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振ったら後悔か否か?  作者: 平松豊政


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「第1部 追い出された男と、彼を信じた女」

「働いていないなら、出ていって」


三年間一緒に暮らした恋人に、そう告げられた大虎。


行くあてもなく座った河川敷で、彼は家も会社も失った愛菜と出会う。


大虎の正体を知らずに別れた女と、何も知らないまま彼を信じた女。


二人の選択から、物語が動き出す。

1 追い出された男


「ただいま」


ゆみが玄関を開けると、台所から声が返ってきた。


「おかえり。今日もお疲れさま」


大虎が鍋の火を弱め、振り向いた。帰れば温かい料理があり、いつも笑顔で迎えてくれる。それをありがたいと思ったこともある。


だが、今日はその笑顔に腹が立った。


同棲を始めて三年。

ゆみはアパレルの会社を経営し、朝から晩まで働いている。会社の年商は五億円を超えた。

一方の大虎は、毎日のように出かけるのに、どこで働いているのかも、いくら稼いでいるのかも教えない。生活費は同棲してから一度も貰ったことは無かった。

なんなら、無職じゃないかと思ってる。


ゆみ自体創業期には、北星パートナーズという投資会社が資金を出してくれた。ゆみは自分の事業計画が認められたことを誇りに思い、その資金を元手に会社を育ててきた。


だからゆみには、無職の男が自分の収入に頼って暮らしているようにしか見えなかった。


「ねえ、だいちゃん」


「ご飯、もう少しでできるよ」


「その話じゃなくて」


大虎は手を止めた。ゆみの表情を見て、鍋のふたを静かに置く。


「私たち、終わりにしよう」


「え……どうして? 俺たち、結婚だって――」


「無理なの」


「急にどうしたんだよ」


「急じゃない。ずっと考えてた」


ゆみは鞄を下ろし、まっすぐ大虎を見た。


「どんな仕事をしてるのか聞いても、何も答えてくれない。生活費だって、あなたから一度も受け取ってない。この先どうやって一緒に生きていけばいいの?」


「働いてないわけじゃない」


「だったら、仕事を教えてよ」


大虎は口を開きかけ、閉じた。


「……言えないんだ」


「また、それ」


ゆみは笑おうとして、失敗した。


「お金に困ってないからいいだろ、って、いつも言うよね。困ってないのは私が働いてるからだよ」


「ゆみの会社もうまくいってるじゃないか」


「会社がうまくいってることと、あなたを信用できるかは別なの」


大虎の顔から、笑みが消えた。


「ほかに男ができたのか?」


「付き合ってはいない。でも、取引先の西条さんに告白された」


「その人と結婚するのか」


「分からない。だけど西条さんは、カルソックからの出資を取り次げるって言ってる」


世界最大の企業、カルソック。その名前を口にした時、ゆみの声が少し弾んだ。


「付き合うことが出資の条件なのか?」


「西条さんは、私と将来を考えるなら力になりたいって。今の会社をもっと大きくできる」


「会社が、恋人を替えたからって金を出すかな」


「西条家は財界でも顔が広いの。あなたには分からないよ」


大虎は何か言いたげにゆみを見た。けれど、結局何も言わなかった。


「俺は、ゆみと一緒にいたい」


「私も、あなたが本当のことを話してくれるなら、そうしたかった」


ゆみの声が震えた。


「この部屋の契約も、家具も、私のもの。出ていって」


「その選択を、後悔しない?」


「あなたとの将来が見えないまま暮らし続ける方が、後悔する」


大虎は台所の火を消した。料理の湯気だけが、二人の間をゆっくり上っていく。


彼は小さな鞄に自分のものだけを詰め、部屋を出た。


扉が閉まってから、ゆみは食卓を見た。皿が二枚、並んでいた。


2 家を飛び出した女


「絶対に嫌!」


誉愛菜の声が、父の書斎に響いた。


「家のためだ。冬彦くんとの結婚は、誉グループにとって大きな意味がある」


「私の結婚でしょ? 冬彦さんがどんな人か、パパも知ってるはずだよ」


愛菜は父の机に手をついた。冬彦の女遊びや、交際相手に対する乱暴な振る舞いについて聞いたことがある。確かめようとした時、本人は笑って否定するだけだった。


「噂を真に受けるな」


「噂だからって、私に確かめる機会もくれないの?」


「海王グループの出資が決まれば、お前の会社も安定する」


「私が育てた会社を、結婚の取引に使わないで」


「その会社の株の大半は誉グループが持っている。お前の持ち分は五パーセントだ」


愛菜は息をのんだ。


「会社に貢献したのは私だよ」


「分かっている。だから、社長を続けたければ、家の決定にも従いなさい」


父の口調は静かだった。それが余計に、決定は覆らないのだと愛菜に思わせた。


自分で選んだ生地。何度も作り直したデザイン。初めて売れた日のこと。会社には、愛菜の時間が詰まっている。それでも、株を持つ人たちが決めれば社長を退くことになる。


「……それでも、結婚しない」


「この家を出るつもりか。会社も失うぞ」


「分かってる」


愛菜は書斎の扉を開けた。


「何もなくなっても、私の人生は私が決める」


父が名前を呼んだが、愛菜は振り返らなかった。


家を出てから、行き先がないことに気づいた。歩き続けるうちに、川のそばまで来ていた。


3 河川敷の二人


河川敷のベンチに、大虎が座っていた。


流れる川を眺めていると、誰かが近づいてくる足音がした。顔を上げると、目を赤くした女性と目が合った。


女性は少し迷ってから、隣に座った。


「……ここ、いい?」


「もう座ってるだろ」


思わず愛菜は笑った。泣いた後で笑うのは、今日初めてだった。


「私、誉愛菜。まなって読むの」


「俺は大虎。だいご」


「だいごくんか。いい名前だね」


「まなちゃんも」


見知らぬ相手なのに、不思議と話しやすかった。


「こんなところで何してたの?」


「家を出てきた」


「え、私も」


「何かあった?」


愛菜は父に結婚を迫られたこと、断れば会社も失うことを話した。大虎は途中で口を挟まずに聞いた。


「大変だったな」


「大変どころじゃないよ。これから、どうするかも決めてない」


「会社を作る力はあるんだろ?」


「経験はある。でも資金がない。それに父が手を回したら、知ってる銀行は頼れないと思う」


愛菜は川を見た。


「それでも、新しいブランドを作りたい。勝てる気がするんだ」


「勘?」


「うん。私、自分の勘には結構助けられてきたの」


「その勘、今は何て言ってる?」


愛菜は隣の男を見た。ひどく疲れているはずなのに、彼のそばでは肩の力が抜ける。


「……だいごくんに、また会えって」


「そうか。俺も、もう少し話したい」


大虎は、自分も恋人に家を追い出されたばかりだと話した。仕事のことを言えず、無職だと思われたのだという。


「仕事してるなら、話せばよかったのに」


「それができない事情があって」


「ふうん。怪しい人?」


「自分で言うのも何だけど、怪しくはない」


愛菜はまた笑った。


「じゃあ、知り合いに融資を相談できる人はいない? 私の計画を見て、決めてくれる人」


「経営者なら、一人いる」


「誰?」


「藤川興産の会長」


愛菜が目を丸くした。


「藤川会長って、うちの父でも簡単には会えない人だよ。だいごくん、何者?」


「ただのフリーター」


「余計に怪しいんだけど」


「会ってくれるか、聞いてみるよ」


「お願い。事業計画とデザインは見せられる」


愛菜は手帳を開いた。


「いつがいい?」


「明日の十時」


「急だな」


「だって、動ける時に動きたいから」


大虎は短く誰かに連絡し、返事を待った。数分後、携帯が震える。


「十時でいいって」


「……本当に?」


「明日、藤川グループの本社に行こう」


愛菜は礼を言いかけ、ふと顔を曇らせた。


「その前に、今夜どうしよう。私たち、二人とも帰る家がない」


「ホテルを探すか。それぞれ別の部屋で」


「うん。変なことしちゃだめだよ」


「部屋、別だって言っただろ」


笑いながら立ち上がると、夜の風はもう少しだけ暖かく感じられた。


4 五千万円


翌朝、二人は藤川興産の本社を訪れた。


「初めまして。誉愛菜と申します。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」


「堅い挨拶はいい。座りなさい。大虎くんも久しぶりだね」


藤川誠一郎は愛菜に椅子を勧め、大虎へ目を向けた。


「相変わらずです。急なお願い、ありがとうございます」


「朝の連絡には驚いたよ。それで、誉さん。私に何を見せてくれる?」


愛菜は資料とデザイン画を広げた。立ち上げたいブランドの客層、素材、販売方法。準備したことを、自分の言葉で説明する。


藤川は最後まで聞いてから、資料を閉じた。


「いくら必要かな」


「製作費、広告費、当面の運転資金として五千万円です。五年で返済したいと考えています」


「担保は?」


「今は、ありません」


「父親の保証も?」


「頼みません。頼れば、新しく始める意味がなくなります」


藤川は愛菜をじっと見た。


「無担保で、私に五千万円を貸せと言うのか」


「はい。事業計画を見て判断していただきたいんです」


「これまでは誉グループという後ろ盾があった。今後、失敗の責任は君が負う。その覚悟はあるのか」


「あります」


「返済が遅れたら、私のおもちゃになる。それでも借りるか?」


愛菜の表情が強張った。隣で大虎が顔を上げる。


「誠一郎さん、その言い方は――」


「だいごくん、待って」


愛菜は大虎を制し、藤川を見た。


「返済の責任は負います。でも、私自身を担保にする契約には応じられません。必要なら、計画を見直して出直します」


沈黙が落ちた。


やがて藤川は、ふっと息を吐いた。


「いい返事だ。さっきの言葉は撤回する。失礼した」


「……では、融資は?」


「事業計画には見るべきものがある。正式な審査と契約を進めよう。私も責任を持って担当者に話す」


愛菜は胸の前で手を握った。大虎は、彼女に見えないところでようやく息を吐く。


5 社長の顔


後日、藤川から融資決定の連絡が入った。


「ありがとう、だいごくん」


藤川の会社を出た愛菜は、両手を合わせた。


「大したことしてないよ」


「そんなことない。だいごくんが紹介してくれなかったら、藤川会長に会うことさえできなかった」


夕方の風が頬を撫でる。愛菜はようやく大きく息を吐いた。


「五千万円だよ。まだ信じられない」


「借りた金だぞ。これからが大変だ」


「分かってる。絶対に返す。だいごくんにも恥をかかせたくないし」


大虎は少しだけ目を伏せた。


「俺のことは気にしなくていい。愛菜ちゃんの会社だろ」


「うん。だから、自分で大きくする」


愛菜はそう言い切り、大虎を見た。


「でも、どうして藤川会長を知ってるの? フリーターが気軽に紹介できる人じゃないよね」


「昔、仕事を手伝ったことがあるんだ」


「どんな仕事?」


「色々。何でも屋みたいなもんだよ」


「そこ、いつもぼかすよね」


大虎は答えなかった。愛菜も、それ以上は聞かなかった。代わりに鞄から手帳を取り出す。


「明日は工場と打ち合わせ。サンプルを三種類作って、次の展示会に持っていく。資金が入る前に、やれることを全部やる」


愛菜が欲しかったのは金そのものではない。自分の作ったものを世に出す機会だった。


「いい顔してるな」


「え?」


「社長の顔」


愛菜は笑った。


「まだ小さな会社の社長だけどね」


「大きさは関係ないだろ」


「だいごくん、そういうこと、さらっと言うよね」


駅前で別れる時、愛菜は振り返って手を振った。人混みに姿が消えるまで、大虎はそこに立っていた。


6 会長とフリーター


角を曲がると、黒い車が音もなく寄ってきた。


運転席から降りた男が、後部座席の扉を開ける。


「会長。藤川様から連絡がありました。契約書は明日、誉様の会社へお届けするそうです」


「保証の件は?」


「ご指示どおり、藤川様と弊社の担当者だけが把握しています」


「愛菜ちゃんには伝えるな」


大虎が車に乗り込むと、車内の画面に世界各地の市場とカルソック傘下の企業から届いた報告が並んだ。


数分前までフリーターとして愛菜の隣を歩いていた男は、世界最大企業カルソックの頂点にいた。


「藤川様が、会長にお礼をお伝えしたいと」


「礼を言うのは早い。審査は藤川興産が自分でやったんだろう?」


「はい。事業計画とデザイン案が基準を満たしたとのことです」


「なら、愛菜ちゃんが勝ち取った金だ」


愛菜には内緒で、返済が滞った場合の損失を引き受ける約束をした。大虎が藤川に頼んだのは、愛菜の計画を正当に審査することだけだ。彼女の代わりに商品を作ることも、客に買わせることもできない。


「会長。今夜は各国の代表との会食です」


「行くよ」


「その前に、お着替えを」


大虎は自分の古びた上着を見下ろした。愛菜の前では、この格好の方が自然だった。


「分かってる」


***


同じ頃、ゆみは店の事務所で、先月の数字を睨んでいた。


発注した生地の色が見本と違う。得意客からは納期を尋ねる電話が三度入った。取引先への振込も、今日が期限だ。


「何で急に、こんなに重なるの……」


以前なら、大虎が見本を確認し、振込の日を付箋に書いていた。客の名前と好みまで覚えていた。


仕事をしていないくせに、店のことにはやけに口を出す男だった。いなくなったくらいで困るはずがない。


そう思っていると、生地商社の担当者から電話が入った。発注の確認を終えた相手が、何気なく言う。


「そういえば、誉愛菜さんが新しいブランドを立ち上げるそうですよ。次の展示会への出展も考えているとか」


「誉愛菜……?」


初めて聞く名前だった。ゆみは電話を切り、未処理の書類の束を見た。大虎を追い出した日の解放感が、少し遠く感じられた。


***


翌朝、工場へ向かう愛菜は、大虎に電話をかけた。


「昨日はありがと。今日はこれから勝負してくる」


「サンプルの打ち合わせか?」


「うん。値段も納期も、きちんと交渉する」


「頑張れよ、社長」


「だいごくんも仕事、頑張ってね」


大虎は窓の外を見た。眼下の日本カルソック本社前には、会議に招いた人々の車が並んでいる。


「ああ。俺も今日は忙しくなりそうだ」


「フリーターなのに?」


愛菜が笑う。大虎も笑った。


「フリーターだって、忙しい日はあるんだよ」


通話が切れると、秘書が会議室の扉を開けた。


「会長、皆様おそろいです」


大虎は携帯をしまい、立ち上がった。


世界中の財界人が彼の名を知っている。それでも、愛菜にだけはまだ知られたくなかった。


彼女が昨日見ていたのは、カルソックの会長ではない。隣を歩く大虎だったからだ。


7 最初の注文


「三種類、それぞれ千着からです」


工場長の言葉に、愛菜は見積書から顔を上げた。


「試作もまだなのに、三千着ですか?」


「うちの設備だと、そのくらい作らないと単価が合わないんですよ」


用意したデザイン画が机に並んでいる。誉グループにいた頃なら、社名を見ただけで工場側が条件を考えてくれた。今の愛菜には、新しい会社の名前と、自分の言葉しかない。


三千着を作れば、資金の大半が在庫になる。売れなければ、藤川から借りる五千万円を返す道は遠のく。


「全部を一度に作るつもりはありません」


愛菜は三枚のうち、一枚だけを工場長の前に残した。


「最初はこれです。生地を二色に絞って、同じ型で作る。まず三百着、お願いできませんか」


「三百じゃ厳しいな」


「分かっています。だから、同じ生地で小物も作らせてください。余りを捨てずに使えれば、裁断の手間も減らせるはずです」


工場長はデザイン画を手に取り、しばらく黙っていた。


「この縫い目、見た目はきれいだけど、量産だと時間がかかる」


「そこは変えられます。でも、肩の形は残したい。着た時に一番違いが出るところなので」


愛菜は持参した古い試作品を羽織って見せた。自分で何度も縫い直した、まだ商品とは呼べない一着だ。


工場長が立ち上がり、肩の部分を確かめる。


「なるほど。これを残すなら、別の工程を減らそう」


二人は午後まで図面を書き直した。帰る頃には、三百着の試作と小物の製作について、工場長から条件付きの返事をもらっていた。正式な発注はサンプルを見てから。それでも、朝には閉じていた扉が一つ開いた。


