です。店舗の保証金を一時的に立て替えていただけませんか」


大虎はすぐには答えなかった。


西条は続ける。


「明日が期限なんです。開店が遅れれば、彼女の商品も行き場を失います。あなたも、彼女の店を支えていたそうですね」


「ゆみには、金が足りないと話したのか」


「心配を掛けたくなくて」


「君が借りたい金だ。まず、君が説明する相手だろ」


「彼女を見捨てるんですか」


「君との契約を決めたのは、ゆみだ。俺が裏から金を入れたら、彼女は店の本当の負担を知らずに進んでしまう」


西条は窓の外を見た。


「随分、冷たいんですね」


「俺にそう言って構わない。だが明日の期限は、ゆみに隠すな」


通話が切れた。


大虎は秘書を呼ばなかった。三年間、ゆみの会社を支えた時、自分もまた金の出どころを伏せていた。そのことを棚に上げて、西条だけを責める気にはなれない。


ただ、別れた後も彼女の判断を奪う形で金を出すことは、もうしたくなかった。


***


翌朝、ゆみは西条からの説明を聞いた。


「昨日になって、保証金が足りないと分かったの?」


「海王の株に出した僕の金が、まだ戻せない。店の費用は出すつもりだった」


「『出すつもり』で契約したんだね」


西条は反論できなかった。


ゆみは仕入れ先への振込予定を開いた。千着分の発注準備は進めている。店を諦めれば、予定を組み直せる。それも簡単ではないが、今ならまだ止められる。


「貸主には、今日中に事情を話して。延ばせないなら出店は延期する」


「ここを逃したら、同じ場所は取れないかもしれない」


「私の会社の金を無理に出してまで取る場所なら、最初から高すぎるよ」


西条は椅子の背に手を掛けた。


「大虎にも頼んだ。断られたよ」


ゆみの手が止まった。


「どうして、だいちゃんに?」


「三年間、君を支えていたから。店が止まるなら助けると思った」


ゆみはゆっくり顔を上げた。


「私に言う前に?」


西条は答えなかった。


怒りより先に、恥ずかしさが来た。元恋人に、今の男から金の相談が届いたのだ。


「貸主に連絡して。私は顧問に、開店を延期する場合の費用を聞く」


***


貸主は二日だけ待つと言った。その先は、次の借り手と話を進める。


西条は電話を切り、ゆみに期限を伝えた。


「二日なら、どこかで用意できるかもしれない」


「どこから?」


「僕の持ち株を整理する」


「冬彦さんと買った株?」


ゆみは、西条からその名前を聞いていた。だが二人の共同事業が揉めているとは知らない。


「売れるの?」


「話し合いはしている」


「売れてから連絡して。私はまだ千着の製造を始めない」


西条はうなずいた。


ゆみが席を立つと、彼は鞄から冬彦の代理人の書面を取り出した。


持ち分の買い取りか、共同での売却。どちらを選んでも、現金と冬彦の同意が要る。今すぐ保証金に変えられる紙ではなかった。


***


その夜、愛菜は大虎の家で、試着会の写真を選んでいた。


「これ、袖がちゃんと見える。こっちの写真は、お客さんの表情がいい」


「本人の掲載許可は?」


「取ったよ。だいごくん、また仕事の顔になってる」


大虎は笑った。


「今日は、ゆみの店のことで西条から電話があった」


愛菜は写真から顔を上げた。


大虎は保証金の話と、断ったことを隠さず伝えた。


「心配?」


「少しな。けど俺が払ってしまえば、本人はまた大事なことを知らないままになる」


愛菜は隣に座った。


「ゆみさん、自分で西条さんに聞ける人だと思うよ」


「そうだといい」


「それと、私には最初に話してくれて、ありがと」


大虎は彼女の手を握った。


***


翌朝、西条に二通の返事が届いた。


冬彦の代理人からは、持ち株の売却協議を予定どおり進めたいという通知。


条家本部からは、条家の名を使った新たな借入や保証を一切認めないという通知だった。


保証金の期限まで、あと一日。


西条は二通を並べ、ゆみの番号を開いた。


だが発信ボタンを押す前に、別の着信が入った。


表示された名前は、本城圭一。


第65章 名前の値段


「西条さん、俺の名前を誰に話した」


本城の第一声に、西条は携帯を持ち直した。


「東辰キャピタルの件でしょうか」


「新店の貸主だ。『本城が資金を手当てする』と聞いたそうだ」


西条は昨夜の電話を思い出した。保証金の猶予を求めるうち、東辰の後ろにいる本城の名を出した。


「融資先としてお付き合いがあると説明しただけで……」


「東辰がお前に貸したのは海王株の分だ。新店の保証金について、俺は何も約束していない」


「誤解を招いたなら、訂正します」


「貸主本人に、今日中に書面で伝えろ。佐伯にも写しを送れ」


「分かりました」


本城は声を荒らげなかった。


「条家にも断られたそうだな。次は俺の名を使えば通ると考えたのか」


西条は返事ができなかった。


「自分で払えない話を、人の名前で進めるな」


電話が切れた。


西条は机に置いた二通の通知を見た。条家の名も、本城の名も、もう使えない。


***


貸主への訂正を送ると、すぐに返信が来た。


『保証金の入金が確認できない場合、予定どおり次の申込者へ案内します』


西条はゆみを呼んだ。今度は先に、貸主とのやり取りをすべて見せる。


「本城さんも、保証人じゃなかったんだね」


「そうだ。名前を出したのは僕の間違いだ」


「店、諦めよう」


ゆみが言うと、西条はうつむいた。


「君のために探した場所なのに」


「だからって、誰かの名前で借りるのは違うよ」


ゆみは立ち上がり、窓から通りを見た。


その場所は、一度だけ見に行った。通行人が多く、棚を道路から見通せる。自分の服を置いたところまで想像できた。


「もし私の会社が直接借りるなら、貸主は話を聞いてくれるかな」


「ゆみが保証金を出すのか?」


「決めたわけじゃない。家賃も、手元に残る金も、全部計算してから」


西条は「分かった」と答えた。諦めたはずの店が、もう一度目の前に現れた。


***


ゆみの顧問は、事務所の机に三枚の表を並べた。


今の店の毎月の支払い。千着を作る費用。新店をゆみの会社で借りた場合の保証金と家賃。


「開けられない額ではありません。でも、売上が予想より遅れた時の余裕は小さいです」


「何か月持つ?」


「今の数字なら、既存店が予定どおり売れて三か月。新店の立ち上げ費用が増えれば、もっと短くなります」


ゆみは指で表を追った。


大虎と暮らしていた頃、資金繰りの悪い月には、なぜか大口の注文が入り、支払いが間に合った。偶然だと思っていた。今は、その偶然の一部が、彼の働きかけだったと知っている。


