第6話 彼女の好み
千年と少し前。『魔法』は神に選ばれた魔法使いだけが使える技で、彼らは指先の運動一つであらゆる現象を操ったという。
彼らの絶滅に至る信仰の反転と魔女狩りの歴史について、私が語れることはない。今に残っているのは、水銀の古代文字で事象を操る『魔法』だけ。彼らの慟哭も絶望も、全ては歴史の彼方に消えてしまった。
そして現在、『魔法』もまた、科学の陰に消えていこうとしている。
一九一九年、三月。相変わらず亡き兄の別宅で暮らす私の元を、ジェレミー・オーウェンが訪ねてきた。
「最近は随分と暖かくなったね」
のほほんとした調子で話す彼は、私の一回り年上。シルバーグレイの髪は過去に魔法を失敗した結果で、元は黒髪だったという。瞳も黒だが、魔法で作った視力補正レンズをつけているため、傍目には鮮やかなアンバーに見える。
彼は兄の友人。野良の魔法研究者だと聞くが、職場も住所も不明の神出鬼没。傍目には胡散臭い身の上だが、穏やかで人当たりが良く、兄が信頼していたため私も彼を信頼している。
「冬の間、ソキウスの調子はどうだった?」
彼は玄関を入るや否や、勝手知ったる我が家といった調子で廊下を進んだ。私が初めて彼に会ったのは五年前だが、いつからここに出入りしていたのかはよくわからない。
言動はマイペースな若者の印象で、今、キッチンで紅茶を淹れている所作は年季の入った紅茶愛好家といった様子。若いようで、老いているようでもある。
つまりよくわからない人物ということだが、私は彼の来訪を少しだけ楽しみにしている。彼は辞書にも論文にも載っていない魔法の知識を数多有していて、それを聞くのは楽しい。
「四肢の動作系が時々不具合を起こすの。この三ヶ月で十二回」
「古代文字は確認した?」
「ええ。毎回、第七伝達の論理が掠れているわ」
「ともすると、中枢系のどこかに偏りがあるのかな」
「一度開いてみた方がいいかしら?」
「パーティーの最中に不具合を起こしたら台無しだからね。あとで見てみよう」
ジェレミーが二人分の紅茶をテーブルに置き、当然のように菓子入れの戸棚を開ける。クッキーの袋を取って椅子に座ろうとしたところで、「あ」とドアの方を見た。
「そういえば、君が僕を認識するのは初めてか」
ドアの横に立つソキウスに、「『初めまして』かな」と微笑みかける。
「僕の名前はジェレミー・オーウェン。君を作るときに、リアナの魔法の補助をした——」
彼の言葉を、ソキウスが「僕の椅子です」と遮った。さっきからずっと眉間に皺を寄せている。
ジェレミーは疑問符を浮かべ、手元の椅子を見下ろした。
「借りてもいいかい?」
「ダメです。それはリアナが僕のために物置から出してくれた椅子です」
「少しだけでいいからさ」
「拒否します」
まるで駄々っ子のような言動。一体彼はどうしてしまったのか。
「ソキウス、どうしたの?」
尋ねると、ジェレミーを睨んでいたソキウスがハッとした顔をして、横目にチラチラとこちらを確認してくる。
「その……僕は……」
ボソボソと言い淀む彼の様子に、ジェレミーが「ふむ」と顎をさする。
「リアナ、彼の流体記録素子に『嫉妬』パッケージを入れたのかい?」
「そんなわけないでしょう」
「君は、嫉妬深く独占欲の強い男が好き?」
「ちょっと、ジェレミー。私が変な設計をしたことにして話を進めないで」
「君の新たな一面を見た気分だよ」
「だから、違うわよ!」
私が声を荒げると、ジェレミーがヘラっと笑って手を振った。
「冗談だよ。そうカッカしないで」
「わかっているわ。今のはただのツッコミよ」
「君のツッコミは毎度毎度、鋭利だねぇ」
「あなたのボケは捻りがないわ」
ジェレミーは「まあね」と軽く応え、椅子の背もたれを掴んだ。ゆっくり揺らしながらソキウスを見る。
「……お茶は、応接室で飲もうか」
そう言って棚の方へ。トレーを持って戻ってくる。ソキウスはジトッとした目で彼をずっと見ていて、それは応接室へ移動した後も続いた。
*
紅茶を飲みながら談笑した後、私たちは実験室へ向かった。ジェレミーが隅の折り畳みベッドを引っ張ってきて、実験台の横の空間に広げる。
私は棚からメスなどの器具を取り、ステンレスバットに入れてベッドの方へ。
「ソキウス。シャツを脱いで、ここに仰向けになってちょうだい」
