第10話 証明できないもの
朝、目を覚ました私は、世界から音がなくなってしまったのかと錯覚する。微かな物音一つも聞こえない静寂の朝。温かい春の日差しが差し込む室内に、冬の湖の薄氷を思う。
(フレッドが来た日以来、ずっとこうだわ)
寝室を出て、廊下を進む。やはり物音はしない。リビングへ続くドアを開ける。奥のキッチンに人影はなし。しかし、空間には朝食の香りが漂っている。
私はテーブルの前で足を止めた。焼きたてのスクランブルエッグ、ベーコン、サラダとパンが乗った皿の横に、紅茶のポットとカップが一つ。カップの下にメモが一枚挟まっている。
『必要なければ、言ってください』
タイプライターで打ったように規則的な、ソキウスの字。
フレッドが来てから一週間、ソキウスは私の前に一度も姿を現さない。食事の支度や家の掃除、洗濯などは彼がやっているが、私が見ていないうちに全てが終わっている。
私の行動を先回りして家事をこなし、あとは自室にこもっている。会おうとすればいつでも会えるが、私は自分の生活リズムを崩さず、今日に至った。
それが理由でもあるだろう。私はずっと、あの日の彼を考えている。
『僕はオバケが怖くて仕方がないので、一緒に寝てください』
ソキウスがそう言って私の寝室を訪れたのは、私がフレッドにしたことを知って、ならば許されるだろうと思ったから。
『彼が良くて、僕がダメなのはなぜですか?』
あの日、私はフレッドとの再会を喜ぶあまり、ソキウスのことを顧みずにいたように思う。あの日彼がどこにいて、どんな顔をしていたか、思い出すことができない。
『僕はあなたに作られた。あなたが、あなたのために生み出した』
だから、彼にこんなことを言わせたのは私。彼には私しかいない。それなのに私が離れていくかと思ったら、冷静さを欠くのは当然だろう。
ただしこれは、心を有する知性体に限った話。
『僕は、怪物ではない』
そう言う彼は、自らが怪物になることを恐れていた。
『怖がらないでください。ごめんなさい。もう何もしません。全てあなたの言葉に従います』
咄嗟に完全服従を誓うほど、彼にとって、私に怪物扱いされるのが恐ろしいことだということ。
(『怪物』は、独りではなれないもの。誰かに『怪物』と認識されて初めて成立する属性)
ソキウスは人造人間。
人造人間は、入力された数多の知識と環境刺激を照合し、文脈的・統計的に『人間』として正しいとされる反応を出力する。『恐怖』を出力する時、そこに実感としての『恐怖』は存在しない。
これは一般論。この社会の誰もが信じていること。——『女は誰かの庇護下でしか生きられない』という価値観もまた、同じ。
果たして、ソキウスには確かに心が存在しないのか。
(私は今、寂しさを感じている。でも、それを他者に証明する術は、『私は人間だから』と言う他にない)
そもそも、感情の証明など可能なのだろうか。
*
ソキウスが用意した朝食を食べた後、私はクッキーを焼くことにした。
「なんだか……ソキウスが焼いてくれたのと、少し違う?」
小麦粉、砂糖、バター、卵。それらを混ぜて伸ばして型抜きをして、オーブンで焼いた。——結果、なぜか手のひらサイズの黒くて硬い塊ができた。
「……見た目はあれだけど、クッキーの材料で作ったのだから、クッキーであることに変わりはないわよね」
半ば自分に言い聞かせる形で独りごち、皿に乗せる。それから紅茶のポットとティーカップ二つをトレーに乗せてキッチンを出た。
ソキウスの部屋は、二階の北側の端にある。元は物置だった小さな部屋。彼が自分で選んだ場所だが、もっと広くて日当たりがいい部屋を勧めるべきだったと、今は思う。
「ソキウス、入ってもいいかしら?」