「だいちゃんがいなくても、回せる会社にしたい」


「そのために新店が必要かどうかです」


顧問の言葉を聞いても、ゆみはすぐに答えられなかった。


***


同じ頃、大虎は海王の取引銀行と面談していた。


銀行は、カルソックによる株式取得そのものより、取得後の経営体制と既存の借入をどう扱うかを確かめた。


「品質管理の決裁を独立させる案と、事業別の資金計画を提出します」


大虎は用意した資料を渡した。


「海王会長が退く前提ですか」


「いいえ。会長の経験が必要です。役割はご本人と取締役会で話し合います」


銀行の担当者は、持ち帰って審査すると答えた。


帰り際、大虎の携帯に愛菜から写真が届いた。試着会で注文された服の最初の発送箱が並んでいる。


『一着ずつ、ちゃんと出すよ』


大虎は写真に返した。


『俺も、約束した順番で進める』


***


夕方、ゆみは貸主に電話をかけた。


「借り手を、私の会社に変更する場合の条件を教えてください」


貸主は本人名義なら審査し直すと言った。西条の申し込みで押さえていた期限は延びない。


「今夜中に答えます」


電話を切ると、ゆみは顧問が作った表と、店の写真を並べた。


安全な方へ戻ることもできる。


だが、彼女が目を離せなかったのは、写真の中の、まだ何も並んでいない棚だった。


第66章 空の棚を埋める人


「借ります」


翌朝、ゆみは貸主にそう伝えた。


「契約するのは、私の会社です。西条さんの会社は借り手にも保証人にも入れません」


貸主はゆみの会社の決算書と、既存店の売上を確認した。保証金の入金が間に合うことを条件に、契約を進めるという返事が来た。


ゆみは振込の前に、顧問ともう一度資金繰り表を見た。


「商品は千着から。売上が予定より遅ければ、追加発注はしない」


「家賃は、売れなくても毎月出ていきます」


「分かってる。三か月で結果が出なければ、縮小も考える」


顧問は頷いた。勧められるほど余裕のある計画ではない。それでも、ゆみは数字を見たうえで選んだ。


送金を終えた時、手が少し震えた。


大虎と暮らしていた三年間、店が伸びていくのは嬉しかった。けれど、自分の知らないところで支えられていたと知ってから、あの成功を自分だけのものと言えなくなった。


今度こそ自分で決めた。そう思いたかった。


***


「本当に借りたのか」


西条は空の店で、ゆみから契約の内容を聞いた。


「うん。ここに私の商品を並べる」


「僕は?」


「売り場の企画をお願いする。報酬は、契約で決めた販売実績に応じて払う」


西条は少し寂しそうに笑った。


「信用を失ったな」


「保証金のことで嘘をつかれた。すぐ元どおりにはならないよ」


「分かってる。棚を組むところから手伝わせて」


西条は上着を脱ぎ、搬入口の寸法を測った。ゆみが指定した棚の高さを一つずつメモする。頼まれれば働く姿に、ゆみは少しだけ安心した。


この人の仕事を見てから、また信じるか決めればいい。


***


海王の取引銀行から、大虎と海王会長へ回答が届いた。


提出された事業計画と新しい決裁の仕組みを前提に、既存の融資は続ける。個別の借り換えについては、株式取得後の取締役会と改めて協議する。


「これで、社員には次の段階を説明できる」


海王会長は、窓の外の港を見た。


大虎は、会長の保有する株の評価書をもう一度確認した。


「今の条件でよければ、契約を進めます。就業条件と取引先の契約を勝手に変えないことも、移行計画に書きます」


「頼む」


会長が差し出した手は、乾いていた。


「会社を売る決断だと思っていた。だが今は、社員に次の相手を紹介する気持ちだ」


大虎はその手を握った。


「紹介された以上、仕事で答えます」


***


その日、三社の大株主のうち最初の一社も、カルソックとの売却条件に合意した。


海王会長の二十七パーセントと、その会社の十四パーセント。手続きが終われば、カルソック側の持ち株は合わせて四十一パーセントになる。


「過半数までは、まだ十パーセント要りますね」


秘書が言う。


「残る株主の返事を待つ。四十一でも、海王の経営には大きな責任がある」


大虎は数字の下に、港の雇用と仕入れ先の一覧を置いた。


「百億円の誉への出資は、向こうの役員会の条件がまとまるまで別に進めてくれ」


「はい」


***


冬彦の携帯に、父から株の件で短い連絡が届いた。


『私の持ち株についてカルソックと合意した。社員へも説明する。先にお前へ伝えておく』


冬彦は返信を打ちかけた。


『僕が買った三パーセントは――』


そこまで書いて消した。父が売ったのは自分の株で、冬彦のものではない。


その時、西条から写真が送られてきた。


空の新店に、組み立て途中の棚が並んでいる。


『こっちは前に進んでる。君も早く戻ってこいよ』


冬彦は写真を閉じた。


自分が戻る場所は、もう西条の隣ではない。そう決めたはずだった。


だが、次の返済日までに三パーセントを現金に変える方法は、まだ見つかっていなかった。


第67章 五十三パーセント


「売却の返事をする前に、現場の人と話してもらえますか」


海王の二社目の大株主は、大虎にそう求めた。


その会社が持つのは十二パーセント。売却が決まれば、カルソック側は過半数に届く。


「会います」


大虎は港湾倉庫を訪ねた。


作業員の一人が、手袋を外さずに言った。


「買ったら、ここは閉めるんですか」


「今日その約束を軽くするために来たわけじゃない。倉庫ごとの収支と契約を確認して、続ける計画を作ります」


「赤字なら、俺たちはいらないと?」


「数字は隠さない。ただ、赤字の理由も見ずに人を切る判断はしない」


隣にいた海王会長が、大虎の方を見た。


作業員はもう一つ尋ねた。


「冬彦さんは戻るんですか」


「調査の結論と、会社の手続きで決めます。俺の好き嫌いで決めることじゃない」


作業員は手袋をはめ直した。


「なら、まず仕事を見てください。荷物は明日も来るんで」


「そうします」


大虎は案内され、港の一番奥にある古い荷捌き場まで歩いた。


***


数日後、二社目の株主から署名済みの契約が届いた。


海王会長の二十七パーセント、最初の大株主の十四パーセント、今回の十二パーセント。必要な手続きを終え、カルソック側の議決権は五十三パーセントになった。


秘書が報告すると、大虎は資料を閉じた。


「海王の取締役会には、銀行へ出した計画と同じものを提出する」


「報道向けの発表も準備しますか」


「先に、海王の社員と取引先へ伝える。今日から明日の荷物が変わるわけじゃないと、具体的に説明したい」


海王会長から電話が入った。


「あなたの会社になりましたな」


「これからは、一緒に仕事をする会社です」


「口が上手い」


「港で教わったばかりです。明日も荷物が来るそうなので」


電話の向こうで、会長が笑った。


***


夕方、大虎は愛菜と駅前の小さな店で食事をした。


「五十三パーセント。だいごくん、海王を本当に買ったんだね」


「株は買った。仕事はこれからだ」


「冬彦さんは?」


「本人がしたことは、会社が調べている。父親にも俺にも、株を買っただけで答えを消すことはできない」


愛菜は箸を置いた。


「私へのことも、ちゃんと説明してほしい。でも、謝ってくれたから戻ってきて、とは思わない」


「分かってる」


「あとね、試着会の注文分、半分発送できたよ。遅れたら連絡してって言ってた店にも、予定を送った」


「おめでとう、社長」


「そっちも。……会長?」


「それ、家では言わない約束だろ」


愛菜は笑った。大虎も、久しぶりに肩の力を抜いた。


***


冬彦が五十三パーセントの知らせを聞いたのは、弁護士の事務所だった。


西条との共同保有会社について、持ち分の評価と、双方が買い取れる場合の条件を整理している最中だった。