ベッドを軽く叩いて言うと、ドアの横に立っていたソキウスが、なぜか嬉しそうにこちらへ来た。いそいそとシャツを脱いでベッドに横たわる。
「胸を開くんですか?」
「ええ。中枢系の記述を確認するのよ」
「あなたが僕の胸の中を見るのは初めてですね」
「? 初めてじゃないわよ。あなたの体は私が作ったのだから」
「僕が『僕』になってからは、初めてです」
さっきまでと打って変わり、楽しげな様子。しかしジェレミーがメスを持つと、急に顔を顰めた。
「リアナ、あなたが開いてください」
「え? でも、ジェレミーの方が上手いわよ」
「上手い下手ではなく、僕はあなたがいいんです」
「それに、腕や脚と違って、胸を開くには力が要るわ。外装が厚いから」
「では、僕が手伝います」
ソキウスがジェレミーの手からメスを奪って私に握らせてくる。そのまま手を掴んで引き寄せ、自らの胸へ。
銀色の刃が、彼の鎖骨の間に刺さった。下へまっすぐ皮膚を裂いていく。私は力を入れていない。彼が私の手を動かしている。
「か、開創器を……」
私は視線をステンレスバットの方へ。怪訝そうな顔のジェレミーが開創器を取ったところで、私の手を握っていたソキウスの手が離れた。それからメリメリと、肉を裂く音。
ソキウスがメスで開いた外装に指を突っ込んで、左右に引っ張り、広げている。エーテルの赤の中で鈍色の金属塊が光を反射する。
それから、ソキウスが顔を綻ばせ、
「リアナ、触って」
——古代文字の記述確認作業において、外装を開いた後にやることは、文字を隠しているポリマー片やエーテルを除くこと。
それは触れる作業。その意味で、彼の発言は次の工程を促すものだが、本人の意図するところは違うだろう。
(何を、言って……)
固まる私を横目に、ジェレミーがバットからピンセットと脱脂綿を取った。ソキウスの胸部に伸ばされる彼の手を、赤いエーテルに塗れた手のひらが止める。
「あなたに触れられるのは嫌です」
あからさまな拒絶の声色。ジェレミーが不思議そうに片眉を上げた。
「……リアナ。『偏愛』パッケージも、入れていないよね?」
「そもそも、『嫉妬』だの『偏愛』だの、そんなものは存在しないわ」
「だよねぇ……彼は目覚めた時からこの調子?」
「いいえ。最初は人造人間らしい言動をしていたわ」
ジェレミーがピンセットと脱脂綿を差し出し、私は受け取る。ピンセットを右手に持つと、こちらを見ていたソキウスがパアッと笑みを浮かべた。
胸の切開部をさらに開いてこちらを向く。私はそこにピンセットを入れて、真ん中に覗く金属塊に付着したポリマー片を除去していく。
ソキウスが小さく鼻歌を歌い始めた。メロディーに合わせて微かに体を揺らす。
「ソキウス、手元がぶれるから動かないでちょうだい」
言うと、明るい声が「はい」と応える。それを見ていたジェレミーが、「流体記録素子の不確定性によるものかな」と独りごちた。
私は作業をしながら、
「観測者効果のこと?」
「いいや、存在確率の方」
「情報処理コアに密閉した流体記録素子は、その中にあるし、地球の裏側にもある?」
「そう。あるときはここにあり、あるときはここにない」
「でも、それなら、設計した機能レベルを下回らないとおかしくないかしら?」
「彼に入れた素子だけを考えるならそうだけどね。彼の素子がどこかに行くということは、誰かの素子がここに来ることもあるということだよ」
「なるほど」
私は頷き、脱脂綿で金属塊の表面を拭いていく。真っ白な綿に染みるエーテルの赤の色彩は、人間の動脈血のそれと近似する。
「とはいえ、存在確率云々の話が、今のところ仮説の域を出ないからね。この仮定を証明するには、存在確率の仮定を証明しなければならない」
「じゃあ、それができたら、流体素子力学の世界に革命を起こせるわね」
ジェレミーが「そうだね」と言い、ふと何かを思い出した様子で視線を上げる。
「古い知人に、軍の人造人間研究部門で働いている奴がいてね。彼なら何かヒントになるようなことを知っているかもしれないから、今度訪ねてみるよ」
「軍の人造人間研究って、兵士製造の計画が頓挫した時に閉鎖したのではなかったかしら?」
「最近再開したんだよ。リー&トンプソンと共同研究の形で」
「流体記録素子をベースにした人工知能では、戦場で必要な自律判断を構築できないという話では?」