工場を出た愛菜は、手帳に数字を書き込んだ。三百着の単価。試作にかかる日数。展示会までに確認すること。


そして最後に、大虎へ送る言葉を考えた。


『三千着を勧められたけど、三百着から作れることになりそう。まだ決定じゃないけど、今日の私は頑張った!』


送信してから、自分で書いた最後の一文に少し照れた。


***


その頃、大虎はカルソックの会議室にいた。


海外事業の責任者が、新たな投資計画を説明している。国をまたぐ案件で、検討する金額は愛菜の融資とは比べものにならない。


大虎は資料をめくり、数字の食い違いを一つ指摘した。責任者が説明を始めたところで、伏せていた携帯が震える。


愛菜からだった。


画面を見た大虎の口元が、わずかに緩んだ。


「会長?」


「続けて」


大虎は携帯を置いた。


会議が終わってから、廊下でようやく返信する。


『頑張ったな、社長。三百着にした理由、今度聞かせて』


すぐに既読がついた。


『じゃあ今日、聞いてくれる? お腹もすいた』


大虎は予定表を開いた。夜には会食が一件入っている。


「今夜の会食、開始を一時間遅らせられるか」


秘書は驚いた顔をしたが、理由は聞かなかった。


***


ゆみの店には、西条から電話が入っていた。


「生地の件なら、僕から商社に話しておこうか」


「ありがとう。でも、発注を間違えたのは私だから、自分で話す」


「相変わらず真面目だな」


以前なら、その一言が嬉しかったかもしれない。今日はなぜか、机の上の付箋が目についた。


大虎の字で「振込、金曜まで」と書かれている。追い出す前に貼ったものだ。ゆみは剥がそうとして、指を止めた。


「カルソックの出資の話、進んでる?」


「もちろん。まずは今度の食事に来てよ。紹介したい人もいる」


「その人、カルソックの人?」


電話の向こうで、西条が少し笑った。


「ゆみ、そんなに急がなくても逃げないって」


曖昧な返事だった。ゆみは「分かった」とだけ言って電話を切った。


大虎にも仕事を聞くたび、こうしてはぐらかされていた。なのに西条の言葉は、なぜ今日まで疑わずに聞いていたのだろう。


ゆみは付箋を剥がし、手帳の間に挟んだ。


***


夕方、愛菜は駅前で大虎を見つけた。昨日と同じ古びた上着を着ている。


「待った?」


「今来たところ」


「それ、絶対待ってた人の言い方」


大虎は笑った。愛菜は手帳を開き、朝からの交渉を一つずつ話し始める。工場長に断られかけたこと。肩の形を残せたこと。まだ正式な注文ではないことも、隠さずに話した。


「三千着、作ってから考えるのは怖かったんだ」


「その判断でよかったと思う」


「藤川会長に借りるお金だから慎重にした、っていうのもある。でもね」


愛菜は手帳を閉じた。


「私、初めて自分だけの会社を作ってるんだって、今日やっと実感した」


大虎は彼女を見た。


「おめでとう」


「まだ早いよ。注文書も出してない」


「それでも、今日の分は」


愛菜は少し黙り、それから笑った。


「じゃあ、お祝いにご飯をおごって。フリーターのお財布に優しいお店でいいから」


「社長が払うんじゃないのか?」


「今日は褒めてもらったから、調子に乗りたいの」


「仕方ないな」


並んで歩き出すと、愛菜が大虎の袖を軽く引いた。


「明日も、報告していい?」


大虎は足を止めずに答えた。


「もちろん。いい日でも、そうじゃない日でも」


愛菜の手はすぐに離れた。


けれど大虎には、その短い温もりが、食事を終えて会食に向かうまでずっと残っていた。


8 そのままの君と


二人が入ったのは、駅裏の小さな洋食屋だった。


愛菜が選んだ店は、昼は近くで働く人たちでにぎわうらしい。夜の店内には席がいくつか空いていて、壁には手書きのメニューが貼られていた。


「ここ、学生の頃によく来たの。今日は私が払おうか?」


「さっきはおごれって言っただろ」


「だって、だいごくんの予算を知らないし」


「オムライス二つくらい払えるよ」


「じゃあ、私はハンバーグ」


「遠慮は?」


「しないことにした」


ところが注文を聞かれると、愛菜はメニューの写真を見比べて言った。


「……やっぱり、オムライスにする」


「ハンバーグじゃなかったのか?」


「今、こっちの気分になったの!」


大虎が笑うと、愛菜も笑った。


料理が来るまで、愛菜は工場長と描き直した図面を広げた。肩の縫い目を一つ減らし、裾の形を変えている。


「ここを変えたら、着た時の印象が弱くならないかって心配で」


「俺に見せられても、服のことは詳しくないぞ」


「うん。だから、お客さんの目で見て」


愛菜は自分で立ち上がり、持っていた試作品を胸元に当てた。


「前のと、今日決めたの。どっちが好き?」


大虎は少し考えた。


「今日の方。顔を上げた時、肩の線がきれいに見える」


「本当?」


「でも、俺の好みだけで決めるなよ」


「分かってる。明日、実際に着て動いてみる」


店員が料理を運んでくると、愛菜は図面を慌てて片づけた。


「ごめん。仕事の話ばっかり」


「面白いよ。今日の三百着が、どんな服になるか見たい」


愛菜はスプーンを持ったまま大虎を見た。


「だいごくんって、不思議。私の話を聞いてくれるけど、『こうしろ』とは言わないんだね」


「愛菜ちゃんの服だから」


「父はね、結果が出るまでは何も信じてくれなかった。結果が出たら今度は、それを家のものにしたがった」


愛菜は視線を皿に落とした。


「こんなふうに、途中の話を聞いてもらえるの、久しぶり」


大虎は返事を急がなかった。


「俺も、久しぶりだよ」


「何が?」


「仕事が終わった後に、誰かと今日の話をするの」


愛菜は顔を上げた。


「だいごくんの今日の話も、聞きたいな」


会議室で見た資料や、各国の代表との会食が頭をよぎる。そのまま話せることは一つもない。


「今日は……数字の間違いを一つ見つけた」


「へえ。何の数字?」


「仕事の」


「また秘密?」


「ごめん」


大虎は笑ってごまかそうとしたが、愛菜は笑わなかった。


「今すぐ話して、とは言わないよ。でも、いつか話せるようになったら聞かせて」


「……約束する」


愛菜はうなずき、オムライスにスプーンを入れた。


大虎の携帯が震えた。会食先からの連絡だった。予定を一時間遅らせてもらった以上、そろそろ出なければならない。


「悪い。今日はこの後、用事がある」


「うん。時間を作ってくれてありがとう」


二人は急いで食べ終えた。店を出て、駅の改札まで歩く。


「今度は、だいごくんの行きたい店に行こう」


「また仕事の話を聞かせてくれるなら」


「仕事の話以外もするよ」


愛菜が笑った時、携帯に工場長からメッセージが届いた。


『指定された生地について、仕入れ先から今回は販売できないと連絡がありました。明日、別の生地も含めて相談しましょう』


愛菜の表情が変わった。


「どうした?」


「今日決めた生地、売ってもらえないって」


「理由は?」


「書いてない。あの生地を扱ってる会社、前の会社とも取引があるんだよね」


父の顔が浮かんだ。けれど、今はまだ誰が何をしたのか分からない。


大虎も画面を見た。その名前は、昼に秘書から届いた報告書にあった。


誉グループの調達担当が、仕入れ先に愛菜の新会社との取引を控えるよう求めた。その経緯も、担当者が誰の指示を受けたかも、大虎はすでに知っている。


「俺が何とかしようか」


「ありがとう。でも、明日は私が直接行く」


愛菜は携帯を握り直した。


「もし父が関わっているなら、なおさら自分で確かめたい。違う理由なら、その場で別の生地を探す」


「分かった。終わったら連絡して」


「いい日でも、そうじゃない日でも?」


「もちろん」


愛菜は改札を通り、振り返って手を振った。大虎も手を上げる。


姿が見えなくなってから、彼は秘書へ電話をかけた。


「会食には向かってる。それと、調べてほしいことが一つある」


「昼の報告書、確認した。仕入れ先にも誉グループにも、こちらから連絡は入れないでくれ」


「承知しました。誉様には、お知らせしなくてよろしいのですか」


「愛菜ちゃんは自分で確かめると言った。明日、何を見つけて、どう決めるかは彼女のものだ」


大虎は足を止めた。事情を知りながら黙っているのは、思ったより難しい。


「ただし、何かあればすぐ報告してくれ」


「承知しました、会長」


大虎は電話を切り、車の待つ方へ歩いた。


***


ゆみは事務所で、西条から届いた食事の案内を見ていた。


『明日の夜、カルソックへの話を進めるために会ってほしい人がいる』


相手の名前も、役職も書かれていない。


ゆみは返信欄に「誰なの?」と打ち、消した。大虎に仕事を尋ねた時も、こんなふうに答えを待っていた。


今度は、知らないまま進みたくなかった。


『会う前に、お相手の名前と会社での役職を教えてください』


送信した直後、西条から電話がかかってきた。


「ゆみ。僕のこと、信用してないの?」


ゆみは机の上の付箋を見た。大虎が残した字は、もうそこにはない。


「信用したいから、確かめてるの」


電話の向こうで、西条はしばらく黙った。


9 自分で選ぶ


「佐伯さんだよ」


西条がようやく答えた。


「佐伯……下の名前は?」


「佐伯浩一。投資の話に詳しい人だ」


「カルソックの社員なの?」


「以前、関係する仕事をしていた。僕の紹介なら、話をつないでくれる」


ゆみは携帯を耳に当てたまま、机の端を見つめた。最初に聞いた時は、カルソックから出資を受けられるような話だった。今は、元社員かもしれない人物と食事をする話になっている。


「それって、カルソックが出資を決めたわけじゃないよね」


「もちろん、これからだよ。だからまず会うんじゃないか」


「……分かった。会う前に、佐伯さんの会社名も送って」


「ゆみ、ずいぶん慎重になったね」


「会社のお金の話だから」


西条は軽く笑って電話を切った。


しばらくして届いたメッセージには、佐伯の会社名と食事の場所が書かれていた。ゆみはそれを保存したが、出席するとまでは返さなかった。


***


翌朝、愛菜は工場長とともに生地商社を訪ねた。


担当者は二人を会議室へ通し、昨夜の連絡について頭を下げた。


「急にお断りして、申し訳ありません」


「理由を聞かせてください」


愛菜が言うと、担当者は書類を一枚差し出した。


「その生地は、今季の一定数量について誉グループと優先供給の契約があります。昨日、契約分を全量引き取ると先方から連絡が入りました」


「昨日、ですか」


「はい。こちらの確認が遅れ、誉様には手配できるとお伝えしてしまいました」


父が動いたのだろう。そう思ったが、愛菜は書類から目を離さなかった。契約がある以上、この担当者を責めても生地は手に入らない。


「優先供給の対象は、この色だけですか?」


「いえ、同じ品番の全色です」


「分かりました。説明してくださって、ありがとうございます」


工場を出ると、工場長が歩調を緩めた。


「別の生地なら、仕入れ先を当たれます。ただ、昨日の型紙は調整が必要になるかもしれません」


「お願いします。私も探します」


「元の会社に話してみなくていいんですか」


愛菜は首を横に振った。


「あの生地を譲ってもらうために、結婚の話まで戻したくないんです」


言葉にして初めて、自分が何を恐れていたか分かった。父は生地一枚で、愛菜を呼び戻せると思っているのかもしれない。


愛菜は携帯を取り出し、知っている生地屋へ順に電話をかけた。以前の会社の名前は使わず、新しいブランドの代表として名乗った。


三軒目で、小さな織物会社の担当者が言った。


「同じ生地はありません。でも、似た厚みのものなら、うちで織っています。一度、触ってみますか」


その日の午後、愛菜は工場長を誘って織物会社へ向かった。


案内された倉庫で見つけた生地は、予定していたものより少し硬かった。初めは違うと思ったが、肩に掛けてみると、形がきれいに立つ。


「これなら、肩の線を残せる」


愛菜がつぶやくと、工場長も生地の端をつまんだ。


「縫い方は変えた方がいい。でも面白いかもしれませんね」


「サンプルを一着、作れますか」


「作ってみましょう。ただし、昨日のものと同じにはなりませんよ」


「同じにしなくていいです」


愛菜はもう一度、生地を広げた。


「こっちの良さを見たい」


***


大虎の机には、その日のうちに二通の報告が届いた。


一通目には、誉グループが生地の優先供給契約を使った経緯。二通目には、愛菜が別の織物会社を訪ねたことが記されている。


大虎は先に二通目を読んだ。


「代わりの生地、見つけたか」


向かいに立つ秘書がうなずく。


「試作を依頼したそうです」


「愛菜ちゃんらしいな」


「仕入れ先に、当社から何か連絡を?」


「いらない。試作品を作れるかどうかは、あの二人が決めることだ」


大虎は報告書を伏せた。知っていれば助けたくなる。だが愛菜が欲しがっているのは、彼の答えではない。


机には、もう一通、西条と佐伯についての報告もあった。大虎はそれに目を通し、秘書に返す。


「こちらは引き続き、事実だけ知らせてくれ」


「承知しました」


***


三日後、工場で最初のサンプルが仕上がった。


愛菜は鏡の前で袖を通し、肩を回した。生地は当初のものより張りがある。動きにくくなるかと心配したが、腕を上げても引っ掛からない。


「どうですか」


工場長に聞かれ、愛菜は鏡の中の自分を見た。


「最初に描いた服とは違います」


「やり直しますか?」


「いいえ。これを、まなブランドの一着目にしたい」


工場長が少し笑った。


愛菜は携帯で写真を撮り、大虎に送った。


『生地が変わって、服も変わった。でも、こっちが好き。見て』


しばらくして返信が届く。


『昨日見せてくれた図面より、いい顔してる』


『服の話? 私の話?』


返事が来るまで、愛菜は携帯を手にしたまま待った。


『両方』


愛菜は鏡の前で、思わず笑った。


***


その夜、ゆみのもとに西条から書類が届いた。


『佐伯さんとの食事の前に、これだけ目を通しておいて』


出資の提案書だと思って開いた。ところが、二枚目に書かれていたのは、ゆみの会社から西条の会社へ支払う「事前調査費」だった。


金額は三千万円。


ゆみは画面を拡大し、もう一度読んだ。カルソックの名は、書類のどこにもなかった。


10 最初の買い手


「三千万円って、何のお金?」


ゆみは西条に電話をかけた。


「書類に書いてあるだろ。投資を受けるための事前調査費だよ」


「カルソックの名前が一度も出てこない。払う相手は西条さんの会社になってる」


「そういう手続きなんだ」


「誰が調査するの?」


西条はすぐに答えなかった。


「ゆみ。僕だって、君のために動いてるんだよ」


「それはありがたい。でも、会社から三千万円を出すなら、使い道を知らなきゃ決められない」


「僕を疑うの?」


「書類を確認してるだけ」


電話の向こうで、短い息が聞こえた。


「分かった。佐伯さんに説明させる。食事だけでも来てくれないか」


「説明を聞いてから決める。お金は払わないよ」


西条は「それでいい」と言った。


ゆみは電話を切り、机の上の書類を見た。三年前、会社を始めた頃なら、三千万円という数字だけで怖くなったはずだ。今も怖い。会社が大きくなったからといって、軽く出せる金ではない。