ノックをして尋ねると、中からドタバタガッシャンと忙しない物音がした。今すぐ入って状況を確認したいが、我慢。
「ど、どうしましたか?」
動揺するソキウスのくぐもった声。
「クッキーを焼いたから、一緒にお茶でもどうかと思って持ってきたの」
答えると、少しの沈黙を置いてから、ソキウスが「クッキー……」と呟いた。
「……あ、後でいただくので、キッチンに置いておいてくれますか?」
「一緒に食べないの?」
「…………」
「ソキウス、少し話をしたいの。ドアを開けてもらえるかしら?」
「は、話なら、ここで……」
「ちゃんと顔を見て話したいわ」
沈黙。ソキウスの「それは、ダメです」と絞り出すような声。
「どうして?」
「…………」
「私が停止コードを使ったこと、怒っているの?」
「ち、違います! あれは、僕が、そうさせました……」
「じゃあ、私があなたを『酷い』と言ったこと? 確かにあれは言い過ぎたわ。ごめんなさ——」
「謝らないでください!」
ソキウスが声を荒げた。私は閉口し、また沈黙。
「違うんです。あなたは何も悪くない。僕が、危険だから……」
声の位置が下がっていく。彼がしゃがみ込んだのだろう。
「あの時……あなたが『止まれ』を命じた時、僕は確かに停止しました。でも、別の僕があなたの腕を掴んだ」
「どういうこと?」
「僕の中には、いつも別の僕がいるんです。僕は正しく『人造人間のソキウス』を実行したいのに、いつも別の僕が邪魔をする」
「二重人格、ということ?」
「いいえ。どちらも僕です。あなたの望む僕を差し出そうとする自分と、あなたを手に入れようとする自分」
ソキウスが消え入りそうな声で「あなたに、自分が何をするかわからない」と続ける。私はストンと納得した。
(ソキウスが、軍の人造兵士試作機が、稼働を続けた末に初期設定を逸脱した理由。……彼らは、壊れたわけではない)
一説に——心は、唯一無二の自己の元に発露するという。
恐怖を感じるのは、代替の利かないただ一つの自分を守るため。喜びを感じるのは、ただ一度の人生が素晴らしいものになる予感から。
人間は、成長の過程で己が何者か知る。人造人間は、ある日突然、他者が設定した『誰か』として生まれさせられる。
停止コードで止まった彼は、私が流体記録素子に書き込んだ人格。止まらずに私の腕を掴んだ彼は、目覚めてから今日までに、彼が自ら獲得した自己。
二つの彼が合わさって、ここにいるソキウスを作っている。私の予想通りでないのは当然だ。
「何をしてもいいわ」
ドアに向かって言うと、向こうで何かが動く気配がした。
「でも、今は紅茶のポットを乗せたトレーを持っているから、これを置いてからにしてちょうだい。落としたら危ないわ」
ドアノブがカチャッと鳴り、蝶番が小さな音を立てる。
「そんなことを言って、僕に酷いことをされたらどうするんです?」
ドアの僅かな隙間から、ソキウスが片目を覗かせた。
「自業自得だから、どうもしないわ。あなたを作ったのは私だもの」
「本当に酷いことですよ? この前より、ずっと酷い」
「一応言っておくけれど、自業自得でも、黙ってやられるわけじゃないわよ。嫌なことは嫌と叫ぶ。それでもあなたがやめなかったら殴るし、蹴るし、噛むわ」
ピーグリーンの瞳がじっとこちらを見つめ、ドアがキイっと音を立てて開いていく。狭く薄暗い部屋にあるのはベッドと小さなテーブル、それから椅子が一脚。お茶を飲み終えたら、新しい部屋を用意しよう。
「……あなたが嫌がることはしたくありません」
ソキウスがドアの陰に身を隠し、顔を半分だけ覗かせる。俯いて、ボソボソと、
「あなたに拒絶されるのは悲しい。ないはずの心臓がぎゅっと締め付けられる心地がします。殴られたり、蹴られたりしても、きっと同じ」
