僕たちが思うほど、きっと世界は。
「あの配信のあと、体とか大丈夫だったの?」
「八十時間配信のあとのこと? 二十時間くらい寝て、あとは普通通り。起きたら両親いてさ。まあ滅茶苦茶怒られたよね」
さすがの話題に仕事を一区切りさせて、海外にいたのにわざわざ帰国してきたのだ。
しかし実際のところ、思いの外どうにかなったのもまた事実。
配信の終わり頃はこの世の終わりのように体調が悪かったわけだが、目が覚めれば普段の目覚めとそれほど変わらなかった。時間ぼけと少しの気だるげ、妙におなかがすいていたくらいで、大した問題はなかった。人間、気合いがあればたいていなんとかなるものなのだ。
もう僕も紗倉さんも遅刻をしている身。
本来なら急ぐところだが、あまりに遅刻しているので僕も紗倉さんも足取りはゆっくりだ。紗倉さんも駅を出たばかりのころは歩きたくなさそうにしていたが、とりあえずは着いてきてくれる。
顔色が悪い感じはしないが、三つ編みにまとめられた髪はところどころ跳ねている。まだどこか本調子ではない感じがする。
「で、なんであんなことしたの?」
「あんなことって?」
「そこでとぼけなくてもいいでしょっ。あの耐久配信のことっ」
軽くとぼけたつもりだったが、むくれて怒られた。冗談じゃん。
高校までの通学路は、ラッシュの時間をとっくに過ぎているので人通りは少ない。
あんな馬鹿なことをした手前、変なやつに追いかけ回されることを心配していたが、意外にもなにもない。
「あの配信は、必要だと思ったからやっただけ」
「……本当に必要だった?」
「もちろん必要だった。あのままリレー配信が中止になったり、最後に紗倉さんが出てこなかったりしたら、どうなったかな。もう二度と配信できないってなったんじゃない? 今日の終業式みたいにさ。紗倉さん、今日終業式に行かなかったら二学期からもっと高校行けなくなるとか思ってたでしょ?」
「……っ、そ、そんなこと思ってないよ」
とぼけた表情で目を泳がせる紗倉さん。うん、絶対思っていたよね。
「そんなに大した理由はないけどね。あんな無茶な配信をすれば、それなりに話題になる」
「……無茶な自覚はあるんだね」
ぼそりとツッコミが入るがスルーする。
「一番まずいと思ったのは、紗倉さんが動物園のパンダ扱いされることなんだ。元ジュニアアイドルで現在人気急上昇中のVTuberがどこどこの誰かさん。そんなことが話題に上げれば、嫌でも注目されるし、面白がって好奇心の目で見られる。それが、紗倉さんには一番きついと思った」
だから、リアルタイムで配信をして、議論を加速させた。
そうすれば我に返る人たちが出てくる。
最初はあれが人気のVTuber、元ジュニアアイドル、なんて好奇心の目で見ていても、いずれ熱は冷めていく。
高校の問題としては、紗倉さんが高校で倒れたことは周知の事実。
ネット上の問題としては、『アップルサイダー』の問題は紗倉さんに比がないということ。
自分たちがプレッシャーをかけることは間違っているんじゃないか。好奇心で、もしかしたら傷つけてしまうかもしれない。
ましてや、個人情報を本人の許可なくネットばらまいたあいつらがしたことは、悪いことなんじゃないか。
配信を続ければ、話題にされる。議論される。
紗倉さんはなにも悪いことはしていない。むしろ秘密にしていたことをバラされた被害者だ。
ネットの連中も議論に巻き込めば、紗倉さんを養護する声が多くなることは十分想像できた。
「初めはネットでも紗倉さんのことを悪く言う連中いたけど、最終的にはほとんどいなくなったんだよ。みんな弱い立場の人は応援したいもんだからね」
「……たしかに、私が最後に配信をしたときと、リレー配信のときじゃ、全然コメントの感じも違ったけど」
今や紗倉さんはネットの有名人だ。
紗倉さんが受けた扱いに、業界の人たちはほぼ全員が擁護する側に回った。
雨宿家のモカさんやクー、姉さんはもちろんだが、それ以外にも多くの声が上がった。
モカさんが所属するリアライブルという企業は、また同様のトラブルが桜木ココアさんから希望があれば訴訟を手伝う準備があるとまで表明。
紗倉さんがVTuber勇者決定戦で一緒に戦った人や、これまでコラボしてきた人たちも桜木ココアの一件に関わるお気持ちを口にしてくれた。
『アップルサイダー』の元メンバーが声を上げてくれたことも大きかった。あの問題さえなければ、身バレしたこと以外に紗倉さんを騒ぎ立てる弱点は存在しない。
桜木ココアさんが過去をバラされたことや、リアルに突撃して無許可で配信を行ったこと。どれもこれも明らかな犯罪行為。
根岸たちの行いは擁護しようもない悪。
気が付けばわかる当たり前のことを、世間にわからせるための時間が必要だったのだ。
紗倉さんは頬を引きつらせて、まるで性格が悪い人を見るような目で見ていた。
「……やっぱり、性格悪いね雨宮くん」
実際に見られていた。
「でもそのために停学しちゃうなんて、なにもそこまでしなくても……」
「あれは仕方ない。根岸の野郎、紗倉さんの手帳を床に投げ捨てたんだよ。僕だってキレる。もう怒りのパンチからの取っ組み合いよ。あ、でも殴る前に手帳は連れてきてた桐也に渡してたから心配しないで」
「……いや、そんなことは心配してないけど」