それなのに、カルソックという名前を聞いた時は、確かめる前に未来が決まった気になっていた。


ゆみは書類を保存し、商談の予定を手帳に書き込んだ。出席するとしても、その場で署名はしない。そう決めて、ようやく仕事に戻った。


***


まなブランドの最初の試作品は、愛菜が以前から付き合いのある小さなセレクトショップへ運ばれた。


店主は服を手に取り、縫い目を確かめた。


「着てみていい?」


「もちろんです」


愛菜は店の奥で待った。試着室のカーテンが開くと、店主は鏡の前で腕を上げ、横を向く。


「見た目より動きやすい。肩がきれいに見えるね」


「そこを一番大事にしました」


「ただ、うちのお客さんには、少し値段が高いかもしれない」


予想していた言葉だった。愛菜は持ってきた原価表を開いた。


「生地を変えた分、縫製の工程も変えました。これ以上下げると、工場に無理をお願いすることになります」


「じゃあ、うちでは難しいかな」


愛菜はすぐに値下げを口にしなかった。店主が試作品を脱ぐ前に、もう一度鏡を見ていたことを思い出す。


「まず十着だけ、置いてもらえませんか。売れ行きを見て、次の色を一緒に考えたいです」


店主は笑った。


「十着じゃ、あなたも手間でしょう」


「最初のお客さんがどう着るのか、私も知りたいんです」


「それなら、十着から。条件を書いて送って」


店を出た愛菜は、歩道の端で立ち止まった。契約はまだだ。それでも、値段を守ったまま、服を置いてくれる店が一つ見つかった。


次の店では二十着。その次の店では、店主が色違いの試作を待つと言った。


三日間歩いて、確定した注文は三十着。工場と相談していた三百着には、まだ遠い。


愛菜は夜、数字を手帳に並べた。残り二百七十着を売る道を考える。展示会だけに頼らず、予約も受けられるようにしたい。


「三十着じゃ、褒められないかな」


そう呟いてから、大虎へ写真を送った。注文書が三枚、机に並んでいる。


『最初のお客さんが決まったよ』


返事は数分後に届いた。


『おめでとう、社長。一着目を選んでくれた人に会えたな』


愛菜は注文書を見直した。「三十着」という数字が、急に違って見えた。


***


大虎は会議の合間に愛菜の写真を見ていた。


机には工場の生産予定、展示会の案内、ゆみと西条が会う予定まで報告されている。秘書は大虎が求める前に、確認できた事実を揃えていた。


「誉様の注文は、まだ三十着です」


「そうだな」


「工場が希望する数量には届いていません」


「愛菜ちゃんも分かってる」


大虎は携帯を置いた。


「三十着を、誰にも頼らず売った。それを先に見てやりたい」


秘書が小さくうなずいた。


大虎はゆみと西条の報告にも目を通す。三千万円の書類には署名していない。ゆみが質問したことも、佐伯との食事に行くつもりでいることも、彼は知っていた。


だが、書類を持つ手が一度止まる。


三年間、同じ家で暮らした人だ。これから何が起きるか知っていても、彼女が自分で選ぶところまでは奪えない。


「会長、次の会議です」


「ああ」


大虎は報告を閉じた。


***


その夜、ゆみは西条に指定された店へ向かった。


店の入口で名前を告げると、奥の個室へ案内された。西条が立ち上がり、隣の男を紹介する。


「こちらが佐伯さん」


「初めまして。佐伯浩一です」


佐伯は丁寧に名刺を差し出した。肩書は「事業開発コンサルタント」。カルソックの名前は印刷されていない。


ゆみは名刺を受け取り、席に着く前に尋ねた。


「佐伯さんは、カルソックのどなたに私の事業を紹介してくださるんですか?」


佐伯は西条をちらりと見た。


「まずは、あなたの事業を私が理解するところから始めましょう」


「分かりました。でも、出資元が決まっていない段階で、事前調査費を払うつもりはありません」


西条が口を開きかけた時、佐伯が軽く手を上げた。


「それで構いません。今日はお話を聞くだけで」


柔らかい声だった。ゆみは少しだけ肩の力を抜いた。


その直後、佐伯が鞄から一枚の写真を取り出した。


「実は先日、カルソックの会長が出席した会合に、私もいたんです」


写真には、大勢の人々と、その奥を横切る男の姿が写っていた。顔は半分、別の人の肩に隠れている。


ゆみの指が止まった。


見覚えのある横顔だった。


「……この人、誰?」


「カルソックの会長ですよ」


佐伯の声が、遠く聞こえた。


11 見覚えのある横顔


「会長のお名前は?」


ゆみが尋ねると、佐伯は写真を見下ろした。


「海外では名前を出さない会合も多い方です。私は同席しただけで、直接お話ししたわけではありません」


「そうですか」


さっきは、会長が出席した会合に自分もいたと、誇らしげに言っていた。その距離が少しずつ遠くなる。


写真を拡大しても、男の目元は見えなかった。けれど、肩の上げ方と、歩く時に少し顎を引く癖が、大虎に似ている。


「知ってる人に似てました」


ゆみが言うと、西条が身を乗り出した。


「誰に?」


「……昔の知り合い」


「なら、会長とは別人だろう。こんなところで会うような人じゃない」


西条は笑った。ゆみも笑い返そうとしたが、できなかった。


大虎はどこで働いているのか、最後まで教えてくれなかった。だが、世界最大企業の会長が自分の部屋で夕食を作り、生活費を払わずに暮らすだろうか。


そんなはずはない。ないはずなのに、写真から目を離せない。


「出資の話に戻りましょう」


佐伯が資料を広げた。


「御社には十分な売上があります。まずは我々が事業価値を調べて、紹介先を選びます」


「紹介先というのは、カルソック以外の会社も含むんですか?」


「もちろんです。可能性を狭める必要はありません」


ゆみは資料を閉じた。


「今日は説明をありがとうございました。調査をお願いするかは、持ち帰って考えます」


西条の顔が曇ったが、佐伯は静かにうなずいた。


「お返事をお待ちしています」


店を出たゆみは、夜道で大虎とのメッセージを開いた。最後のやり取りは、追い出す前日の「牛乳買って帰るね」だった。


『だいちゃん、元気?』


打っては消す。こんな時だけ連絡するのかと、自分でも思った。


画面を閉じる直前に、別の一文を打つ。


『この前は、言い過ぎた。ごめんね』


送信すると、すぐに既読を確かめたくなった。ゆみは携帯を鞄にしまい、駅まで歩いた。


***


週末、愛菜は小さな撮影場所を借りていた。


店に置く服の写真と、予約を受けるための写真を撮る。モデルも大がかりな機材も呼べず、友人が着替えを手伝い、大虎が照明を運んだ。


「その箱、重いよ」


「持てるって」


「フリーターって力仕事もするの?」


「何でも屋だからな」


愛菜は笑い、友人の肩に完成した服を合わせた。


撮影を始めると、生地の張りが写真では硬く見えた。愛菜は画面を確認し、窓際へ移動する。


「こっちの光で撮り直そう。袖を通した時の柔らかさが伝わってない」


「時間、大丈夫?」と友人が聞く。


「あと一時間ある。納得できるまでやりたい」


大虎は窓際に白い板を立て、光を服に返した。


「これでどう?」


「……うん、こっち」


愛菜はカメラの画面を見て、ようやくうなずいた。


写真を公開した翌日から、少しずつ予約が入った。十着、二十着。最初に服を置いた店主が紹介文を書いてくれた日には、注文がさらに増えた。


一週間後、店からの三十着と個人からの予約を合わせて百着になった。


まだ三百着には届かない。それでも、百人の手に渡る道が見えた。


「百着!」


愛菜は工場長への電話を切ってから、事務所で一人、声に出した。


工場長は、残りの注文を待つ間に裁断の準備を進めてくれると言った。愛菜は礼を伝え、次の展示会の出展資料を開く。


携帯が鳴った。大虎だった。


「百着いったんだって?」


「もう知ってるの?」


「今朝、愛菜ちゃんが数字を送ってきたろ」


「あ、そっか」


興奮して何人にも連絡したせいで、自分が送ったことを忘れていた。


「あと二百。まだ先は長いよ」


「その話をする時、嬉しそうだな」


「うん。最初は五千万円が怖かった。でも今は、作ってほしいって言ってくれる人がいるから」


電話の向こうで、大虎が笑った。


「今度、完成した服を見せて」


「もちろん。だいごくんには、最初に見せる」


***


大虎が電話を切ると、秘書が新しい報告を机に置いた。


「ゆみ様は、三千万円の支払いを保留しました。昨夜、佐伯氏が会長の写った写真を見せています」


「知ってる」


大虎は報告に目を通した。西条が写真をどう手に入れたかも、佐伯とどんな関係かも書かれている。


携帯の画面には、ゆみからのメッセージが残っていた。


『この前は、言い過ぎた。ごめんね』


三年間一緒にいた相手が、謝るまでにどれだけ迷ったかは想像できた。


大虎は返信欄を開いた。何と返せばいいのか考えていると、もう一通届く。


『ひとつだけ聞いていい? だいちゃんは、本当はどんな仕事をしてるの?』


大虎の指が止まった。


12 言えなかった仕事


大虎は、ゆみの問いを何度も読み返した。


三年間、尋ねられるたびに答えを避けてきた。今になって正体を明かせば、言い訳に聞こえるかもしれない。それでも、もう同じ嘘を重ねたくはなかった。


『ちゃんと話す。明日、少し会えるか』


送信すると、間を置かず返事が届いた。


『会える。前に一緒に行った喫茶店でいい?』


『分かった』


大虎は携帯を伏せた。


***


翌日の午後、ゆみは約束より早く喫茶店に着いた。


以前、大虎と二人でよく座った窓際の席が空いていた。注文した紅茶は、飲まないうちに冷めていく。


扉のベルが鳴った。


大虎は、ゆみが知っているのと同じ上着を着ていた。向かいの椅子に座るまで、どこかの会長だとは到底思えなかった。


「久しぶり」


「……うん。来てくれてありがとう」


二人はしばらく、メニューさえ開かなかった。


「この前は、ごめん。出ていってって言う前に、もっと話せばよかった」


ゆみが先に口を開いた。


「俺も、話すべきことを話さなかった」


「写真を見たの」


ゆみは携帯を取り出し、佐伯から見せられた写真を大虎に向けた。


「これ、だいちゃん?」


「そうだよ」


返事は短かった。ゆみはその先を待った。


「俺がカルソックの会長だ」


窓の外をバスが通り過ぎた。店内には食器の触れ合う音がしていたが、ゆみには遠く聞こえた。


「……嘘でしょ」


「今まで黙ってたことは、謝る」


「なんで? 三年間も一緒にいたのに」


大虎はすぐに答えなかった。


「最初は、会社の名前を離れたところで暮らしたかった。ゆみといる時は、俺自身を見てもらえてる気がしたから」


「私は、だいちゃんを見てたつもりだよ」


「分かってる。だけど、どんな仕事をしてるか聞かれるようになっても、言い出せなかった。そこからは俺の身勝手だ」


ゆみは両手でカップを包んだ。


「生活費を払ってって、何回も言ったよね。私はずっと、私一人で二人分を支えてると思ってた」


「そう思わせたのは俺だ。店の仕事を手伝っていたとしても、説明もせずに済ませていい話じゃなかった」


ゆみは顔を上げた。


「店の仕事?」


「発注の確認とか、客への連絡とか。ゆみに言わずにやってた」


大虎はそこで一度言葉を止めた。ゆみが知るべきことは、まだある。


「会社の資金の話も、しないといけない」


「資金?」


「北星パートナーズを覚えてるか」


「忘れるわけないよ。会社を始めた時に五千万円出してくれて、二年目の生産拡大でも一億円。あそこがなかったら、今の会社はない」


「北星に資金を出していたのは、俺だ」


ゆみは大虎を見つめた。


「……北星の担当者が審査したって、言ってたよ」


「審査したのは担当者だよ。ゆみの計画を見て、投資を決めた。俺は北星の資金の出し手だと、ゆみに言わないよう頼んでいた」


「最初から、知ってたの? あの投資があなたのお金だって」


「うん」


「私は、あなた一人を養っていると思ってたのに」


「そう思わせたまま、黙ってた。出した金は会社への投資で、生活費を渡したことにはならない。ゆみが俺に怒るのは当然だよ」


ゆみはカップから手を離した。帳簿にある投資会社の名前も、署名した契約書も、今までと変わらない。ただ、その向こうにいた人だけが変わった。


「どうして言わなかったの?」


「最初は、俺の金だと分かったら、ゆみが自分の力で伸ばした会社まで俺のおかげだと思うんじゃないかって。でも途中からは、秘密を守ることに慣れてしまった。仕事のことも、資金のことも、話すのが遅すぎた」


