第17話 初夏、これからのこと
パーティーの日から一週間、僕たちはほとんどの時間を家にこもって過ごした。外に出るのは早朝だけ。新聞と食料品を買ってすぐに帰る。
リアナは毎朝、いつもの全国新聞の他に、ゴシップ記事だらけのタブロイド紙を読んでいた。
初日、彼女は言った。
「やっぱり記事になっているけど、写真がないから小さいわ。内容は噂話レベル。さすが軍需企業のパーティーというところね。警備がしっかりしていて、パパラッチが入る隙がなかったみたい」
そう言う彼女の視線の先には、エヴァンス特許武装のお家騒動の記事があった。内容から推察するに、会場にいた口の軽い人間から聞いたもの。軽い口が語った軽い情報。
二日目、三日目と、記事はどんどん小さくなっていった。有名人の不倫や軍の汚職事件の記事の陰で、僕らの話題は六日目の朝に消えた。
人間は他者の醜聞が大好きで、あることないことを囁き合う。しかしそれは、新たな薪がくべられる状況下の話。嘲笑の火は燃料を失えばすぐに消える。
六月。あれから一ヶ月が経った。外で向けられる奇異の目が、以前よりずっと減ったように思う。エヴァンス特許武装の変わり者令嬢の物語が、『結婚』という一つの結末に至ったからだろう。
人々は忘れていく。僕らは自由を手に入れる。
「兄の手伝いをしていた頃にね、よく『給金だ』ってお金をもらったの。それを貯めておいたものを、引越しの費用にするわ」
「これからノトスへ?」
「そう思っていたのだけど、今は父が落ち着いているから保留にするわ。下手に動いて、また難癖をつけられたら面倒だもの」
「では、そのお金は終戦後のガルモーニャ移住に使うというのはどうですか?」
「いいアイデアね」
透明な陽光が夏の気配を纏う昼、僕たちは近所の公園を訪れた。広い芝生の一角。人気のない木陰にチェック柄のシートを敷く。
僕がバスケットからティーカップとサンドイッチを取り出すと、リアナが「私が入れるわ」と紅茶のポットを取った。二つのカップに紅茶を注ぎ、一つを僕へ。僕は彼女にサンドイッチを渡す。
サンドイッチを齧るリアナの頬で、木漏れ日がチラチラと揺れている。彼女の頬に触れていいのは僕だけだ、と思う反面、その輝きを美しいと思う。
しばらくすると、「あら?」と聞き覚えのある声がした。
「リアナとソキウスじゃないか。ピクニックかい?」
近所のパン屋のアンナだ。彼女もピクニックに来たのだろうか。右手に大きなバスケットをぶら下げている。リアナが「ええ」と答えると、アンナはその姿を見て片眉を上げた。
「珍しいね、あんたがズボンを履いてるなんて」
今日のリアナはいつものショートスカートではなく、黒いズボンと白のリボンがついたシャツを着ている。最近、彼女はこのスタイルが多い。
「一度履いたら好きになって、最近はずっとこれなの」
「いいね。よく似合ってるよ」
「女性なのに変だと思わない?」
「思わないさ。あたしの友人もよく履いてるよ。スカートより動きやすくていいって」
「あら。そのお友達と私、気が合いそうだわ」
アンナが「じゃあ、今度紹介するよ」と微笑んだところで、向こうから「アンナー」と呼び声。彼女の夫らしき男が手を振っている。
「またね」
アンナはこちらへ軽く手を振って、男の方へ歩いて行った。リアナはそれを見送り、大きな口でサンドイッチを齧る。
アンナと初めて会った時——つまり、僕が初めて外へ出た日。僕はリアナと親しげに話す彼女に嫉妬した。僕が知らないリアナを知っている彼女を忌々しく思った。
ジェレミーに対しても、フレッドに対しても、同じ感情を抱いた。僕は『僕』であることが不満だった。
なりたいものがたくさんあった。
