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振ったら後悔か否か?  作者: 平松豊政


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3/3

第3部 失ったものの値段

『振ったら後悔か否か?』第3部、最終部です。


店を守ろうとするゆみ。その隣で借金を膨らませていく西条。そして、自分たちの未来を選ぶ大虎と愛菜。


これまでの選択が、それぞれの人生に答えを出していきます。


最後まで見届けていただけたら嬉しいです。

第81章 失った注文の代わりに


「四千八百万円」


顧問が指した数字を、ゆみはもう一度見た。


来月末までに足りなくなる金額だった。大口の注文が消えた分、入るはずだった代金も消えた。一方で、すでに仕入れた生地の支払いと店の家賃、社員の給与は残っている。


「今ある服を全部売っても?」


「定価で売り切れれば、かなり縮まります。ただ、一か月で全部は見込めません」


「前の取引先に、二百着だけでも頼んでみる」


「先方の売り場は、もう別の商品で決まったそうです」


顧問の声は静かだった。可能なことは、すでに一通り調べてある。


ゆみは窓の向こうの売り場を見た。朝から社員が服を整えている。こちらの会議が終われば、今日も店を開けるつもりで。


「給与は予定どおり払う」


「そのためにも、早めに資金を確保しましょう。金融会社の保証の件とは別です。こちらは、御社自身の支払いです」


「分かってる」


二十億円という文字を見るたび、ほかの数字が霞む。だが店を畳むかどうかを決めるのは、目の前の四千八百万円かもしれなかった。


***


ゆみは銀行へ出し直す販売計画を作り、直営店の客にも声をかけた。


いつも来てくれる客が、友人を連れてきた。


「新作、少し遅れるんでしょ。だったら今ある服を見せて」


「ありがとうございます」


「ゆみさんの店、好きだから」


その言葉が嬉しいほど、胸が痛んだ。


売り場に立つ間だけは、資金繰り表を忘れられる。一人ひとりが似合う服を選ぶのは、まだ楽しかった。


閉店後、レジの売上を数えた社員が言った。


「今日、いつもよりずっと売れました」


「うん。明日も頑張ろう」


ゆみは笑った。


今日の売上を表に入れると、不足額の末尾が少しだけ減った。


***


西条は海外の仲介会社の住所を訪ねた。


そこにあったのは、別の会社の名前が入った小さな事務所だった。受付の女性は、仲介会社が数日前に退去したと告げた。


「新しい連絡先は?」


「承っておりません」


西条は建物を出て、送金の控えを開いた。


五万着を売るための前払金。返してもらえると信じた金の行き先が、住所ひとつで途切れた。


携帯が鳴った。六億円を貸した金融会社だった。


「提出いただいた資料に重大な相違がありました。使途についての資料を、指定日までに揃えてください」


「仲介先と連絡を取っています」


「ゆみ様の会社は、保証への同意を否認されています。その点も調査中です。御社の返済義務は別です」


通話が切れた。


西条はゆみの番号を押しかけて、手を止めた。


***


翌日、ゆみの銀行から返事が届いた。


「御社だけの資料で、運転資金として審査しました。ただ、今回ご希望の全額を、この時期にお貸しするのは難しいです」


「幾らなら?」


担当者が示した額では、生地代と給与を両方払えない。


「返事は、今日じゃなくて大丈夫です」


「ありがとうございます。ほかの方法も探します」


ゆみは頭を下げた。


店に戻る道で、不動産会社の看板が目に入った。自分が今住んでいる部屋の査定を頼めば、資金は作れるかもしれない。


だが売却には時間がかかる。売れたとしても、この店が続かなければ、帰る家まで失う。


それでも、何もしないわけにはいかなかった。ゆみは看板の番号を携帯に控えた。


***


夜、社員が帰ったあと、ゆみは大虎からの返信を開いた。


『売れるようにしたのは、ゆみだよ』


彼は今でも、あの頃と同じように言う。


けれど、あの頃の自分は、大虎が無職だと思い込んでいた。事情を聞く前に追い出し、西条の言葉を信じた。


大虎が隠し事をしたのも事実だ。ゆみが選んで別れたのも事実だった。


ゆみは長いあいだ、送信欄を見つめた。


『少しだけ、会って話せる?』


返事はすぐには来ない。


店の電気を消して、シャッターを下ろす。歩き出した時、携帯が震えた。


『明日の夕方なら。愛菜にも、会うことを伝えておく』


ゆみは画面を見たまま、足を止めた。


大虎の隣にはもう、愛菜がいる。


明日、彼の前に立った時、自分は何を頼むつもりなのだろう。


第82章 二十億円貸してください


約束の場所は、カルソック本社の小さな応接室だった。


ゆみは受付で名前を告げ、案内された椅子に座った。鞄の中には資金繰り表と保証申込書、それに銀行の回答を入れてある。


話す順番も決めてきた。


店に足りない金額。銀行で借りられる金額。次の二百着を売る計画。


まずは、それを説明する。昔の恋人だからと、甘えてはいけない。


扉が開いた。


「待たせたな」


大虎は上着を脱ぎ、向かいに座った。


その声を聞いただけで、用意してきた言葉が揺れた。


「忙しいのに、ごめん」


「話を聞く時間は取ってある」


ゆみは書類を机に並べた。


大虎は途中で口を挟まなかった。大口注文が消えたことも、生産を減らしたことも、ゆみ自身の言葉で聞いた。


「来月末までで、四千八百万円か」


「うん。銀行で借りられる分を引けば、もう少し減る。でも、その先の売上まで確かとは言えない」


「新作の原価は?」


ゆみは次の紙を出した。工房の見積もりと販売価格、今ある在庫の一覧だった。


大虎は順に目を通した。


その横顔を見ているうちに、ゆみは台所の大虎を思い出した。


帰ればいつも、夕飯があった。


遅くなると言えば、温め直せるようにしてくれた。仕事の愚痴を言えば、最後まで聞いてくれた。


それなのに自分は、働いていない男だと決めつけた。


「だいちゃん」


大虎が顔を上げる。


「私、あの日のこと、何回も思い出す」


ゆみの指が、保証申込書の端を押さえた。


「あなたを追い出した時。西条さんと一緒なら安泰だって、本気で思ってた」


「うん」


「その選択で後悔しないかって、聞いてくれたよね」


大虎は答えなかった。


「しどころがないって、私、言った」


涙が落ち、紙に小さな染みを作った。


「今は、後悔しかない」


大虎は机のティッシュを彼女の側へ寄せた。


ゆみは使わずに立ち上がった。


「ごめんなさい」


深く頭を下げた。そのまま膝を折り、床に両手をつく。


大虎が椅子から腰を浮かせた。


「ゆみ、座って話そう」


「二十億円、貸してください」


言ってしまうと、もう顔を上げられなかった。


「お願いします。店も、借金の話も、全部終わらせたい。西条さんとのことを、もう終わらせたいの」


大虎は彼女のそばまで来た。


「顔を上げて」


ゆみは首を振った。


「お願い……」


「二十億円の使い道を聞かせてくれ」


ゆみはようやく大虎を見た。


「保証の上限が二十億円だった。今は六億円だって、分かってる。私の会社が払うかどうかも、争ってる。でも、また何か出てきたら……」


言葉が続かなかった。


大虎はしばらく待った。


「あの紙の金額と、店に必要な金は別だよ。ゆみの弁護士も、そう言ってるだろ」


「うん」


「西条に金を返させる話まで、ゆみが一人で引き受ける必要はない」


「でも、店は待ってくれない」


「それは、ここに書いてある四千八百万円の話だ」


ゆみは唇を噛んだ。


自分が何を頼んでいるのか、途中から分からなくなっていた。店を続ける金が欲しい。西条の影から抜けたい。何より、もう怖い思いをしたくない。


大虎なら、全部片づけてくれる。


そう考えてここへ来たことを、否定できなかった。


「……ごめん」


大虎は椅子を少し引いた。


ゆみは立ち上がり、座り直した。


「愛菜と相談して返事する」


返ってきたのは、その言葉だった。


「今は、決めてもらえない?」


「今ここで、二十億円を貸すとは約束できない」


ゆみは頷いた。


土下座をすれば、昔のように手を差し伸べてもらえる。そんな期待が、どこかにあった。


けれど大虎は、復縁の話をするために会ったのではない。ゆみが持ってきた会社の資料を、最後まで読んでいた。


「返事、待ってる」


ゆみは書類を鞄にしまった。資金繰り表だけは、大虎が預かった。


***


本社を出ると、外はもう暗かった。


携帯に社員から連絡が入っている。


『明日の通販の撮影、予定どおり進めて大丈夫ですか』


ゆみは画面を拭いた。


『予定どおりでお願いします』


送ってから、建物を振り返った。


三年前なら、大虎と同じ家へ帰れた。


今は、返事を待つしかない。


***


その夜、大虎は愛菜の前に資金繰り表を置いた。


「ゆみから、二十億円を貸してほしいと言われた」


愛菜は紙を読んだ。数字を追い、最後のページまでめくる。


「この店が来月必要なのは、四千八百万円だね」


「うん」


愛菜は大虎を見た。


「ゆみさん、本当は何を助けてほしかったんだろう」


第83章 返事を待つ朝


愛菜は資金繰り表をもう一度めくった。


来月の欄だけを見れば、四千八百万円を入れることで支払いはできる。だが、その次の月には、また不足が出る。小さな工房で作る服は一着あたりの原価が高く、大口の売り場も戻らない。