「これで、あの三パーセントは無駄ですか」


冬彦が聞くと、弁護士は首を振った。


「財産としての価値と、会社を支配できるかは別です。ただ、買い増して経営権を取り返すという当初の計画は、現実的ではなくなりました」


「借金は残る」


「はい。だから、売却か買い取りの協議を続けましょう」


冬彦は頷いた。


父の会社を守るつもりで金を借りた。それなのに、返すために株を売る話をしている。


事務所を出ると、海王から封書が届いていた。


臨時株主総会の招集通知。


議題には、新しい取締役の選任とともに、冬彦の取締役解任が記されていた。


冬彦はしばらく紙を見つめた。


父の署名がある。


『まだお前の答えを待っている』と言った父が、自分を解任する議案を出した。


冬彦は電話をかけた。


相手は父でも、西条でもなかった。


「佐伯さん。僕の返済日について、話があります」


第68章 売れない三パーセント


「期日を延ばすことはできますか」


冬彦の問いに、佐伯は残高表を開いた。


「約束した返済日までは、あと四週間あります。今の条件では、延長は約束できません」


「海王株を売れば返せる。でも、共同保有会社の株は西条が同意しない」


「あなたが個人で持つ別の海王株もあります」


「あれまで売れば、僕には何も残らない」


「ご自身の資産をどうするかは、あなたが決めることです。返済できる方法があるなら、それを踏まえて相談してください」


冬彦は机の数字を見た。


家を失う前に、個人の持ち株を売る。分かっている。だが父の会社で自分に残されたものを、自分の手で手放す気になれなかった。


「西条との協議は続けます」


「承知しました。進展があれば、期日の前に知らせてください」


佐伯はそれ以上、冬彦を追わなかった。


***


ゆみの新店には、棚が入った。


千着はまだ届いていない。ゆみは実物大の型紙を棚に並べ、客が歩く幅を測る。


西条は通りから店を眺めていた。


「入口に広告を出せば、開店初日に人を呼べる」


「費用は?」


「僕の方で企画するよ」


「発注の前に金額を見せてね。店の名前で勝手に申し込まないで」


「分かってる」


西条は笑った。ゆみは彼の手際を見ている。働いている姿を見せれば、保証金の件もいつか取り戻せると思った。


外へ出ると、携帯に冬彦からの面会希望が届いていた。


***


「三パーセントを売って、共同事業を終わらせよう」


冬彦は西条を待ち、開口一番に言った。


「君がもう少し待てば、海王の経営に口を出せる」


「五十三パーセントを取られた。三パーセントでひっくり返せない」


「口を出すことと、経営権を取ることは違う」


西条は封筒から紙を出した。臨時株主総会に向けた、冬彦の意見書の下書きだった。


『カルソックによる取得後、倉庫事業が売却され、従業員の雇用が失われるおそれがある』


「誰が売ると言った」


「言ってない。だから『おそれ』と書いた」


「大虎は現場に行って、倉庫ごとに調べると言っている」


「調べた結果、売るかもしれないだろ。元取締役の君が不安を示せば、社員も株主も聞く」


冬彦は紙を机に戻した。


「それで何が変わる」


「大虎は愛菜さんへの記事でも、事実と違えば対応すると言ったそうだな。社員が不安になれば、僕らの株を買って騒ぎを収めるという手もある」


「高く買わせるためか」


「君の返済にも役立つ」


冬彦は西条を見た。


今度は、愛菜を巻き込むなという言い訳が使えない。倉庫で働く人たちを不安にさせる提案だ。


「署名しない」


「なら、売却の同意もしない」


西条は意見書をしまった。


「四週間ある。その間によく考えて」


***


冬彦は一人で海王の古い港を歩いた。


倉庫の灯りが点き、フォークリフトが出入りする。子供の頃、父の後ろをついて歩いた場所だ。


ここで働く人を脅すための紙に、名前を書けるのか。


携帯には弁護士から、個人の持ち株を売却した場合の概算が届いていた。借入を返しても、手元に幾らか残る。


冬彦は額を確認した。それから、持ち株の一覧を閉じた。


倉庫の向こうに、父が来た。


「冬彦」


父の声に振り向く。


「株主総会で、お前自身の言葉を聞くつもりだ」


冬彦は言いかけた。西条が、社員を不安にさせる意見書を用意している、と。


だが口を開く前に、父は続けた。


「取締役には戻れなくても、親子の話はできる」


冬彦の喉が詰まった。


「……総会が終わってからにしてくれ」


父は頷いた。


冬彦は背を向けた。四週間後に家を守れる道と、今すぐ父に本当のことを話す道。


二つを前にして、まだどちらも選べなかった。


第69章 総会で言ったこと


臨時株主総会の前夜、西条は冬彦にもう一度、意見書を送った。


文面は短くなっていた。


『倉庫事業の売却や雇用削減をしないと、カルソックから明確な保証を得られていない』


そこだけを読めば、嘘ではない。大虎は、全ての倉庫を将来にわたって残すとは言っていない。


だが西条がその言葉を何のために使うか、冬彦は知っている。


『明日これを言えば、三パーセントの共同売却に同意する』


続いたメッセージを見て、冬彦は携帯を伏せた。


弁護士からは、個人で持つ株の売却を進めるなら、買い手に提示できる評価が整ったと連絡が来ている。


そちらを選べば、家を守れる。


失うのは、海王に残る自分の持ち分だった。


***


総会当日、冬彦は株主席に座った。


父は壇上にいる。大虎はその少し離れた席で、事業計画を開いていた。


新しい取締役の選任案が説明され、続いて冬彦の解任案に移る。社内調査で確認した通知と出資延期の経緯が、事実に限って示された。


「ご本人から、意見はありますか」


議長に問われ、冬彦は立ち上がった。


「私の判断で取引先に迷惑をかけたことは、認めます」


会場が静まる。


「ただ、これから経営を担うカルソックも、港の倉庫と雇用を全て守ると約束したわけではありません」


父が冬彦を見た。


冬彦は、西条の文面を読み上げなかった。それでも、一番人が不安になる部分だけを、自分の言葉で口にした。


「会社をどうするのか。従業員には、もっと詳しく知らせてほしい」


大虎は立ち上がった。


「求められているのは、判断の根拠ですね。倉庫ごとの計画と、閉鎖や人員変更を検討する場合の手順を、社員の代表にも示します」


「売らないと断言はしないんですね」


冬彦が重ねた。


「数字を見ないまま断言することはできません。だが、利益だけで現場を切り捨てる計画もありません」


そこで海王会長が口を開いた。


「倉庫の計画は、私も一緒に作っています。冬彦、お前にだって、前の経営で答えられなかった倉庫があるだろう」


冬彦は唇を結んだ。


質問は続いたが、冬彦の話で採決が延びることはなかった。過半数の議決権を持つカルソックに加え、複数の株主が解任案に賛成した。


冬彦は取締役を退いた。


***


会場を出たところで、西条が近づいた。


「よく言った。記事にすれば、もっと反響が出る」


「約束しただろ。共同の株を売る」


「まだだよ。今日の発言に、社員がどう反応するかを見たい」


「同意すると言った」


「『明日これを言えば』と言っただけだ。売り時は僕も決める」


冬彦は西条の腕をつかんだ。


「人を使って、まだ足りないのか」


「手を離せよ。ここは海王の会場だ」


その言葉で、冬彦は我に返った。手を離すと、西条は袖を直して去った。


***


海王会長は、空いた会議室で息子を待っていた。


「言いたいことがあるなら、あの場でなくても私に聞けたはずだ」


「社員には知る権利がある」


「ある。だから大虎さんの計画を社員に見せる。だが、お前は何を知っていて、何を知らないまま話した?」


冬彦は答えなかった。


