第16話 帰ろう
「ギリアムに呼ばれて来てみれば……お前、ここで何をしている?」
父は私の前に立つと、開口一番、苛立った様子で尋ねた。
「何、って……夫を連れて、来ました。手紙は届いていますよね?」
私の問いに、さらに苛立たしげに顔を顰める。
「ああ。届いて、何度も読んださ。頭のおかしい娘に、ついに虚言癖までついたのかと思ったら、まさか本当に……」
じろりとソキウスを睨め付けて、
「こんなところにガルモーニャのスパイを連れて来るとは何事だ!」
不意に声を荒げた理由は、周囲に聞かせるため以外にないだろう。そこからわかる彼の意図は一つ。
損切りだ。『娘との賭けに負けた』という事実が確定する前に、『頭のおかしい娘が売国奴と化した』として被害者側に回ろうとしている。——親である彼の養育責任が問われかねないが、これまでの私の評判を鑑みれば、同情票による無罪放免が硬い。
(どうして、そこまでして……)
そもそも、父が私を結婚させようとしていたのは、『頭のおかしい娘』の父として世間を歩くのが恥ずかしかったから。だから結婚相手を見つければ引き下がると思ったが、これは予想外。
ブラウンのこともそうだ。予想外、予想外、予想外。彼らの考えていることがわからない。ここにいると、確かに自分は頭がおかしいのではないかと思えてくる。
(いや、ダメよ。こんなことを考えている場合じゃない。どうにかしなきゃ)
父の声を聞いた人々が、「スパイ?」と疑問符を浮かべながら集まってくる。父は悲劇の主人公のように頭を抱え、
「お前はなぜこんなことばかりする? 私が何をしたというんだ。お前が生まれてからこの方、最高の教育と生活を与えてやったのに!」
——そう。彼は娘に最高の教育を与えた。『バカでいなさい』『家事をできるようになりなさい』『男に逆らうな』『体を求められたら黙って差し出せ』
最高の生活も与えた。『怪我をして跡が残ったら価値が下がるから走るな』『教養など要らないから本を読むな』『太るな、痩せていろ』
(……うんざりだわ)
父が悲劇を叫んでいる。聴衆が哀れみの目でそれを見ている。一部が怪訝そうな顔でこちらを向く。私は大きく息を吸い込んだ。
「なんてことを言うんですか!」
声を上げると、父がぴたりと動きを止めた。
「……は?」
彼が演技で私を貶めるなら、私も演技で抗うべきだろう。
「ここは科学と知性の国。理性的な我々アフトクラトリア人は、かつての同盟国が卑劣な宣戦布告をしようとも、その国民を怒りに任せて迫害したりしない。違いますか?」
「な、なんだ、急に」
「違いませんよね。だから今も国内にいるガルモーニャ人は、以前と変わらない生活を送っている。そのことは、私たちアフトクラトリア人の誇りでもあります。お父様はその努力に泥を塗るつもりですか?」
正直なところ、この国の民度も誇りも興味はない。だが、今は愛国者を演じるべきだろう。
ガルモーニャ共和国がアフトクラトリアに宣戦布告をしたのは約十ヶ月前。自国民への退避勧告もなしに行われたため、当時、国内に残る数多ガルモーニャ人の処遇が問題になった。
政府は理性国家を叫び、彼らへの不当な扱いを禁じた。戦争は戦場で戦われるもの。決して民間人の生活が脅かされてはならない、と。
私の主張に、父がワナワナと口を震わせる。
「『無意味に迫害しない』だろう。スパイを放置する謂れはない!」
「彼はスパイではありません。普通の商家の人間で、仕事でこちらへ来ている最中に祖国が宣戦布告をして帰れなくなってしまったんです。手紙にも書いたでしょう?」
「そんなもの嘘に決まっている。わざわざこんなところに入ってくるんだからな!」
「彼はパーティーを見物に来たわけではありません。私の夫で、お父様が来いと言ったから、わざわざここまで来たんです」
「こんなタイミングで、軍需企業の娘と結婚しようなど、怪しすぎる」
