↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
17/21

第17話 初夏、これからのこと

 パーティーの日から一週間、僕たちはほとんどの時間を家にこもって過ごした。外に出るのは早朝だけ。新聞と食料品を買ってすぐに帰る。


 リアナは毎朝、いつもの全国新聞の他に、ゴシップ記事だらけのタブロイド紙を読んでいた。


 初日、彼女は言った。


「やっぱり記事になっているけど、写真がないから小さいわ。内容は噂話レベル。さすが軍需企業のパーティーというところね。警備がしっかりしていて、パパラッチが入る隙がなかったみたい」


 そう言う彼女の視線の先には、エヴァンス特許武装(パテント・アームズ)のお家騒動の記事があった。内容から推察するに、会場にいた口の軽い人間から聞いたもの。軽い口が語った軽い情報。


 二日目、三日目と、記事はどんどん小さくなっていった。有名人の不倫や軍の汚職事件の記事の陰で、僕らの話題は六日目の朝に消えた。


 人間は他者の醜聞が大好きで、あることないことを囁き合う。しかしそれは、新たな薪がくべられる状況下の話。嘲笑の火は燃料を失えばすぐに消える。


 六月。あれから一ヶ月が経った。外で向けられる奇異の目が、以前よりずっと減ったように思う。エヴァンス特許武装(パテント・アームズ)の変わり者令嬢の物語が、『結婚』という一つの結末に至ったからだろう。


 人々は忘れていく。僕らは自由を手に入れる。


「兄の手伝いをしていた頃にね、よく『給金だ』ってお金をもらったの。それを貯めておいたものを、引越しの費用にするわ」

「これからノトスへ?」

「そう思っていたのだけど、今は父が落ち着いているから保留にするわ。下手に動いて、また難癖をつけられたら面倒だもの」

「では、そのお金は終戦後のガルモーニャ移住に使うというのはどうですか?」

「いいアイデアね」


 透明な陽光が夏の気配を纏う昼、僕たちは近所の公園を訪れた。広い芝生の一角。人気(ひとけ)のない木陰にチェック柄のシートを敷く。


 僕がバスケットからティーカップとサンドイッチを取り出すと、リアナが「私が入れるわ」と紅茶のポットを取った。二つのカップに紅茶を注ぎ、一つを僕へ。僕は彼女にサンドイッチを渡す。


 サンドイッチを齧るリアナの頬で、木漏れ日がチラチラと揺れている。彼女の頬に触れていいのは僕だけだ、と思う反面、その輝きを美しいと思う。


 しばらくすると、「あら?」と聞き覚えのある声がした。


「リアナとソキウスじゃないか。ピクニックかい?」


 近所のパン屋のアンナだ。彼女もピクニックに来たのだろうか。右手に大きなバスケットをぶら下げている。リアナが「ええ」と答えると、アンナはその姿を見て片眉を上げた。


「珍しいね、あんたがズボンを履いてるなんて」


 今日のリアナはいつものショートスカートではなく、黒いズボンと白のリボンがついたシャツを着ている。最近、彼女はこのスタイルが多い。


「一度履いたら好きになって、最近はずっとこれなの」

「いいね。よく似合ってるよ」

「女性なのに変だと思わない?」

「思わないさ。あたしの友人もよく履いてるよ。スカートより動きやすくていいって」

「あら。そのお友達と私、気が合いそうだわ」


 アンナが「じゃあ、今度紹介するよ」と微笑んだところで、向こうから「アンナー」と呼び声。彼女の夫らしき男が手を振っている。


「またね」


 アンナはこちらへ軽く手を振って、男の方へ歩いて行った。リアナはそれを見送り、大きな口でサンドイッチを齧る。


 アンナと初めて会った時——つまり、僕が初めて外へ出た日。僕はリアナと親しげに話す彼女に嫉妬した。僕が知らないリアナを知っている彼女を忌々しく思った。


 ジェレミーに対しても、フレッドに対しても、同じ感情を抱いた。僕は『僕』であることが不満だった。


 なりたいものがたくさんあった。


 ある時、それはリアナが食べるパン。なぜなら、パンは彼女の唇に触れられるから。


 それから、彼女の愛用のペン。ベッドのシーツ。ジェレミーと会った時はリアナの師になりたいと思って、フレッドに会った時は幼馴染になりたくて、彼女が兄のデュアンを語る時は兄になりたかった。