「……ずるいよ」


「ああ」


「もっと早く言ってくれたら、こんな別れ方をしなくて済んだかもしれない」


大虎は答えられなかった。ゆみが会社を育てた事実は揺るがない。彼が出した資金が役に立ったことも事実だ。どちらも、別れる前に伝えるべきだった。


「だから最近、急に仕事が回らなくなったんだ」


「ゆみが会社を大きくしたんだよ。俺が資金を出しても、服を作って売ったのはゆみだ」


「それでも、一人でやったと思い込んでた」


ゆみは唇を噛んだ。彼を追い出した日に、片づける前の食卓には皿が二枚並んでいた。あの光景を、なぜか何度も思い出す。


「西条さんは、カルソックの出資を取り次げるって言ってる。でも、三千万円の調査費を先に払ってほしいって」


大虎の表情が引き締まった。三千万円の書類については、すでに報告を受けている。


「カルソックには、ゆみの会社への出資案件は上がっていない。俺からも、誰かに調査費を請求させていない」


「……やっぱり」


「書類には署名するな。金も送るな。相手の説明は、ゆみの会社の担当者とも確認して」


大虎は言い切った。今、伝えるべきことだった。


「教えてくれてありがとう」


ゆみは写真を閉じた。大虎の正体を知ったのに、頭に浮かぶのは数字ではない。毎朝、彼が出かける背中に向かって言った言葉だった。


「仕事は? って、私、責めてばかりいた」


「責めたくなるのも当然だよ」


「それでも……追い出したのは私」


「俺も、嘘をついた」


どちらか一人だけが悪かったと言えれば、楽だったのかもしれない。


ゆみは窓の外を見た。


「戻ってきて、とは言えないね」


大虎は答えるまでに少し時間をかけた。


「うん。今は、戻れない」


ゆみはうなずいた。覚悟していた返事なのに、胸が痛んだ。


***


店を出ると、大虎の携帯に愛菜から写真が届いていた。展示会に出す商品の値札を、自分で付けている。


『字、曲がってない?』


大虎は思わず笑った。


『少しだけ。でも愛菜ちゃんらしい』


『褒めてるの、それ?』


『褒めてる』


ゆみは数歩離れたところで、大虎の表情を見ていた。誰からの連絡か、聞かなくても分かった気がした。


「だいちゃん」


「何?」


「その人には、いつか本当のこと話してね」


大虎は携帯をしまった。


「……ああ」


ゆみが駅の方へ歩き出すのを見届けてから、大虎も反対側へ向かった。


通りの向こうで、黒い車のそばに立つ男が扉を開ける。


「会長、お車を」


その声を、近くの店から出てきた西条が聞いていた。


西条は車に乗り込む大虎の横顔を見て、立ち止まった。


「……あいつが?」


13 取り戻したいもの


西条は黒い車が角を曲がるまで、その場を動けなかった。


自分がゆみに「仕事をしていない男」と聞かされていた大虎を、運転手は会長と呼んだ。しかも、佐伯が見せた写真の横顔と同じだった。


西条は佐伯に電話をかけた。


「あの写真の男、名前は?」


「いきなり何だ」


「いいから答えろ」


佐伯は少し黙り、聞き返した。


「まさか、知り合いなのか?」


「俺じゃない。ゆみが、あいつと三年暮らしてた」


今度は佐伯の方が言葉を失った。


西条はもう一度、ゆみが出てきた喫茶店を見た。彼女は写真を見た時から気づいていたのだろう。自分には話さず、大虎に確かめに来た。


「三千万円の件は、いったん引っ込める」


西条が言うと、佐伯は不満そうに息を吐いた。


「金を取る機会を逃すのか」


「もっと大きな話ができる」


電話を切った西条は、ゆみへ連絡しようとして指を止めた。今押しかければ、疑われるだけだ。


まず、彼女が欲しがるものを探さなければならない。


***


ゆみは事務所に戻り、北星パートナーズとの契約書を棚から出した。


創業時の五千万円。二年目の一億円。資金を受けた時、彼女は一枚ずつ読み、署名した。大虎が出し手だとは、どこにも書かれていない。


会社の売上は自分の仕事で積み上げた。それは大虎も認めてくれた。それでも、会社の始まりに彼の金があったことを、今は切り離して考えられない。


北星の担当者に電話をかけた。


「御社が持っている持分を、私が買い戻すことはできますか?」


担当者はすぐに金額を答えなかった。


「可能性はあります。ただ、出資は融資と違いますので、払った金額をそのまま返せば終わり、とはなりません。持分の評価と双方の合意が必要です」


「分かりました。手続きを教えてください」


電話を切った後、ゆみは机の上の数字を見た。いくら必要になるか、まだ分からない。いま無理をすれば、店の仕入れや社員の給料に響く。


それでも考えたかった。大虎との関係が終わったのなら、資金の関係もいつか整理したい。


それは彼への怒りではない。彼がいなくても会社を続けられると、自分自身に言えるようになりたかった。


***


愛菜の展示会まで、あと一週間だった。


事務所の床には値札と資料が広がり、友人が梱包した箱を数えている。愛菜は工場長から届いた二着目の試作品を確認した。


「こっちは、最初の生地より少し軽いね」


「夏の終わりにも着られるようにしたかったの」


「二色とも持っていく?」


「うん。実際に見てもらって、どちらを作るか決める」


予約は百着から少し増えた。それでも、三百着を作る約束をするにはまだ足りない。愛菜は展示会の出展者一覧を開き、一軒ずつ、会いたい店に印を付けた。


扉が鳴り、大虎が紙袋を持って入ってくる。


「差し入れ」


「だいごくん! 何?」


「オムライス……は持ってこられなかったから、サンドイッチ」


「ハンバーグじゃないの?」


「この前、頼まなかっただろ」


友人が笑う。愛菜は「今日はサンドイッチの気分」と言って袋を受け取った。


大虎が資料の山を見回す。


「手伝えることある?」


「ある。値札の字が曲がってないか見て」


「それは直せるな」


並んで作業を始めると、愛菜は大虎の横顔をうかがった。いつも通りに笑っているが、どこか疲れて見える。


「今日、何かあった?」


大虎の手が一瞬止まる。


「昔のことで、話さなきゃいけない相手に会ってきた」


「そうなんだ」


「ちゃんと話せたかは、まだ分からない」


愛菜は値札を一枚受け取り、机に置いた。


「でも、会いに行ったんでしょ。それなら今日は、少し休んで」


大虎は愛菜を見た。彼女はそれ以上聞かず、サンドイッチを半分に分けて差し出した。


「展示会、来てくれる?」


「もちろん」


「だいごくんには、お客さんが服を見るところを見てほしい」


「楽しみにしてる」


愛菜は笑って、次の値札を手に取った。


***


夜、ゆみの携帯に西条からメッセージが届いた。


『調査費の話は取り下げる。嫌な思いをさせてごめん』


ゆみは驚いた。続けて、もう一通届く。


『北星パートナーズの持分を買い戻すこと、考えてるんだろ? 資金が必要なら、力になれる』


ゆみは画面を見つめた。


北星に電話したのは今日だ。西条には、一言も話していない。


『どうして、そのことを知ってるの?』


送信すると、既読はすぐについた。だが、返事はなかなか来なかった。


14 三百着目


『前に見せてもらった会社の資料に、北星の名前があっただろ』


西条からの返事は、それだけだった。


ゆみは過去のやり取りを開いた。たしかに、出資を相談し始めた頃、西条に渡した決算資料には北星パートナーズの名がある。


『それは知ってる。でも、買い戻す話はしてない』


『君なら考えると思った。大虎と別れたんだから』


ゆみは携帯を伏せた。西条が知っていたのではなく、言い当てたのだ。それでも、当たった後の言葉が気に掛かる。


資金が必要なら、力になれる。


かつてカルソックの出資を取り次ぐと言った時も、彼はそう言った。結局、三千万円の調査費を求められた。


ゆみは「必要ならこちらから連絡します」とだけ返信した。


***


展示会初日の朝、愛菜は開場前の小さなブースで服の裾を直していた。


二色の試作品を並べ、予約用紙を机に置く。壁には撮影した写真。床には友人と運んだ箱が積んである。


「緊張してる?」


友人が聞く。


「ものすごく」


「顔には出てないよ」


「足が震えてる」


二人で笑ったところへ、最初の来場者が入ってきた。


愛菜は一日中、服の説明をした。生地を替えた理由、肩の形を残した理由、作れる数。値段を聞いて去る人もいれば、試着してからもう一度戻ってくる人もいた。


昼過ぎ、地方で三店舗を営む店主が言った。


「この色、六十着ほしい。ただ、うちだけで先に売らせてもらえる?」


愛菜は嬉しさをこらえ、条件を聞いた。


「いつまでの独占ですか」


「まず半年」


半年間、ほかの店でその色を扱えなくなる。今、六十着を決めてもらえれば三百着に近づく。だが、これまで一着ずつ頼んでくれた店にも、同じ色を見せたい。


「六十着はありがたいです。でも半年の独占はできません。先行販売なら、二週間お願いできます」


店主は考え込み、隣の試作品を見た。


「二週間か。だったら、まず四十着」


「お願いします」


二人は納期と数量を確認し、仮の注文書を交わした。


愛菜は手帳に四十と書き加えた。百着から始まった予約は、初日を終えて百八十着になっていた。


***


二日目、愛菜は朝から声を枯らした。


試着した女性が友人を連れて戻ってきた。前日に断った店も、別の色なら置きたいと相談に来た。友人が注文を整理し、愛菜は一人ずつ名前と希望の色を確認した。


夕方、大虎が会場に着いた。


愛菜には知らせていない。ブースの外から、彼女が客に服を渡す様子を見ていた。


「ここだけ、少し生地が硬いんですね」


「はい。肩の形を出すためです。でも腕は動かしやすいので、試してみてください」


客が腕を上げ、鏡の前で笑う。


大虎はその顔を見た。愛菜が自分で選んだ生地を、誰かが自分の意思で選んでいる。


「だいごくん!」


愛菜が気づいて駆け寄った。


「来てくれたんだ」


「約束しただろ」


「見て。今日、何着になったと思う?」


「教えてくれ」


「二百九十七着」


「あと三着か」


「うん。もうすぐ閉場だから、今日は届かないかも」


「二百九十七着でも、すごいよ」


「分かってる。でも、三百まで行きたい」


愛菜はブースへ戻った。大虎は離れた通路で、彼女を見守った。


閉場を知らせる案内が流れた時、昨日一度試着した女性が戻ってきた。


「まだ注文できますか?」


「もちろんです」


「母と姉にも写真を見せたら、欲しいって。私の分と合わせて、三着」


愛菜は注文用紙に数量を書いた。


三着。


合計、三百着。


「ありがとうございます」


声が少し震えた。女性が帰ると、友人が手帳を覗き込む。


「愛菜、届いたよ」


愛菜はうなずき、大虎を探した。彼は通路の端で、小さく拍手していた。


「三百着、いった!」


愛菜が走ってくる。大虎は両手を広げかけて、止めた。


愛菜はそのまま彼の手をつかんだ。


「だいごくん、見ててくれた?」


「最初から最後まで」


「全部じゃないでしょ。夕方来たんだから」


「大事なところは、全部」


愛菜は笑った。


***


同じ夜、ゆみは北星パートナーズから届いた資料を読んでいた。


持分を買い戻す場合の手順は書かれている。だが、今すぐ必要な金額は記されていない。まず双方で評価し、条件を決めることになる。


『急いで決めるつもりはありません』


ゆみは担当者に返信した。店を立て直す方が先だ。


その直後、西条から電話が来た。


「展示会、行った?」


「どこの?」


「誉愛菜の新しいブランド。大虎も来てたらしいよ」


ゆみは資料から顔を上げた。


「……愛菜さんを知ってるの?」


「さあ。会長の近くにいる人間なら、知っておいた方がいいと思ってね」


西条の声は穏やかだった。


ゆみは、なぜか背筋が冷たくなった。


15 約束の夜


「愛菜さんの名前を出して、何が言いたいの?」


ゆみの声が硬くなった。


「大虎はもう、君の会社には金を出さないかもしれない。次に支える相手がいるんだから」


「北星との契約は、だいちゃんの気分で変わるものじゃないよ」


「へえ。会長のこと、ずいぶん信用してるんだね」


「私の会社の話をしてるの。愛菜さんを巻き込まないで」


ゆみは電話を切った。


店の経営はまだ落ち着かない。大虎への気持ちも整理できていない。西条の言葉に揺れないと言えば嘘になる。それでも、会ったこともない愛菜を責めるのは違う。


西条には、こちらから連絡しないことにした。


***


展示会の翌朝、愛菜は工場へ向かった。


工場長の机に、注文書を一枚ずつ並べる。店からの注文と個人の予約を合わせて三百着。色とサイズを数え直すと、紙の上でもちゃんと三百になった。


「作れますか」


「準備してきましたからね。生地の在庫も、まず必要な分は押さえてあります」


「ありがとうございます」


工場長は予定表を指さした。


「ここで裁断して、縫製を始めます。検品を急ぐと後から困る。納期はこの日でどうですか」


愛菜は店に伝えた期日と照らし合わせた。間に合う。けれど、余裕は多くない。


「この日でお願いします。私も検品に来ます」


「社長が全部見るつもりですか」


「最初の三百着は、見たいです」


工場長は笑い、発注書を受け取った。


帰り道、愛菜は大虎に電話をした。


「正式にお願いしてきたよ」


「おめでとう」


「まだ納品してないけどね」


「今日は今日の分のおめでとうだ」


愛菜は横断歩道の手前で立ち止まった。


「だいごくん、この前のご飯、仕事の話ばっかりだったでしょ」


「そうだったな」


「今度の休み、仕事抜きで会わない?」


大虎は少し黙った。


「それって、デート?」


愛菜も黙る。信号が青に変わり、人が横を通り過ぎた。


「……そう言ったら、来てくれる?」


「行くよ」


愛菜は小さく笑った。


「じゃあ、デート」


***


その夜、大虎は愛菜と初めて会った河川敷へ来ていた。


待ち合わせをしたわけではない。会議を終えて車に乗る前、少し歩きたくなった。


誉グループの車がしばらく後ろを走っていたことには、気づいている。愛菜の父が話したいのなら、ここで聞こうと思った。


愛菜に仕事のことを聞かれた時、いつか話すと約束した。ゆみには正体を明かしたのに、愛菜にはまだ言えていない。


次の休みには、彼女と仕事抜きで会う。


嬉しかった。だからこそ、秘密を持ったまま近づいていいのか分からなかった。


「こちらにいらしたんですね」


振り向くと、誉グループの会長、愛菜の父が立っていた。後ろに停めた車の運転手が、少し離れて待っている。


「愛菜のことですか」


「それもあります」


父は大虎の顔を確かめ、姿勢を正した。


「海外の会合で、一度だけお見かけしました。カルソックの会長でいらっしゃいますね」


「そうです」


川の音が二人の間を流れた。


「娘は、そのことを?」


「知りません」


父の表情が変わった。


「では、なぜ娘のそばに」


「ここで会って、話すようになりました」


「愛菜には、私が用意した縁談が――」


「断ったと聞いています」


大虎の声は静かだった。


「娘さんは、自分で会社を作って、三百着の注文を取りました。私はその場にいただけです」


父は口を閉じた。生地の契約を使えば、愛菜は帰ってくると思っていた。別の生地を見つけたと聞いた時も、長くは続かないと考えていた。


「資金は、あなたが?」


「藤川興産の審査を受けて、融資を得ました。私が関わったことは、いずれ愛菜ちゃんに話します」


大虎は父を見た。


「ただ、会社をどう育てるかも、誰と一緒にいるかも、決めるのは愛菜ちゃんです」


父は答えなかった。


やがて一礼し、車の方へ戻っていく。乗り込む前に、もう一度振り返った。


「娘は、あなたが誰か知らずに、親しくしているんですか」


「……そうです」


「だったら、私は娘に何を見せていたんでしょうな」


父は車に乗り込んだ。


大虎は一人、川の向こうの灯りを見た。愛菜に真実を話す日は、自分で思っていたより近いのかもしれない。


16 仕事をしない日


初めてのデートの日、愛菜は待ち合わせ場所に十分早く着いた。


展示会で履き慣れた靴ではなく、新しい靴を選んだ。歩きにくいかもしれないと家を出てから後悔したが、今さら戻れない。


「早いな」


大虎はいつもの上着で現れた。


「だいごくんも早いよ」


「今日は、愛菜ちゃんの行きたいところに行く」


「本当に? 途中で仕事の電話をしないでね」


「しない」


仕事用の携帯は、朝から秘書に預けてある。緊急の連絡だけ、手元の私用の携帯へ届くようにした。今日は、その画面もできるだけ見ないつもりだ。


愛菜が取り出したのは、水族館のチケットだった。


「久しぶりに行きたくて」


「俺も久しぶりだ」


入場口で愛菜が二枚のチケットを渡すと、大虎が財布を出した。


「ここは私が払う。ご飯はお願い」


「分かった」


「無理しないお店でね」


「ハンバーグか?」


「今日は決めてない。途中でオムライスに変わるかもしれないし」


二人は笑いながら館内へ入った。


***


愛菜は大きな水槽の前で立ち止まった。青い光の中を、魚の群れが一斉に向きを変える。


「すごい。誰も合図してないのに」


「一匹が動くと、周りもついていくのかな」


「会社も、こんなふうに動いたら楽そう」


「仕事の話は禁止じゃなかったか?」


「今のは魚の話」


愛菜は真顔で言い、大虎を笑わせた。


次の水槽では、ペンギンが水へ飛び込むところを眺めた。愛菜は何度も写真を撮ったが、自分の写った写真は一枚もない。


「撮ってやるよ」


「え。私、写真苦手」


「さっきからずっと笑ってる。そのままでいい」


大虎が携帯を構えると、愛菜は少し照れながら水槽の前に立った。撮れた写真には、泳ぐペンギンと、そちらを見て笑う愛菜が写っていた。


「これ、送って」


「気に入った?」


「うん。だいごくんが撮ったから」


大虎は返事を探して、結局「あとで送る」とだけ言った。


***


夕方、二人は河川敷を歩いた。初めて会ったベンチが見える。


「あの日、ここに座ってよかった」


愛菜が言った。


「俺も。あの時は二人とも、帰るところがなかったな」


「今は事務所もあるし、作ってもらう服もある」


「愛菜ちゃんが作った場所だ」


「でも、嬉しいことがあると最初に話したくなるのは、だいごくんなんだ」


愛菜は足を止めた。新しい靴のせいか、少しだけ踵が痛い。それを言い訳にしても、この先の言葉は避けられそうになかった。


「私、だいごくんが好き」


大虎も立ち止まった。


彼女の顔を見れば、返事を迷う理由はなかった。ただ、自分にはまだ話していないことがある。


「愛菜ちゃん。俺も好きだ」


愛菜の表情が明るくなる。その前に、大虎は続けた。


「でも、仕事のことを全部は話せてない。いつか話すって約束したのに、まだ言えてない」


「うん。知ってる」


「そのまま、付き合ってほしいって言うのは、ずるいかな」


愛菜は少し考えた。


「ずるいと思うよ」


大虎はうなずいた。


「でも私も、自分で決めたい。今日は、だいごくんと一緒にいたい」


「いつ話せるか、ちゃんと考える」


「約束ね。聞いた時に怒るかもしれないけど、話してくれたら最後まで聞く」


愛菜が手を差し出した。大虎はその手を握った。


「じゃあ、今日から?」


「今日から」


愛菜は笑い、握った手に少し力を込めた。


***


家に戻ると、愛菜の携帯に父から電話が入った。


迷った末に出る。


「展示会の注文、三百着になったそうだな」


「そうだよ。もう工場に頼んだ」


「よくやった」


父に仕事を褒められたのは、いつ以来だろう。愛菜はすぐに返事ができなかった。


「……ありがとう」


「ところで、大虎さんとは今も会っているのか」


愛菜は握っていた携帯を持ち直した。


「どうして知ってるの?」


「この前、彼と話した」


「だいごくんと? 何を?」


父はしばらく黙った。


「愛菜。あの人が何の仕事をしているか、本人から聞いているか」


「まだ。でも、話してくれるって約束した」


父は息を吐いた。


「なら、私の口からは言わない。本人に聞きなさい」


通話が切れた後も、愛菜は携帯を耳から離せなかった。


17 名前の向こう側


父との電話を終えた愛菜は、大虎にメッセージを送った。


『父と会ったんだね。明日、仕事の後で話せる?』


返事はすぐに来た。


『話せる。俺から話す』


愛菜は画面を見つめた。昨日、恋人になったばかりだ。楽しみにしていたはずの翌日が、急に怖くなった。


***


工場では、最初の四十着が縫い上がっていた。


愛菜は工場長と一緒に、一着ずつ縫い目を確かめた。三十八着目の袖口に糸の緩みを見つけ、その次の一着は肩の線がわずかにずれていた。


「この二着は直せますか」


「直せます。納品前にもう一度、こちらでも見ます」


「お願いします。お店にも、検品してから出すと伝えてあります」


工場長が二着を脇に分けた。


愛菜は残りの服を丁寧に畳んだ。三百着の注文を取った日より、今の方が責任を重く感じる。画面上の数字が、客に届く服になり始めたのだ。


帰り際、工場長が尋ねた。


「顔色、よくないですよ。大丈夫ですか」


「個人的に、聞かなきゃいけないことがあって」


「仕事の方は、こちらでも見ています。今日は帰って休んでください」


愛菜は礼を言い、工場を出た。


***


大虎は河川敷のベンチで待っていた。


愛菜が隣に座る。初めて会った日には、何も知らない相手だから話せた。今は知りたいことが一つあるのに、口にするのが難しい。


「父が、だいごくんの仕事を知ってるみたいだった」


「昨夜、会って話した」


「藤川会長も知ってる。私だけ知らないんだね」


大虎は愛菜の方を向いた。


「そうだ。ごめん」


「何の仕事をしてるの?」


大虎は一度息を吸った。


「カルソックの会長をしている」


愛菜は彼を見たまま、しばらく動かなかった。


「……あの、世界一のカルソック?」


「うん」


「冗談にしては、笑えないよ」


「冗談じゃない」


いつもの上着。見慣れた顔。展示会で照明を運び、値札の曲がりを見てくれた手。その男が世界最大企業の会長だと言われても、目の前の風景は何も変わらない。


「フリーターって、言ってた」


「俺が嘘をついた」


「どうして?」


「ここで会った時、愛菜ちゃんと普通に話せたのが嬉しかった。次に会った時も、会長だと知って態度を変えられるのが怖かった」


「私が変わるって、決めつけたの?」


大虎は答えに詰まった。


「……そうだ。愛菜ちゃんに何も確かめず、自分で決めた」


愛菜は川へ目を向けた。


「付き合う前に言ってほしかった」


「言うべきだった」


「それだけ?」


大虎は首を横に振る。


「藤川興産の融資にも、俺が関わってる。誠一郎さんには事業計画を自分の判断で審査してほしいと頼んだ。返済が滞った時の損失は、俺が引き受ける約束をしていた」


「五千万円の保証を、私に黙って?」


「うん」


「だから融資が決まったの?」


「デザインと計画を見て、藤川興産が決めた。俺は買い手も注文も用意してない」


「でも、断りやすい話じゃなかったでしょう。世界一の会社の会長に頼まれたら」


大虎は言い返せなかった。


自分では審査を任せたつもりでも、藤川にとって大虎からの紹介が重いことは分かっていたはずだ。


「愛菜ちゃんの仕事を、自分の手柄にしたかったわけじゃない」


「分かるよ。だいごくんが私を応援してくれたことも、あの時の言葉が嬉しかったことも」


愛菜は握っていた両手を開いた。


「だから、余計に苦しい。私が信じてきた時間のどこからが秘密だったのか、今すぐには分からない」


「ごめん」


「今日、答えを出さなくてもいい?」


「もちろん」


大虎は手を伸ばさなかった。愛菜が一人で考えたいと言っている。その言葉を、今度は自分の都合で変えたくなかった。


愛菜は立ち上がった。


「嫌いになったわけじゃないよ。でも、今日は帰る」


「分かった」


駅に向かって歩きながら、愛菜は携帯の写真を開いた。


水槽の前で、ペンギンを見て笑う自分が写っている。撮ったのはカルソックの会長だった。


それでも、写真の中で笑っている理由は、だいごくんと一緒にいたからだった。


19 街へ出た服


最初の三百着が仕上がった日、愛菜は朝から工場にいた。


直してもらった袖口と肩の線を確かめ、色とサイズの数を合わせる。工場長と二人で最後の箱を閉じた時には、外が暗くなり始めていた。


「三百着、全部出せます」


「ありがとうございます」


愛菜は箱に貼った送り状を見た。最初に十着置いてくれた店。展示会で二週間だけ先行販売すると決めた店。写真を見て予約してくれた人たち。


手帳の数字が、一つずつ住所になっていた。


「社長、もう帰っていいですよ」


工場長が言った。


「最後の箱が車に乗るまで見ます」


「頑固ですね」


「そうかもしれません」


愛菜は笑った。


***


店に服が並んだ翌週、愛菜は最初のセレクトショップを訪ねた。


ラックには十着あったはずの服が、三着になっている。


「もう七着?」


「うん。昨日買ったお客さんが、今日また来るって」


店主は一枚のメモを見せた。


「肩が楽で、仕事の後も着替えずに食事に行けたって。あなたに伝えてほしいそうよ」


愛菜はメモを両手で受け取った。


机の上で何度も引き直した肩の線を、知らない誰かが生活の中で着ている。売上の数字より、そのことが胸に残った。


「少し、ここにいてもいいですか」


「もちろん。次のお客さんに会えるかもね」


店の扉が開いた。


入ってきたのは、愛菜の父だった。店主が二人を見比べる。


「お知り合い?」


「……父です」


愛菜が答えると、父はぎこちなく頭を下げた。


「近くまで来たので、服を見たくなった」


店主は一着をラックから取り、父に渡す。父は生地の表と裏を確かめ、縫い目に指を沿わせた。


「最初に使うはずだった生地とは違うな」


「あの生地は、使えなかったから」


「私のせいだ」


店主は二人の顔を見て、静かに奥へ下がった。


父は服を戻さずに言った。


「仕上がりは、こちらの方がいい」


愛菜は父を見た。誉グループの名を出して褒めているのではない。目の前の一着を、確かめて言っている。


「私も、そう思う」


父は財布を出した。


「一着、買ってもいいか」


「ここはお店だから、店主さんに聞いて」


「そうだったな」


父は初めて、客として愛菜の服を買った。


***


同じ頃、大虎はカルソック本社で月次報告を受けていた。


世界中の事業から上がる利益は、今月も百兆円を超えた。会議室では国ごとの数字が画面に並び、責任者たちが次の投資を議論している。


大虎は一つの案件を保留にした。売上の予測に、根拠の薄い数字が混じっていたからだ。


「大きな額になるほど、見落としは小さく書かれる。もう一度確かめて」


会議を終え、彼は上着を替えて愛菜の事務所へ向かった。


「今から発送する箱、まだある?」


愛菜は伝票の山から顔を上げた。


「会長に運ばせる仕事じゃないよ」


「今日は何でも屋」


「じゃあ、この二箱お願い。落とさないでね」


「了解、社長」


大虎は二箱を車まで運んだ。愛菜には、自分が会長だと分かった後も、普通に頼めることが嬉しかった。


車に積み終えると、愛菜が飲み物を二本持って出てきた。


「父がお店に来たよ」


「そうか」


「一着買ってくれた。割引なしで」


「そこが大事なんだな」


「大事。初めて、私のお客さんになってくれたから」


大虎は愛菜の笑顔を見た。あの日、父が生地を買い占めたと知った時には、こんな日が来るとは思えなかった。


***


それから三か月、まなブランドは小さな注文を積み重ねた。


一度買った人が別の色を頼み、店から追加の注文が入る。愛菜は売れた数だけでなく、返品や直してほしい箇所も記録した。工場長と相談しながら、二作目の型紙を作り始める。


ある朝、見覚えのない海外の会社から、事務所にメールが届いた。


展示会の写真を見たという。次のシーズンに向けて、まなブランドの服を扱いたいらしい。


希望数量は、一万着。


愛菜は画面を見つめ、もう一度、桁を数えた。


20 一万着の手前


一万着。


愛菜は声に出して読んでから、差出人の会社名を調べた。海外に複数の店を持つ服飾会社で、展示会にも買い付け担当を派遣していたらしい。


それでも、メール一通で注文が決まったわけではない。


愛菜は友人に画面を見せた。


「どう思う?」


「すごい話。でも、三百着を作る時だって大変だったよね」


「うん。先に、何を買いたいのか聞く」


愛菜は会社の公開窓口から担当者の在籍を確かめ、試作品の確認方法と販売予定地を尋ねる返信を送った。


翌週、海外の担当者との画面越しの商談が決まった。


***


「この服の肩の形を変えずに、一万着作れますか?」


担当者は見本を持ち上げて聞いた。


「一度に、という意味なら難しいです」


愛菜ははっきり答えた。


相手は少し意外そうな顔をした。


「増産の資金が必要ですか」