「それについても手紙に書きました。彼と出会ったのは一年前。ガルモーニャが宣戦布告するずっと前です」
どこかから、誰かの声。
「なんだよ、もしかして親父さんが劣勢?」
茶化すような声色はきっと、私の結婚で賭けをしていた男たちの誰かだろう。父のこめかみに青筋が立つ。
「せ、宣戦布告より前に、そのことは決まっていたはずだ。その男が軍の人間なら、前もってお前に接触してもおかしくない!」
「ではどうぞ、探偵でも軍の知り合いでも何でも使って調べてください。彼はスパイではないので、証拠など出て来ませんよ」
そもそも何の痕跡も見つからないだろう。彼は半年前まで私と二人きりの世界にいた。——逆にそれを怪しまれる可能性はあるが、今は目を瞑る他にない。
「罪を主張するのなら証明してください」
「今、ここにスパイがいるということが問題なんだ!」
「お父様、ただ怪しいというだけで罰を貸すことなどできません。この国は法治国家で——」
父が「うるさい!」と叫んで右手を振り上げた。
「お前は昔から、そうやって、女のくせに何様のつもりだ!」
それから勢いよく振り下ろす。私は咄嗟に目を瞑り、何かに後ろから腕を引かれる。数歩後ずさったところで、背中に慣れ親しんだ体温。
「では、僕たちはもう帰ります」
頭の上にソキウスの声。目を開けると、父が手を振り下ろした状態で固まっている。見上げた先には、お手本のような笑みを浮かべるソキウスの顔。
「本当は彼女を連れてガルモーニャに帰りたいんですが、何分、国境が封鎖されているもので。終戦までヴォラスから出ず、会社にも近づきません。それでいいですか?」
父が呆けた顔をしているのは、平手打ちが空振りに終わったからから。今までこんなことはなかったから驚いたのだろう。
「いいですよね?」
ソキウスが問いを重ね、父は動かず、返事もせず。ソキウスは父をしばらく眺め、「行きましょう」と私の肩に手を置いて踵を返した。私たちが歩き出したところで、ボソボソとした父の声。
「いつもそうだ。娘の分際で偉そうに。利口ぶって、親に楯突いて……」
——私は、もしかしたら根本のところを見誤っていたのかもしれない。
「デュアンがいなくなって、次はお前か……」
昔から、不思議だった。
私には兄が四人いる。——今は四人『いた』。デュアンが死んで三人になった。
その三人は皆、会社の要職に就いている。デュアンは長男であるにも関わらず、危険な戦場に赴く下っ端の仕事をしていた。父はデュアンにだけ冷たかった。
デュアンはよく父に意見を述べていた。戦争はいつか終わる。いずれ人類は争いを克服する。科学は人殺しの道具ではなく、人を救うためにあるべきだ、と。
理路整然と話すデュアンを、父はいつも忌々しげな顔で見ていた。他の兄たちが指示を乞いに来ると、穏やかな笑みを浮かべた。
(私の醜聞が、親として恥ずかしい。……違ったのかもしれないわ。お父様の中にあるのは恥ではなく、恐怖と怒り……)
ヴィクター・フランケンシュタインは、自ら生み出した怪物に殺された。
——被創造物が、創造主たる自分を凌駕することへの怒り。自らのコントロールを離れた被創造物への恐怖。父は、私に殺されることを恐れている。
(そうだとしたら、これまでの全てが悪手ということ——)
父が「ふざけるなぁ!」と怒号を上げた。ツカツカと近づいてくる足音。私とソキウスは同時に振り返る。
父の手が私の肩を掴もうという直前、ソキウスが私の腰に腕を回し、ひょいと引いてそれを避けた。父が舌打ちをして手を伸ばす。またソキウスが避ける。
「なっ、何なんだお前はぁ!」
「そういえば、自己紹介がまだでした。初めまして、僕の名前はソキウス・ハロルシュタイン。リアナの魅力に溺れた愚かな男です」
「何をっ、言って……避けるな!」
「その指示は受け付けられません。僕はリアナの夫。彼女を守る義務がある」
「これは親子の問題だ。部外者が口を挟むな!」