父が続けた。


「お前が責任を認めた時、これから何をするか話せると思った。今日の言葉も、社員のためなら聞く。西条に頼まれたからなら、話は違う」


「僕は、自分で言った」


「それなら、その責任も自分で持ちなさい」


父は冬彦の横を通り過ぎた。


一人になった冬彦の携帯に、佐伯から返済予定を確認する連絡が入る。


西条は売却に同意しなかった。取締役の席もない。


冬彦は弁護士へ電話した。


「個人の持ち株の売却を進めてください」


口にした途端、胸の奥が空っぽになった。


そして窓の向こうでは、海王の港へ、翌日分の荷物を積んだ船が入ってきていた。


第70章 返したもの、借りるもの


冬彦が個人で持つ海王株の買い手は、昔から海王に出資している別の会社だった。


「急いで売る理由は聞きません」


先方の代表は評価書を机に置いた。


「事業の見通しを確認して、この価格を出しました。あなたが納得するなら、手続きを進めます」


冬彦は数字を見た。東辰への借入を返しても、少しだけ残る額だ。


「足元を見ないんですね」


「安く買えば、あとで自分たちの判断も疑われますから」


冬彦は笑えなかった。


海王の名がなくても、自分にそう答える相手がいた。それを知るのが、株を手放す日だとは思わなかった。


必要な承認を経て、売買は成立した。


***


東辰キャピタルで、佐伯は入金を確認した。


「冬彦さん個人の借入は、元金と利息を合わせて完済です。担保の解除書類をお渡しします」


冬彦は紙を受け取った。


「本城さんにも伝わりますか」


「事業の報告には載ります」


「僕が最後まで返したってことも?」


佐伯は冬彦の顔を見た。


「はい。ただ、誰に見せるためでもなく、あなたの契約が終わったんです」


冬彦は書類を鞄に入れた。


家は守れた。だが父の会社の株は、西条と持つ三パーセントの一部を除いて、手元からなくなった。


外に出ると、海王の社員から連絡が来ていた。


取引先への補償について、冬彦にも確認したい点がある。元取締役としての責任は、借金を返しても消えない。


「今日の夕方、伺います」


冬彦は返信した。


***


ゆみの新店には、初めての商品が届いた。


箱を開けると、彼女が三か月前に選んだ色の上着が並んでいる。棚が埋まっていくにつれ、店らしい匂いがした。


「いいじゃん」


西条が一着を手に取った。


「入口に飾ろう。通りから見える」


「値札が下がると見えないから、そこだけ直して」


二人で位置を決めた。言い争いをしていた頃より、よほど自然に話せた。


開店の日、最初の客は鏡の前で上着を羽織り、そのまま買っていった。


ゆみは伝票を挟みながら笑った。


「売れた」


「ほら、場所は間違ってなかった」


西条も笑う。


その日、客足は予想を上回った。ただし売上の大半は小物で、千着の服はまだほとんど棚にある。ゆみは閉店後、客数と服の販売数を分けて記録した。


「人が来たのは良かった。服が動くかは、明日から見よう」


「慎重だな」


「家賃は毎日掛かるからね」


西条は答えず、照明を落とした店を見回した。


***


翌朝、西条は東辰キャピタルの佐伯に、新たな資料を持ち込んだ。


「新店の広告費を、私個人の名義で借りたい」


「ゆみさんの会社は保証しますか」


「しません。私が持つ不動産を担保にします」


佐伯は資料を開いた。


「報酬は売上に応じた契約ですね。売れなければ、あなたには入らない」


「初日の客は多かった」


「客数と返済額は別です。過去の収入と不動産の評価を確認します。それから、西条さん個人がこの広告費を支払う契約であることも」


西条は頷いた。


「必要なものは出します」


佐伯は申込書を受け取ったが、融資を約束しなかった。


***


その晩、海王会長の家に冬彦から短い連絡が入った。


『個人の借入を完済しました。家の担保も外れました。西条との共同の株については、まだ話し合っています』


父は文面を二度読んだ。


『知らせてくれてありがとう。取引先への説明も、最後まで頼む』


返信はそれだけにした。


冬彦が借金を返したことは、嬉しかった。だが、父がまだ聞きたいのは金の話だけではない。


その時、父の机に置いた新聞の見出しが目に入った。


『海王の元取締役、カルソックの雇用計画に懸念』


記事に添えられた写真には、総会の会場を出る冬彦と、西条が並んで写っていた。


第71章 名前を返す日


「あの発言は、誰のためだった」


父は新聞を冬彦の前に置いた。


「社員に計画を知らせてほしかった」


「それだけか」


冬彦は紙面を見た。自分と西条の写真が、見出しのすぐ下にある。


「西条が、意見書を用意した」


「読んだのか」


「読んだ。でも、あの場では自分の言葉で話した」


「西条は見返りに何を約束した」


冬彦は顔を上げた。


父の声に怒りはなかった。ただ、答えを聞くまで席を立たない声だった。


「共同で買った株の売却に、同意すると」


「借金を返すためか」


「そうだ。結局、同意しなかったけどな」


父は新聞をたたんだ。


「お前は、会社の判断に疑問を言ってよかった。だが社員の不安を、持ち株を売るための取引に使った」


「俺の発言に嘘はない」


「嘘をつかなければ、何に利用してもいいのか」


冬彦は答えられなかった。


「お前が通知のことを認めた時、やり直せると思った。取引先に頭を下げる姿も見た」


父は言葉を切った。


「その後で、また会社の人間を自分のために使った。私はもう、お前を家に戻せない」


「……勘当ってことか」


「そうだ。海王の名も、私との親子関係も、商売の信用として使うな」


冬彦は笑おうとしたが、顔が動かなかった。


「会社も、家族も、大虎に渡すんだな」


「会社の株は売った。家族を誰かに渡した覚えはない」


父は冬彦をまっすぐ見た。


「お前が何をしたかで、私は決めた」


冬彦は立ち上がり、新聞を置いたまま家を出た。


***


同じ頃、愛菜は発送を終えた帰りに、ゆみの新店の前で足を止めた。


窓には、薄い青の上着が飾られている。店内にいたゆみと目が合った。


愛菜が軽く頭を下げると、ゆみが扉を開けた。


「どうぞ。見るだけでも」


愛菜は店に入った。


「この袖、きれいですね」


「自分で形を決めたの。着るともう少し柔らかくなるよ」


ゆみは鏡の前で、愛菜に上着を渡した。大虎の話をどちらから切り出すか、一瞬だけ迷う。


愛菜が先に言った。


「だいごくんから、三年間一緒に暮らしてたって聞いてます」


「うん。私にはフリーターとしか言ってなかったけど」


「私にも、最初はそう言ってた」


二人は顔を見合わせ、思わず笑った。


ゆみはすぐに笑みを引っ込めた。


「私、あの人を追い出した。店を支えてくれてたのも知らなかった。後悔してる」


「だいごくんが隠していたことも、あったんだと思います」


愛菜は鏡の中の自分を見た。


「でも、この服を作ったのは、ゆみさんですよね」


ゆみは返す言葉を探した。


「……うん。私が作った」


愛菜は上着を買った。特別扱いを求めず、客として代金を払う。


「似合う?」


「似合う。悔しいくらい」


今度はゆみも笑えた。


***


閉店後、西条は売上表に目を通した。


「今日は上着が一着、良い値段で売れてる」


「愛菜さんが買ってくれた」


「誉愛菜が?」


西条の目が上がる。


「それ、宣伝に使える。写真を一枚もらって――」


「だめ。お客さんとして来たんだから」


「向こうだって、話題になるのは悪くないだろ」


「私が頼んでない。西条さんも連絡しないで」


西条は肩をすくめた。


「分かったよ」


ゆみが奥の在庫を数えに行くと、西条は売上表の名前をもう一度見た。


誉愛菜。カルソック会長の恋人。