「資金も必要です。でも、それだけではありません。工場の人を増やして、同じ品質で縫えるか確かめる時間がいります」


担当者はうなずき、資料に目を落とした。


「私たちは次のシーズンから販売したい。あなたなら、どう進めますか」


「まず千着を作ります。色とサイズを絞り、納品後のお客さんの反応も確認させてください。残りについては、その結果と生産計画を見て、改めて数量を決めたいです」


「一万着の注文を、千着に減らすんですか?」


「今ここで一万着を約束して納期を守れなければ、御社にもお客さんにも迷惑をかけます」


愛菜は手元の試作品に触れた。


「千着なら、責任を持って作れる方法を探せます」


担当者はしばらく黙ってから、笑った。


「分かりました。まず千着について、価格と納期を詰めましょう。追加の九千着は、販売後に協議する形にします」


通話が切れると、愛菜は椅子にもたれた。


一万着が決まったわけではない。それでも、千着の商談が残った。


***


工場長は愛菜の話を聞き、予定表を開いた。


「千着なら、今の設備でできない数ではありません。ただ、ほかのお客さんの仕事を止めるわけにはいかない」


「いつから始められますか」


「生地と人手を確保してからです。納期には余裕を持ちたい」


二人は工程を一つずつ確認した。愛菜は海外の担当者に、工場が無理なく出せる日付を伝える。返ってきた希望日とは二週間の差があった。


「そこだけは早められませんか」


担当者に聞かれたが、愛菜はすぐに答えなかった。


前の展示会で、三百着目を取った時の嬉しさを思い出す。その三百着を一枚ずつ確かめた日の疲れも。


「最初の三百着を先に送って、残りを後から届ける方法なら相談できます」


相手は社内で確認すると言った。


数日後、分けて納品する条件で話がまとまった。正式な発注書と、製作を始めるための前払い金を受け取ってから生地を手配する。愛菜はその順番を崩さなかった。


ようやく千着の発注が確定した夜、大虎に電話をした。


「だいごくん。一万着じゃなくて、千着になった」


「おめでとう」


「数字が小さくなったのに?」


「愛菜ちゃんが、作れる数を自分で決めたんだろ」


「うん。怖くて断っただけかもしれない」


「怖いと思った理由を相手に説明して、別の方法を決めた。それは断ったのとは違うよ」


愛菜は机に置いた発注書を見た。大虎は相手先に連絡していない。千着は自分と工場長が話し合って引き受けた数だった。


「今度、海外のお客さんが着てるところも見たいな」


「見に行こう。愛菜ちゃんが会いたいなら」


「今度は会長の飛行機?」


「普通の便でも行けるよ」


「普通の便がいい。だいごくん、隣の席ね」


大虎は笑った。


***


その頃、ゆみの会社では取引先からの入金が一か月遅れると連絡が入っていた。


支払いの予定表を見直す。今すぐ会社が倒れるほどではないが、新しい商品を作るための余裕が減る。


北星の持分を買い戻す話は、いったん止めたままだ。


携帯に、西条から短いメッセージが届いた。


『力になれる話がある。前のような調査費は取らない』


ゆみは返信しなかった。だが、予定表を閉じた後も、その一文が頭から離れなかった。


21 海の向こうの一着


千着のうち、最初の三百着が予定どおり出荷された。


残りの七百着は工場で縫製を進めている。愛菜は納品先から受領の連絡をもらうと、机に広げた地図を見た。


「本当に行くの?」


友人が聞いた。


「行く。お客さんが着てるところを見たい」


「工場の方は任せて。毎日連絡するから」


愛菜は友人に頭を下げた。


大虎と待ち合わせた空港で、彼女は二枚の搭乗券を見せた。


「約束どおり、普通の便で隣同士」


「本当に取ったんだな」


「会長の飛行機は、今日はお休み」


「了解、社長」


大虎は愛菜の鞄を持とうとしたが、彼女は首を振った。


「これは自分で持つ。服の資料だから」


「じゃあ、俺は自分の荷物を」


二人は並んで出発口へ歩いた。


***


現地の店に着くと、窓際のラックにまなブランドの服が掛かっていた。


愛菜は入口で足を止める。写真で見るのとは違った。知らない街の光の下で、服が店の一部になっている。


買い付け担当者が迎えてくれた。


「最初の三百着は、昨日から店に並んでいます」


「着た方の反応はどうですか」


「少し硬く見えるのに、動くと楽だと言われます」


愛菜は笑った。それは日本で最初に服を買った人と同じ言葉だった。


その時、店に入ってきた女性が一着を選び、試着室へ向かった。出てくると、鏡の前で腕を上げる。連れの人に何かを話し、二人でうなずいた。


担当者が通訳してくれた。


「仕事でも、休みの日でも着られそうだと」


愛菜は言葉を探した。


「ありがとうございます、と伝えてください」


女性は愛菜がデザイナーだと知り、握手を求めた。


一万着という数字の向こうにいるのは、こういう一人なのだと愛菜は思った。


大虎は少し離れたところで、その様子を見ていた。


***


夕方、買い付け担当者は販売記録を見せてくれた。


「残りの七百着も楽しみにしています。その後の九千着については、こちらの販売結果を見て正式に決めたい」


「はい。こちらも生産体制を整えてから、数量を相談したいです」


担当者は来年の国際ファッションイベントの案内も渡した。


「あなたのブランドなら、いつか単独の発表会もできるかもしれません」


愛菜は案内を開いた。会場、映像、モデル、世界各地への告知。規模を想像するだけで、費用は十億円に届きそうだった。


「今の私には、まだ大きすぎます」


「だから来年の案内です。今、決める話ではありません」


愛菜は資料を鞄にしまった。


「まずは、千着を最後まで届けます」


***


夜、二人はホテルの近くの食堂で食事をした。


「今日、泣いてた?」


大虎に聞かれ、愛菜は水の入ったグラスを置いた。


「見てたの?」


「握手した後、目をこすってた」


「少しだけ。あの服が海を越えて、誰かに選ばれるなんて」


「愛菜ちゃんが持ってきたんだよ」


「一人じゃないよ。工場長も、友達もいる。それに、だいごくんも」


「俺は今日、店で立ってただけだ」


「それが嬉しかったの。私が見たかったものを、一緒に見てくれたから」


大虎は照れたように笑った。


愛菜は鞄からイベントの案内を出す。


「これ、いつかやりたい。でも、今すぐやったら絶対に失敗する」


「そう思う理由は?」


「千着の納品もまだ終わってない。会場を埋めるだけの服も、人も、お金もないから」


「じゃあ、できる日が来たら?」


「その時は、私が決める」


大虎はうなずいた。案内の表紙には、照明に照らされた大きな舞台が写っている。


***


同じ夜、ゆみは西条と会っていた。


「取引先の入金が遅れているんだろう。運転資金をつなぐ先なら紹介できる」


「前の話と同じなら、聞かない」


「調査費も、カルソックの名前も出さない。今回は会社同士の取引として話す」


西条は資料を机に置いた。ゆみはすぐには開かない。


「先に、うちの経理担当にも見せる。それでいい?」


「もちろん」


西条は穏やかに笑った。


「ゆみ。仕事の話を抜きにしても、心配してるんだ」


「……ありがとう」


ゆみは資料を鞄に入れた。大虎を追い出した時、自分で選んだつもりだった道は、思っていたより暗い。それでも、目の前の相手に頼っていいのかは、まだ決められなかった。


***


帰国の日の朝、愛菜の携帯に海外の担当者からメッセージが届いた。


最初の三百着の売れ行きが予想を上回っているという。


続く一文を読んで、愛菜は大虎の腕をつかんだ。


『残り九千着の発注について、具体的な条件を相談したい』


「だいごくん……九千着が、本当に話になった」


22 信用のつくり方


帰国後、愛菜は工場長のもとへ直行した。


「追加で九千着、相談したいって」


工場長は驚いた顔をしたが、すぐに予定表を開く。


「千着の残り七百着を作っているところです。今の工場だけで九千着を一度に引き受けるのは無理ですよ」


「分かってます。どうすれば品質を守って増やせるか、考えたいんです」


二人で作業工程を洗い出した。生地の手配、裁断、縫製、検品。どこか一つを急がせれば、愛菜が大事にしてきた肩の線が変わってしまう。


「別の工場に、同じ型紙で試してもらう方法があります」


工場長が言った。


「ただ、見本を渡して終わりにはできません。最初の分は、私も愛菜さんも見に行きましょう」


「お願いします」


その日から愛菜は、新しい工場を探し始めた。


***


海外の担当者との次の商談では、愛菜が先に話した。


「九千着すべてを今日、引き受けることはできません。まず三千着を確定し、残りは生産と販売の状況を見て、段階ごとに決めたいです」


「三千着なら、いつから届けられますか」


愛菜は工場長と作った表を示した。


「最初の分はこの月です。新しい工場にも試作品を作ってもらい、確認できてから次の分を出します」


「予定より遅いですね」


「はい。でも、検品の日を削って早く見せることはしません」


担当者は少し考えた。


「最初の千着については、評判がいい。三千着を正式に注文します。残り六千着は、次の段階で相談しましょう」


愛菜はうなずいた。


製作を始めるための前払いと、分割した納品日を発注書に入れてもらう。二つ目の工場の試作品を確認するまでは、そこへ量産を頼まない。


一万着という夢のような数字は、今すぐ手に入らない。代わりに愛菜の机には、納期を守れる三千着の注文書が残った。


***


同じ週、ゆみは経理担当者と西条の資料を読んでいた。


入金が遅れた分をつなぐ、二千万円の短期の貸し付け。貸す会社、返す日、利息の計算が記されている。前に見せられた三千万円の調査費とは、内容が違った。


「条件そのものは、ほかの借入先とも比較できます」


経理担当者が言った。


「先に、銀行にも相談しましょう。その返事を見て決めた方がいい」


ゆみは西条に電話をした。


「銀行の返事を待ってから決めたい」


「いいよ。急がせない」


「西条さん、前の話は何だったの?」


「佐伯のやり方に任せたのが間違いだった。僕も反省してる」


謝り方は落ち着いていた。ゆみは、すぐに信じる気にはなれなかった。それでも今回は、比較する時間をくれる。


銀行からは、手続きにもう少し日数が必要だと連絡があった。入金の遅れも重なり、ゆみは経理担当者と相談して、西条の会社から短期間だけ借りることにした。


金は契約どおりに振り込まれた。


取引先から遅れていた入金が届くと、ゆみは期限前に返した。追加の請求はなかった。


「助かったよ。ありがとう」


西条へ連絡すると、彼は穏やかに答えた。


「今度は仕事抜きでご飯に行かない?」


ゆみは少し迷ってから、「ご飯だけなら」と返した。


***


大虎のもとには、二人の事業についてそれぞれ報告が届いていた。


愛菜の三千着の発注は、事業計画と生産の確認を経て決まった。ゆみが借りた二千万円も、契約どおり返済された。


「西条氏の今回の貸し付けには、問題となる条件はありませんでした」


秘書が言った。


「今回の、か」


大虎は報告書を閉じた。


佐伯とのやり取りも調べている。西条が次に、北星の持分を買い戻す資金の話を持ち出そうとしていることを、彼は知っていた。


「ゆみが相談してきたら、分かっていることを話す。それまでは、北星としての手続きを通常どおり進めて」


「承知しました」


***


数日後、愛菜は新しい工場の試作品を受け取った。


並べてみると、同じ型紙なのに肩の丸みが少し違う。


「ここ、直せますか」


愛菜が聞くと、工場の担当者が試作品を手に取った。


「縫い始める位置を変えてみます。もう一着、作らせてください」


「お願いします。合うまで一緒に見たいです」


帰り道、大虎から電話が入った。


「新しい工場、どうだった?」


「まだ合格じゃない。でも、もう一回作ってくれる」


「そうか」


「だいごくんは、三千着って聞いてどう思った?」


「大きい数字だと思った。でも愛菜ちゃんが、三千着分の納期を一枚ずつ考えてるのも知ってる」


「会長っぽくない答え」


「何でも屋の答えだからな」


愛菜は笑った。


最初の三百着を運ぶのに使った小さな車が、道路の向こうを走っていた。一万着へ向かう道はまだ長い。それでも、今日は次の一着を作り直すところまで進んだ。


***


その夜、ゆみは西条と食事をした。


仕事の話はしないと言っていたのに、食後のコーヒーが来た時、西条がふと尋ねた。


「北星の持分、買い戻す話はどうなった?」


「急がないことにした。まずは会社を落ち着かせる」


「そうか。でも、ずっと大虎の金が会社に残るのは、嫌じゃない?」


ゆみはカップを置いた。


西条は返事を待たず、柔らかい声で続けた。


「君が自分の会社を取り戻したい時には、僕が力になるよ」


23 十億円の招待状


「私の会社は、今も私の会社だよ」


ゆみは西条を見た。


「北星から出資を受けてる。でも、経営してるのは私。買い戻しを急がないからって、誰かに奪われてるわけじゃない」


西条は一瞬、言葉を失った。


「そうだね。言い方が悪かった」


「お金の話をしないなら、もう少し一緒にいられる」


西条は笑い、コーヒーを飲み干した。


その夜は本当に仕事の話をしなかった。ゆみも店の忙しさを少し忘れ、食事の味を楽しんだ。


帰り際、西条が車を呼ぼうとしたが、ゆみは断った。


「歩いて帰る。今日はありがとう」


「また誘ってもいい?」


「……ご飯なら」


西条はその返事に満足したようだった。


***


新しい工場から届いた二着目の試作品を、愛菜は最初の工場で作った服の隣に並べた。


同じ型紙、同じ生地。肩に残っていたわずかな丸みの違いが、今度はほとんど分からない。


「着て確かめます」


愛菜は一着ずつ袖を通し、腕を上げた。


「ここ、最初の工場と同じ動き方になりました」


新しい工場の担当者が安堵する。


「縫い始める位置を変えました。検品の基準も、いただいた見本に合わせています」


愛菜は二人の工場長と納品の順番を確認した。どちらかに無理をさせない。それでも、海外の店へ約束した日に届ける。


三千着の生産が始まった。


***


数か月後、海外の担当者から、残り六千着についても正式な発注が届いた。


三千着の納品が進み、店からの追加注文も続いている。愛菜は工場をもう一度回り、納期と前払いの条件を確かめてから署名した。


事務所には新しく人を迎えた。愛菜が店を訪ねている間、友人と一緒に注文を整理し、返品の理由も記録してくれる。


「社長、今日の出荷分です」


新しい社員が持ってきた表を、愛菜は受け取った。


数字は初めて三百着を数えた日より、ずっと多い。それでも、一着ずつ行き先があることは変わらなかった。


夜、大虎が事務所へ来ると、愛菜は空いた椅子を指した。


「今日は箱を運ばなくていいよ」


「珍しいな」


「人が増えたから。みんな、自分の仕事を持ってくれてる」


「社長の仕事も増えた?」


「すごく増えた。でも、前より一人で抱えなくなった」


愛菜は椅子に座り、大虎に隣を勧めた。


「だいごくんが前に言ったでしょ。大きさは関係ないって」


「言ったな」


「今は少し大きくなった。だから、私も変わらなきゃ」


大虎は愛菜の手を取った。


「変わってるよ。いい方に」


愛菜は照れたように、もう片方の手で彼の指を包んだ。


***


ゆみも西条と時々食事をするようになっていた。


仕事の相談は、以前ほどしない。西条は店の話を聞きながら、結論を急がずにいてくれる。北星の持分を買い戻す件にも触れなくなった。


ある日、ゆみが体調を崩して店を休むと、西条は食べやすいものを玄関先へ届けた。


「置いて帰るから、休んで」


それだけ言って、本当に帰った。


ゆみは扉の内側で袋を受け取り、少しだけ泣いた。誰かに心配されることが、今の自分には思っていた以上に嬉しかった。


同じ頃、西条は佐伯から届いた資料を読んでいた。


ゆみの会社が持つ取引先の一覧と、将来の事業計画。そこには北星パートナーズの持分についての分析もある。


「まだ急ぐな」


佐伯への返事は短かった。


「向こうから頼まれるまで待つ」


***


翌春、愛菜のもとへ国際ファッションイベントの運営会社から封書が届いた。


以前、海外の買い付け担当者に見せてもらった催しだ。愛菜は、一般の出展枠の案内だと思って開いた。


中には、別の提案書が入っていた。


まなブランドを中心に、複数の国の店と媒体を招く単独発表会。会場の設営から映像の配信まで、愛菜の会社が主催者になる計画だった。


愛菜は最後のページを開く。


概算費用、十億円。


「……出展じゃなくて、主催?」


少し前には三百着の生産さえ怖かった。今の会社にも、十億円の催しを簡単に引き受ける余裕はない。


愛菜は提案書を閉じずに、最初のページへ戻った。


そこには「世界に向けて、あなたの名前で」と書かれていた。


24 名前を貸さない


愛菜は提案書を机に広げ、赤いペンで費用に印をつけた。


会場と舞台で三億。映像制作と配信に二億。海外から招く人たちの渡航費、広告、スタッフの人件費。足すと、確かに十億円に届く。


「社長、どうします?」


友人が聞いた。


「まず、どういう契約になるのか聞く。招待されたからって、すぐ返事はできないよ」


愛菜は運営会社に電話をかけ、翌日の説明を申し込んだ。


***


運営会社の担当者は、会場の写真を何枚も見せてくれた。


「こちらで海外の店や報道関係者を招きます。誉様には、まなブランドの世界観を自由に表現していただければ」


「十億円は、全部うちが支払うんですよね」


「主催者は御社ですので。ただ、協賛企業が決まれば負担は軽くなります」


「決まらなかったら?」


担当者の笑顔が少し固まった。


「これほど注目されているブランドです。十分見込めますよ」


愛菜はうなずかず、契約案を指した。


「ここに、追加費用は主催者が負担するとあります。上限はいくらですか」


「現場で変更が必要になる場合を想定した条項です」


「いくらまでですか」


担当者は答えられなかった。


愛菜は資料を閉じた。


「発表会はやりたいです。でも、費用が決まらないまま、会社の名前で約束はできません」


帰り道、友人が息を吐いた。


「あの会場、見たかったな」


「私も。でも十億円あったら、今の服を何着作って、何人に届けられるんだろうって考えちゃった」


「断る?」


「まだ。必要な数字を出してもらう」


***


夜、大虎が愛菜の事務所に来ると、机には提案書と、書き込みだらけの紙が並んでいた。


「招待状、嬉しかったんだろ」


「うん。封を開けた時は、夢が叶ったみたいだった」


愛菜は空欄のままの契約案を見た。


「でもね、だいごくん。私の名前が載るってことは、何かあった時に、お客さんも工場の人も私を見るってことでしょ」


「そうだな」


「だから、誰に何を約束するのか、全部知ってから決めたい」


大虎は椅子を引き、愛菜の向かいに座った。運営会社の資金繰りも、担当役員が近々交代する予定も、彼にはすでに報告が届いている。


「会長として調べたこと、聞く?」


愛菜は少し考えた。


「私が見られない情報なら、今は聞かない。調べ方を教えてくれる?」


「契約する前に、過去の催しの実績と、追加費用を誰が払ったか聞いてみるといい」


「それ、明日聞く」


「それから、契約の中身は専門の人にも見せて」


「うん。紹介は自分で探す」


大虎は笑った。


「頼もしい社長だな」


「会長が隣にいると、余計に背筋が伸びるの」


「今は恋人として来たんだけど」


「じゃあ、終わったらご飯に付き合って。今日はハンバーグの気分」


「了解。注文する時にオムライスに変わっても驚かないから」


愛菜が吹き出した。


***


翌朝、運営会社から新しい資料が届いた。愛菜が求めた費用の内訳と、協賛候補の一覧だった。


愛菜は先頭の社名を見て、指を止めた。


海王グループ。


かつて父が、冬彦との結婚を条件に出資を受けようとした会社だ。


その名の横には、短い注記が添えられていた。


『協賛の詳細については、海王冬彦様より誉愛菜様へ直接ご説明予定』


同時に、愛菜の携帯が鳴った。


画面に表示された名前は、冬彦だった。


25 五億円の条件


愛菜は呼び出し音を三回聞いてから、電話に出た。


「久しぶり、愛菜さん。資料は見てくれた?」


冬彦の声は、昔と変わらず親しげだった。


「海王グループが協賛候補に入ってるのを見ました」


「君が主催するなら、五億円出せる。半分はうちが持つよ」


愛菜は机の上の提案書を見た。五億円。社員を増やし、工場と新しい契約を結んだ今でも、見過ごせる額ではない。


「条件は?」


「話が早いな。発表会で、海王を主要協賛企業として紹介してほしい。それから来季の海外販売を、うちの流通会社に任せてほしい」


「期間と地域は?」


「まずは三年。詳しくは会ってから決めよう」


「書面で送ってください。社員とも相談します」


冬彦が小さく笑った。


「昔みたいに二人で会えない?」


「仕事の話なら、会社で。担当者も同席します」


受話器の向こうが静かになった。


「君の会社が世界に出る機会だ。そんなに身構えなくても」


「大きな話だから、確かめたいんです」


「分かった。送るよ」


電話が切れた。


友人が愛菜を見た。


「五億……すごいね」


「うん。でも、三年も海外販売を任せたら、今付き合ってる店にはどう説明するんだろう」


「その契約、先にした方がいいかな」


「してからじゃ遅いよ」


愛菜は海外の店との契約書を取り出した。新しい発表会に人を呼ぶために、今服を置いてくれている店を裏切りたくなかった。


***


午後、運営会社の担当者から電話が来た。


「海王様には、まだお返事をされていないんですね」


「はい。それと、私の連絡先を渡しましたか」


「以前からのお知り合いと伺ったので……」


「知り合いかどうかは関係ありません。今後は、私の了承なしに誰かへ連絡先や事業計画を渡さないでください」


担当者は謝った。


愛菜は、予算と契約の質問にも答えてほしいと伝えた。開催するなら、その会社に任せるかどうかも自分で決めるつもりだった。


夕方には、冬彦から条件案が届いた。


協賛金五億円。引き換えに、海外販売の独占権を三年間。発表会の映像を海王グループが自由に使えるという条項まである。


愛菜は先に注文してくれた海外の担当者に電話をかけた。


「もし来季の販売を別の会社に任せるとしたら、今のお店にはどんな影響がありますか」


担当者は、しばらく黙った。


「あなたが一着ずつ確かめて届けると約束したから、うちは発注しました。別の会社の都合で店頭からなくなるなら、次の注文は難しいです」


「そうですよね。ありがとうございます」


電話を置くと、愛菜は冬彦に返事を書いた。


『協賛のお申し出には感謝します。海外販売の独占を条件とするご提案は、お受けできません』


送信を押す前に一度だけ、五億円という数字が頭をよぎった。


それでも指は止まらなかった。


***


夜、大虎は愛菜に誘われて、いつもの洋食屋にいた。


「断ったんだ」


愛菜は水をひと口飲んだ。


「うん。お金を出してもらう代わりに、今までの約束を人に渡すことになるから」


「惜しくなかった?」


「惜しいよ。五億あれば、発表会に手が届きそうだった。でも、それを受けてまでやりたい発表会なのか考えたら、違った」


大虎はうなずいた。冬彦と運営会社のやり取りも、協賛案の狙いも、報告で知っていた。だが愛菜は、自分で契約を読み、自分が取引してきた人に聞いて決めた。


「だいごくんは、何か知ってた?」


「海王が協賛候補にいることは知ってた。愛菜ちゃんに条件案が届くまで、俺からは何も決められないと思ってた」


「そっか」


「必要なら、調べたことは話す。もう秘密にしたくないから」


愛菜は少しだけ笑った。


「ありがとう。困ったら頼る。その時は、会長じゃなくて、だいごくんとしても話してね」


「もちろん」


店員が注文を聞きに来た。


「ハンバーグで」


愛菜が答えると、大虎が驚いた顔をした。


「今日は変えないのか」


「今日はね」


***


食事を終えた帰り道、愛菜の携帯に父から着信があった。


「冬彦くんの申し出を断ったそうだな」


「もう聞いたの?」


「ああ。だが、その件で責めるつもりはない」


父は言葉を選ぶように、間を置いた。


「愛菜。お前が家を出た日、私は海王からの出資を受けるために、お前の結婚を条件にした」


「覚えてるよ」


「あの時、お前が出て行かなかったら、私も署名していた」


愛菜は立ち止まった。隣で大虎も足を止める。


「どういうこと?」


父は低い声で答えた。


「あの契約には、私が見落としていた条項があった。今になって、それをお前に話しておくべきだと思った」


26 父の謝罪


「海王からの出資が決まれば、誉グループは助かる。私はそう信じていた」


父の声が、電話越しに聞こえる。


「だが契約案の別紙には、業績が一定の数字を下回った場合、海王側が役員の過半数を指名できると書いてあった。経営に口を出せる程度の話ではない。会社そのものを預けるのと同じだ」


「そんなの、見れば分かるでしょう?」


「見ていなかった。出資の金額ばかり見ていた」


愛菜は答えられなかった。


父は一度、息を吸った。


「お前が家を出た後、契約案を顧問と読み直した。そこで気づいた。あの日、お前は自分だけじゃなく、会社も守ったんだ」


「私、会社を守ろうとして出て行ったわけじゃないよ」


「分かっている。だから余計に、私は恥ずかしかった」


車が通り過ぎる。愛菜は大虎の袖をそっとつかんだ。


「……もっと早く、話してほしかった」


「そうだな。お前の服を買いに行った時も、言えなかった。すまなかった」


父が謝るのを、愛菜は初めて聞いた気がした。


「今度、ちゃんと会って話そう」


「ああ。都合のいい日を聞かせてくれ」


電話を切っても、愛菜は大虎の袖を離さなかった。


「何で泣いてるんだろ」


「ずっと聞きたかった言葉だったんじゃないか」


「うん……でも、許せたかどうかは、まだ分かんない」


「今決めなくていいよ」


大虎は愛菜の手を握った。二人はしばらく、そのまま夜道に立っていた。


***


翌日、愛菜は運営会社から届いた回答を読んだ。


追加費用に上限は設けられない。海王グループの協賛がなくなった場合、代わりの企業を探すが、開催までに決まる保証はない。


過去の催しの実績も添えられていた。何人来場したかは分かるが、主催企業が最終的にいくら払ったかは記されていない。


「これでは契約できないね」


友人が言った。


「うん。発表会はやりたい。でも、この案は断る」


愛菜は運営会社へ断りのメールを送った。


画面に『送信しました』と出た時、胸に穴が開いたような気がした。


自分の名前で世界に向けて発表する。あの一行を読んだ瞬間の嬉しさまで、嘘だったわけじゃない。


「少し、外の空気吸ってくる」


事務所の階段を下りる途中、大虎からメッセージが届いた。


『昼、近くまで行く。ご飯食べる?』


『食べる。今日はオムライス』


すぐに返事が来た。


『本当に?』


愛菜は笑いながら、『たぶん』と打った。


***


昼休み、大虎は愛菜の話を最後まで聞いた。


「あの提案、断った。十億円を使っても、足りなくなるかもしれないって」


「そうか」


「悔しいよ。会場も、海外の人たちも、全部目の前にあったのに」


「うん」


「でも、私が作りたかったのは、あの会社の発表会じゃない。私の服を見てもらう場所だよね」


大虎は、愛菜の顔を見た。


「それなら、場所から自分で決められる」


「また十億円かかるかもしれないよ」


「だったら、十億円をかける理由から考えよう」


大虎はそこで言葉を止めた。金を出すと言うのは簡単だった。だが今、愛菜が欲しがっているのは、その答えではない。


「だいごくん、聞いてくれてありがとう」


「ご飯も食べて」


店員が皿を置いた。愛菜の前には、ハンバーグがあった。


「結局、変わったな」


「オムライスは明日食べる」


***


その夕方、海外の店から愛菜に連絡が入った。


まなブランドの服を扱いたいという店が、新たに十二店舗。担当者は、その店主たちを一度に呼んで、次の季節の服を見せてほしいと言った。


「大きな会場でなくても、私たちは行きます」


愛菜は受話器を握り直した。


「ありがとうございます。私が場所を探します」


電話を切ると、愛菜は白い紙を一枚取り出した。


『新作発表会 主催・まなブランド』


そう書いたところで、もう一通、海外からメールが届いた。


差出人は、これまで一度も取引したことのない大手流通会社。


件名には、こうあった。


『発表会での五万着発注について』


27 まだ注文ではない


愛菜はメールを最初から読み直した。


差出人は海外で数百店舗を運営する流通会社だった。次の季節に向けて、まなブランドの服を最大五万着扱いたい。発表会で実物を確認し、その場で具体的な数量を協議したいという。