「ゆみさん、この先の数字も見てるんだよね」


「見てる。確かな売上とは言えないと、自分で言ってた」


「だいちゃんに、どう返すつもりだったの?」


「二十億円の返済計画はなかった」


大虎は椅子の背に寄りかかった。


愛菜は表を閉じず、机に置いた。


「怖くなって、全部どうにかしてほしかったんだと思う。私も発表会のあと、誰かがこの書類を持っていってくれないかなって思った」


「そうだったのか」


「うん。だいちゃんが隣にいてくれたから、投げ出さずに済んだ。でも、怖い気持ちが消えたわけじゃなかったよ」


大虎は愛菜を見た。


「ゆみに金を渡せば、今月は越せる」


「その次も、だいちゃんが払う?」


彼は答えなかった。


愛菜は資料の端を揃えた。


「私は、ゆみさんの服が好き。一着買ったのは、大虎の元恋人が作ったからじゃないよ。試着して、欲しかったから」


「分かってる」


「でも、好きな服があることと、今の店にお金を貸せることは、同じじゃないね」


大虎は静かに頷いた。


「明日、俺から返事する」


***


翌朝、ゆみは携帯を机の上に置き、通販の撮影に立ち会っていた。


社員が新作の袖を整える。光を当てると、生地の色が少し明るく見えた。


「もう少し横から撮って。縫い目が分かるように」


「はい」


声が出る。指示もできる。


いつもどおりの自分でいられることに、ゆみは少しほっとした。


携帯が鳴ったのは、最後の一枚を撮り終えた時だった。


大虎の名前が表示されている。


「ちょっと、外すね」


ゆみは事務所へ入って扉を閉めた。


「もしもし」


「昨日の話、返事をする」


ゆみは椅子に座らなかった。


「うん」


「二十億円の融資は引き受けない」


窓の外を、配送の車が通った。


ゆみは片手を机についた。


「……四千八百万円だけでも、だめ?」


「今の計画のままでは、貸すと約束できない。来月を越しても、その次の支払いが残る」


「売上は増やす。今も、社員と頑張ってる」


「昨日の売上も資料にあった。見てるよ」


「だったら……」


言葉が続かなかった。


大虎は黙って待った。


「愛菜さんが、嫌だって言ったの?」


聞いた瞬間、ゆみは目を閉じた。


「俺が決めた」


返事は短かった。


「愛菜と話した。でも、融資を引き受けないのは俺の判断だ」


ゆみは机から手を離した。


誰かを責めれば、少しは楽になれると思った。その誰かに、愛菜を選ぼうとした。


「ごめん。今のは忘れて」


「ゆみ」


「うん」


「店をどうするかは、顧問と話してくれ。俺の返事を待つために、決める日を延ばさないでほしい」


ゆみは頷いた。電話越しには見えないので、もう一度声にした。


「分かった」


「預かった資料は今日、返す」


「忙しいのに見てくれて、ありがとう」


それだけは、最後まで言えた。


***


事務所の扉を開けると、社員が写真を選んでいた。


「社長、この一枚がいいと思います」


画面の服は、きれいだった。


「うん。それで掲載して」


ゆみは隣に座り、説明文を直した。


大虎から金が入る予定を、どこにも書いていなくてよかった。社員には、約束していない金を当てにして働かせずに済んだ。


昼過ぎ、顧問が来た。


ゆみが融資を断られたと伝えると、彼は書類を二つに分けた。


「営業を続けた場合と、店を閉めた場合です」


ゆみは、閉店の方に手を伸ばした。


「読むだけだから」


顧問は頷いた。


退去の予告期限。未納を出さずに払う給与。客への返金。残った在庫の売却。


店を閉めるにも、金と時間が要る。


「今なら、社員への支払いを優先して終える計画が立てられます。来月まで使い切ると、その選択も難しくなります」


ゆみは最後のページを見た。


そこには、判断の期限が記されていた。


十日後。


融資の返事を待つ時間は終わった。今度は、自分が返事をしなければならなかった。


第84章 閉店を知らせる日


十日の間に、ゆみはもう一度、取引先を回った。


新作の数量を減らした見積もりを持ち、仕入れの支払日も相談した。銀行へは直近の売上を追加で出した。


少し待ってくれた会社はあった。店の服を褒めてくれた人もいた。


それでも、不足額は埋まらなかった。


九日目の夜、ゆみは顧問と向かい合った。


「私の部屋、売ったらどうですか」


査定は頼んであった。机には、不動産会社から届いた価格の目安がある。


「売却して会社に入れても、今の店舗を維持するには、次の売上が必要です。買い手がいつ決まるかも分かりません」


「もう少しだけ、時間があれば」


顧問は、その言葉を否定しなかった。


「来月を越えられる方法を、私も探しました。ただ、今日は最後の給与と退去費用を残せるか、判断していただく日です」


ゆみは膝の上で手を握った。


残っている金を、もう一度服に変える。売れれば店は続く。売れなければ、社員への支払いまで失う。


閉店の資料を、もう読むだけでは済ませられなかった。


「閉めます」


顧問が顔を上げた。


「この店、閉めます。給与と、お客様への返金を先に確保してください」


言い終えても、涙は出なかった。


顧問が日付を書き込む音が、事務所に響いた。


***


翌朝、ゆみは開店前に社員を集めた。


顧問にも同席してもらった。決めた日程と、雇用を終えるまでの手続きが書かれた紙を、一人ずつ渡す。


「今月末で、店を閉めます」


誰も紙をめくらなかった。


「納品が遅れて、大きな注文を失いました。資金を調達する方法も探しましたが、続けるためのお金を用意できませんでした」


ゆみは顔を上げたまま、話した。


「皆さんの給与と、必要な手続きにかかるお金は確保します。次の仕事を探す時間も、顧問と相談して取れるようにします」


販売担当の社員が、小さく口を開いた。


「もう、決まったんですね」


「うん」


「私、ここで働きたくて応募したんです」


ゆみは頷いた。


覚えている。面接の日、その社員は店の服を着て来た。


「知ってる。あの日の服、似合ってた」


社員は下を向いた。


ゆみは深く頭を下げた。


「ごめんなさい」


許してもらうための言葉ではなかった。彼女たちが来月もここで働く予定を、自分は守れなかった。


顔を上げると、経理担当が紙をめくっていた。


「お客様への告知は、今日ですか」


「うん。私が書く」


「返金の窓口と、期限も入れてください。問い合わせは、私も対応します」


「ありがとう」


***


『閉店のお知らせ』


ゆみは、その下に何度も文章を書き直した。


長年のご愛顧。諸般の事情。残念ながら。


どの言葉も、店の中で聞いてきた客の声から遠かった。


最後は短くした。


今月末で営業を終えること。予約してもらった商品を届けられないこと。返金の方法と、問い合わせ先。


そして、ここで服を選んでくれた人への礼を書いた。


投稿すると、すぐに通知が増え始めた。


『最後に行きます』


『予約していた服は、もう作らないんですね』


『残念です。仕事の日に、ここの服を着ていました』


ゆみは一件ずつ読んだ。


謝る相手には謝り、来てくれる人には営業時間を伝えた。


***


昼過ぎ、西条から電話が来た。


「閉店するって、本当?」


「本当」


「少し待って。海外の仲介先を探してる。話が戻れば――」


「西条さん」


ゆみは遮った。


「私の会社の名前も、服も、使わないでください。連絡は弁護士にお願いします」


「僕も困ってるんだよ」


「分かってる。でも、あなたの計画を待つために、社員の給与は使えない」


西条の息遣いだけが聞こえた。


「そのうち僕の会社も、全部取られるかもしれない」


「私にできるのは、あなたが持っている書類を全部返すよう頼むことだけです」


ゆみは通話を終えた。


***


閉店後、社員が帰った店に一人で残った。


棚はまだ埋まっている。照明をつければ、昨日と同じ店に見えた。


入口の扉を開け、外から看板を見上げる。


最初にこの看板をつけた時、大虎が隣に立っていた。