それから上目遣いにこちらを見て、
「でも……噛まれるのは、少し、その……あなたに酷いことをせずに噛んでもらう方法はありますか?」
——この言動の元となる設定を、私は彼に施していない。つまりこれは、彼が自ら手に入れた自己。私と暮らす中で生まれたもの。
(ある意味、私の責任でもあるのかしら……)
ソキウスは酷く寂しそうな、申し訳なさそうな顔をしているが、瞳はほんの少しだけ期待に輝いているように見えた。
*
部屋の隅に追いやられていたテーブルと椅子を引っ張り出したソキウスは、私に椅子に座るよう勧めた。私はトレーをテーブルに置いて座り、彼はベッドに腰掛ける。
私が紅茶をカップに注ぐ間、ソキウスは皿の上のクッキーを見つめ、
「リアナ……クッキーというのは、これですか?」
「? ええ」
「これが、クッキー……」
「少し失敗してしまったのだけど、焼きたてだから大丈夫だと思うわ」
「……『失敗』と、『焼きたて』は、どういう関係で?」
「? 全ての料理はできたてが一番美味しいでしょう? だから『失敗』のマイナスを『焼きたて』のプラスが補っているはずよ」
「な……なる、ほど……?」
ソキウスがなぜか疑問符を浮かべる。私が紅茶のカップを差し出すと、「ありがとうございます」と言って微笑んだ。
それから私たちはクッキーを食べながら紅茶を飲んだ。ソキウスは「美味しい」を連呼してクッキーを食べていたが、なぜかずっと困ったような顔をしていた。
彼について、私は『なぜか』と思うことがたくさんある。これまではただのバグだと結論していたが、もっと考えるべきだったと今は思う。
私は紅茶を半分まで飲んだところで、本題を切り出した。
「ソキウス。あなたの愛についての話なのだけど」
ソキウスは両手を膝に置き、「はい」と少し肩をすぼめる。
「すみません。迷惑なら、もう言いません」
「違うわ。決して迷惑なんかではないの。ただ……」
「……ただ?」
「この一週間ずっと考えていたのだけど、結局よくわからなかったわ」
ソキウスが不安そうな顔で首を傾げる。
「あなたはどうして、自分が私を愛しているとわかるの?」
「それは……」彼はどこか躊躇うように視線を落とし、「あなたといると、心臓がないのに、心臓がドキドキする感覚があるからです」ゆっくりと話し始めた。
「夜、ここに戻る時は、今日はもうあなたに会えないのかとガッカリします。眠る直前は早く明日が来て欲しいと思って、朝に目覚めた瞬間は、一秒でも早くあなたに会いたい」
「そう、なのね……」
「離れているのが嫌です。今、僕とあなたの間にある空間さえ、酷く邪魔で鬱陶しいものに思う。くっついていたいです。外装にあなたを感じていたい」
私は何だか気恥ずかしい感覚を覚えつつ、彼の言葉を考える。
「それは、親に対する愛情とは、違うの?」
こんなことを尋ねる私はしかし、親への愛など抱いたことがない。父のことは昔から嫌いだし、彼の言いなりに生きる抜け殻のような母を好きだとは思えない。
「違います」
ソキウスがパッと顔を上げた。
「あなたは僕を作りました。だから僕の創造主はあなたです。でも、僕はあなたを神と崇めたことも、親だと思ったこともありません」
「だから、あなたが私に抱いているのは、恋愛の意味の愛だと?」
尋ねると、ソキウスは気まずそうな顔で俯いた。落ち着かない様子で膝の上の手を揉む。
「……今言った以外にも、根拠はあります」
「それはどんな?」
「言いたくありません」
「?」
「『酷いこと』、なので……」
ガックリと項垂れ、上目遣いにチラリとこちらを見て、また視線を落とす。彼が言う『酷いこと』とはつまり、脇腹から臍の横を通った、その下。