店に来たのが事実なら、名前を出さなくても、噂だけで客を呼べるかもしれない。


西条は携帯を取り出し、広告会社の担当者とのやり取りを開いた。


第72章 たった一着の広告


「本人の写真と名前は使わない」


西条は広告会社の担当者にそう言った。


「それなら、『世界一の企業会長の恋人が選んだ服』という文言で」


担当者の提案に、西条は画面を見つめた。


「そこまで書くと、誰だか分かるだろう」


「では、『あの人も選んだ』と写真の服だけ載せますか」


西条は少し考え、うなずいた。


愛菜の名前は出さない。だが、前日にゆみの店を訪れたという噂が伝われば、見る人には分かる。


「費用は僕の会社に請求して。店の口座には触れない」


「店の宣伝として、ゆみ様の了承は取れていますか」


「僕が販売企画を任されている」


質問への答えにはなっていなかった。担当者は文案を承認待ちにし、確認の連絡をゆみの会社にも送った。


西条は、その連絡を知らなかった。


***


ゆみが広告案を開くと、薄い青の上着の写真の上に、大きな文字が載っていた。


『あの人も選んだ、街の一着。』


小さく添えられた説明には、来店した著名な女性の話題がにおわされている。


「これ、誰のこと?」


電話口の担当者は少し黙った。


「西条様から、昨日お買い上げになったお客様の話を伺いました」


「その広告は出さないでください。お客様には宣伝に使っていいと聞いていません」


「承知しました。配信はまだしていません」


ゆみは電話を切り、西条を呼んだ。


「連絡しないでって言ったよね」


「連絡してない。写真も名前も使ってない」


「その人だと思わせるために書いたんでしょう」


西条は答えなかった。


「店の広告は私が決める。もう一度やったら、企画の仕事も終わりにする」


「お金は僕が払うつもりだった」


「お金の話じゃないよ」


西条の顔がこわばった。


ゆみは一度目を伏せ、それから言った。


「だいちゃんは私に何も言わず店を支えた。それで私たちは駄目になった。今、あなたまで私に黙って店の名前を使うの?」


西条は謝った。ゆみは広告会社に、上着そのものを紹介する新しい文案を依頼した。


***


その頃、東辰キャピタルでは、西条の広告費の融資審査が終わっていた。


佐伯は決定を伝えた。


「ご希望の額より小さくなります。担保はご本人の不動産、返済はこれまでの収入から可能な範囲に限ります」


「店が当たれば、早く返せる」


「店の売上は担保に取っていません。ゆみさんの会社の支払いでもありません」


「分かっています」


佐伯は、広告案が取り下げられたことも把握していた。


「使い道が変わるなら、実行前に知らせてください。広告費として出した計画のままでは進められません」


「新しい案を作ります」


西条は書類を閉じた。


本城や条家の名を借りず、自分の不動産で借りる。やっと自分の力で仕事ができると思いたかった。


だがその金を返すには、店で自分の企画した服が売れなければならない。


***


愛菜には、ゆみから電話が来た。


「配信前に、ゆみさんが止めたんですね」


「うん。勝手に使いかけて、ごめんね」


「上着は本当に気に入ってる。ゆみさんの服として紹介してあげて」


愛菜は通話を終え、大虎に事情を伝えた。


「ゆみさんが止めてくれた。私は買い物をしただけだよ」


「ああ」


「だいごくん、怖い顔しないで」


「してたか」


「してた。西条さんを怒るなら、まず私の話を聞いて」


大虎は彼女の隣に座った。


「聞くよ」


「今回は広告が出る前に止まった。ゆみさんは自分で店を守った。それで十分」


大虎はうなずいた。


***


夜、西条に条家本部から呼び出しが届いた。


広告は公開されていない。それでも本部には、広告会社から取引関係の確認が入っていた。西条が『条家との取引にもつながる』と営業中に話したからだ。


伯父からの文面は短い。


『何度言えば、家の名を勝手に使うのをやめる。明朝、本部に来い』


西条は携帯を握りしめた。


本人が知らないところで使った名前が、今度は一つ残らず自分のところへ戻ってきた。


第73章 条家の恥


「海王株の時にも、話したはずだ」


伯父は西条の前に、二通の書面を置いた。


一通は、条家が株の購入を支援しないと伝えた通知。もう一通は、広告会社から届いた照会だ。


「広告会社に、条家との取引にもつながると言ったな」


「店が伸びれば、いずれ紹介できると思ったんです」


「紹介できる権限を、誰がお前に与えた」


西条は答えられなかった。


「しかも、買い物をした人間の立場まで宣伝に利用しかけた」


「広告は出していません」


「止めたのは、店の代表だ。お前じゃない」


伯父は声を低くした。


「条家の名を信用してきた相手にまで、勝手な約束をして歩くな。お前は条家の恥さらしだ」


西条の指が膝の上で曲がった。


「西を任せられた者としての仕事から外す。取引先への紹介も止める。自分の事業を続けるなら、自分の名と金だけでやれ」


「元恋人に隠れて金を出していた大虎は許されて、僕だけが責められるんですか」


「大虎の話はしていない。お前が何を約束したかを聞いている」


西条は机の書類を見た。


海王の株を買う時も、新店を開く時も、自分の資金だけでできると示したかった。そのたびに、誰かの名前を先に差し出していた。


「分かりました」


そう言った声は、伯父にも自分にも、素直には聞こえなかった。


***


西条は条家本部を出ると、東辰キャピタルへ向かった。


佐伯は、修正された広告案と、西条個人が担保に出す不動産の評価書を確認した。


「ゆみさんの了承を得た文案ですね」


「はい。服の形と店の場所だけを紹介します」


「この額までなら、ご本人の資産と収入で返済可能と判断しました。使途は広告費に限ります」


西条は契約を読んだ。


ゆみの会社は保証しない。条家も関わらない。返せなければ、自分の不動産を処分して返す。


「僕の名で借ります」


署名した。


***


広告は数日後に始まった。


店を訪れる人は増えた。写真を撮り、上着の色を褒め、価格を見て帰る人も多い。


西条は毎晩、表示回数と来店人数をゆみに報告した。


「昨日より三割増えた」


「うん。でも上着は二着しか売れてない」


「店を知ってもらう最初の週だ。後から効くよ」


ゆみは売上表と広告の対象客の資料を比べた。


遠方から画面を見ている人が多い。実際に店まで来られる人への案内が弱い。


「次は近くの人に絞って。試着予約も付けたい」


「範囲を狭めると数字が落ちる」


「必要なのは表示回数じゃなくて、服を着てもらうこと」


西条は言い返しかけて、やめた。


彼女は大虎に支えられていた頃より、数字を見るようになった。自分の企画に口を出すようにもなった。


それが頼もしいと思えない自分に、西条は気づかなかった。


***


同じ夜、冬彦は弁護士から共同保有会社についての報告を受けた。


西条は持ち分の評価には応じるが、売却の時期には合意しない。協議は続けるものの、決着には時間が掛かる。


「僕の借入は終わった。急ぐ理由は、もうないはずなんですけどね」


冬彦が言うと、弁護士は静かに返した。


「急がずに、相手の条件を見られるようになったんです」


冬彦はうなずいた。


父に勘当された日のことは、まだ誰にも話していない。


携帯が鳴る。西条からだった。


「何だ」


「条家から切られたよ。君と同じだ」


「同じにするな」


「一緒にやり直せるだろ。海王の株は、まだ僕らが持ってる」


冬彦は窓を見た。港の灯りは、ここからは見えない。


「僕は借金を返した。株も、適正な値段で売る話しかしない」


「大虎が相手なら?」


「相手で決めない」


西条はしばらく黙った。


「君も、ずいぶん変わったね」