「五万着?」


友人が画面をのぞき込んだ。


「うちが今まで作った数より、ずっと多いよね」


「うん。でも、まだ注文じゃない」


愛菜は件名の『発注』という文字を指した。


「本文には『検討』って書いてある。生産を約束する前に、向こうが何を求めているのか聞きたい」


二人で会社の所在地と担当者の名前を確かめた。すでに取引している海外の店にも尋ねると、会社そのものは実在し、店を増やしているという返事が来た。


愛菜はオンラインでの面談を申し込んだ。


***


画面の向こうに現れた担当者は、愛菜が以前発表した服を手に持っていた。


「先月、私たちの店の一つで買いました。肩が動かしやすい。店員からも好評です」


愛菜は少しだけ肩の力を抜いた。


「ありがとうございます。五万着について、確認させてください。購入を確約していただける数量ですか」


「今の段階では上限です。発表会で新作を見て、店舗ごとの希望を集めます」


「では、発表会を開いても、注文がない可能性はありますね」


「あります。そこは正直にお伝えします」


友人が隣でメモを取る。


「もし注文が決まった場合は、納品を何回かに分けられますか」


「可能です。ただ、最初の納品は発表会から四か月以内を希望します」


愛菜は即答しなかった。九千着の注文を受けた時でさえ、二つの工場と何度も話した。五万着という数字だけで生産を始めれば、どこかで服が変わる。


「生産の上限は、工場と確認してからお答えします。先に五万着を約束することはできません」


「分かりました。そちらが品質を大事にしているから、私たちも関心を持ったんです」


通話が終わると、友人が愛菜の腕をつついた。


「一着、買ってくれてたね」


「うん。それは嬉しかった」


愛菜は机に五万着と書き、その下に線を引いた。


『契約はまだない。前金もまだない』


***


愛菜は二人の工場長を訪ねた。


「五万着を作ってほしいって話じゃないです。仮に注文が来たら、最初の納品でどれくらい作れるか、一緒に考えてください」


一人目の工場長は、型紙の置かれた棚を見た。


「今の品番なら増やせます。でも新作は、試作品を見てからでないと何とも言えません」


もう一人もうなずく。


「四か月で五万着と言われたら断ります。段階を分けていいなら、協力したいです」


愛菜はその答えを手帳に書いた。


「ありがとうございます。無理な約束はしません」


帰り道、以前見つけた小さな会場の前で立ち止まった。


十二の店主を招いて服を見せるなら、ここで十分だ。けれど、海外の何百という店にも届く発表会にするなら、映像も通訳も、服を見せるための人も必要になる。


最初に届いた十億円の提案書が、頭をよぎる。


あの会社の条件は断った。でも、夢そのものまで手放したわけではなかった。


***


その夜、大虎は愛菜の話を聞いていた。


「五万着の話、来たんだって?」


「うん。でも『最大』五万着。発注書は一枚もないよ」


「よく見てるな」


「最初は件名だけ見て、舞い上がった。怖いくらい」


愛菜は笑ったあと、真顔になった。


「小さな会場で、今付き合ってる店に新作を見せる。それだけなら、すぐ計画できる。でも私、もっと遠くにも届けたいと思ってる」


「その気持ちは、大事にしていいと思う」


「じゃあ、数字もちゃんと出す。発表会が失敗したら、会社と社員をどう守るかまで」


大虎は愛菜の手帳を見た。そこには『十億円』の横に、会場名ではなく『何を届けるため?』と書かれていた。


***


翌朝、愛菜が事務所へ着くと、海外の担当者から追加のメールが届いていた。


五万着の購入を検討する社内会議の日付と、必要な試作品の一覧。


その最後に、こう記されていた。


『発表会の開催が確定した場合、当社の全店舗に向けて、御社の新作を一斉に紹介する準備を始めます』


愛菜は席に座った。


一斉に紹介されれば、注文は大きくなるかもしれない。けれど、この文面も、発注の約束ではない。


友人が白い企画書を机に置いた。


「社長。発表会、どんな服を見せたい?」


愛菜はペンを取った。


最初に書いたのは、会場でも、十億円でもなかった。


『一着目を着る人の顔が見えること』


28 自分たちの舞台


「舞台に立つのは、モデルさんだけじゃなくてもいいと思う」


愛菜は企画書を友人に見せた。


新作の服を着て歩く人。仕事帰りに店へ寄る人。子どもの手を引く人。愛菜が見せたいのは、服がその人の一日に馴染んでいくところだった。


「それ、発表会でどうやって見せるの?」


「短い映像にしたい。舞台では実際に歩いてもらう。歩き方も、着る人に任せる」


「面白い。でも、海外の店にも見せるなら、撮影も配信も必要だね」


「うん。まずは、幾らかかるか出してみよう」


愛菜は海外の店から紹介された制作会社を含め、三社に同じ企画書を送った。


***


一週間後、机の上に三つの見積書が並んだ。


最も安い案は、客席と舞台だけ。愛菜が見せたい日常の映像を加えるには、後から費用が増える。


二社目は華やかだったが、出演者の変更や中継の延長に上限がない。


三社目の担当者は、見積書の最後に予備費を入れていた。


「会場、映像、通訳、海外向けの配信までで九億二千万円。予備費を八千万円取って、上限を十億円にします。追加する仕事があれば、先に金額をお伝えします」


愛菜は資料をめくった。


「開催を取りやめた場合は?」


「発注済みの仕事についてだけ、段階ごとに支払う契約にします。まだ始めていない仕事の分は請求しません」


「海外への配信が止まった時も、主催者が無制限に負担することはないですね」


「はい。その範囲も文書に入れます」


愛菜は初めて、具体的な会場を選べる気がした。


ただし、見積もりが明確になっても、十億円は十億円だ。


***


「会社の資金から出せるのは、三億円まで」


友人が作った資金表を見ながら、愛菜は言った。


「それ以上は、服の生産と社員の給料を圧迫する」


「協賛企業は?」


「四億円を目標にする。でも、口約束は数えない。入金日まで決められた分だけ」


「残り三億円は借りるの?」


「銀行に相談する。五万着の商談は、まだ売上として出さない」


二人は資金表の下に、大きく一行書いた。


『十億円の資金が確定するまで、開催契約を結ばない』


愛菜は藤川興産で五千万円を借りた日のことを思い出した。あの時は、会社を立ち上げるための金だった。今、使おうとしているのは、続いてきた会社と、そこに働く人たちの未来だ。


怖いと思う気持ちは、消えなかった。


だからこそ、その一行は消さない。


***


一方、ゆみは西条と新しく開く店の候補地を見ていた。


「ここなら、今の店とは客層が違う」


西条が入口のガラス越しに、通りを指さした。


「いい場所。でも、出店する余裕はまだないよ」


「すぐ決めなくていい。僕の会社で場所を借りて、君の商品を置く方法もある」


「それだと、私の店じゃなくなるでしょ」


「だから、どう組むか一緒に考えよう」


西条はそれ以上、押さなかった。


ゆみは店内の明るい壁を眺めた。大虎がいた頃、いつか自分の店を増やしたいと言ったことがある。あの時、大虎は物件を探すより先に、店を任せられる人を育てようと言った。


面倒な答えだと思った。今は、少し分かる。


「店長になれる人が決まるまで、出さない」


「分かった。候補が見つかったら、また見に来よう」


西条はゆみの手を取った。ゆみは一瞬迷い、そのまま手を引かなかった。


***


その夜、大虎のもとへ二通の報告が届いた。


愛菜が検討している制作会社については、過去の仕事も支払いも問題ない。ゆみと西条が見た物件も、まだ申し込みはされていなかった。


「海王の動きは?」


大虎が聞くと、秘書の表情が変わった。


「冬彦氏が、明朝配信する報道向けの文書を用意しています」


画面に映った見出しを、大虎は読み終えた。


『海王グループ、まなブランド世界発表会への協賛を決定』


愛菜は協賛を断っている。


「まだ出ていないな?」


「はい。配信は明日の朝です」


大虎は携帯を手に取った。愛菜なら、事実を知れば自分で動ける。


呼び出し音のあと、彼女の声が聞こえた。


「だいごくん? どうしたの、こんな時間に」


「愛菜ちゃん。冬彦が、君の返事と違うことを発表しようとしてる」


29 発表していない約束


「協賛を決めたって? 私、断ったよ」


愛菜の声が強くなった。


「知ってる。明日の朝、海王が発表する準備をしている」


「だいごくん、文書の中身は?」


大虎は見出しと、そこに『まなブランドと合意した』と書かれていることを伝えた。


「知らせてくれてありがとう。私から確認する」


「一緒に――」


「うん。電話、つないだままでいて」


愛菜は別の端末で、冬彦へ電話をかけた。


「明日、協賛を発表する予定ですか」


しばらくの沈黙のあと、冬彦が言った。


「君の発表会を応援したいだけだよ」


「お申し出は、書面で断りました」


「あの条件は取り下げてもいい。先に協賛を発表すれば、ほかの企業も集まりやすい」


「条件を変えるなら、新しく提案してください。発表会を開くこと自体、まだ決めていません」


冬彦の声が低くなった。


「五億円を要らないと言ったのは、君だ」


「はい。だから、協賛が決まったとは発表できません。配信しないでください」


愛菜は通話を終え、断りのメールと送信日時を確認した。それから海王グループの広報窓口にも、協賛の合意はないと書面で通知する。


隣の端末から、大虎の声がした。


「愛菜ちゃん、必要なら俺も状況を確認する」


「お願い。もし出されたら、何が書かれたか教えて。私も自分の会社の記録を揃える」


「分かった」


大虎は部下に、配信された文書をそのまま保存するよう伝えた。事実と違う箇所を愛菜が確かめられるように。


***


翌朝九時、海王グループの発表が出た。


『まなブランド世界発表会を主要協賛企業として支援』


本文には、海外販売について両社が協議を進めているとある。合意したという言葉は消えていたが、読む人には、二社が一緒に発表会を準備しているように見える。


愛菜の事務所に、海外の店から問い合わせが届き始めた。


「今後の注文は、海王を通すのですか」


「今までの契約は変わりますか」


愛菜は友人と手分けして答えた。自分が直接話せる相手には、電話をかける。


「海王との協賛契約はありません。海外販売を任せる契約も結んでいません。これまでの注文は、私たちが責任を持って届けます」


昼には、自社の名前で短い声明を出した。


『当社は海王グループと発表会の協賛契約および海外販売契約を締結していません。開催については当社が検討中です。既存のお取引に変更はありません』


書くのは数行だった。でも、送信前の愛菜の指は震えた。


「社長、大丈夫?」


友人が聞く。


「大丈夫じゃない。でも、黙ってたら店の人たちが困る」


愛菜は送信した。


***


午後、海王グループの広報担当者から連絡が来た。


「表現に行き違いがありました。文書を取り下げ、訂正いたします」


「訂正文には、協賛も販売契約もないことを明記してください。問い合わせが来た店にも伝えます」


担当者は了承した。


愛菜が電話を切ると、大虎からも連絡が入った。


「文書は保存してある。必要になったら渡す」


「ありがとう。私の断りのメールも残してる」


「冬彦が何を狙ってるかは、調べさせてる」


愛菜は窓の外を見た。


「あの人に、私の発表会を決めさせたくない」


「うん」


「だいごくんにも、決めてもらわない。だけど、困った時には助けてって言うね」


「いつでも」


***


夕方、海外の大手流通会社からメールが届いた。


海王の発表と愛菜の声明、双方を読んだという。契約がないことは理解した。ただ、販売権を巡る争いが今後起きないか、社内で確かめたいらしい。


その下に、一行だけ予定の変更が書かれていた。


『五万着に関する購買会議は、確認が終わるまで延期します』


愛菜は画面を見つめた。


たった半日で訂正できた。けれど、一度止まった大きな商談が、いつ動き出すかは分からなかった。


30 保証人の名前


愛菜は、延期のメールにすぐ返事をした。


『確認が必要な点を教えてください。資料をそろえます』


待っているだけでは、相手が何を心配しているのかも分からない。


翌朝届いた返事には、確認したいことが二つあった。海王に販売権を渡していない証拠。そして、発表会が開かれなくても、今の店への納品は続けられるという説明だ。


愛菜は冬彦への断りのメール、海王の訂正文、既存の店との発注書を並べた。会社の相談先にも文面を確認してもらい、相手の担当者へ送る。


「私たちが発表会をやるかどうかと、今お届けしている服は別です」


通話でも、同じことを伝えた。


担当者は言った。


「あなたから直接聞けてよかった。購買会議を再び予定に入れます。ただ、五万着を決めるのは新作を見てからです」


「分かっています。まずは、見ていただける服を作ります」


電話を切ると、友人が両手を上げた。


「戻った!」


「商談が、ね。注文はまだ」


愛菜も笑った。今度は、五万着という数字に飲まれずに笑えた。


***


西条に連れられ、ゆみは新しい店の店長候補と会っていた。


同じ業界で十年働いてきたという女性は、商品の見せ方より先に、今の店の忙しい曜日を尋ねた。


「新店を出すなら、社長がどちらにも毎日立つことはできません。まず、今のお店を誰が回しているか教えてください」


ゆみは思わず笑った。


「私の元恋人も、似たようなことを言ってた」


「そうなんですか」


「その時は聞かなかったけど、今は大事だって分かる」


女性は、ゆみが持ってきた商品の縫い目まで見た。話し方も落ち着いている。


帰り道、西条が聞いた。


「どうだった?」


「良さそう。でも、働いてもらうなら、うちの人たちとも会ってほしい」


「もちろん」


「前の職場にも、私から確認する」


西条はうなずいた。


ゆみは、彼の紹介だからという理由だけでは決めたくなかった。それでも、いい人に出会えたかもしれないと思うと、久しぶりに店を増やす未来を想像できた。


一人になった西条は、佐伯に短く連絡した。


「候補者は気に入ったようだ。次は、彼女自身に出店したいと言わせる」


***


愛菜は制作会社と、十億円の見積もりをもう一度見直した。


会場で着る服の試作は進める。映像の撮影準備もする。ただし、発注の段階を分け、資金が確定するまで大きな契約は結ばない。


協賛の相談も始めた。


店の人から紹介された企業は、まなブランドの服を以前から社員が着ているという。担当者は愛菜の企画書を読み、こう言った。


「映像に社名を大きく出してほしいわけではありません。服を着る人の話を、きちんと残してほしい」


愛菜は少し嬉しくなった。


「協賛をお願いするなら、その形で一緒に考えたいです」


金額はまだ決まっていない。愛菜は資金表の協賛欄に、数字を書かなかった。


***


数日後、愛菜は銀行へ行った。


発表会の費用は最大十億円。自社資金は三億円まで。協賛で四億円を集められた場合、残りの三億円について借りられるか相談したい。


担当者は売上と返済の資料を見て、慎重に言った。


「協賛が契約になれば、改めて審査できます。ただ、発表会そのものの売上は、まだ確定していません」


「はい。五万着の話も、注文としては計上していません」


「そこは承知しました」


担当者は書類をそろえ、愛菜に一枚の紙を渡した。


「別の方法なら、審査を進めやすくなります」


愛菜が紙を見る。


『保証人 カルソック会長・大虎』


「……本人には、何も頼んでいません」


「提出いただいた以前の融資資料に、保証人としてお名前がありました。同じ方にお願いできるか、可能性としてお尋ねしています」


愛菜は紙を机に置いた。


五千万円を借りた時、大虎の保証を知らされなかった。今度は自分が知っている。それでも、彼の名前を書けば三億円を借りられると言われて、すぐにうなずくことはできなかった。