 それはきっと、僕は『僕』を偽物だと思っていたから。『人間』の偽物。『夫』の偽物。


 今は——


「ソキウス。このサンドイッチ、とっても美味しいわ」


 リアナが嬉しそうに微笑み、サンドイッチのボックスに手を伸ばした。「この具材は何?」と尋ねて齧る彼女に、僕は少し驚く。


「……チーズと、スモークサーモンです」

「ああ。このお魚、サーモンなのね」


 パテではない。スライスしたチーズとサーモンのサンドイッチだ。——彼女は聡明だが、こういう抜けたところがある。


「今まで食べたサーモンの中で一番美味しいわ」


 そう言って微笑む彼女は気づいていないのだろう。今食べているのは大衆向けの店で買った安いサーモンで、彼女が過去に実家で食べた、どのサーモンより味が悪いであろうことを。


 そして、考えもしないのだろう。自分がなぜ、これを『一番美味しい』と思うのか。


(今は……今の『僕』のままでいたい)


 誰もが何かになりたがる。今ここにない自分を欲しがる。リアナもそうだろう。きっと、彼女の父も。


 一方で、欲しいもの全てを手に入れることはできない。何が大切で、何を諦めていいのか、線引きをしなければならない。悩み、考え、何かを手に入れると同時に何かを捨てる。


 しかし、僕はもう迷わない。欲しいものは全てここにある。選択の必要はない。リアナはきっとこれを不幸と呼ぶが、僕はこれが幸せだと思う。


「リアナ、紅茶のおかわりは要りますか?」


 尋ねると、サンドイッチを頬張った彼女が「お願い(ふぉへはひ)」と言って空のカップを差し出した。——なんだその声は。可愛い。抱きしめたい。絶対にフレッドには聞かせたくない。


 僕は踊り出しそうな心を鎮めて「はい」とカップを受け取る。ふと、彼女の手の甲の傷跡が目に留まった。


 左手。親指の付け根から手首にかけて、まっすぐ。三インチほどの傷跡。


 ふと、激昂する彼女の父を思い出した。彼女に向けて意図も容易く右手を振り上げた時の、実に醜く忌々しい顔。


「リアナ、その手の甲の傷跡は、どうしたんですか?」


 まさか日頃から虐待を受けていたのかと思って尋ねたが、


「? ああ。これはあなたを作るときに、水銀ペンが掠ってしまって」


 リアナが「うっかりしたわ」と肩を竦めて紅茶のカップを受け取る。


「ペン先が掠っただけで、こんな跡ができるものですか?」

「引っ掻いてできた傷ではなく、水銀によるものよ。あれは生き物にとって毒だから、皮膚に触れると火傷のように爛れてしまうの」

「……初耳です。そんなに危ないものを、あなたはいつも使っていただなんて」

「適切に扱えば危なくないわ。薬と同じよ」


 リアナは紅茶を一口飲み、キュウリのサンドイッチに手を伸ばした。


「現存する魔法技術は、水銀の古代文字を使うものだけ。だから魔法(オールド・サイエンス)の対象は自ずと無生物に限られる。でもね、遠い昔の魔法使いが使った魔法は、人間にもかけられたそうよ」