「いい店にしような」


そう言われて、自分の店だよ、と笑って返した。


いい店になった日もあった。


それまでなかったことにはしたくない。


ゆみは中へ戻り、レジの横に閉店のお知らせを置いた。


『今月末まで、営業いたします』


その一行を、指で押さえて伸ばす。


まだ店は終わっていない。


最後の客を送り出すまでは、ここに立つ。


第85章 残った鍵


最後の営業日、ゆみはいつもと同じ時間に店を開けた。


棚の服はずいぶん減っていた。予約していた客への返金も進み、残った商品には、販売するものと引き取り先へ渡すものの印をつけてある。


社員が入口のガラスを拭いた。


「今日だけは、きれいにしておきたくて」


「ありがとう」


ゆみも布を取り、レジ台を拭いた。


昼前から、客が途切れなくなった。


新作を届けられず、謝らなければならない人も来た。何度も同じ服を買ってくれた人は、最後にもう一着選んだ。


「これ、仕事に着て行きます」


「袖丈、大丈夫ですか」


「大丈夫。いつも、私に合うのを選んでくれるから」


ゆみは袋の口を折った。


その手つきまで、明日から必要なくなる。


***


西条は東辰キャピタルの応接室に座っていた。


佐伯が机に置いたのは、次の返済予定と担保に入れた不動産の資料だった。


「この回の返済が難しいというお話ですね」


「店が閉まる。企画報酬も、もう入らない」


「ほかの収入と資産を確認しましょう」


「海外の仲介先に金を送った。そっちを取り戻せれば」


「そちらの六億円の借入は、当社とは別です。回収の見込みだけで、ここへの返済を延ばす約束はできません」


西条は机の下で拳を握った。


扉が開き、本城圭一が入ってきた。


西条は思わず背筋を伸ばす。


「本城さん。もう一度だけ、つないでもらえませんか」


圭一は佐伯の隣に座った。


「何につなぐんです」


「次の仕事が動くまでです」


「その仕事は?」


西条は答えられなかった。


圭一は返済表を見た。


「ゆみさんの店は、ここの担保じゃない。条家の名も、この契約にはない。残っているあなたの資産で話をしてください」


その声に、怒鳴るような強さはなかった。


けれど、西条には逃げ道を一つずつ閉じられるように聞こえた。


「海王の株はあります」


佐伯が顔を上げた。


「冬彦さんとの共同会社が持つ株ですね」


「三パーセントある。売れば、金になる」


「西条さん一人では、その会社が持つ株全部を売れません」


「冬彦さんを説得します」


圭一は西条を見た。


「説得する前に、契約を確認してください。売れる範囲と値段が分かってからです。話を持ってきただけで、返済日が変わるわけではありません」


西条は頷いた。


自分の不動産か。冬彦と残していた海王の株か。


どちらも、手放したくなくて残してきたものだった。


***


夕方、ゆみの店に、最初の頃から通っていた客が来た。


「遅くなってごめんなさい。まだ見られる?」


「もちろんです」


客は残った服をゆっくり見て、一枚のブラウスを選んだ。


試着室から出てくると、ゆみは鏡の前で裾を整えた。


「この色、似合います」


「前にも、そう言ってくれたわね」


「覚えてます。初めて来てくれた時も、この色でした」


客が笑った。


「次は、どこで服を作るの?」


ゆみの手が止まった。


「まだ、決まっていません」


「そう。決まったら教えてね」


何か言おうとすると、泣いてしまいそうだった。


ゆみは頷き、商品を包んだ。


客を見送り、扉の札を裏返した。


『CLOSED』


毎晩していたことだった。


今日だけは、明日の朝、表に戻さない。


***


社員と最後の売上を確認し、返金の残りと在庫の引き渡し予定を照合した。


給与の振込を済ませた経理担当が、受付用の電話を机に置く。


「残った問い合わせは、こちらの番号にまとまっています」


「分かった。最後まで、ありがとう」


社員たちは私物をまとめた。別れの言葉を交わし、何度も店を振り返って出ていった。


一人になると、ゆみはレジの引き出しを開けた。


奥に、予備の鍵が一本入っていた。


大虎に渡していた鍵だ。別れたあと、ほかの荷物と一緒に返ってきた。


仕事をしていないくせに、店にはよく来る男だった。


荷物が重い日は、黙って運んでくれた。蛍光灯が切れれば替えてくれた。自分が接客している間に、届いた箱を片づけてくれた。


ゆみは予備の鍵を、店の鍵と同じ輪につけた。


今から大虎を呼んでも、あの頃には戻れない。


明日、この二本を返す。


ゆみは照明を消し、暗くなった売り場を一度だけ振り返った。


***


その夜、冬彦の携帯に西条から着信が入った。


「共同の株、売る話を進めたい」


「前は、売らないと言っただろ」


「状況が変わった」


冬彦は黙った。


西条は声を落とした。


「東辰に返す金がない。あの株まで手放したら、僕にはもう何も残らない」


冬彦は電話を持ち直した。


その三パーセントは、自分にとっても、海王とつながる最後の株だった。


第86章 帰る部屋、働く場所


店の荷物を運び出したあと、ゆみは管理会社に鍵を返した。


担当者は二本を数え、受領書を差し出した。


「こちらでお預かりします。精算の書類は、後日お送りします」


「ありがとうございました」


ゆみは署名した。


入口には、外した看板の跡が残っていた。通りから見れば、次に誰かが借りるための空いた区画だった。


鞄に手を入れた時、いつもの鍵の輪がなかった。


その軽さで、ようやく店がなくなったと分かった。


***


閉店の処理は、店の扉を閉めても続いた。


顧問と借入先を回り、残った在庫の売却代金や敷金で、どこまで返せるかを確認する。


給与と客への返金を済ませても、会社の借入が全部なくなるわけではなかった。ゆみ自身が保証していた分についても、返済の相談が残る。


西条の二十億円の書類とは違う。こちらには、ゆみが自分で書いた署名があった。


「部屋を売って、残りの返済に使います」


そう決めるまでに、何度も計算し直した。


家を残したまま働き、少しずつ返せるかもしれない。そのためには、まず仕事が必要だった。


ゆみは履歴書を書き、いくつかのアパレル会社に応募した。


デザインを募集していた会社からは、今季の採用枠が埋まったと返事が来た。別の会社では面接まで進んだが、希望した業務とは条件が合わなかった。


一度は、販売職にも応募した。


面接で、自分の店を閉めた理由を聞かれた。


西条の話をすれば長くなる。大虎の名を出せば、もっと違う話になる。


「生産体制の変更で納品が遅れ、大口の注文を失いました。資金を用意できず、閉店を決めました」


面接官は頷き、接客経験について質問した。


丁寧に答えたつもりだった。


数日後、不採用の通知が届いた。


ゆみは履歴書の下書きを開き、希望する勤務条件を書き直した。


***


冬彦と西条は、それぞれの弁護士と一緒に東辰を訪れた。


佐伯の隣には本城圭一が座っている。


「買い手の候補から、共同会社が保有する海王株三パーセントの評価が出ました」


佐伯は資料を配った。


買い手は東辰と取引のある投資会社だった。共同会社の負債と売却費用を確認したうえで、残る代金を二人の持分に応じて分ける案が示されている。


冬彦は弁護士と数字を確かめた。


父から会社を追われても、この株だけは残っていた。持っていれば、いつか戻れるかもしれないと思っていた。


「売らなかったら、どうなる」


西条が隣で顔を上げた。


圭一は冬彦に答えた。


「あなたが持ち続けることはできます。ただ、西条さんへの返済請求は止まりません。西条さんの持分をどう処分できるか、別の手続きの話になります」


冬彦は資料を伏せた。


共同会社を作った時は、二人で海王に食い込むつもりだった。今は、相手の借金を見ながら自分の残した株の扱いを考えている。


「西条さんの借金は、僕の保証じゃない」


「承知しています」


佐伯が答えた。


冬彦はもう一度、弁護士を見た。小さく頷かれる。