31 二人で知っている約束


「今日は持ち帰ります」


愛菜が紙を返すと、銀行の担当者はうなずいた。


「もちろんです。保証人の件は、ご本人の意思も必要ですから」


愛菜は銀行を出て、河川敷へ向かった。


大虎と初めて会ったベンチには、先に彼が座っていた。


「ここに呼ぶの、珍しいな」


「大事な話があるから」


愛菜は隣に座り、銀行でもらった紙を見せた。


「三億円の借り入れ。だいごくんが保証人なら、審査が進めやすいって」


大虎は紙を読んだ。


「愛菜ちゃんは、どうしたい?」


「助かると思った。それが最初の気持ち。だから、自分でもびっくりした」


「助けてって言っていいんだよ」


「うん。でも、だいごくんが払えるから大丈夫って思って、会社の判断を甘くしたくない」


愛菜は川を見た。


「五千万円の時、保証してくれたことを後から知ったでしょ。嬉しかったのと同じくらい、怖かった。何を約束してもらったのか、私が知らなかったから」


「あれは俺が悪かった」


「今は違うよ。紙を見て、ここで話してる」


大虎はしばらく黙ってから言った。


「俺は引き受けてもいい。ただし、愛菜ちゃんと銀行が返済計画を確かめて、俺にも三億円の範囲と期限を説明してくれたら。その上で、俺が自分で決める」


「会長として?」


「保証人として。それから、愛菜ちゃんの恋人として」


愛菜は彼の肩に頭を預けた。


「分かった。私も決める。だいごくんの名前があれば借りられる、だけじゃなくて、借りたお金を私の会社が返せるか」


二人が初めて並んで座った日は、互いに帰る家がなかった。今は会社も、守りたい人もいる。


愛菜は大虎の手を握った。


「一緒に考えてくれて、ありがとう」


***


そこから六週間、愛菜は発表会に賛同する企業を回った。


企画書を見せるたび、聞かれることは違った。何人が映像を見るのか。海外の店が何軒参加するのか。服を作る工場は足りるのか。


答えられない数字は、約束しなかった。


最初に会った企業が、二億円の協賛を決めた。続いて、長く取引のある二社が、それぞれ一億円ずつ出すことになった。


愛菜は契約書を一枚ずつ確認した。服の販売権を渡す条件はない。発表会が中止になった場合に返す金額と時期も、相手と決めた。


署名と入金の予定がそろって初めて、資金表の協賛欄に『四億円』と書いた。


「これで残りは銀行の三億円」


友人が言った。


「うん。だいごくんとも、条件を確認する」


***


愛菜は銀行に、協賛の契約書と、発表会を開いても開かなくても続ける事業の返済計画を出した。


大虎は保証の額が三億円に限られること、期間、返済できなかった時の手順を確認した。愛菜にも同じ書類が渡され、二人で読んだ。


「隠してること、ないね?」


愛菜が聞くと、大虎は真面目な顔で答えた。


「ない。分からないことがあったら、今ここで聞こう」


審査が通った日、愛菜は初めて制作会社と開催契約を結んだ。


自社資金三億円、協賛四億円、銀行借入三億円。支払いの時期も、各社と確認した。制作会社との契約には、費用の上限と中止した場合の支払いが書かれている。


「本当に決まったんだね」


友人が言う。


「決まった。ここから作るんだよ」


愛菜は壁に企画書を貼った。


一番上に書いた言葉は、変えていない。


『一着目を着る人の顔が見えること』


***


発表会の開催を知らせた翌朝、海外の大手流通会社から連絡が来た。


「五万着について、もう一度お話ししたいと思います」


愛菜は友人に目配せした。


「新作は、発表会で見ていただけます」


「もちろんです。ただ、当社の全店舗へ紹介する前に、生産枠を確認したいのです」


「生産枠?」


「発注が決まった場合、五万着をいつまでに作れるか。発表会より前に、工場から書面をいただけませんか」


愛菜は窓の外を見た。


発表会の費用は、十億円で収まるように決めた。けれど、五万着を作る費用は、その外にある。


32 四十億円の服


「工場から、生産できる時期を書いた書面がほしいそうです」


愛菜は二人の工場長に、海外の担当者との話を伝えた。


「注文書は?」


最初の工場長が聞く。


「まだです。新作を見てから決めると言われています」


「それなら、作る約束はできませんね」


「はい。約束できるのは、今の設備でどこまで作れるかという見通しだけです」


愛菜は新作の型紙を机に置いた。


最初の五千着なら、二つの工場で分けて作れる。ただし試作品の検査が済み、ほかの注文と納期を調整した後だ。残りの四万五千着には、別の工場も必要になる。


「一年かけて段階的になら、探せます。でも、先に枠を空けるなら、うちもほかの仕事を断らないといけません」


工場長の言葉に、愛菜はうなずいた。


「その損を、皆さんに負わせることはできません」


原価を試算すると、新作一着につき平均八万円。五万着なら四十億円になる。


愛菜は電卓の数字を見た。


発表会が十億円。すべて作るなら、服に四十億円。


五十億円は、大虎にとって払える額かもしれない。でも工場にとっては仕事であり、愛菜の会社にとっては存続が懸かる額だった。


「注文が決まるまで、材料も発注しません」


愛菜が言うと、工場長は少し表情を緩めた。


「それなら、生産計画は一緒に作れます」


***


発表会の準備も進んだ。


舞台を歩く人を募集すると、モデルの仕事をしている人だけでなく、店で服を買った人からも応募が届いた。


試着に来た女性は、腕を上げながら愛菜に言った。


「仕事の帰り、この服のまま娘を迎えに行けるのが好きなんです」


「娘さんは何て?」


「『ママ、その服なら走れるね』って」


女性が笑った。愛菜も笑い、袖の動きを確かめる。


照明や映像の打ち合わせをしている時には忘れそうになる。その人が着て、一日を過ごすための服なのだ。


夜、愛菜が大虎にその話をすると、彼は嬉しそうに聞いていた。


「発表会に、その人も出る?」


「お願いしたよ。娘さんも客席に来てくれるって」


「俺も客席に行きたい」


「当然だよ。一番前は、ちょっと恥ずかしいけど」


「じゃあ二番目にする」


愛菜は笑って、大虎の肩にもたれた。


「今、少し怖いことがある」


「五万着?」


「うん。服を届けたい気持ちと、数字が大きすぎるって気持ちが、両方ある」


「どっちも愛菜ちゃんの気持ちだろ」


「うん。明日、相手にそのまま話す」


***


翌日、愛菜は海外の担当者に生産計画を見せた。


最初の五千着は、試作品の承認後、既存の二工場で作れる見込み。残りは工場を増やし、一年をかけて分割する。いずれも発注が決まってから正式に枠を確保する。


「十分検討された計画ですね」


担当者は言った。


「ですが、当社の役員会では、発表会の前に五万着分の生産枠を確保できることが条件になりました」


愛菜は聞き返した。


「五万着の購入を、その時点で約束していただけますか」


「新作を見てからでないと、確約はできません」


「では、工場だけに仕事を空けてもらうことになります」


「そうです。難しいのは分かっています。ただ、当社も紹介する店の数が多いので」


愛菜は手元の資料を閉じた。


「五万着を断りたいわけじゃありません。最初の五千着を先に契約する方法はありませんか。その分の工場の枠なら、責任を持って確保します」


担当者は社内に持ち帰ると答えた。


通話が切れた後、友人がぽつりと言った。


「五万着の話、なくなるかな」


「分からない。でも、注文のない四十億円を作るとは言えない」


その日の夕方、担当者から返事が届いた。


『まず五千着の契約について検討します。ただし、当社から条件を一つ提示させてください』


愛菜が添付書類を開くと、発表会の開催日が赤い文字で囲まれていた。


33 その日を迎えられたら


愛菜は、赤い文字の下を読んだ。


発表会が予定どおり開かれ、新作の試作品が事前に合意した品質を満たした場合、五千着の発注が成立する。開催が延期または中止になれば、契約は効力を持たない。


「開催する前には、買ってもらえると決まらないんだ」


友人が言った。


「うん。その代わり、開催前に五千着を作れとも書いていない」


愛菜は納品の欄を指でなぞった。発注成立から四か月以内。工場長たちが示した日程なら、試作品が通れば間に合う。


ただし、発表会を十億円かけて開いても、試作品の評価が変われば、この五千着は消える。


愛菜は条件を紙に書き出した。


「この売上は、発表会の予算には入れない。材料も先に買わない。それで引き受けられるなら、話を進めたい」


友人がうなずいた。


「工場にも、発注が成立する日をちゃんと伝えよう」


「うん。誰にも『もう五千着売れた』とは言わない」


***


二人の工場長は、条件を聞くと予定表を開いた。


「発表会までは試作品を作る。量産は正式な注文の後ですね」


「そうです。発表会の翌日にすぐ発注できるように、検品のやり方と納期だけ決めておきたい」


愛菜は二つの工場に、それぞれ作れる数を尋ねた。ほかの仕事を断らずに組める日程に線を引く。


工場長の一人が、手帳を閉じた。


「売れる前に作れと言われる仕事は多いんです。愛菜さんが注文の条件をそのまま話してくれるなら、こちらも準備できます」


「お願いします。必ず、決まった時には一番に知らせます」


帰り際、工場の隅に、発表会で使う新作の一着が吊られていた。


愛菜は袖を通して歩いた。いつもの肩の線が、少しだけ新しくなっている。


鏡の前で立ち止まると、工場長が言った。


「いいですね。歩いた時の方が、きれいです」


「そこ、見せたかったんです」


***


夜、大虎は愛菜と会場の下見に来ていた。


まだ何もない舞台に、養生のための線が引かれている。愛菜は客席の二列目を指さした。


「だいごくんの席、あの辺りにしようと思ってる」


「ちゃんと二番目だ」


「一番前だと、私が見つけちゃって緊張するから」


「二番目なら見つからない?」


「たぶん、見つける」


二人で笑った。


「五千着の契約、話を進めることにしたよ」


愛菜は条件を大虎にも伝えた。


「発表会を開けなかったら、買ってもらえない。だから、五千着が売れるつもりで十億円を使わない。そこはもう決めてる」


「うん」


「でも、準備してると嬉しいんだ。怖いだけじゃない」


大虎は空の舞台を見た。


「俺も楽しみだよ。愛菜ちゃんが作った服を、みんなと一緒に見るのが」


愛菜は彼の手を握った。


「当日は仕事しないでね。席で見てて」


「約束する」


***


同じ週、ゆみの店では、新しく迎えた女性が試用期間の仕事を始めていた。


接客は丁寧で、ほかの社員ともよく話す。ゆみは前の職場に確認を取り、経歴に嘘がないことも確かめた。


「新店はまだ早い。でも、今の店を任せられる人を育てたい」


ゆみがそう言うと、西条はすぐには出店を勧めなかった。


「君が納得してからでいいよ」


ゆみは彼の横顔を見た。最近は大虎を思い出す日が減っている。それが寂しいのか、ほっとするのか、自分でも分からなかった。


数日後、西条から食事の誘いと一緒に、招待状の写真が届いた。


『まなブランド 世界新作発表会』


「業界の人が集まる。今後の店作りにも参考になると思う。一緒に行かない?」


ゆみは画面を拡大した。


誉愛菜。


その名前なら、知っている。大虎の隣にいる女性だ。


行けば、きっと大虎にも会う。


断るつもりで返信欄を開いたのに、ゆみの指は動かなかった。


34 同じ会場にいる人


『行きます。仕事として、発表会を見たいから』


ゆみはそう返した。


西条から『分かった』と返事が来る。仕事として、とわざわざ書いたのは、自分に言い聞かせるためだった。


まなブランドの服を、ゆみは店で見たことがある。縫製も、着た時の形も確かだった。あの会社を育てたのは愛菜自身だと認めている。


それでも、大虎の隣にいる女性の仕事を見るのは、少し怖かった。


***


愛菜は海外の流通会社と、五千着についての条件を詰めていた。


試作品は発表会前に確認を受ける。発表会が予定の日に開かれれば、五千着の注文が成立する。工場への量産発注と材料の手配は、その後だ。


「残りの四万五千着は?」


友人が聞く。


「売れ方を見てから別に相談する。今の契約には入れない」


契約書に署名した日、愛菜は工場長たちに写しを見せた。


「まだ作り始めないでください。試作品の検査と、発表会の開催が条件です」


「分かりました。その日が来たら、納期の表を動かしましょう」


工場長の言い方が嬉しかった。まだ売上になっていない五千着を、みんなで迎える準備ができた気がした。


***


発表会の数日前、業界関係者向けに会場の一部を見せる日が設けられた。


舞台の奥には布が掛けられ、まだ新作は並んでいない。愛菜は受付を回り、海外から来た店主に挨拶をしていた。


「愛菜さん」


西条の声で振り向くと、隣に女性が立っていた。


「こちら、ゆみさん。同じアパレルの仕事をしてる」


ゆみは先に頭を下げた。


「初めまして。今日は勉強させてもらいに来ました」


「誉愛菜です。来てくださってありがとうございます」


二人は短く名刺を交換した。


ゆみは近くに置かれた試着用の服に目を留めた。袖の縫い目が、腕を上げた時につっぱらない位置にある。


「この肩、きれいですね」


思ったままの言葉が出た。


愛菜は少し驚いてから笑った。


「ありがとうございます。最初の工場長と、何回も直したところなんです」


「着てる人が動いた時に分かると思います」


「そこを見てほしくて、発表会を作りました」


話している間、ゆみは大虎のことを忘れていた。同じ仕事をする人間として、目の前の服が気になった。


***


「愛菜ちゃん」


聞き慣れた声がして、ゆみは顔を上げた。


大虎が通路の向こうから歩いてくる。腕には、愛菜が頼んだ客席用の資料が入った箱を抱えていた。


彼もゆみに気づき、足を止めた。


「久しぶり」


「うん。久しぶり」


愛菜が二人を見る。ゆみが小さく息を吸った。


「大虎の、前に一緒に住んでいた人です」


愛菜は表情を変えず、うなずいた。


「そうだったんですね」


「言うつもりなかったんだけど、黙ってるのも変だから」


「話してくれて、ありがとうございます」


大虎は箱を近くの机に置いた。


「ゆみ、店はどう?」


「続けてるよ。今、新しい人にも手伝ってもらってる」


「そうか。よかった」


その声に、嘘はなかった。ゆみはかえって胸が詰まった。


かつて自分の店の段ボールを持っていた大虎が、今は愛菜の会場で箱を運んでいる。会長だと知った今も、そこは変わっていない。三年前も、こうやって自分のそばにいたのだ。


「ゆみさん」


愛菜が言った。


「発表会の日は、ぜひ服が動くところも見てください」


「はい。楽しみにしてます」


ゆみはようやく笑った。


***


会場を出ると、西条が車の扉を開けた。


「会えてよかった?」


ゆみはすぐに答えなかった。


「愛菜さんの服、いい服だった」


「それだけ?」


「だいちゃんを見たら、昔のことを思い出した。それも本当」


西条は黙って、ゆみが乗るのを待った。


「でも今日は、自分の店に戻って、うちの服もちゃんと見たい」


「送るよ」


西条が運転席へ回る間、携帯が震えた。


佐伯からだった。


『新店の共同運営契約案ができました。ゆみ様が動き出したら、お渡しできます』


西条は画面を閉じ、ゆみのいる車内へ戻った。


35 二列目の席


発表会の朝、愛菜は会場が開くより早く到着した。


舞台の床には、前日まで何度も歩いて確かめた線が残っている。袖を動かしやすい位置に縫い直した服が、控室に並んでいた。


「配信の確認、終わりました」


制作会社の担当者が言った。


「海外の受信先にも、映像と音が届いています。万一回線が切れた時は、別の経路に切り替えます」


「ありがとうございます。出演する人の動きも、最後に確認します」


愛菜は舞台より先に控室へ行った。


最初に歩くのは、仕事帰りに娘を迎えに行くという女性だ。鏡の前で何度も袖を直している。


「緊張してます?」


「すごく。娘が見てると思うと、余計に」


「いつもの帰り道だと思って歩いてください」


「社長も緊張してる顔ですよ」


愛菜は笑った。


「ばれました?」


***


客席には海外の店主や報道関係者が入り始めた。


ゆみは西条と並んで座り、舞台の両側に置かれた映像用の画面を見上げた。華やかな飾りより、街の風景を映すための白い壁が多い。


「ずいぶん静かな舞台だね」


「服を見せるんだろう」


西条が答えた。


大虎は二列目にいた。一人で来たわけではない。隣に、愛菜の父が座っている。


「今日は来てくださって、ありがとうございます」


大虎が言うと、父は前を見たまま答えた。


「娘に呼ばれました。今回は、自分の意思で来ています」


「そうですか」


「大虎さん。娘の会社のことで、あなたに保証までしていただいたと聞いた」


「愛菜ちゃんと条件を全部確認して、引き受けました」


父は少しうなずいた。


「あの子も、それを私に話してくれました」


その会話を、数席離れたゆみは聞いていない。ただ、大虎が愛菜の父と並んで舞台を待つ姿が見えた。


かつて自分には描けなかった未来が、そこにあるように思えた。


***


開演の合図が出た。


舞台の壁に、夕暮れの街が映る。映像の中で、誰かが会社の扉を閉めた。


そこへ女性が歩いて出てきた。着ているのは、愛菜が何度も直した新作の服だ。


急がず、まっすぐに歩く。途中で袖を上げ、遠くにいる誰かに手を振る。


客席の一角から、小さな声がした。


「ママだ!」


女性は一瞬だけそちらを見て、笑った。会場にも笑いが広がる。


愛菜は舞台袖で、思わず口元を押さえた。


服が動いている。あの日、白い紙の一行に書いたとおり、着る人の顔が見える。


二列目で大虎が拍手をした。隣の父も、少し遅れて手をたたく。


ゆみは女性の肩の動きを見ていた。


「……いい服」


西条に聞かせるつもりはなかった。商売の人間として、そう思ったのだ。


***


次の服を着た人が、舞台袖で合図を待つ。


海外の流通会社の担当者は客席で手元の資料に印をつけた。発表会が最後まで予定どおり開かれれば、五千着の条件が満たされる。


制作会社の担当者が、愛菜に親指を立てた。


その瞬間、舞台の映像が止まった。


音が途切れる。天井の照明が、一つずつ消えていく。


「照明さん?」


愛菜が振り向くと、スタッフが無線に向かって叫んでいた。


「会場の電源が落ちました。非常灯に切り替わります!」


客席にざわめきが広がる。娘が母を呼ぶ声がした。


愛菜は舞台袖から歩き出しかけ、足を止めた。暗い中へ出演者を出してはいけない。


「いったん全員、その場で待って。客席にも案内を」


非常灯がともった直後、火災を知らせる警報が鳴った。


大虎が立ち上がる。愛菜も客席へ目を向けた。


まだ誰も、何が起きたのか分かっていなかった。


36 鳴り止まない警報


「皆様、係員の案内に従って、出口へお進みください」


非常灯の下で、会場の係員が誘導を始めた。


愛菜は舞台袖の出演者に声をかける。


「走らないで。服はそのままでいいから、スタッフと一緒に外へ」


最初に舞台を歩いた女性が、客席の方を振り返った。


「娘が、まだ中に」


「場所は分かります。私も確認します」


愛菜が通路に出ると、大虎が客席側から歩いてきた。


「愛菜ちゃん、出口は開いてる。客席の人は係員が誘導してるよ」


「子どもが一人、母親と離れたの」


「一緒に探そう」


二人が通路を進むと、ゆみが小さな女の子の手を握っていた。


「この子のお母さん、舞台に出てた人だと思う」


「ママ、どこ?」


女の子が尋ねる。


「すぐ外で会えるよ。私たちと一緒に行こう」


愛菜は目線を合わせて答えた。


会場の外で、母親が娘を抱きしめた。周りにいた大人たちも、少しだけ息を吐く。


「ありがとうございます」


母親がゆみに頭を下げる。


ゆみは首を振った。


「手を握ってただけです。無事でよかった」


愛菜はゆみを見た。


「ありがとうございました」


「……いい発表会だった。最初の服、ちゃんと見たよ」


ゆみの言葉に、愛菜は一瞬だけ笑った。だが、まだ会場の警報は鳴っている。


***


会場の設備室で煙が確認され、消防と施設の管理者が中を調べていた。


「今日は再開できません」


制作会社の担当者が、愛菜に告げた。


「原因が分かるまで、電源を戻せないそうです。海外への配信も止まっています」


愛菜は、帰り始めた客たちを見た。


「全員、けがはありませんか」


「今のところ報告はありません。出演者とスタッフも確認しています」


「それを先に、全員に伝えてください。それから、今日の発表会は中止すると案内します」


自分の口から出た『中止』という言葉が、重かった。


十億円をかけて、海外の人たちを呼んだ。発表できたのは、たった一着だ。


***


海外の流通会社の担当者が、愛菜に近づいた。


「けが人がいないと聞いて、安心しました」


「来ていただいたのに、申し訳ありません」


「契約のことは、会社で確認します。今日は安全を優先してください」


担当者は握手だけして去った。


五千着の注文が成立するには、予定どおり発表会を開き、試作品の確認を終えなければならない。そのどちらも、今日はできなかった。


友人が隣へ来た。


「社長。出演者の帰りは手配したよ。海外から来た店の人にも、今夜中に連絡する」


「ありがとう。協賛してくれた会社にも、私から話す」


制作会社と決めた費用の上限は十億円だ。しかし、すでに使った金が戻るわけではない。協賛金をどれだけ返すか、銀行への返済をどうするかも、確認しなければならなかった。


愛菜は鞄から手帳を出した。震える指で、連絡先の名前に丸をつける。


「だいごくんには……」


「ここにいる」


大虎が答えた。


愛菜は顔を上げた。彼は約束どおり、客席から発表会を見ていた。警報が鳴ってからは、ずっと人を外へ案内していた。


「後で、少しだけ一緒にいて」


「もちろん」


***


その夜遅く、設備室の一次確認の結果が届いた。


配電盤の一部が焼けている。出火の原因はまだ分からない。ただ、点検した時には閉まっていた盤の扉が、当日は開いていたという。


制作会社の担当者は言った。


「管理者が、入室の記録と映像を確認しています」


同じ報告を受けた大虎は、秘書に短く告げた。


「記録が出たら、愛菜ちゃんにもそのまま渡して。誰が入ったのか、俺も知りたい」


37 残った数字