 彼女はサンドイッチを齧ると、「これも美味しい」と微笑み、


「水銀も、人体に書けないというわけではないのだけど、水銀の爛れは激痛だし、すぐに文字が滲んでしまって持続時間がとても短いの」

「ま、まさか……試したわけでは……」

「ないわよ。論文で読んだの。痛みは、この手の時に実感しているわ」

「リアナは、自分に魔法をかけたいんですか?」


 リアナは「ええ」と答え、またサンドイッチを齧る。咀嚼する口元の柔らかな動きを見ながら、僕は考える。


 彼女にも、欲しい自分がある。自由に学問ができて、職につける、男の庇護下に入らずに生きられる自立した自分。つまり彼女は、魔法で男になりたいのだろうか。


 彼女が男になっても、ヨボヨボの老婆になっても、骨になっても塵になってもゾンビになっても、僕の愛は変わらない。それは確かなことだけれど、できれば、お腹がぷにぷにの彼女のままでいてほしい。


(いや、でも、彼女の幸せが何よりで……)


 内心で葛藤していると、サンドイッチを飲み込んだリアナが「強くなりたいわ」と言った。


「……え?」

「考えてみたら、パーティーの時、私が父のビンタを華麗に避けてカウンターをキメる手もあったと気づいたの」

「それは……えっ、ありました?」

「あったわよ。そうすればあなたが殴られなくて済んだし、私はきっとスッキリしたわ」

「そ、そう……ですか……?」

「私が筋トレをするという方法もあるけど、自分より大きな男性を筋力で超えることはほとんど不可能だわ。父は元軍人で、普通の男性より強いし」

「それは、つまり……魔法でムキムキの男性になりたいということですか?」


 尋ねると、彼女が「うーん」と考え顔で視線を動かし、「男性になりたいとは、思わないわ」と答えた。


「女性に生まれたことを不自由だと思うし、以前はなりたいと思っていたけど……私が男性に生まれていたら、あなたを作ることはなかっただろうから……」


 それから、照れ臭そうな笑みを浮かべ、


「今は、女性に生まれて良かったと思うわ。今までも、これからも、女性ゆえの嫌なことはあるだろうけど、あなたと出会えたから」


 これまた照れ臭そうに頬に手を当てて、「だから、今のままの私で強くなりたいわ」と続けた。僕はその言葉を咀嚼する。


 これは、つまり、彼女は僕と同じだということだろうか。僕が、彼女の瞳の中に本物の自分を見出したのと同じように、彼女も。


「リアナ……外で急にそういうことを言うのは、やめてください」


 僕は両手で顔を覆って懇願する。「どうして?」と彼女の声。


「押し倒したくなるので」


 咄嗟に答えると、少しの沈黙が流れた。それによって僕は自らの失言に気づく。『押し倒す』など、彼女相手に絶対に言ってはならない言葉。隠し通さなければならない欲求。


「ちっ、違うんですリアナ。今のは——」


 顔の手を取って弁明を図ろうとしたら、困ったような笑みを浮かべるリアナがいた。


「……リアナ?」

「この前フレッドが来た時、あなたたち、物置部屋で何かしていたわよね? 『女人禁制の男の相談所』とかなんとか言って」

「えっ! あー……」

「やっぱり、彼にそういうことを教わっていたのね」

「や、やっぱり?」

「フレッドが帰りがけにずっとニヤニヤしていたから、そんなことだろうと思っていたのよ」


 どこか茶化すように言う彼女に、嫌悪の類は見て取れない。


「えっと……へ、変なことを学んで、すみません」


 言うと、彼女は「『変なこと』ではないわ」と気恥ずかしそうに視線を下げ、


「あなたは、それを知りたいと思ったのでしょう?」

「えっ……あ……は、はい」

「それはあなたの自由よ。謝ることではないわ」

「でも、『知っている』ということは、『実行可能』ということで……」

「————てちょうだい」

「え?」

「『実行』する時は、前もって言ってちょうだい」


 リアナはこちらを一瞥すると、「『準備』が必要だから!」と言ってサンドイッチを頬張った。横を向いて咀嚼する彼女の耳が赤くなっている。


(今度フレッドが来たら、ご馳走を作ろう)


 僕が欲しい全てはここにある。だから僕はもう迷わないし、選択の必要はない。


 やるべきことは、この幸福を守ること。誰の手にも渡さない。ここは僕の楽園(ユートピア)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。