「売却に同意する。代金も契約も、僕の分と西条さんの分を分けてください」


西条は安堵したように息を吐いた。


冬彦は彼を見なかった。


「これを終えたら、共同の事業も終える」


西条の表情が止まった。


***


ゆみの部屋に、購入を検討する夫婦が来た。


不動産会社の担当者が、窓の向きや収納を説明する。


「キッチン、使いやすそうですね」


妻の方が言った。


「はい」


ゆみは壁際に立って答えた。


そこには、少し前まで大虎の使っていたフライパンが掛かっていた。今は売却の写真を撮るため、調理道具を片づけてある。


夫婦は何度か部屋を見回し、礼を言って帰った。


玄関を閉めると、ゆみは台所に入った。


この部屋も家具も全部、自分のものだと言った。


だから出ていってほしいと、大虎に言った。


今度は、自分が出ていくために、知らない人へ部屋を見せている。


ゆみは流しの前で、両手をついた。


***


数日後、買いたいという申し出が届いた。


希望の価格より低かった。それでも返済と引っ越しに回せる額が残る。顧問と不動産会社に確認して、ゆみは売却を進めると答えた。


次の住まいは、一人で暮らせる小さな賃貸を探すことになった。


仕事はまだ決まっていない。


夜、求人を見ていると、見覚えのある会社名が画面に現れた。


『まなブランド 店舗スタッフ募集』


ゆみは指を止めた。


仕事内容を開く。販売、接客、商品管理。店で客の声を聞き、企画担当へ届ける仕事も含まれていた。


自分が、毎日してきたことだった。


ゆみは応募の欄まで画面を下げた。


愛菜の店で働く。


そう考えることさえ、これまでは避けていた。


けれど画面の向こうには、服を着て笑う客と、その服を渡すための仕事がある。


ゆみはスマートフォンを置かず、募集要項を最初から読み直した。


第87章 雇ってください


応募書類の志望動機を、ゆみは何度も書き直した。


『以前から御社の商品に関心があり――』


そこまで打って、消した。


知っていたのは、愛菜の会社が大きくなっていることだった。店を閉めた自分が、そこで働けるかもしれないと思った。


きれいな理由を並べても、面接で話せなくなる。


ゆみは、自分の店でしてきた仕事を書いた。接客、発注、在庫の管理。客から聞いた不満を、次の商品へ反映したこと。


最後に一行、付け足した。


『会社の運営は終えることになりましたが、服を届ける仕事を続けたいと思っています』


送信したあと、しばらく画面を閉じられなかった。


***


面接は、まなブランドの店舗の奥にある部屋で行われた。


ゆみを迎えたのは店長だった。仕事内容や勤務条件を確認したあと、扉が開いた。


「遅くなりました」


愛菜が入ってきた。


ゆみは立ち上がり、頭を下げた。


「今日は、お時間をいただきありがとうございます」


「こちらこそ。座ってください」


愛菜は履歴書を開いた。


店で向かい合った時は、互いの作った服の話をした。今日は、その人の前で雇ってほしいと頼む。


ゆみは膝の上で手を揃えた。


「募集しているのは、店舗スタッフです。仕入れや商品の企画は別の担当が決めます。その働き方で大丈夫ですか」


愛菜が聞いた。


「はい」


「ご自身の店では、代表として決めてこられましたよね」


「それがうまくいかなかった時もあります。ここでは、店長の指示を受けて働きます。意見があれば、提案として伝えます」


店長が履歴書に目を落とした。


「返品や苦情には、どう対応していましたか」


ゆみは、袖口の縫い目がほどけた客の話をした。


何度着たかを先に尋ね、相手を怒らせてしまったこと。服を預かって確認すると、縫製に問題があったこと。


「そのあとからは、まず困った点を聞くようにしました。こちらで判断できない時は、返事をする日を伝えて、確認しました」


「返事が遅れそうな時は?」


「期限になる前に連絡しました。最初は、それもできていませんでした」


愛菜は黙って聞いていた。


ゆみは、履歴書の経営実績の欄を見た。年商五億円という数字を入れてある。


今ここで話しているのは、その売上を作るまでに、自分が客へ何度謝ったかということだった。


***


店長が勤務表の説明をするため、別のファイルを取りに出た。


愛菜と二人になると、ゆみは息を吸った。


「一つ、謝りたいことがあります」


愛菜が顔を上げた。


「大虎にお金を断られた時、愛菜さんが嫌だって言ったのか、聞きました」


「そうだったんですね」


「勝手に、あなたのせいにしようとしました。ごめんなさい」


愛菜は少しだけ黙った。


「だいちゃんとは、ゆみさんが持ってきた資料を見て話しました。店を続けたい気持ちは、二人とも分かっていました」


「はい」


「融資の返事は、だいちゃんがしたと思います」


ゆみは頷いた。


「分かっています」


店長が戻ってきた。


ゆみは顔を上げ、勤務表の説明を聞いた。


***


数日後、採用の連絡が来た。


給与は募集要項に書かれていた額だった。以前の店で自分が受け取っていた報酬とは違う。それでも毎月、働いた分を受け取れる。


ゆみは返事をした。


「よろしくお願いします」


入社の手続きで愛菜に会った時、ゆみはもう一度、頭を下げた。


「私を、雇ってください」


言ってから、少し変な言い方になったと気づいた。


愛菜は笑わなかった。


「店長から、接客の経験を生かしてほしいと聞いています。こちらこそ、よろしくお願いします」


ゆみは条件の書かれた紙を読み、質問を二つした。


それから、自分の名前を書いた。


***


初出勤の日、ゆみは新しく借りた部屋で目を覚ました。


入社までに、部屋の売却手続きと引っ越しを済ませていた。


荷物はまだ箱に入っている。売った部屋より狭く、台所も小さい。


湯を沸かし、パンを一枚焼いた。


誰かが朝食を用意してくれるわけではない。今日は自分が出勤するための朝だった。


店に着くと、店長から名札を渡された。


肩書きはない。


名前だけの札を胸につけ、昨日教わった場所に鞄を置いた。


「最初は、こちらの棚をお願いします。迷ったら聞いてください」


「はい」


ゆみは服を並べた。色ごとに分け、サイズの順に揃える。


開店の時間になり、入口の扉が開いた。


最初の客が、店内を見回す。


ゆみは一歩前へ出た。


「いらっしゃいませ」


その声は、自分の店に立っていた時と同じように出た。


第88章 最後の三パーセント


海王の株を売る手続きが終わった日、冬彦は銀行の入金明細を見ていた。


自分の分の代金は、確かに入っている。


それと引き換えに、海王の株は一株も残らなかった。


共同会社の保有していた三パーセントは、東辰が紹介した投資会社へ移った。買い手の資料には、本城圭一の関連会社も出資者として記されていた。


山王会の総本部長。


その名を知っていながら、冬彦は売却に同意した。


「こちらで完了です」


弁護士の声に、冬彦は頷いた。


「父に、報告した方がいいだろうか」


「売却に必要な通知は済んでいます。ご家族としてお話しになるかは、ご本人で決めてください」


冬彦は携帯を手に取った。


父の番号を開く。


株を売ったと伝えて、そのあと何を言えばいいのだろう。


もう一度会社へ戻してほしい。


その言葉を断られるのが怖くて、電話をかけられなかった。


***


西条の分の売却代金は、冬彦とは別に精算された。


東辰への返済に回し、担保に入れた不動産の処分も進める。両方を充てて、広告費の借入にようやく区切りをつけられる見通しが立った。


だが、海外販売を理由に借りた六億円が残っている。


「こちらの債権者にも、資産と送金の記録を提出します」


西条側の弁護士が言った。


「海外の仲介先に送った金は?」


「回収を試みます。ただ、返ってくる前提で計画は立てられません」


西条は本城を見た。


「そちらのつながりで、仲介先を探してもらえませんか」


圭一は、机に置かれた送金記録を一度見た。