翌朝、愛菜は事務所で発表会の支払いを一件ずつ確認した。


会場、映像、海外から来た人たちの手配。制作会社が確かめた支払済みの費用は、八億四千万円。残りは使わずに止められる見込みだった。


協賛企業から預かった四億円についても、契約ごとに話し合わなければならない。二社はすでに、発表会が最後まで開かれなかった分の返還を求めている。


「返す金額は、まだ確定してないね」


友人が言った。


「うん。払った仕事と、できなかった仕事を分けて説明しよう」


愛菜は銀行の三億円の返済予定を別の紙に書いた。保証人は大虎だ。返せない場合の負担を、彼に黙って押しつけることはできない。


「服の材料を、先に注文しなくてよかった」


友人が、空白の生産欄を見た。


「五万着の四十億円は、ここにはない。でも、今残ってる数字だけでも重いよ」


愛菜はうなずいた。


海外の五千着も、現時点では注文にならない。発表会が中止になり、試作品すべてを見せることができなかったからだ。


机の上の電卓を閉じると、愛菜は社員を集めた。


「昨日のことは、私から説明します。みんなの仕事と支払いを先に守りたい。取引先に返す金額が分かるまで、新しい出費は止めます」


誰もすぐには声を出さなかった。


最後に、友人が言った。


「社長。一着目、すごくよかったよ」


愛菜は泣きそうになりながら、うなずいた。


***


昼過ぎ、大虎が事務所へ来た。


愛菜は数字を書いた紙を隠さなかった。


「まだ全部は決まってない。でも、今分かってるのはこれ」


大虎は一緒に紙を見た。


「保証した三億円について、銀行から連絡があれば俺も受ける。その時は愛菜ちゃんにも伝える」


「うん。私も返済の話を隠さない」


「今日は何かできる?」


愛菜は少し考えた。


「帰る前に、工場へ一緒に行って。五千着は作らなくなったって、私が話すから」


「分かった。車を出すよ」


「あと、途中でご飯買っていい? 朝から何も食べてない」


「それは先に買おう」


大虎は席を立った。金の話をしても、昼飯を買いに行く時はいつもの大虎だった。


***


工場長たちは、発表会が途中で終わったことを知っていた。


「五千着の注文は成立しませんでした。用意していただいた生産計画も、いったん止めてください」


愛菜が告げると、工場長は言った。


「材料はまだ発注していません。今ある仕事は予定どおり進めます」


「ありがとうございます。試作品の費用は、約束どおり払います」


「それは助かります」


工場長は隅に吊られた新作を見た。


「あの服、見せられなかったんでしょう」


「はい」


「形が消えたわけじゃありません。また見せる場所を作れたら、連絡してください」


愛菜は服に触れた。昨日から初めて、次の日のことを考えられた。


***


夕方、会場の管理者から入室記録と監視映像について連絡が入った。


配電盤のある設備室には、開演前に一人が入っていた。映像では帽子をかぶっていて、顔ははっきりしない。盤に触れた瞬間も映っていなかった。


「では、火災の原因とはまだ言えませんね」


愛菜が確認すると、管理者は答えた。


「はい。ただ、使われた入室証が気になります」


登録された持ち主は、当日の設備担当ではなかった。海王グループ傘下の会社に勤める人物のものだという。


愛菜は携帯を持ち直した。


「その記録、正式に受け取れますか」


「管理者と確認して、お渡しします。入室証を誰が使ったかは、これから調べます」


通話の後、大虎の携帯にも同じ知らせが届いた。


彼は証拠の写しが揃うのを待たず、愛菜に電話をかけた。


「入室証のこと、聞いた?」


「うん。海王の会社の人のものだって。でも、本人が使ったかどうかは分からない」


「そうだ。そこは俺の方でも確認する。分かったことは、全部話す」


愛菜は窓の外を見た。


冬彦の顔が浮かんだ。けれど今は、疑いだけで名前を出すわけにはいかない。


「ありがとう。私も、管理者から記録を受け取る」


その夜、大虎の秘書から、もう一つ連絡が入った。


「会長。入室証の持ち主は、発表会の前日に紛失を届け出ています」


38 なくしたはずの入室証


「紛失届は、どこへ出した?」


大虎が尋ねる。


「勤務先です。会場には届いていませんでした。だから入室証が使える状態のままだったようです」


「持ち主は、発表会の時間にどこにいた?」


「本人は自宅にいたと話しています。確認を進めています」


大虎は秘書から届いた報告を閉じた。


海王グループの会社の証だからといって、冬彦が指示した証拠にはならない。持ち主が本当に失くしたのなら、別の誰かが使った可能性もある。


「分かった事実から愛菜ちゃんに伝えてくれ。会場の管理者にも、映像の確認を急いでもらおう」


***


愛菜の事務所には、海外の流通会社から正式な通知が届いていた。


発表会が中止となり、試作品すべての確認もできなかったため、五千着の契約は効力を持たない。残りの四万五千着についても、いったん協議を止めるという。


「分かってたけど、紙で読むと違うね」


友人が言う。


「うん」


愛菜は通知をたたまず、机に置いた。


四十億円分の服を作り始めていなかった。それは正しかった。それでも、届けられたかもしれない服を思うと悔しい。


携帯に、最初の海外の店主からメッセージが届いた。


『一着目を見ました。娘さんに手を振ったところまで。ほかの服も、見せてもらえませんか』


愛菜は画面を友人に向けた。


「会場はもう使えないけど、試作品はある」


「大きな発表会を、またやる?」


「今はできない。来てくれる店に、一着ずつ見てもらう方法を考える」


友人がうなずいた。


愛菜は店主へ返事をした。まずは映像と試作品を見せる小さな場を作れるか、費用を調べたい。


***


同じ頃、ゆみは店の奥で発表会の記事を読んでいた。


写真には、非常灯の下で子どもを抱く母親が写っている。母親が着ている服の袖を、ゆみは覚えていた。


「愛菜さん、大丈夫かな」


新しく入った女性が声をかける。


「けが人はいなかったみたい。でも、商売のことはこれからだと思う」


「最初に歩いた服、動画で見ました。着やすそうですね」


「うん。いい服だよ」


ゆみは記事を閉じた。


大虎がそばにいるから愛菜は平気だ、とは思わなかった。資金を集め、作る人に頼み、客を呼んだのは愛菜だ。途中で止まった時、その人たちに話すのも愛菜なのだ。


昨日、ゆみが女の子の手を握っていた時、愛菜は一番に母親を探していた。


その姿を、ゆみは忘れられなかった。


***


夕方、会場の管理者から愛菜に、追加の映像が確認できたと連絡が入った。


設備室の前の映像では顔が隠れていた。しかし建物の裏口にもカメラがあり、同じ時刻に、同じ服を着た人物が帽子を脱いで外へ出ている。


「映像は保全しました。誰なのかも確認しています」


「見せてもらえますか」


「お越しいただければ、管理者が説明します」


愛菜は大虎へ連絡した。


「会場に行ってくる。だいごくんにも一緒に見てほしい」


「行くよ」


***


管理室の画面で、帽子を脱いだ男が振り返った。


愛菜には見覚えのない顔だった。大虎も黙って、画面を見ている。


管理者が別の紙を示した。海王グループ傘下の会社から届いた、入室証の持ち主の社員証の写しだ。


二枚の顔を見比べて、愛菜は息を止めた。


「同じ人……?」


管理者がうなずいた。


「少なくとも映像上は、そう見えます。紛失を届け出た本人に、話を聞いています」


大虎は愛菜の横に立った。


入室証を失くしたと届けた男が、その証を使って設備室へ入っていた。


39 もう一つの会社名


「持ち主が映像の人なら、なぜ紛失届を出したんですか」


愛菜が尋ねると、管理者は画面を止めた。


「本人に確認しています。今分かっているのは、当日の設備点検を頼んだ記録がないことです」


「配電盤に触ったところは?」


「カメラには映っていません。発煙との関係も、調査中です」


大虎は、管理者が示した記録を読み、愛菜に渡した。


「これ、写しをもらえる?」


「正式な確認が済み次第、お渡しします」


愛菜はうなずいた。映像の男を疑うことと、その男が火を出したと決めることは、まだ違う。


***


翌日、入室証の持ち主が会社の担当者を伴って、会場の管理者に説明をした。


失くしていないのに紛失届を出したことは認めた。


「無断で設備室に入ったのが分かると、会社に叱られると思いました」


男は、発表会の電源設備を確認してほしいと、外部の会社から頼まれたと言う。作業の内容を記した正式な書類はなく、携帯に残った短いメッセージだけだった。


「誰からですか」


管理者が聞くと、男は画面を差し出した。


愛菜も同席していた。大虎は彼女の隣で、その社名を見た。


『西条企画』


「……西条さんの会社?」


愛菜の声は小さかった。


「関連会社だ」


大虎が答える。西条の事業は前から調べている。その名義で催事の手配を請け負う会社があることも知っていた。


男は慌てて首を振った。


「私は設備室を見ただけです。電気を止めるようには言われていません」


「その点も含めて、施設側で調べます」


管理者は携帯の文面を記録し、男の話を続けて聞いた。


***


事務所への帰り道、愛菜は大虎に聞いた。


「西条さんは、ゆみさんと来てたよね」


「ああ」


「ゆみさん、女の子を外に連れて行ってくれた」


「うん」


「あの人が一緒にいる相手を、疑わなきゃいけないのが嫌だ」


大虎はすぐには答えなかった。


「今あるのは、西条の会社から社員へ連絡が入った記録だ。本人が何を知っていたかは、まだ分からない。でも、ゆみには仕事で近づいてる。関係があると分かった以上、俺から伝える」


「うん。私も、会場の調査に協力する。使ったお金のことも、服のことも、うやむやにしたくない」


「一緒に記録を確認しよう」


愛菜はうなずき、手をつないだ。


***


その日の午後、大虎は藤川誠一郎と会った。


藤川興産の会長として日本の経済界に名を知られる藤川には、もう一つの顔がある。日本最大のマフィア組織、山王会の若頭だ。


部屋には本城圭一もいた。山王会の総本部長で、藤川とは若い頃から兄弟分だった。


「西条企画の名前が出たそうだな」


藤川が切り出す。


「出たのは、社員に送ったメッセージだけです。誰が電源を落としたかは、まだ分かりません」


「だから俺たちにも、先走るなと言いに来たのか」


本城が笑った。


「圭一さんには、いつも先に言っておかないと」


大虎も笑ったが、目は笑っていなかった。本城は机に一枚の紙を置く。西条企画と設備室に入った男との仕事上のつながりが、日付順に並んでいる。


「表に出せる記録はこれだけだ。裏で誰が何を頼んだかは、まだ確認できていない」


「これで十分です。愛菜ちゃんにも見せます」


藤川は大虎を見た。


「お前は昔から、知ったことを隠して動かれるのが嫌いだったな」


「十八の時の話なら、誠一郎さんも相当でしたよ」


大虎が十八歳の時、山王会に喧嘩を売った。組は大虎の命を狙った。だが追う側の構成員が、ひとり、またひとりと姿を消していった。誰が何をしたのか、山王会の中でも答えを知る者はいない。


当時、藤川と本城は共に若頭補佐だった。矢面に立った藤川が大虎と交渉し、本城も兄弟分として話をまとめるために走った。


交渉の席で藤川は、十八歳の大虎に言った。


「組はお前を追わない。お前も、ここで止まれ」


「その約束、あんたが守らせれんのか」


「俺が守らせる」


「それが出来んなら手打ちでいいぞ」


「ったくとっぽい野郎だぜ!だが気に入った!」


「俺もだおっさん!今後は協力を惜しまんぞ!」


本城はその場にいて、両者の言葉を聞いた。争いが収まると、その手腕を買われて藤川は若頭に、本城は筆頭若頭補佐に抜擢された。本城は後に総本部長となった。


それから長い年月が過ぎ、山王会の会長には神宮寺がいる。神宮寺も藤川も本城も、それぞれの事業を大虎に後見してもらっていた。彼が支えを引けば、積み上げてきた仕事は立ち行かない。そのことを三人ともよく分かっている。だからといって、大虎の前で卑屈にはならない。普段は昔と変わらず話す。ただ、大虎が命じた時には必ず従う。


藤川の携帯が鳴った。画面には神宮寺の名がある。


「だいちゃん、会長(おやじ)が話したいそうだ」


受話器から、落ち着いた声が聞こえた。


「藤川から聞いた。こちらで動くべきか」


「神宮寺さん、今は誰にも会いに行かないでください。愛菜ちゃんと俺に、確認できた記録だけを渡してほしい」


「分かった。私からも、勝手に動くなと伝える」


神宮寺が電話を切る。藤川も本城も、それ以上誰かを動かそうとはしなかった。


「あの時、俺たちはだいちゃんと話して終わらせた」


藤川が言った。


「今回も、まず話と記録だ。俺たちが誰かに会いに行く必要はない」


「分かってます」


大虎は本城から紙を受け取った。


「愛菜ちゃんの会社のことは、愛菜ちゃんが決める。俺は知っていることを渡して、隣にいます」


本城が藤川を見た。


「十八の時より、ずいぶん穏やかに話すな」


「愛菜ちゃんの前では、そうしたいんです」


***


その夕方、ゆみは西条から新店の共同運営案を受け取っていた。


西条側が場所を借り、ゆみが商品と店の運営を担う。利益の分け方や、店を閉める時の負担も書かれている。


「急いで読まなくていいよ」


西条が言った。


「もちろん。経理の人とも見る」


ゆみは紙をめくった。店長候補だった女性は、今の店で仕事を覚え始めている。新しい店に任せるのは、まだ早い。


「試用期間が終わるまで、新店の契約は結ばない」


「分かった。その間、場所だけ押さえておく」


西条は穏やかに答えた。


ゆみは契約案を鞄にしまった。大虎を追い出してから、仕事がうまく回らなくなった時期もあった。それでも店は残した。今度こそ自分の力で増やしたい。


その時、携帯が鳴った。


画面に出た名前を見て、ゆみは立ち止まる。


『だいちゃん』


西条の前で、ゆみは電話に出た。


「……どうしたの?」


大虎の声は静かだった。


「ゆみ。今、西条さんと一緒にいる?」


40 信じる前に


「一緒にいるよ」


ゆみが答えると、大虎は少し声を落とした。


「人のいないところで話せる?」


ゆみは西条を見た。


「仕事の電話だから、少し外すね」


西条はうなずいた。ゆみが店先に出ると、大虎は発表会の設備室について、分かっていることを順に話した。


海王グループ傘下の会社の社員が、許可を取らずに設備室へ入ったこと。紛失届を出していた入室証を本人が使ったこと。その社員の携帯に、西条企画からの依頼が残っていたこと。


「西条さんが電気を止めたの?」


「そこまでは分からない。社員が配電盤に触った証拠も、まだない」


「どうして私に電話したの」


「西条企画は、ゆみと新しい店の話もしてるだろ。知ってから決めてほしかった」


ゆみは鞄の中の契約案を見た。


「だいちゃん、私のことも調べてる?」


「西条の仕事を調べた。ゆみの店を見張ってたわけじゃない。嫌な気持ちにさせたなら、ごめん」


「……資料、私にも送って」


「会場から受け取れる正式な記録は、渡せる形になったら送る。今は話だけで決めなくていい」


「分かった。ありがとう」


電話を切った後も、ゆみはしばらく外にいた。


大虎は以前、自分の会社を裏から支えていたことを隠した。あの人が言うから全部正しい、と今すぐ思うことはできない。それでも、分からないまま契約するのは嫌だった。


***


「大虎から?」


店内へ戻ると、西条が尋ねた。


「うん。あなたの会社の名前が、愛菜さんの発表会の調査に出たって」


西条はすぐに否定しなかった。


「西条企画が、設備を見る人を手配したのは事実だ。でも、僕は電源を止めろなんて頼んでない。佐伯から『会場の安全確認をしたい』と聞いて、担当者に連絡させた」


「会場から許可は取ったの?」


「その手続きまで僕は見ていない」


「誰が見てたの?」


「佐伯に確認するよ」


ゆみは西条を見た。三千万円の調査費を持ち出した時も、西条は佐伯に任せたと言った。今回も、同じ名前が出てくる。


「聞くだけじゃなくて、連絡した記録も見せてほしい」


「もちろん」


「新店の話は、その確認が終わるまで止める」


西条の顔から笑みが消えた。


「僕を疑うの?」


「今、確かめてるの。だいちゃんの言葉も、あなたの言葉も」


ゆみは契約案を鞄に戻した。


「今日は帰るね」


西条は追いかけなかった。


***


愛菜は工場の小さな打ち合わせ室に、試作品を並べていた。


海外の店主たちから、実物を見たいという返事が届いている。もう一度大きな会場を借りる余裕はない。来られる人にはここで、遠くにいる人には一着ずつ手に取った映像を見てもらう。


「撮影、普通の机でいいの?」


友人が聞いた。


「服の動きが見えれば。今は、私たちが払えるやり方でやる」


先に費用を出し、工場にも部屋を借りる時間を相談した。社員の仕事も無理に増やさない。


大虎が訪ねてくると、愛菜は一着の袖を広げた。


「ゆみさんには話した?」


「話した。西条企画との関係まで。何をするかは、ゆみが決める」


「ありがとう」


「こっちは、何か手伝うことある?」


「今日は服、見ていって。一着目の続きだから」


大虎は椅子に座った。愛菜が腕を上げて見せると、布が肩から滑らかに動く。


「……あの日、これも見たかったな」


「私も。でも、今見せてる」


愛菜は笑った。大虎も笑い返した。


***


その夜、西条は佐伯から送られた連絡記録を読んでいた。


設備室に入った男への指示は、確かに『電源設備の状態を確認してほしい』という文面だった。発表会の電源を止めろという言葉は、そこにはない。


ただ、別の通話履歴が残っていた。


入室した男は、設備室へ入る直前、佐伯と三分間話している。


「何を話した?」


西条が電話で尋ねる。


佐伯は一拍置いて答えた。


「それを、今確認しています」


第41章 小さな部屋の注文書


「確認しています、じゃない。君は電話に出たんだろう」


西条は机の上の通話履歴を指で押さえた。佐伯には見えないと分かっていても、そうせずにいられなかった。


「三分も、何を話した」


「会場の担当者に、立ち入りの許可が取れているかを聞かれました。私は、手配した側に確認すると答えました」


「それで?」


「確認が取れないまま、彼が入ったんです」


西条は黙った。


「その会話の記録は?」


「録音はありません」


「じゃあ、君の説明を裏づけるものもない」


受話器の向こうで、佐伯が小さく息を吸った。


「西条さん。私はあなたに頼まれた仕事をしていました」


「頼んだのは調査だ。会場の設備室へ無断で入ることじゃない」


「承知しています」


返事だけは滑らかだった。


西条は電話を切り、ゆみに送るはずだった文面を消した。『問題はありません』と書くには、足りないものが多すぎる。


***


翌日、愛菜が借りた工場の打ち合わせ室には、鏡が一枚と服を掛けるラックが二本あった。


大きな発表会で渡せなかった資料を、愛菜は机に並べ直す。商品ごとの原価、納期、洗濯した後の状態。誰にでも同じ数字を見せられるようにした。


最初に来た海外の店主は、生地の裏側まで確かめた。


「映像より軽い。着て歩いてもいいですか」


通訳が伝えると、愛菜はうなずいた。


店主は鏡の前を数歩歩き、腕を上げた。発表会で一着目を着た母親と同じ動きだった。


「この肩なら、子どもを抱き上げられますね」


その言葉に、愛菜の胸が熱くなる。


「そういう毎日に着てほしくて作りました」


店主はその場で発注書を開いた。まずは三十着。店頭で反応を確かめ、追加するか決めたいと言う。


愛菜は手を差し出した。


「ありがとうございます。三十着、きちんと届けます」


画面の向こうで参加した別の店からも、翌月納品分として二十着の注文が入った。五万着の話をしていた頃なら小さく見えた数だ。それでも今は、買う人と届ける日が決まっている。


休憩になり、愛菜は窓際で大虎に電話をかけた。


「五十着、注文が決まったよ」


「おめでとう、社長」


「今日の売上だけじゃ、発表会の損失は埋まらない。でも、服を着た人が『もう一回見たい』って言ってくれた」


「うん」


「次を作る理由ができた」


大虎はしばらく返事をしなかった。


「……いいな。その理由」


愛菜は笑った。


「だいごくん、泣いてない?」


「仕事中だぞ」


「仕事中でも泣く日はあるよ」


大虎は答えの代わりに咳払いした。


***


夕方、会場から新たな資料が届いた。


設備室の入退室時刻と、警報装置が停止した時刻。佐伯との三分間の通話が終わってから、警報装置が止まるまで、四分もない。


大虎は資料を読んで藤川に電話した。


「記録を会場の調査担当へ。西条企画にも、正式な窓口を通して確認してもらってください」


「分かりました。人を動かすのは資料の受け渡しだけですね」


「そうです。誰が何をしたか、決めつけないで」


「承知しました」


大虎は次に愛菜へ連絡した。


「設備室の記録が一つ増えた。会場の調査担当に渡した。内容は、今夜会って話せる?」


「うん。こっちにも見せたいものがある」


「五十着の注文書?」


「それも。もっと大きいのが来た」


愛菜の声から、喜びだけが消えていた。


「前に五千着を検討していた海外の会社から、正式な購入の相談。向こうは系列店を合わせて、最大五万着を扱いたいって」


「条件は?」


「先払いも提案してきた。でも、契約書に『品質上の問題があれば全数を返品できる』ってある。誰が、何をもって問題と決めるのかが書いてない」


大虎は無言になった。


「今度は発注書に浮かれない。製造を始める前に、全部確かめる」


「うん。一緒に読もう」


愛菜は机の上の五十着の注文書と、画面に開いた五万着の契約案を見比べた。


小さな注文には、届ける相手の顔が見える。


大きな契約には、まだ見えないものがあった。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


追い出された夜に出会った大虎と愛菜が、失敗を重ねながらも、自分たちの足でここまで来ました。小さな部屋で生まれた五十着の注文は、愛菜にとって大きな一歩です。


けれど、届いた五万着の契約案には、まだ見えないものがあります。


続きは第2部へ。大虎と愛菜、そしてゆみが何を選ぶのか、見届けていただけたら嬉しいです。

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