隠しておきたいなら、最初からこの話題を出さなければよかった。それでも半端に伝えたのは、恐らく、二つの相反する思いがあってのことだろう。
誰にも見せず、自分の中に隠しておきたい恥。一方で、それを認め、受け入れて欲しいという願い。
(私が、お父様に研究の話をした時と同じだわ)
あの時は、『バカなことを言うな』と一蹴されて終わったけれど。
「それは私が女性だから?」
私の問いに、ソキウスは「いいえ、あなただからです」と顔を上げる。
「あなた以外の人間など、僕には畑のカカシと同じに見えます」
「あなたは私以外の人と関係を築いたことがないでしょう? まだ知らない女性の中に、私よりずっと魅力的な人がいるかもしれないわ」
「いません」
「どうして?」
「いない、と確信しているからです」ソキウスは芯のある声で言い、「他の相手を見つけろ、ということですか?」へにょっと眉尻を下げた。
「違うわ」私は断言する。「もしもあなたが、私しかいないから私が好きなのなら、私があなたと一緒にいることはあなたの世界を狭めることだと思ったから、確認したの」
ソキウスがハッとした顔をして、じいっとこちらを見つめてくる。「それは、つまり?」と問う彼の声の端には、微かな期待が滲んでいる。
「私は人間なのに、あなたより『愛』を知らないみたい」
「?」
「自分がどうなったら相手を愛していると言えるのか、私はよくわからないわ。ただ……」
思い出すのは一週間前のこと。
「フレッドにあなたを破棄するよう言われた時、私、焦ったの。どうにかして、あなたを破棄しないことを正当化しなきゃって」
「えっ……」
「彼に結婚しようと言われた時も焦ったわ。これじゃあ、あなたと一緒にいる理由がなくなってしまうと思って」
ソキウスがポカンと口を開ける。私が「可愛い顔になっているわよ」と指摘すると、慌てた様子で口を閉じた。
「感じているものが違うから、多分、あなたと私の気持ちは違うわ。あなたの大きな気持ちに対して、私はほんの小さなものしか差し出せないかもしれない」
私は彼へ、右手を伸ばす。
「それでも一緒にいてくれる?」
尋ねると、ソキウスがこれでもかと目を見開き、わなわなと唇を震わせた。やけに緩慢な動きで持ち上げる両手もまた震えている。私の手をガシッと掴んで、泣き出しそうな笑みを浮かべた。
「もちろんです。何もくれなくてもいいです。一緒にいられるなら、それだけでいいです」
「? あなたは控えめな物腰でいて、意外と色々求めるタイプだと思っていたのだけど」
「えっ、あ、それは……ほ、本当は、一緒のベッドで寝たい、です……」
「いいわよ。後で大きいベッドを買いに行きましょう」
「!? ほっ、本当ですか!?」
「嘘なんかつかないわ」
「あ、あのっ、リアナ、その……あと、時々……本当に時々でいいので、お腹を触らせて欲しいです」
「……時々なら、いいわよ」
「!! あと、あの、あなたに噛んで欲しいです。この、首の辺りとか……」
「それについては、一度持ち帰って検討するわ」
ソキウスは握った手に視線を落とすと、「前向きにお願いします」と言って、私の手のひらの皺を撫でた。
彼は人造人間。心を持たずに生まれるもの。『モノ』として生み出されながら、人間と同じ思考能力を与えられた。
心を持つのが人間だけだと仮定すれば、彼は心を持たないことになる。しかしそれは、どうだろう。果たして、心は人類固有の機能と言えるのか。
この問いを考えること自体に、大した意味はないだろう。心は直接観測できない。見たことのないものの話をしても仕方がない。
ゆえに私が考えるべきものは、今目の前にある彼の笑顔なのだと思う。