「弁護士へ、持っている資料を全部渡してください。隠しているものがあるなら、先に出すことです」


西条は目を伏せた。


金融会社へ提出した保証申込書。その元に使った、ゆみの署名入りの新店計画書。


同じ鞄の中に、両方入っていた。


「ゆみさんの会社には、返済を求めないという通知が出ています」


弁護士が続けた。


「提出書類への署名の流用については、別に説明しなければなりません。融資先から照会が来ています」


西条は鞄を開けた。


資料を取り出し、机に置く。


ゆみの名前を使えば前へ進めると思っていた。その名前を頼れなくなると、自分が借りた金だけが残った。


***


その日の夕方、大虎のもとに海王の株主変更の報告が届いた。


三パーセントの移転と、買い手の出資関係まで確認されている。


大虎は資料を読み、閉じた。


机の時計を見る。


「次の予定まで、何分ある?」


「一時間ほどです」


「まなブランドの店に寄る。愛菜にサンプルを渡す約束がある」


秘書が頷いた。


***


ゆみは、客に頼まれた色違いの上着を探していた。


前の店と違い、在庫の場所をまだ全部覚えていない。迷って店長に聞くと、奥の棚を教えてくれた。


「ありがとうございます」


上着を持って戻り、客へ渡す。


「こちらでいかがでしょうか」


客が鏡へ向かった時、入口に立つ男が見えた。


西条だった。


ゆみは店長に一言伝え、入口へ行った。


「何のご用ですか」


「ここで働いてると聞いた」


「勤務中です。私の会社に関する連絡は、弁護士へお願いします」


「今日は君の会社の話じゃない。愛菜さんに会いたい」


ゆみは彼を見た。


「約束はありますか」


「ない。でも、話せば分かってもらえる」


「店長に確認します。こちらで待ってください」


西条は一歩、店内へ入ろうとした。


ゆみは扉の脇から動かなかった。


「ここでお待ちください」


「君から頼んでくれればいいだろ。雇ってもらったんだから」


店の奥で、試着室のカーテンが開いた。


ゆみはそちらを一度見た。客が待っている。


「私に、社長との面会を決める権限はありません」


そう答えた時、背後から声がした。


「西条さん」


振り返ると、大虎が紙袋を持って立っていた。


西条の肩が強張る。


大虎は店の奥へ目を向け、ゆみに言った。


「お客さんのところへ戻って。店長には俺から話す」


ゆみは店長の顔を見た。頷かれ、客のもとへ戻る。


大虎は西条へ向き直った。


「愛菜に、何を頼むつもりだった?」


第89章 もう借りられない名前


西条は、すぐには答えなかった。


大虎の持つ紙袋に目をやり、それから店の奥を見た。


「海外販売の案件を、引き継いでもらいたい」


「販売先は決まってるのか」


「話は進んでいた。ブランドが変わっても、流通は使える」


「仲介先と連絡が取れていないだろ」


西条の顔が強張った。


「なぜ、あなたが知ってる」


「ゆみの会社の名が使われた案件だ。報告は受けてる」


大虎は入口の脇へ寄った。客が一人、二人の横を通って店に入る。


西条は声を落とした。


「愛菜さんの会社なら、製造を立て直せる。五万着を売れば、借入も返せる」


「客のいない五万着を、愛菜に作らせるのか」


「客は探せる」


「それを契約した売上としては扱えない」


西条は口を閉じた。


店長が奥へ電話をかけ、愛菜が出てきた。


「西条さん、お話は聞きました。店頭ではお客様の邪魔になります。五分だけ、奥で伺います」


西条は大虎を見たが、彼は何も言わなかった。


***


奥の部屋で、愛菜は机の向こうに座った。店長も同席し、大虎は入口の近くに立った。


西条が海外販売の計画を説明する。


前払金を取り戻し、残っている流通の約束を生かす。まなブランドが加われば、融資先にも説明できるという。


愛菜は最後まで聞いた。


「引き継ぐには、何を支払う必要がありますか」


「まず、これまでの費用を精算してもらえれば」


「その費用で、何を買えるんですか。受注ですか。商品ですか」


西条は鞄を開け、資料を出した。


愛菜は一枚ずつ読んだ。


送金の控えはある。だが、それと引き換えにまなブランドへ渡せる商品も、販売先との確かな契約も示されなかった。


「引き受けません」


西条が身を乗り出した。


「大虎さんがついているなら、その程度の資金は――」


「まなブランドが売る服の話をしています」


愛菜は資料を返した。


「大虎のお金が使えるかどうかで、この計画を決めるつもりはありません」


「それでは、私の会社が終わる」


愛菜は黙った。


西条は大虎へ顔を向けた。


「ゆみの店だって、あなたが金を出していれば残った」


大虎は目を逸らさなかった。


「ゆみに融資を断ったのは俺だ。その返事は、ゆみにした」


「同じ業界の店が一つ消えて、愛菜さんの方は都合がいいでしょう」


机に置いた西条の資料が、ゆっくり愛菜の手で揃えられた。


「お話はここまでです」


愛菜の声は変わらなかった。


「ゆみさんは勤務中です。これから会社の件で連絡する時は、弁護士を通してください。私への事業の提案も、担当窓口へお願いします」


西条は資料を受け取った。


店長が扉を開ける。


誰も、もう一度話そうとは言わなかった。


***


西条が出ていったあと、愛菜は店長に礼を言った。


「急に入ってもらって、すみません」


「今後の来店時の対応も、スタッフに共有します」


「お願いします」


売り場では、ゆみが客へ商品を渡していた。


「こちらの色なら、お手持ちのスカートにも合わせやすいと思います」


客が頷き、二人で鏡を見る。


愛菜は声をかけず、そばの棚を整えた。


接客が終わると、ゆみが近づいてきた。


「すみません。西条さんが来たことで、お時間を取らせました」


「待ってもらう場所を案内して、店長に伝えてくれたんですね。ありがとうございます」


ゆみは少し驚いた顔をした。


「それからは、お客様に戻ってくれた。助かりました」


「はい」


ゆみは名札を直し、売り場へ戻った。


大虎はその背中を見ていた。ゆみを励ます言葉は、今は愛菜に任せた。


***


奥の机で、大虎はようやく紙袋を渡した。


「頼まれてた生地のサンプル」


「ありがとう。……これを届けに来ただけだったのにね」


愛菜が袋を開ける。中には色の違う布が四枚入っていた。


一枚を手に取り、窓の光へかざす。


「これ、いいね。写真で見たより柔らかい」


大虎は時計を見た。


「もう戻る時間?」


「うん」


「だいちゃん、今日も忙しいね」


「愛菜もだろ」


彼女は笑った。


「夜、ご飯は?」


「今日は遅くなる。待たずに食べて」


「分かった。帰ってきたら、温めるね」


大虎は一瞬、返事を忘れた。


「どうしたの?」


「いや。ありがとう」


愛菜はサンプルを袋へ戻した。


「いってらっしゃい」


***


車に乗ると、秘書が次の会議の資料を差し出した。


大虎は目を通しながら、携帯に入っていた別の連絡を開いた。


注文していた指輪が、仕上がったという。


『お受け取りの日程をお知らせください』


大虎は予定表を確認し、返事を打った。


『明日、受け取りに行きます』


送信してから、携帯をしまう。


「明日の夕方は、予定を入れないでくれ」


秘書が顔を上げた。


「承知しました」


第90章 あのベンチで


大虎が帰ると、台所に小さな灯りがついていた。


愛菜はテーブルで、生地のサンプルと手帳を広げている。


「ただいま」


「おかえり。ご飯、温めるね」


立ち上がろうとした彼女に、大虎は声をかけた。


「先に、一つ聞いていい?」


「何?」


「明日の夕方、時間ある?」


愛菜は手帳をめくった。


「打ち合わせは三時まで。そのあとは大丈夫」


「河川敷に来てほしい。初めて会ったところ」


彼女が手を止める。


「大事な話?」


「うん」


愛菜は大虎の顔を見てから、頷いた。


「分かった。行く」


それ以上は聞かなかった。


***


翌日、大虎は指輪を受け取った。