通話が終わると、西条の携帯には東辰から最初の返済予定が届いた。


冬彦が返し終えた金を、今度は西条が借りている。


第74章 広告の請求書


「来店した人は増えた。でも、服の売上は予定の半分以下です」


ゆみは広告の報告書を西条に返した。


店を開いてから三週間。小物は売れる。上着も試着はされる。だが、千着を回す計画に対して、販売数が足りない。


「表示する相手を近場に変えれば、まだ伸びる」


「試すのはいい。でも同じ額をまた使う前に、一週間の結果を見たい」


「借りた金の返済は、来月から始まる」


西条は初めて、ゆみの前に東辰の返済表を置いた。


「広告のために借りたことは知ってる。でも、店が売れなかったら私が払うとは約束してないよ」


「分かってる。ただ、僕も家を担保にして、この店に賭けた」


ゆみの表情が曇った。


「私に黙って、そこまでしてほしくなかった」


「君に負担を掛けないためだった」


「結局、今その表を見せてる」


西条は言葉を失った。


***


ゆみは顧問を呼び、店の数字を見直した。


「広告をこのまま続けるなら、製造費の支払いと重なる月の手元資金が足りません」


「広告は西条さんの会社が払ってる」


「それでも、あなたの店の売上が増えなければ家賃と製造費は残ります。彼の返済に会社の金を回せば、余裕はもっとなくなります」


ゆみは頷いた。


「先に在庫を売る。追加製造は止める」


「それがいいと思います」


ゆみは決めた内容を西条に伝えた。


「あなたの借金は払えない。私の会社も、広告費を後から引き受けない」


「分かった」


西条はそこで引いた。


ゆみは安心しきれなかった。自分が店を借りた時の震えを、彼も毎月味わうことになる。


***


同じ日、大虎は海王の古い倉庫で、現場責任者と向き合っていた。


赤字だと報告されていた倉庫には、夜間に作業が集中し、昼間は空きがある。設備を壊して新しくするより、納品時間と隣の港との連携を変える余地があった。


「数字だけ見たら、閉める話になると思ってました」


責任者が言う。


「現場を見なきゃ分からない部分があった」


「作業時間を変えるなら、うちの人間にも意見を聞いてください」


「もちろん。試す期間を決めて、負担も数字に入れる」


大虎は歩きながら、古い荷役機械の横を通った。


冬彦が総会で投げた問いは、意図とは別に、ここで働く人への説明を急がせた。その責任は大虎自身が引き受ける。


***


数日後、西条は東辰に最初の返済分を振り込んだ。


口座の残高を見て、次も同じように払えるとは思えなかった。


佐伯から確認の電話が来る。


「入金を確認しました。次回以降の計画に変更があれば、早めに相談してください」


「広告を調整中です。数字は回復します」


「回復しない場合も、見積もっておいてください」


西条は返事を曖昧にした。


その足で、ゆみの店へ向かう。


彼女は客の袖丈を直しながら笑っていた。西条が広告に費やした金を知らない客が、一着を気に入って買っていく。


「今日は三着出たよ」


ゆみが嬉しそうに言う。


西条も笑った。


だが、その三着の売上が、次の返済に幾ら回るかを頭の中で数えてしまう。


ゆみの店の金は、自分のものではない。それを分かっていても、数字が同じ財布に見え始めていた。


閉店後、西条はゆみに言った。


「販売企画の報酬を、来月分だけ先に払ってもらえないか」


「まだ売ってない分の報酬を?」


「借金を返すためじゃない。次の店頭企画の準備費用だ」


ゆみは、さっき彼が頭の中で数えていたものを知らない。


「企画の中身と費用を紙にして。顧問にも見せる」


「僕を、そんなに信用できない?」


「信用するために、確かめたいの」


西条は返事をしなかった。


一度なら押し切れた言葉が、もうゆみには通じなくなっていた。


第75章 消えた箱


翌朝、西条は店頭企画の見積書を持ってきた。


「三百着を別の売り場に回す。あちらで一気に売れば、広告の費用も回収できる」


ゆみは販売価格の欄を見た。


「これ、うちの店の半額以下だよ」


「新しい客に知ってもらうための価格だ」


「同じ服を、ここで買ってくれた人に説明できない」


「在庫を抱えて家賃を払い続ける方がいいのか」


「値段を下げるなら、私が決める。これはやらない」


西条は見積書をしまった。


「分かった」


ゆみは彼が了承したと思った。少なくとも、そう信じたかった。


***


西条は帰り道、以前から付き合いのある在庫販売業者に電話した。


「未使用の上着が三百着ある。今週中に引き取れる?」


「ブランドの販売権は?」


「店の販売企画を任されている。書面もある」


手元の契約書には、宣伝と売り場づくりを任せると書かれている。値引きや在庫の処分を許す文言はない。


西条はそこを説明しなかった。


業者は価格を提示した。ゆみの店で付けた値札から見れば、信じられないほど安い。それでも前金が入れば、東辰の次の返済には間に合う。


「その額でいい。残りは検品後で」


西条は電話を切った。


三百着を先に売り、売上を戻してからゆみに話せばいい。そう自分に言い聞かせた。


***


二日後、ゆみが既存店で商談をしている間に、新店の裏口へ配送の車が来た。


「西条さんの企画分ですね」


手伝いに来ていた社員が聞く。


「そう。こちらの箱を積んで」


西条は、前日から裏にまとめておいた箱を指した。社員は販売企画用の移動だと思い、控えに箱数を書いた。


西条が立ち去った後、社員はゆみに写真を送った。


『企画用の十五箱、搬出しました。行き先の伝票は西条さんがお持ちです』


ゆみは画面を見て、商談相手に席を外すと告げた。


西条へ電話をかける。


「十五箱って何?」


「別の売り場に回した。先に売って、店の資金を作る」


「やらないって言ったよね」


「返せる。僕が責任を持つ」


「どこへ運んだの。今すぐ止めて」


西条は業者の名前を言った。ゆみは社員に伝票の控えを確保してもらい、顧問と一緒に業者へ連絡した。


***


業者の担当者は、まだ検品中だった。


「販売の権限がないなら、商品は動かしません。ただ、こちらも西条さんから売買の申込みを受けています。所有者を確認させてください」


「商品は私の会社のものです。値引きも売却も許可していません」


ゆみは仕入れと在庫の記録を送った。


担当者は販売を止め、商品を保管すると約束した。すぐに戻せるか、輸送費と検品費を誰が払うかは、まだ決まらない。


「前金は?」


顧問が尋ねると、担当者は口をつぐんだ。


「既に西条さん側へ支払っています」


ゆみはしばらく声が出なかった。


売れなかった服を売られたことよりも、自分が作った服の行き先を他人に決められたことが、胸に刺さった。


***


その日の夕方、西条の会社の口座に前金が入った。


西条は東辰への振込画面を開く。指を止めたまま、ゆみからの着信を見た。


出れば、返金を求められる。


出なければ、彼女と店にはもう戻れない。


西条は着信が途切れるのを待ち、送金ボタンを押した。


一方、ゆみの顧問は搬出の控えを並べ、静かに言った。


「商品は止められました。でも、西条さんが受け取ったお金は、別に取り戻さなければなりません」


ゆみは携帯を握った。


「私の服を、借金の返済に使ったんだ」


第76章 二十億円の名前


西条が店に戻ったのは、閉店後だった。


ゆみは顧問と社員を帰さず、搬出の控えを机に並べて待っていた。


「三百着は、業者が販売を止めて保管してる」


「なら戻せばいい」


「前金はどこ?」


西条は鞄を置かなかった。


「東辰への返済に使った。次の売上で戻すつもりだった」


ゆみは椅子の背を握った。


「私が作った服だよ。『やらない』って、あなたに言ったよね」