ある時、それはリアナが食べるパン。なぜなら、パンは彼女の唇に触れられるから。
それから、彼女の愛用のペン。ベッドのシーツ。ジェレミーと会った時はリアナの師になりたいと思って、フレッドに会った時は幼馴染になりたくて、彼女が兄のデュアンを語る時は兄になりたかった。
それはきっと、僕は『僕』を偽物だと思っていたから。『人間』の偽物。『夫』の偽物。
今は——
「ソキウス。このサンドイッチ、とっても美味しいわ」
リアナが嬉しそうに微笑み、サンドイッチのボックスに手を伸ばした。「この具材は何?」と尋ねて齧る彼女に、僕は少し驚く。
「……チーズと、スモークサーモンです」
「ああ。このお魚、サーモンなのね」
パテではない。スライスしたチーズとサーモンのサンドイッチだ。——彼女は聡明だが、こういう抜けたところがある。
「今まで食べたサーモンの中で一番美味しいわ」
そう言って微笑む彼女は気づいていないのだろう。今食べているのは大衆向けの店で買った安いサーモンで、彼女が過去に実家で食べた、どのサーモンより味が悪いであろうことを。
そして、考えもしないのだろう。自分がなぜ、これを『一番美味しい』と思うのか。
(今は……今の『僕』のままでいたい)
誰もが何かになりたがる。今ここにない自分を欲しがる。リアナもそうだろう。きっと、彼女の父も。
一方で、欲しいもの全てを手に入れることはできない。何が大切で、何を諦めていいのか、線引きをしなければならない。悩み、考え、何かを手に入れると同時に何かを捨てる。
しかし、僕はもう迷わない。欲しいものは全てここにある。選択の必要はない。リアナはきっとこれを不幸と呼ぶが、僕はこれが幸せだと思う。
「リアナ、紅茶のおかわりは要りますか?」
尋ねると、サンドイッチを頬張った彼女が「お願い」と言って空のカップを差し出した。——なんだその声は。可愛い。抱きしめたい。絶対にフレッドには聞かせたくない。
僕は踊り出しそうな心を鎮めて「はい」とカップを受け取る。ふと、彼女の手の甲の傷跡が目に留まった。
左手。親指の付け根から手首にかけて、まっすぐ。三インチほどの傷跡。
ふと、激昂する彼女の父を思い出した。彼女に向けて意図も容易く右手を振り上げた時の、実に醜く忌々しい顔。
「リアナ、その手の甲の傷跡は、どうしたんですか?」
まさか日頃から虐待を受けていたのかと思って尋ねたが、
「? ああ。これはあなたを作るときに、水銀ペンが掠ってしまって」
リアナが「うっかりしたわ」と肩を竦めて紅茶のカップを受け取る。
「ペン先が掠っただけで、こんな跡ができるものですか?」
「引っ掻いてできた傷ではなく、水銀によるものよ。あれは生き物にとって毒だから、皮膚に触れると火傷のように爛れてしまうの」
「……初耳です。そんなに危ないものを、あなたはいつも使っていただなんて」
「適切に扱えば危なくないわ。薬と同じよ」
リアナは紅茶を一口飲み、キュウリのサンドイッチに手を伸ばした。
「現存する魔法技術は、水銀の古代文字を使うものだけ。だから魔法の対象は自ずと無生物に限られる。でもね、遠い昔の魔法使いが使った魔法は、人間にもかけられたそうよ」
彼女はサンドイッチを齧ると、「これも美味しい」と微笑み、
「水銀も、人体に書けないというわけではないのだけど、水銀の爛れは激痛だし、すぐに文字が滲んでしまって持続時間がとても短いの」
「ま、まさか……試したわけでは……」
「ないわよ。論文で読んだの。痛みは、この手の時に実感しているわ」
「リアナは、自分に魔法をかけたいんですか?」
リアナは「ええ」と答え、またサンドイッチを齧る。咀嚼する口元の柔らかな動きを見ながら、僕は考える。