担当者が箱を開ける。選んだ石が、店の灯りを受けて光った。


「ご確認ください」


大虎は指輪を見た。愛菜がデザインを描く手を思い浮かべる。試作品の縫い目を確かめる指も、河川敷で初めて隣に座った時の手も。


「これでお願いします」


箱を受け取り、内ポケットへ入れた。


車へ戻ると、秘書が最後の予定を確認した。


「このあとは、ご指定のとおり空けてあります」


「ありがとう」


大虎は頷いた。


携帯を見ても、連絡を入れる用事はない。約束した時間に、愛菜が来るのを待つだけだった。


***


河川敷のベンチは、あの日と同じ場所にあった。


大虎は腰を下ろし、川を眺めた。


ゆみに追い出され、行く先も決めずに座った場所。泣きながら歩いてきた愛菜が、なぜか隣に座った場所。


足音がして、顔を上げる。


愛菜が片手を振っていた。


「待った?」


「少しだけ」


「珍しい。いつも私の方が、だいちゃんを待ってる気がする」


「今日は俺が呼んだから」


彼女は隣に座った。


風に髪が揺れる。愛菜が耳へかけ直した。


「ここに来ると、最初の日を思い出すね」


「俺も、今考えてた」


「あの時、知らない人の隣に座ったんだよ、私」


「いきなり結婚の話までした」


愛菜は笑い、少し照れたように川を見た。


「したね」


大虎は彼女の横顔を見た。


何度も励ましてきたつもりだった。だが、自分が疲れて帰る場所にも、いつの間にか愛菜がいた。


仕事の話を聞いてくれる。食事を温めてくれる。忙しくても、明日の約束を手帳に書いてくれる。


「愛菜」


彼女が振り向いた。


大虎は内ポケットに手を入れた。


箱を取り出すと、愛菜の目が大きくなる。


「……だいちゃん」


「俺と結婚してくれ」


箱を開けた。


愛菜は指輪を見つめ、それから大虎を見た。


「本当に?」


「本当に」


「今日、ここで言ってくれるって、少しだけ期待してた」


大虎は息を吐き、笑った。


「隠せてなかったか」


「分かんない。でも、違ったら恥ずかしいから、何も聞かなかった」


愛菜の目に涙が浮かんだ。


彼女はそれを拭かずに、頷いた。


「はい。私も、だいちゃんと結婚したい」


大虎は箱から指輪を取った。


差し出された左手を持ち、薬指へ通す。


愛菜が指を少し開いた。川の向こうの夕日が、石に映った。


「きれい」


彼女はそう言って、大虎の肩へ額を寄せた。


「ありがとう」


大虎はその肩を抱いた。


しばらく、二人とも話さなかった。


***


日が傾くと、愛菜は携帯を取り出した。


「パパに、伝えていい?」


「もちろん。明日、一緒に会いに行こう」


彼女は画面に文字を打った。


『大虎と結婚することにしました。明日、二人で報告に行きたいです』


送信すると、すぐに返事が来た。


『分かった。待っている』


愛菜は画面を大虎へ見せた。


「あの日は、結婚のことでパパと喧嘩して、ここまで来たのにね」


「今度は、二人で帰ろう」


「うん」


愛菜は立ち上がり、もう一度指輪を見た。


「ねえ、明日、何着ていこう」


「いつもの服でいいだろ」


「結婚の報告だよ? ちゃんと選びたい」


「じゃあ帰って、一緒に選ぶか」


愛菜が手を差し出した。


大虎はその手を取り、ベンチを離れた。


あの日は、互いの帰る場所さえ決まっていなかった。


今は、同じ家へ帰る。


第91章 二人で帰る家


翌朝、愛菜は鏡の前で上着を替えた。


一着目は堅すぎた。二着目は、父に会うには少し華やかに見えた。


三着目を手に取ったところで、大虎が声をかける。


「最初のでも似合ってたぞ」


「それ、全部に言ってる」


「全部似合うから」


愛菜は鏡越しに彼を見た。


「だいちゃん、その調子でパパにも話すの?」


「お父さんに、上着が似合うとは言わないだろ」


愛菜が笑った。


ようやく一着を選び、袖を通す。自分が作った服だった。


薬指の指輪を確かめてから、鞄を持った。


***


誉家の玄関を開けたのは、父だった。


「よく来た」


愛菜は一歩、敷居をまたいだ。


家を飛び出した日は、二度と戻れないと思っていた。その後、父とは何度も話した。それでも今日は、この玄関を入る意味が違った。


大虎が隣で頭を下げる。


「本日は、お時間をいただきありがとうございます」


「こちらこそ。入ってくれ」


父は二人を居間へ案内した。


テーブルに書類はなかった。湯呑みが三つ置いてある。


座ると、父は愛菜の手を見た。


「指輪、見せてもらってもいいか」


「うん」


愛菜が左手を差し出す。


父は触らずに、少し顔を近づけた。


「そうか」


それだけ言い、座り直した。


大虎は背筋を伸ばした。


「愛菜と、結婚することにしました。昨日、彼女に申し込み、返事をもらいました」


父が頷く。


愛菜も続けた。


「私も、だいちゃんと結婚したい。今日は、二人で伝えたくて来たの」


父は二人を交互に見た。


長い沈黙ではなかった。ただ、愛菜には父が言葉を選んでいるのが分かった。


「おめでとう」


その言葉を聞くと、肩から力が抜けた。


「ありがとう、パパ」


父は湯呑みに手を伸ばし、また離した。


「お前が冬彦くんとの結婚を断った時、私は家と会社のことばかり考えていた」


「うん」


「前にも謝ったが、今日は改めて言わせてほしい。お前の結婚を、私が決めていいと思っていた。間違っていた」


愛菜は父を見た。


「あの日は、本当に悲しかったよ」


父が頷いた。


「でも、今こうして祝ってくれるのは、嬉しい」


父の目が、少し赤くなった。


「そうか」


愛菜は笑い、大虎の手に自分の手を重ねた。


「パパが決めた人じゃないけど、私が一緒にいたい人なの」


「分かっている」


父は大虎へ向き直った。


「娘は、自分で決めたら簡単には変えん。私に似たのだろうが」


「知っています」


大虎が答えると、愛菜が二人を見た。


「今、私が頑固って話してる?」


「大事なところで、譲らないという話だ」


父がそう言い、大虎も頷いた。


愛菜は少し考えてから、二人にお茶を勧めた。


***


結婚式の日程は、これから決めることになった。


愛菜は仕事の予定を確かめ、大虎も空けられる時期を伝えた。


「招待する人は、二人で決めてくれ。私の方で勝手に名前を増やすことはしない」


父が言った。


「ありがとう。決まったら、また相談するね」


「ああ。何か手伝えることがあれば言ってくれ」


愛菜は頷いた。


帰る時、父は玄関まで見送った。


「大虎くん」


大虎が振り向く。


父は少しだけ視線を下げ、それから言った。


「娘と、話をしてくれ。都合の悪いことも、私に言えなかったようなことも」


大虎は真剣な顔で頷いた。


「はい。俺からも、隠さずに話します」


「頼む」


愛菜は父の腕に、そっと触れた。


「また来るね」


「二人で来い」


***


車に乗ると、愛菜は深く息を吐いた。


「緊張した」


「俺も」


「だいちゃんでも?」


「するよ。何度も会っていても、今日は違った」


愛菜は窓の外を見た。玄関の前に、まだ父が立っている。


手を振ると、父も小さく手を上げた。


家が見えなくなってから、愛菜は大虎へ寄りかかった。


「結婚するんだね、私たち」


「うん」


「昨日、はいって言ったのに、今日また嬉しくなった」


大虎は彼女の手を取った。


指輪に触れないように、指を絡める。


「俺も」


***


その夜、愛菜は机に白い紙を置いた。


上着のデザインを描こうとして、手が止まる。


大虎が覗き込んだ。


「何を描くんだ?」


「まだ決めてない」


そう言いながら、愛菜は肩の線を引いた。


袖は、長すぎない方がいい。裾は、歩いた時にきれいに動いてほしい。


いつもの商品とは違う。一人が、一度だけ着るための服。


大虎は描かれた線を見て、笑った。


「自分で作るのか」


「できればね。まだ、上手く描けないけど」