「それがね、あれは表向きの説明だったらしい」
「? それはどういう——」
尋ねようとしたところで、「リアナ」とソキウスの声。
「もうエーテルを拭き終わったようですよ」
その指摘に、自分がいつの間にか手を止めて、ジェレミーを見ていたことに気がついた。手元に視線を落とすと、脱脂綿が完全にエーテルを吸い込んで、金属表面で銀色の文字が輝いている。
「あっ……本当ね」
ジェレミーがステンレスバットを差し出し、私はそこに赤く濡れた脱脂綿とピンセットを置く。代わりに水銀ペンを取ったところで、腕につんと何かが触れた。
ソキウスの右手。エーテルがついていない小指の先。もう一度つんと触れると胸元に戻り、閉じようとする切開部を開く。
「僕を見ていてください」
どこか懇願するような彼の声に、ジェレミーが小さく嘆息して腕組みをした。
◇ ◇ ◇
ジェレミー・オーウェンが帰った後、リアナは書斎の机に本を積み上げてノートを開いた。熱心に何かを書いたり、本のページをめくったり、また書いたり。
「リアナ、何をしているんですか?」
尋ねると、彼女は視線をノートに落としたまま「ジェレミーとの話をまとめておこうと思って」と答えた。
「流体記録素子の存在確率?の話ですか?」
「ええ」
「……随分と、楽しそうに話していましたね」
「彼は物知りで、話すと色々な気づきをくれるわ」
「へえ……」
「あなたの設計をするときも、たくさんヒントをもらったのよ」
そう言う彼女の声色は、いつものそれより弾んで聞こえる。
「リアナは、頭がいい男が好きなんですか?」
僕は思わず問いを発し、自分の声を聴覚で認識すると同時に後悔した。もしも彼女が肯定したとして、人造人間である僕には、創造性において人間を凌駕することが——
「好きじゃないわよ」
悪い予測に閉じていく思考の中に、リアナの声。僕は一瞬安堵するも、
「父が持ってきた縁談で学者や医者はたくさんいたけれど、みんな女性を下に見ていて、私の話なんてまるで聞いてくれなかったもの」
続いた言葉に、胸の奥で何かが燻るような心地を覚える。さっき胸を開いたが、埃や器具を中に残すようなヘマを彼女はしない。
「では……」僕は聞きたくないと思いながら、「あなたの話を聞く、頭のいい男は、好きですか?」口では問いを発している。
「例えば、ジェレミーとか」
おまけにこんなことを付け足す僕は、一体何を目指してこの会話を続けているのか。
リアナが視線を上げ、不思議そうな顔をする。
「私がジェレミーを好いていると思っているの?」
「…………」
「彼と話すのは楽しいけど、そういうのじゃないわ。彼は『デュアン二号』みたいな感じよ。兄のような存在」
「も、もしも……彼が求婚してきたら、どうしますか?」
「求婚? ジェレミーが私に?」
「はい」
「ふふっ。そんなこと、天地がひっくり返ってもあり得ないわ」
「では、天地がひっくり返って、求婚があり得たら?」
僕の問いに、リアナはペンの後ろを口元に寄せて「うーん」と唸る。真剣に考えているのだろう。「無意味な仮定」と一蹴せず。
「断るわ」彼女はふと寂しげな顔をして、「彼は私の好みではないから」と続ける。
今、僕は、その表情の意味を考えるべきだろう。何が彼女を寂しくしているのか。どうしたら笑顔に変わるのか。
しかし、
「では、あなたはどんな男が好みですか?」
愚かにも問いを重ねる僕の中には、二つの思考が存在する。彼女の幸福を望む僕と、自らの幸福を求める僕。
「これという好みはないわ。どんな男性と一緒にいても、私が満足な人生を手に入れられないことは決まっているから」
そう言ってノートへ視線を戻すリアナは、今日、自分がどんな顔でジェレミーと話していたのか知らない。彼女は人間で、生まれながらに心を有しているからか、自らの心に鈍感だ。
リアナは人間嫌いではない。男嫌いというわけでもない。ただ、彼女自身の特性と社会の造形が、彼女から誰かと一緒にいることを遠ざけているだけ。
そんなことをつらつらと考える僕は、やはり二つの『僕』でできている。
彼女が自分の心に気づく前に、僕と二人きりの世界に閉じ込めてしまいたいと思う自分。
それから、彼女が小さく折りたたんだ翼を伸ばして自由に飛んでいく様を見送りたいと思う自分。
——今、優勢なのは、前者。