彼女にも、欲しい自分がある。自由に学問ができて、職につける、男の庇護下に入らずに生きられる自立した自分。つまり彼女は、魔法で男になりたいのだろうか。
彼女が男になっても、ヨボヨボの老婆になっても、骨になっても塵になってもゾンビになっても、僕の愛は変わらない。それは確かなことだけれど、できれば、お腹がぷにぷにの彼女のままでいてほしい。
(いや、でも、彼女の幸せが何よりで……)
内心で葛藤していると、サンドイッチを飲み込んだリアナが「強くなりたいわ」と言った。
「……え?」
「考えてみたら、パーティーの時、私が父のビンタを華麗に避けてカウンターをキメる手もあったと気づいたの」
「それは……えっ、ありました?」
「あったわよ。そうすればあなたが殴られなくて済んだし、私はきっとスッキリしたわ」
「そ、そう……ですか……?」
「私が筋トレをするという方法もあるけど、自分より大きな男性を筋力で超えることはほとんど不可能だわ。父は元軍人で、普通の男性より強いし」
「それは、つまり……魔法でムキムキの男性になりたいということですか?」
尋ねると、彼女が「うーん」と考え顔で視線を動かし、「男性になりたいとは、思わないわ」と答えた。
「女性に生まれたことを不自由だと思うし、以前はなりたいと思っていたけど……私が男性に生まれていたら、あなたを作ることはなかっただろうから……」
それから、照れ臭そうな笑みを浮かべ、
「今は、女性に生まれて良かったと思うわ。今までも、これからも、女性ゆえの嫌なことはあるだろうけど、あなたと出会えたから」
これまた照れ臭そうに頬に手を当てて、「だから、今のままの私で強くなりたいわ」と続けた。僕はその言葉を咀嚼する。
これは、つまり、彼女は僕と同じだということだろうか。僕が、彼女の瞳の中に本物の自分を見出したのと同じように、彼女も。
「リアナ……外で急にそういうことを言うのは、やめてください」
僕は両手で顔を覆って懇願する。「どうして?」と彼女の声。
「押し倒したくなるので」
咄嗟に答えると、少しの沈黙が流れた。それによって僕は自らの失言に気づく。『押し倒す』など、彼女相手に絶対に言ってはならない言葉。隠し通さなければならない欲求。
「ちっ、違うんですリアナ。今のは——」
顔の手を取って弁明を図ろうとしたら、困ったような笑みを浮かべるリアナがいた。
「……リアナ?」
「この前フレッドが来た時、あなたたち、物置部屋で何かしていたわよね? 『女人禁制の男の相談所』とかなんとか言って」
「えっ! あー……」
「やっぱり、彼にそういうことを教わっていたのね」
「や、やっぱり?」
「フレッドが帰りがけにずっとニヤニヤしていたから、そんなことだろうと思っていたのよ」
どこか茶化すように言う彼女に、嫌悪の類は見て取れない。
「えっと……へ、変なことを学んで、すみません」
言うと、彼女は「『変なこと』ではないわ」と気恥ずかしそうに視線を下げ、
「あなたは、それを知りたいと思ったのでしょう?」
「えっ……あ……は、はい」
「それはあなたの自由よ。謝ることではないわ」
「でも、『知っている』ということは、『実行可能』ということで……」
「————てちょうだい」
「え?」
「『実行』する時は、前もって言ってちょうだい」
リアナはこちらを一瞥すると、「『準備』が必要だから!」と言ってサンドイッチを頬張った。横を向いて咀嚼する彼女の耳が赤くなっている。
(今度フレッドが来たら、ご馳走を作ろう)
僕が欲しい全てはここにある。だから僕はもう迷わないし、選択の必要はない。
やるべきことは、この幸福を守ること。誰の手にも渡さない。ここは僕の楽園。