愛菜は消しゴムを使い、線を引き直した。


大虎が隣の椅子に座る。


彼女は初めて、自分が花嫁になるためのドレスを描き始めた。


第92章 祝福を言うまで


西条は、弁護士から渡された書面を読んでいた。


借入先への説明と資産の処分を進めても、六億円を返し切る見込みはなかった。会社の営業を止め、債務を整理する手続きに入ることになる。


署名を流用した書類については、融資先が警察へ相談していた。西条自身も、説明のために出向くよう求められている。


「借金の整理が終われば、あの書類も終わりですか」


弁護士は首を振った。


「返済と、書類を作った経緯は別です。提出したものと、元にしたものを持って、事実を説明してください」


西条は鞄の中を見た。


ゆみの署名がある新店計画書。


彼女が未来の店を話していた時、何度も一緒に読み返した紙だった。


それを保証申込書に使った瞬間、彼女がもう一度振り向いてくれる道まで、自分で塞いだ。


机には、条家から届いた通知も置いてあった。今後の事業で家名を使用しないこと。紹介や信用の裏付けがあるような説明をしないこと。


西を司る家の名を口にすれば、人が話を聞いてくれた。


その名を失い、不動産も株も失った今、西条に残ったのは、自分が書類にした嘘を、自分の口で説明する仕事だった。


***


本城圭一は山王会の総本部で、海王株の取得と東辰の回収について報告していた。


神宮寺は資料をめくり、向かいに座る藤川誠一郎を見た。


「あの二人が最後まで握っていた株も、こちらへ来たか」


誠一郎が頷く。


「西条の不動産も、処分を進めています。借入の整理は弁護士に任せています」


「条家も海王も、もう二人の後ろには立たんのだな」


「ええ」


神宮寺は資料を閉じた。


「大虎には伝わっているか」


「すべて報告しています」


圭一が答えた。


大虎は、この件について追加の指示を出していない。それでも三人は、彼が何も知らずに任せているとは思っていなかった。


十八歳の大虎と向き合った時から、それだけはよく知っている。


誠一郎は、鞄から別の封筒を出した。


「その大虎から、結婚の知らせが来ました」


神宮寺が顔を上げる。


「愛菜さんと?」


「はい。式の招待状は、改めて届くそうです」


圭一の表情が少し緩んだ。


神宮寺は封筒を受け取り、静かに笑った。


「そうか。それは、祝わねばならんな」


***


冬彦は父に電話をかけた。


「共同の株も、売却を終えました」


「報告は受けている」


父の声は、以前と変わらない。


冬彦は、それがかえって苦しかった。


「会社へ、戻れませんか。前の役職じゃなくても構いません」


「戻すつもりはない」


「僕はもう、海王の株も持っていないんです」


「株を持っているから戻すという話でもなかった」


冬彦は黙った。


「私の名や海王の名で、新しい仕事を持ちかけることもやめなさい。今後、会社からお前の生活を援助することはない」


「父さん」


呼びかけたあと、何を頼めばいいのか分からなかった。


父はしばらく待ち、電話を終えた。


冬彦は入金明細を見た。


自分が暮らすための金は、しばらくある。だが、それを使えば減っていく。海王の役員という肩書きで、人に指示する日はもう戻らない。


机の端には、西条との共同事業を終える書類があった。


冬彦はそれを、自分の署名が済んだ紙の上へ重ねた。


***


まなブランドでは、愛菜が店長と商品の入れ替えを相談していた。


ゆみが在庫表を渡すと、愛菜の左手に光が見えた。


指輪だった。


ゆみは一瞬、表から目を離した。


愛菜がその視線に気づき、手を止める。


「大虎と、結婚することになりました」


声は静かだった。


ゆみは口を開いた。


すぐには、言葉が出ない。


大虎が、自分と結婚しようとしていた日のことを思い出した。話を最後まで聞かずに、無理だと遮った。


あの返事を取り消すことはできない。


目の前の指輪も、自分に差し出されたものではなかった。


「……おめでとうございます」


愛菜がゆみを見た。


「ありがとうございます」


ゆみは、少しだけ頭を下げた。


祝福したからといって、痛みが消えたわけではない。後悔が終わるわけでもない。


それでも、二人が幸せになることを、自分の失敗の続きにしたくなかった。


「式の準備でお忙しくなると思います。勤務の調整が必要なら、店長に相談してください。私にできる分は対応します」


「助かります。でも、無理はしないでくださいね」


「はい」


愛菜は在庫表へ目を戻した。


ゆみも、次の商品の納品日を説明した。


***


帰宅すると、ゆみは一人分の夕食を作った。


小さな食卓に皿を置き、椅子に座る。


大虎は結婚する。


ようやく声にしてみると、涙が落ちた。


誰もいない部屋で、ゆみはしばらく泣いた。


翌朝には、出勤する時間が来る。仕事を失わないための目覚ましを、忘れずにかけた。


***


愛菜は自宅で、描き直したドレスの型を広げていた。


大虎が隣に座る。


「今日は、ゆみさんに結婚のことを話した」


「そうか」


「おめでとうって、言ってくれた」


大虎は一度頷き、しばらく黙った。


愛菜は彼の手を取った。


「私、ちゃんと幸せになるね」


大虎は、その手を握った。


「一緒になろう」


第93章 花嫁の選んだ服


三か月後、愛菜は控室の鏡の前に立っていた。


肩から腰へ、何度も引き直した線が続く。白い裾は、歩くと柔らかく揺れた。


工房の人たちと作り上げた、自分のためのドレスだった。


「苦しくないですか」


最後の調整をした担当者が聞く。


「大丈夫。ちゃんと歩けます」


愛菜は一歩進み、戻った。


新しい服を試す時と同じように、袖と裾を確かめる。


担当者が笑った。


「今日は、見てもらう番ですね」


愛菜も笑った。


「うん。ちょっと、照れる」


扉を叩く音がして、父が入ってきた。


愛菜を見たまま、しばらく動かなかった。


「どう?」


「……よく似合っている」


「私が作ったんだよ。工房の皆さんにも、いっぱい手伝ってもらったけど」


「ああ」


父は頷き、差し出す腕の位置を確かめた。


愛菜がそっと腕を添える。


「パパ、歩くの速くしないでね」


「分かっている」


その返事が緊張していて、愛菜は少し安心した。


***


式場には、二人が招いた人たちが集まっていた。


愛菜の会社と工房の人々。誉家の親族。カルソックの仕事を長く支えてきた人たち。


藤川誠一郎、本城圭一、神宮寺も席に着いていた。


各地で大きな企業を動かす客人たちも、今日は開始を知らせる音楽に耳を傾けている。


大虎は正面に立ち、扉を見ていた。


昨日まで何度も打ち合わせをした。流れも、立つ場所も知っている。


それでも扉が開いた瞬間、何をすればいいか分からなくなった。


愛菜がいた。


父と歩き、時々、足元を確かめている。


目が合うと、彼女は小さく笑った。


大虎もようやく笑えた。


***


父は大虎の前で止まった。


愛菜が腕を離す。


「ありがとう、パパ」


父は一度頷き、大虎を見た。


言葉を用意していたようだったが、最後は短くなった。


「二人で、元気でいてくれ」


「はい」


大虎が答え、愛菜の手を取った。


父は席へ戻る。


愛菜の指先が、少し冷たかった。


「緊張してる?」


小声で聞くと、彼女も小声で返した。


「してる。だいちゃんは?」


「してる」


二人は顔を見合わせ、笑いを堪えた。


***


誓いの言葉は、二人で考えた。


大虎は愛菜へ向き直った。


「嬉しいことも、困ったことも、あなたに話します。自分だけで決めて、知らないうちに約束を背負わせません。あなたの言葉を聞き、二人で暮らしていきます」


愛菜は頷いた。


自分の番になると、息を吸い、彼を見た。


「私は、嬉しい時も怖い時も、あなたに伝えます。助けてほしい時は、ちゃんと頼みます。あなたが疲れた時には、私の隣で休んでください。一緒に笑って、一緒に歳を取っていきたいです」