「彼女は僕の妻です。つまり、僕が彼女のものであるのと同様に、彼女は僕のものであるということ」
父が拳を振りかぶる。ソキウスは私の腰から手を離し、父の拳をひらりと躱す。いつの間にか父の標的は私からソキウスへ。
「あなたは何に怯えているんですか?」
ソキウスがふわりと微笑み、父に尋ねた。「リアナは誰も傷つけません」と続ける。
「彼女はとても優しく聡明です。僕がわからないことは、懇切丁寧に、言葉を尽くして説明してくれます。あなたがどれほど愚かでも、決して笑ったりしませんよ」
彼は、父の劣等感に気づいている。しかしなぜ、わざわざ、それを逆撫でするようなことを——
私は止めに入ろうと踏み出した。瞬間、どこかから声。
「さっきからあいつ、やけにいい動きしてるな」
部屋の隅に固まってこちらを見ている、軍人の誰か。
「エヴァンス氏は元軍人だろ? 歳食ったとは言え、トレーニングは続けてると聞くし、彼の動きに無駄は——」
怪訝そうなその声を、父の怒号が掻き消す。
「いい加減にしろ!」
無駄のない動きで放たれる拳。ソキウスが一瞬考え顔になり、こちらをチラリと一瞥した。——私の位置を、確かめた。
(お父様の怒りを自分に向けて——)
ゴキッと、鈍い音。顔を殴られたソキウスが、その勢いに見せかけて私の方によろける。私は咄嗟に両腕を広げた。腕の中にソキウスが突っ伏す。
「隠すものはありますか?」
ソキウスの囁きに、私は彼の頭を抱いて周囲に目を向ける。傍らのテーブルからナプキンを取って彼の顔に当てた。彼がナプキンを受け取り、私は彼の頭を抱きしめ、
「……な、何を、するんですか」
彼の続きを演じる。
「彼が本当にスパイなら、お父様の機嫌を損ねるようなことを言うはずがありません。私からは何の情報も得られない。私を足場に、お父様に近づくのが自然です」
ソキウスは私の腕の中に隠れて、殴られた頬をナプキンで覆う。
「私たちはただ出会い、ただ愛し合って一緒にいる。それだけです。彼はスパイなんかじゃない」
こちらを見ていた人々が互いを見やり、囁き合う。
「まあ、軍需企業の社長ともなれば、スパイを警戒するのもわからなくはないが」
「少しやりすぎだな」
「あいつ、本当にスパイだと思うか?」
「いいや。どう見てもあれは、リアナ氏に骨抜きにされた変人だ」
「あれを愛する男が存在するとは……世の中、いろんな人間がいるな」
それを聞いた父は、握っていた拳をわなわなと振るわせ、解いた。盛大な舌打ちをして踵を返す。
荒々しい足音を立てて彼が去った後、パーティーの開始を一時間遅らせるというアナウンスが流れた。
*
本社一階の休養室に行くと、若い男性社員が備品の補充をしているところだった。私が出ていくよう指示すると疑問符を浮かべ、
「その人、どうしたんですか?」
私の肩口に顔を押し当てるソキウスを指した。
「手当てなら手伝いますよ」
「大丈夫よ。私一人でできるわ」
「なんか、フラフラしてるように見えますけど」
「少し、動揺していて。静かなところで休ませてあげたいの」
「わかりました」
男性社員はせかせかと作業を進めると、「何かあったら声かけてください」と言い残して部屋を出た。その足音が廊下の向こうへ消えたところで、ソキウスが顔を上げる。
「僕は動揺などしていませんよ。概ね計画通りです」
ナプキンを取り、けろっとした顔で言う。その左頬が真っ赤に腫れている。
「本当は腹を殴らせたかったんですが……彼は僕の顔ばかり狙ってきて、あれ以上引き伸ばすと不自然というのもあって、仕方なくの顔です」
人造人間は自律判断能力が低い。二つのデメリットから片方を選び取ることができない。——という常識を持ち出すのは今更だろう。
私は棚からガーゼと医療用テープを取り出す。ソキウスが近くのベッドに腰掛けた。
「僕がイケメンなのが気に食わなかったんですかね」