「分かってる。苦しかったんだ」


「苦しいって言えば、私の会社の物を売っていいの?」


「……いいわけない」


「販売企画の契約は、今日で終わりにする。商品の返送費も、受け取ったお金も、あなたに請求する」


西条は顔を上げた。


「僕を切れば、広告も店の集客も止まる」


「止まっていい。私の知らないところで服が消えるよりずっといい」


西条はようやく鞄を持ち直し、店を出た。


***


翌日、業者は所有権の記録を確認し、三百着をゆみの会社へ返す手配をした。


前金は西条から返す必要がある。輸送と検品の費用も協議が残る。


ゆみは顧問に、支払予定と、店を畳んだ場合の費用を並べてもらった。


「まだ続けられます。ただ、今月中に在庫を動かさないと、来月の仕入れを絞る必要があります」


「分かった。今の服を売る」


強がりではなかった。店頭に戻る三百着を、自分の手で客に渡したいと思った。


その夜、部屋に帰ると、大虎が料理をしていた頃の台所が目に入った。


追い出した日、自分の稼ぎだけで暮らせると胸を張った。店だって一人で伸ばしたつもりだった。


今は、西条の借金を一円も肩代わりしないと決めるだけで、こんなに力が要る。


ゆみは灯りを消し、寝室へ行った。


***


西条は条家の古い知人に、海外の衣料品流通を扱う会社を紹介されていた。


「五万着なら、複数の国に売り先を作れます」


相手は大きな数字を口にした。


「生産する会社は?」


「ゆみのブランドがある」


「本人から承諾を取ってください。資金を出す側は、ブランドと在庫の権利を確認します」


西条は目の前の資料を見た。


ゆみは三百着の安売りさえ断った。五万着に応じるはずがない。


「企画は私が進めます」


「会社の代表の確認が要ります」


「分かっています」


その夜、西条はゆみの店の写真と、以前二人で作った新店の計画書を机に広げた。


一度止めたら、条家にもゆみにも戻れない。そう分かっていても、五万着という数字から目を離せなかった。


***


数日後、ゆみの会社に見知らぬ金融会社から封書が届いた。


『海外販売計画に関する保証内容の確認』


ゆみは顧問を呼び、同封の書面を開く。


主たる債務者は西条の会社。取引の上限額は二十億円。その下に、ゆみの会社の名が連帯保証人として記されていた。


「こんなの、私は見てない」


顧問はすぐに署名欄と添付資料を確認した。


「契約の成立も、実際に幾ら借りたかも、まだ分かりません。承諾していないことを先方に伝え、資料の原本を確認しましょう」


ゆみはうなずいた。


二十億円という文字が、目から離れなかった。


西条の借金は彼のものだと、あれほどはっきり言ったばかりだった。


なのに、その紙の上では、いつの間にか自分の名前が彼の隣に並んでいた。


第77章 知らない署名


「確認の電話は、私がします」


ゆみが封書を持ち上げると、顧問が首を振った。


「一緒に話しましょう。答えを急がされても、支払うとは言わないでください」


ゆみはスピーカーに切り替え、書面の番号へかけた。


担当者はまず、本人確認を求めた。それから声を低くした。


「西条様の会社への融資枠は二十億円です。現在、六億円を実行しています」


「うちの会社は保証していません。私は署名もしていません」


短い沈黙があった。


「お送りしたのは、追加の実行に先立つ確認です。ご異議は記録します。残りの融資は確認が終わるまで停止します」


「六億円は、何を見て出したんですか」


「ご提出いただいた書類の写しと、西条様の会社の資料です。詳細は担当部署で確認して、折り返します」


ゆみは電話を切った。


顧問が手帳に数字を書き留める。


「二十億円を借りたわけではありません。六億円の保証についても、成立しているか分からない。こちらは否認して、提出された原本を調べます」


「西条さんは、うちを使って六億円借りたつもりなんだね」


「本人に聞く必要があります。ただ、先に会社の印章と契約書を確認させてください」


ゆみは金庫を開けた。会社の実印はそこにあった。


少しだけ息をついたところで、顧問がファイルから紙を一枚抜いた。


「これは?」


二か月前の新店計画だった。西条と組んでいた頃、出店先の審査用にゆみが署名し、社印を押した書類。その店は結局、開かなかった。


「あの人にも写しを渡した」


顧問は写真に撮り、金融会社へ書面で異議を送る準備を始めた。


***


夕方、西条から電話が来た。


「融資先に連絡した?」


挨拶もなかった。


「した。私の会社が保証人になってたから」


「枠だけだよ。事業が回れば返せる」


「六億円、もう借りてるって」


西条の息が止まったように聞こえた。


「海外に五万着を流す。契約がまとまれば、それくらい――」


「誰が五万着作るの?」


「君のブランドなら」


「私は三百着の件で、あなたとの契約を切ったよね」


「それより前から話を進めてた」


ゆみは目を閉じた。返事を待つ社員が、事務所の向こうにいる。


「私の署名を、何に使ったの」


「ちゃんと説明する。会って話そう」


「先に、金融会社へ本当のことを話して。私が保証を承諾してないって」


「今それを言ったら、全部止まる」


「もう止めた」


西条は黙った。


「ゆみ。僕たち、一緒に大きくするはずだっただろ」


「私の名前が要るときだけ、『一緒』って言わないで」


電話を切ると、社員が事務所の扉を開けた。


「社長、返ってきた三百着、検品終わりました。全部売り場に出せます」


「ありがとう。明日から並べよう」


その声だけは、いつもどおりに出せた。


***


数日後、取引先の生地会社から連絡が入った。


「海外で大量生産されるという話を聞きまして。次の発注量を、先に教えていただけますか」


「そんな計画はありません」


「そうですか。失礼しました」


相手は丁寧だった。ただ、いつものように材料を確保しておくとは言わなかった。


店で三百着が売れても、次に並べる服の材料がなければ続かない。ゆみはその日のうちに生地会社へ出向き、現在の発注と支払予定を見せた。


「新しい取引は、一度社内で確認させてください」


責められたわけではない。その慎重さが、ゆみには痛かった。


帰りの電車で、大虎が作ってくれた夕食を思い出した。


あの頃、納期が迫ると工場から連絡が来て、支払日を忘れずに済んだ。偶然、何度も助かったのだと思っていた。


助けられていたのかもしれない。


だが、その答えを確かめるために大虎へ電話するのは、まだ違う気がした。


今やるべきことは、自分の会社の名前を取り戻すことだ。


駅の階段を上がると、顧問からメッセージが届いていた。


『金融会社から、提出書類の写しが届きました。新店計画の署名が、保証の申込書に貼り付けられた形跡があります。明朝、弁護士と確認しましょう』


ゆみは立ち止まった。


署名した日の自分は、店を増やす未来を信じていた。


そのたった一枚を、西条は借金の入口に変えたのだった。


第78章 返せないもの


翌朝、ゆみは顧問と弁護士の事務所を訪ねた。


机には二枚の書類が並んでいる。ひとつは、ゆみが署名した新店計画書。もうひとつは、金融会社へ提出された保証申込書の写しだった。


「ここを見てください」


弁護士が署名の下にある小さな点を指した。


新店計画書の紙に付いた、印刷時の汚れ。保証申込書の署名にも、同じ位置に同じ形で写っていた。


「署名した紙を取り込んで、別の書面に使った可能性が高いです。あなたが保証に同意した証拠にはなりません」


「じゃあ、うちは払わなくていいんですよね」


「今ある資料では、保証の成立を争う根拠があります。金融会社には改めて書面で通知します。ただ、調査が終わるまで相手も結論を出しません。西条さんが何を提出したか、原本も確かめましょう」