最後の一文で、声が少し震えた。


大虎は彼女の手を握り直した。


指輪を交わす時、愛菜は薬指を見てから彼を見た。


河川敷で受け取った指輪と、今日の指輪。


どちらも、大虎が自分へ差し出したものだった。


***


披露宴で挨拶に立った誠一郎は、愛菜が初めて事業計画を持ってきた日の話をした。


「あの時の会社は、まだ小さかった。けれど誉さんは、どの服を、誰に届けたいのかを、自分の言葉で説明されました」


愛菜は大虎の横で、頷いた。


「今日は、その作り手が、自分のために作った服を着ていらっしゃる。お二人の新しい暮らしを、心からお祝いします」


拍手が広がった。


神宮寺はグラスを持ち上げ、本城も二人へ会釈した。


大虎は礼を返した。


愛菜の会社のスタッフが、少し離れた席から手を振っていた。工房の担当者は、彼女のドレスを見て目元を押さえている。


愛菜は笑いながら、何度も頭を下げた。


***


同じ頃、まなブランドの店では、ゆみが勤務を終えるところだった。


スタッフが交代で式へ行くため、店長と相談してシフトを組んでいた。


ゆみは、届いた写真を休憩室で見た。


大虎と愛菜が並んでいる。


白いドレスの裾が、花のそばに広がっていた。


写真を拡大し、ゆみは袖と肩の線を見た。


愛菜らしい服だった。


大虎の顔を見ると、胸が痛んだ。


それでも画面を閉じる前に、二人の写真をもう一度見た。


ゆみはスタッフの連絡欄に、短く書いた。


『おめでとうございます。とてもお似合いです』


送信してから名札を外し、鞄へしまった。


明日の勤務時間を確かめて、店を出た。


***


披露宴が終わり、控室へ戻ると、愛菜はようやく長く息を吐いた。


「いっぱい笑った」


「泣いてもいたぞ」


「だいちゃんも、パパの挨拶の時、目が赤かった」


「見てたのか」


「隣にいたもん」


大虎が笑った。


愛菜は鏡の前で、ドレスの裾をそっと持ち上げた。


「この服、作ってよかった」


「似合ってたよ」


「知ってる。今日は、何回も言ってくれたから」


彼女は大虎の方へ歩いた。


「これからも、言ってね」


大虎は手を差し出した。


「言うよ」


愛菜がその手を取る。


二人の薬指に、同じ光が揺れた。


第94章(最終章) 冴えていた勘


結婚式から一か月が過ぎても、愛菜の机には試作品が並んでいた。


工房から届いた上着を羽織り、鏡の前で腕を動かす。


「少し、肩が引っ張られる」


手帳に書き、袖口の縫い目を確かめた。


大虎は出かける前に、扉のところから声をかけた。


「今日の帰りは?」


「発送が終わってから。七時くらいかな」


「俺は、もう少し早く帰れると思う」


愛菜が顔を上げた。


「じゃあ、ご飯お願いしていい?」


「いいよ。何が食べたい?」


「ハンバーグ」


「今日は変えない?」


「変えない。ちゃんとハンバーグって言ったからね」


大虎は笑い、頷いた。


「分かった」


愛菜は鏡の前から離れ、彼の上着の襟を直した。


「いってらっしゃい」


「いってきます」


***


カルソックの会議室で、大虎は月次報告を受けた。


世界各地の事業から上がった数字が、画面を埋める。責任者が次の投資を説明し、大虎は確認が足りない点を聞いた。


会議が終わると、秘書が翌週の予定を開いた。


「金曜日の会食ですが、先方が開始を一時間遅らせたいと」


大虎は自分の予定表を見た。


愛菜と夕食を取る約束がある。


「別の日にできるか聞いてくれ。難しければ、愛菜と相談する」


「承知しました」


大虎は彼女へ短い連絡を入れた。


隠さずに話すと約束した。大きなことだけではない。帰る時間も、予定が変わりそうなことも、二人の暮らしには必要だった。


***


まなブランドの店では、ゆみが客の声をまとめていた。


『袖がもう少し長ければ嬉しい』


『座った時に、裾が上がりすぎないものが欲しい』


在庫の数と一緒に、店長へ渡す。


「企画担当にも送っておきます。具体的で助かります」


「ありがとうございます」


ゆみは売り場へ戻った。


自分の店の看板は、もうない。売った部屋へも戻れない。


時々、大虎を思い出す。出ていった背中も、愛菜と並んだ結婚式の写真も。


後悔は、仕事を始めたからといって消えなかった。


けれど、客が声をかければ、ゆみは顔を上げる。


「この上着、別のサイズはありますか」


「確認します。少々お待ちください」


仕事が終われば、一人の部屋へ帰る。翌朝には、また出勤する。


今の生活は、その繰り返しだった。


***


夕方、大虎は買い物の袋を持って帰った。


台所で玉ねぎを刻み、フライパンを火にかける。


料理をしていると、愛菜から連絡が来た。


『最後の発送、終わった。今から帰ります』


大虎は『お疲れさま。気をつけて』と返した。


しばらくして、玄関が開く。


「ただいま」


「おかえり。今日もお疲れさま」


愛菜が台所を覗いた。


「いい匂い」


「あと少しでできる」


彼女は鞄を置き、皿を二枚出した。


「手伝うよ」


「じゃあ、テーブルお願い」


愛菜は皿を並べ、大虎の分の椅子も引いた。


***


週末、二人は散歩に出た。


川へ向かう道を、手をつないで歩く。


愛菜は新作の話をし、大虎は次の出張の日程を伝えた。


「帰ってきたら、サンプル見せるね」


「楽しみにしてる」


河川敷へ出ると、あのベンチが見えた。


二人は腰を下ろした。


川面を風が渡っていく。歩道では、自転車を押す人がゆっくり通り過ぎた。


愛菜が、つないだ手を見た。


「最初の日さ、だいちゃんの隣に座ってよかった」


「俺も、来てくれてよかったよ」


「二人とも、家を追い出されてたのにね」


「あの時は、今日ここに二人で来るなんて思わなかった」


愛菜は大虎を見て、少し得意そうに笑った。


「私は、ちょっと思ってた」


「いきなり結婚しろって、勘が言ってたんだっけ」


「そう」


彼女は頷き、薬指の指輪に目を落とした。


そして、もう一度彼を見た。


「やっぱり私の勘は冴えてたよね?」


「俺が金持ちだったから?」


愛菜は笑って、首を振った。


「違うよ。だいちゃんとなら、幸せになれるって思ったの」


つないだ手を、きゅっと握る。


「ほら、当たったでしょ?」


大虎はその手を握り返した。


「……そうだな」


完

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


「ただいま」と「おかえり」から始まった物語は、大虎と愛菜が同じ家へ帰る日々へとつながりました。


ゆみの後悔は、働き始めたからといって消えません。それでも朝になれば、自分の足で仕事へ向かいます。


そして愛菜が、出会った日に信じた勘。

最後の「ほら、当たったでしょ?」を、二人の笑顔と一緒に受け取っていただけたなら嬉しいです。


『振ったら後悔か否か?』は、これで完結です。

長い物語にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

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