「ソキウス、自分のことを『イケメン』だなんて、あまり言うものではないわ」
「でも、僕はあなたが作ったこの姿を誇りに思っています」
「……そういうことも、あまり言わない方がいいわ」
ソキウスがニコニコして「恥ずかしいからですか?」と尋ねてくる。彼は最近、私が恥ずかしがるのを見て喜ぶきらいがある。
「違うわよ」
私は彼の前に立ち、ガーゼを頬に当てた。「押さえておいてちょうだい」と言うと、ソキウスは元気に「はい」と答えて私の手ごとガーゼを押さえる。
「……テープで固定するから、という意味よ」
「わかっています」
「……片手ではテープを貼れないから、私の代わりにガーゼを押さえておいて」
「そんなに丁寧な説明をしなくてもわかります」
ソキウスの指先が私の手の甲を撫で、袖口から手首の内側へ。
「ソキウス……そういうことは帰ってからにしてちょうだい。人が来たら大変だわ。ここは室内から鍵をかけられないから」
「帰ったら、たくさん触らせてくれますか?」
「…………」
「ここに来てから、ずっと我慢していました」
「……変なところを触らないなら、いいわよ」
ソキウスが「約束ですよ」と微笑んで、私の手首から手を離した。ガーゼを押さえる。
私は医療用テープを切って顔を上げた。ガーゼの端に少しだけ見えていた腫れがすでに引いている。
「怪我の持続時間も、人間レベルに調整した方がいいかしら」
「それだと、メンテナンスで開いた後が大変です」
「そうなのよね……今の頻度でメンテナンスをしていたら、あなたが包帯だらけになってしまう」
「ゾンビになるのは嫌です。あなたに怖がられたくない」
「包帯だらけなのはゾンビではなくミイラ男よ。それに、私はゾンビなんか怖くないわ」
「強がらないでください。僕を怖がるあなたは見たくないですが、他の何かを怖がるあなたは可愛らしくて好きです」
「……いい加減、フレッドの馬鹿話は忘れてちょうだい」
ソキウスが「無理です」と笑ったところで、休養室のドアがかちゃりと開いた。父の秘書・ギリアムが入ってくる。
「こちらにいらっしゃいましたか」
私は急いでテープを貼って背中を伸ばす。
「何か用ですか?」
尋ねると、ギリアムはソキウスをじっと見つめた後、「父君から伝言を預かって参りました」と視線を背けた。
「『さっさと首都を出ろ。二度とここに近づくな。最低限の生活の保証はしてやる。田舎に引っ込んでいろ』とのことです」
淡々と、冷ややかで、刺々しい。彼は私に対して昔からずっとこの調子だ。父を敬愛しているから、対立する私をよく思っていないのだろう。
「わかりました、と伝えてください」
私の返答に、ギリアムは少しの間を置いて「承知いたしました」と答えた。ソキウスを一瞥してから部屋を出ていく。
パタリとドアが閉まった後、
「まさか向こうから、僕たちの望むものを与えてくれるのは」
ソキウスは少し拍子抜けした様子で言うと、「帰りましょう」と立ち上がった。私の手を取り、クスッと笑う。
「これで、心置きなくあの家にこもっていられますね。あなたと僕の二人で。たくさん触らせてください」
夢と希望に溢れた子供のような表情。ふと私の脳裏に、いつかの夜の彼の言葉が再生された。
『僕はあなたに触れたい。頭や肩だけでなく、胸も腹も、あますことなく全て』
——『全て』とは、私の体表の全て、ということだろうか。
(これから一緒に暮らす中で、少しずつ距離が縮まって、いつか、その時が、来る……?)
それに関連して思い出すのは、ブラウンと初めて顔を合わせた日。私の体を舐め回すような視線が、ただただ不快で仕方がなかった。
今、私を見下ろすピーグリーンの視線は、不快の真逆。心地良いと思う。もっと見て欲しいと思う。
(いや……『もっと』って何よ! ソキウスのがうつった!?)
繋いだ手の体温も、それが全身に触れる想像も、望ましいと思う自分がここにいる。