弁護士はそこで言葉を切った。


「もうひとつ。西条さんの借金とは別に、会社の資金繰りを確認してください。そちらには、いつもの支払日が来ます」


ゆみは頷いた。顧問が昨日から繰り返していたことだった。


店は営業している。服も売れている。だからこそ家賃、給与、生地代、工場への支払が止まらない。


***


西条は金融会社の会議室に呼ばれていた。


向かいに座った担当者は、ゆみの会社から届いた異議申立書を机に置く。


「代表者は、保証を承諾していないとおっしゃっています」


「誤解です。共同で進めていた計画で――」


「五万着の製造契約はありますか」


「これから締結します」


「ブランドの使用許諾は」


西条は答えられなかった。


「六億円の使途を確認します。海外販売先への支払記録と、先方との契約書を提出してください。追加融資は停止したままです」


西条は椅子の肘掛けを握った。


すでに海外の仲介会社へ前払金を送っていた。広告枠の予約金も払った。東辰への返済に回した三百着の代金は、まだゆみに返していない。


五万着を売れば取り返せる。その前提だけが、手元に残っていた。


会議室を出た西条は、仲介会社に電話した。


呼び出し音が続き、やがて切れた。


***


ゆみは店に戻ると、顧問が作った資金繰り表を開いた。


「今月の給与と家賃は払えます。問題は来月です。生地会社が次の納品を保留したので、工場のラインも予約し直しになります」


「他の生地は?」


「探しています。ただ、同じ色と手触りで揃えるには時間がかかります」


「先に払えば、あの会社は動いてくれるかな」


「相談はできます。でも前払金を増やすと、給与の分を削ることになります」


ゆみは表の数字を指で追った。


三百着が戻り、ひとまず客へ売れる。在庫が動けば今月はしのげる。その次の商品を作るためのお金が足りなかった。


「銀行にも行く」


「はい。保証の件を隠さず説明しましょう」


午後、ゆみは取引銀行の担当者に、異議申立書の控えと今後の販売計画を渡した。


担当者は最後まで聞いた。


「西条様の案件と御社の融資は分けて審査します。ただ、追加の資金については、仕入れが確定してから改めて判断させてください」


断られたわけではない。


それでも、確定してからでは仕入れが遅れる。


ゆみは礼を言って銀行を出た。


***


夕方、三百着のうち一着が売れた。


買ったのは、何年も通ってくれている客だった。


「これ、前に見せてもらった新作ですよね。待ってたの」


「ありがとうございます。着心地、どうですか」


「好き。やっぱりここの服はいいわ」


客が鏡の前で笑った。ゆみも笑えた。


服はちゃんと客に届く。まだ終わったわけではない。


閉店後、顧問から一通の古い取引記録が届いた。


『仕入れの履歴を調べていて見つけました。三年前、最初に大口の生地を融通してくれた会社との覚書です』


ゆみは添付を開いた。


あの生地がなければ、最初のヒット商品は作れなかった。信用のない小さな店に、なぜ在庫を取り置いてくれたのか、ずっと不思議だった。


覚書の欄外に、手書きの一文があった。


『不足分の支払は、紹介者が責任を持つ』


紹介者の名前は、記されていない。


ただ、紹介者の連絡先として残された番号を、ゆみは知っていた。


三年間、台所から何度も聞こえてきた着信音が、耳の奥で鳴った。


第79章 あの日の背中


ゆみは覚書を拡大した。


番号を見間違えたかった。下四桁まで、大虎のものだった。


北星パートナーズの資金の向こうに大虎がいたことは、もう知っている。けれど、あの生地まで彼が手配していたとは聞いていなかった。


最初の大口注文が決まった日、ゆみは一晩中、工場に電話をかけていた。


翌朝には生地の確保が決まり、大虎が台所で朝食を作っていた。


「何とかなるもんだね」


あの時そう言った自分の声が、よみがえる。


ゆみは携帯を手に取った。電話をかければ、大虎はたぶん答える。


でも、今この番号にかけたら、何を先に言うのだろう。


礼か。謝罪か。それとも、仕入れのための金を貸してほしい、か。


ゆみは画面を伏せた。


***


翌朝、ゆみは生地会社の担当者を訪ねた。


「昔の覚書を見ました。最初の注文の時、大虎が紹介してくれたんですね」


担当者は少し驚いてから、頷いた。


「最初の仕入れだけです。大虎さんは、あなたの試作品を持って来られました」


「試作品を?」


「売れるかどうかは分からない。でも、作り手が必要な生地を妥協したくないと言っている、と。うちにその色が残っていることまで調べていました」


ゆみは手元の鞄を見た。


三年前、大虎に試作品を見せた。彼は袖口を裏返し、ここが好きだと言った。てっきり、恋人の仕事を褒めてくれただけだと思っていた。


「今の取引に、大虎さんの保証が残っているわけではありません」


担当者は先に説明した。


「それからは御社がきちんと支払って、信用を築かれました。ただ、今回の海外販売の話が生産現場まで広がっています。発注数が変わるのか確認したいんです」


「海外の計画はありません。あれは西条が勝手に進めたものです」


「分かりました。今ある注文は、約束どおり納めます。次の分は、数量が決まったら改めて相談しましょう」


ゆみは深く頭を下げた。


大虎が開けてくれた扉の先を、自分が三年間歩いてきた。その事実まで否定しなくてよかった。


***


店に戻ると、弁護士から連絡があった。


金融会社は、ゆみの会社に対しては保証を前提にした請求を保留した。署名の流用が疑われる以上、調査を続けるという。


「それなら、ひとまず安心していいんですか」


「保証については一歩進みました。ただ、西条さんの会社が借りた六億円は消えません。あなたのブランドを使った話も、別に整理する必要があります」


「私の服は作らせません」


「その意思を文書で伝えましょう」


ゆみは承諾した。


会議室を出たところで、経理担当の社員が待っていた。


「社長。工場のライン、来月分は今日までに予約金を入れないと、別の会社に回すそうです」


「いくら?」


金額を聞き、ゆみは机に戻った。


今月の売上を足しても、予約金を払えば翌月の給与が苦しくなる。三百着を売り切るまでには時間が要る。


「二日だけ待ってもらえるか聞いてみる」


社員が頷いた。


***


同じ頃、大虎はカルソックの執務室で、予定表の確認を受けていた。


秘書が一枚の報告を置く。西条の海外販売計画について、ゆみの会社が保証とブランド使用の両方を否認したと記されていた。


「金融会社には、調査の依頼が入っています。ゆみ様の会社への請求は保留です」


「そうか」


大虎は次の行を読んだ。ゆみの店の来月の生産枠が、まだ確保されていない。


「生地会社や工場に、俺の名前で何か言う必要はない」


「承知しました」


大虎は報告を閉じた。


ゆみの服を守るための手続きは、彼女自身が進めている。そこへ会長の名で割り込めば、また彼女の知らないところで会社の行方を変えてしまう。


机の携帯が震えた。愛菜からだった。


『今夜、時間ある? 新しいサンプルを見てほしい。あと、ご飯も』


大虎は『ハンバーグ?』と返した。


すぐに『今日はオムライス!』と返ってくる。


彼は思わず笑った。


***


夜、ゆみは一人で店のレジを締めた。


三百着は、少しずつ売れている。今日も客が褒めてくれた。


なのに、次の服を作るための期限だけが、売上より速く近づいていた。


携帯には、大虎との古い会話が残っている。


『牛乳買って帰るね』


追い出す前日、彼が送ってくれた最後の言葉だった。


ゆみは返信欄を開いた。


『あの時、生地を探してくれてありがとう』


そこまで打って、指が止まる。


礼を言うだけで電話を終えられるだろうか。


送信を迷っている間に、経理担当から着信が入った。


「社長、工場から返事がありました。予約金は明日の正午まで待ってくれるそうです。それを過ぎたら、ラインを空けるって」


ゆみは未送信の文を見つめた。


大虎に頼むなら、今だ。


そう思った自分が、いちばん嫌だった。


第80章 正午の約束


翌朝、ゆみは予定より早く店に出た。


机の上には、来月の生産予定表がある。新作二千着。工場の予約金を払えば、次の給与に手が届かなくなる。


社長が社員の給料を賭けてまで、まだ売れていない服を作っていいのか。


ゆみは赤いペンで、二千という数字に線を引いた。


「四百着に減らす」


出勤してきた経理担当が、驚いて顔を上げた。


「今季の売上目標、届かなくなります」


「分かってる。でも今あるお金で作って、売って、また作る。社員に払うお金は使わない」


ゆみは工場に電話した。


「申し訳ありません。そのラインは二千着を前提に押さえています。四百着なら、もっと小さい工場を探していただくことになります」


「今日の正午までの予約は、取り消します」


「よろしいですか。次に空くのは、ずっと先ですよ」


「はい」


電話を切ると、ゆみの手が少し震えた。


自分で決めたことなのに、店の未来を自分で小さくしたような気がした。


***


昼休み、ゆみは顧客への案内文を書いた。


新作の発売が遅れる。予約の取り消しや返金を希望する人には、順番に対応する。理由は、予定していた生産体制を変更するため。


西条の名を出して言い訳にすることはできた。でも、その説明を受け取るのは、服を楽しみに待っている客だ。


送信すると、すぐに返信が来た。


『残念ですが、待ちます』


別の客からは、返金の希望が届いた。


ゆみはどちらにも返事をした。


午後になると、経理担当が小さな縫製工房を三件見つけてきた。四百着を同じ日に仕上げるのは難しい。二百着ずつ分ければ、何とかなるかもしれない。


「見積もり取ろう」


「はい。ただ、一着あたりの原価は上がります」


「価格は変えたくない。粗利を計算して、赤字にならない数で頼む」


「分かりました」


社員は少し笑った。


「社長、さっきより顔色いいです」


「数字が見えてきたからかな」


二人で表を作り直した。閉店するつもりはなかった。


***


その夜、大虎の携帯に短いメッセージが届いた。


『三年前、生地を探してくれてありがとう。今日、担当の人から聞いた』


大虎はしばらく画面を見た。


『覚えてたんだ』と打って、消す。


彼が覚えているのは、ゆみが届いた布を抱えて、何度も色を確かめていたことだ。あれから彼女は何度も、自分で生地を選び、支払いを続けてきた。


『うん。あの服を見てもらいたかったから。売れるようにしたのは、ゆみだよ』


送信したところで、愛菜が皿を運んできた。


「はい、約束のオムライス!」


「ハンバーグの気分だったのに」


「まだ言ってる。自分でオムライスって返事したでしょ」


大虎は笑って携帯を伏せた。


「ゆみから、昔の仕事のお礼が来た」


愛菜は向かいに座った。


「そう。返した?」


「返した。今、店が大変らしい」


「だいちゃん、心配だよね」


「心配だよ。でも、あの店の決め事を俺が代わりにやるわけにはいかない」


愛菜はスプーンを持ち、大虎を見た。


「もし助けを求められたら、何ができるか一緒に考えよう。その時は、ゆみさんが本当に欲しいものも聞いてあげて」


大虎は頷いた。


「うん」


愛菜はオムライスを一口食べた。


「で、味は?」


「まだ食ってない」


「早く食べてよ!」


大虎はスプーンを取った。


***


翌週、ゆみの店に大口の注文先から連絡が入った。


「新作の納品が予定より遅れると聞きました。秋の売り場を空けたままにはできません」


「最初の二百着なら、日程を――」


「全店分を揃えていただく契約です。今回は別のブランドに切り替えます」


ゆみは言葉を失った。


工房の見積もりは、ようやく届いたばかりだった。小さく作り直して守ろうとした商品は、出す前から売り場を失った。


「承知しました。ご迷惑をおかけしました」


電話を切ると、経理担当がそっと声をかけた。


「直営店と通販なら、まだ売れます」


「うん。まずは二百着で、もう一度計算しよう」


ゆみは予定表を開いた。


売上の欄から、取引先の注文額を消す。


その下にあった、翌月の支払額は消えなかった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


第2部の終わりで、ゆみは店を続けるために生産を縮小しました。それでも、失った売上に代わって支払日を待ってくれるものはありません。


大虎に助けを求めるのか。愛菜はその時、どう向き合うのか。そして西条が作った借金は、誰を巻き込むのか。


物語は第3部へ続きます。

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