「まあこれから動画を上げたい根岸は、僕を殴りたいけど絶対に手は出さないと思ってた。でも僕は、高校自体の注目度をもう少し上げたかった。教師陣を巻き込むためにね。そのためには、僕が目立って停学になる方法が一番手っ取り早かった。根岸にも、一発はかましたかったし」
社会的な罰だけでなく、物理的な罰も与えてやりたかったのは、ただの僕個人のエゴだ。
「まあ根岸のことはもう心配いらないでしょ。幸いご両親は普通にいい人だったみたいだし。根岸は大説教を食らって、わざわざ両親から謝罪の電話があったよ」
「う、うちにもあった……。お母さんが対応してくれたから私は話してないけど。賠償もするからしっかり謝罪させてほしいって言われて、お母さんと二人で精一杯お断りさせてもらったけど」
「そのイベントは僕もあった」
なぜあの根岸の両親がこんな人たちなんだ、と思わずにはいられないほどの常識人だった。
根岸が行った窃盗行為や個人情報の拡散はもちろん、僕に殴られたことは一見被害者として見られかねないこととも、全面的に比は息子にあると謝罪してくれた。
僕も別に謝罪が欲しかったわけでもないので、謝罪を受け入れることとこれ以上事態を大きくするつもりはないとのことで和解している。
「しばらくは家から出さないってご両親が言ってたけど、あいつ自身出られなくて閉じこもってるらしい。高校に出てこらえるかどうかは、あとはあいつ自身の問題だ」
「そ、そうだね……」
紗倉さんは少し複雑そうな顔をしていた。
僕が耐久配信を行ったことで、潜在的に僕や紗倉さんの味方になった人たちが大勢いた。反対に根岸は個人情報を無許可にばらまいた人物。
高校では距離を取られ、ネットでは誹謗中傷の嵐。
僕がネットで僕以外の人間を攻撃するなっていったところで、攻撃を止めないやつは止めない。
自分が攻撃する側ではなく、攻撃される側になることを想像できる人は存外少ない。
誹謗中傷の嵐を受けて迷惑系YouTuberになる人たちはいるが、根岸はまだ年齢的にも若いのでそんなメンタルもなかった。
結果、高校やネットでの扱いに耐えられずに家に閉じこもっている。まあ僕も根岸の私刑なんて望んでいない。怒ったし苛立ったのも事実だが、あいつを再起不能にしたいわけではない。ただ、自分たちの身を守りたかっただけ。
「ま、ここまでやってやれば紗倉さんを攻撃する人間もいないと思うよ」
「……それがわざわざ、あの耐久配信をした理由なの?」
「それに、もう一つ、言ってたじゃん紗倉さん。初配信で」
「……初配信?」
「紗倉さん初配信で、大抵のことならどれだけメンタルが腐っても三日あれば回復しますって。だから僕が配信で時間をつないで、出てこられる舞台さえ整えてざっくり三日くらい耐久すれば、紗倉さんが配信をするメンタルまで持ち直すかなって」
僕の言葉に、紗倉さんは足を止めた。琥珀色の目が、信じられないという気持ちを宿して僕の方を見返していた。
「そんな、初配信で適当に言ったことを真に受けて?」
「今にして考えれば、あれはアイドル時代の話をしていたんだよね? アイドル時代にメンタルが落ちたときでも三日で回復するとかね。最初から分の良い悪いなんて考えてなかったからね。時間かけてメンタルを回復してもらって、あとは配信始めるまで耐久配信止めてやらないぞって圧をかければ、紗倉さんならリレー配信の四枠目、ちょっとくらいやってくれるかなと思ってた」
時間が解決してくれる、なんてことを軽々しく言えない。
僕がいじめをうけて不登校になったことは、たしかに時間で楽になったところもある。けれど忘れることができるわけもない。
でも、時間稼ぎをしたかった。
「私が配信できる確証なんて、なにも、なにもないじゃない……」
「確証なんていらないし、それでやるべきことは変わらない。それくらいのことでも、僕はすがりたかった。あのまま、桜木ココアっていうVTuberがこの世から消えるのは、もったいないと思ったんだよ」
足を止めた紗倉さんは、理解できない様子で唇を震わせて、呆けていた。
「な、んで、そんな……」
なんで、か。理由なんて、簡単だ。
「僕が、桜木ココアというVTuberが、大好きだからだよ」
心の底から、そう思う。
「この子にVTuberをやっていてほしい。続けてほしい。コラボしたい。配信が見たい。そう思ったから」
「……っ」
「流されてVTuberになった僕だけど、これは流された決断なんかじゃないよ。僕が桜木ココアというVTuberが大好きだから決断した。ただ、それだけの理由だ」
「ううぅ、そんなことはっきり言わないでよぉ……」
打って変わって、顔を赤くして縮こまる紗倉さん。
「実際は、僕が耐久配信始めてすぐにイラスト描き始めたみたいだから、本当は三日もいらなくて。結論、僕は紗倉さんのイラストが完成するまでの時間稼ぎをすることになったみたいだけど」
「うぐっ……そ、それはだって、配信準備も進められてなかったから。イラストは準備してたんですけど、リレー配信見てたら、他の絵を描きたくなって……。どうしようもなく描き始めて、止まらなくなっちゃって……。なんかその、ごめんなさい」
「ははっ、あのイラストを見せてくれたことに免じて許してあげよう」
「そ、そんなに大したイラストでは……」
「なに言ってるの。最高だったよ」
僕たちが行ってきた三ヶ月の配信が、すべて詰まったようなイラストだった。
首を振って、通学路に促す。
紗倉さんはまた僕の後ろをとぼとぼと歩き始める。
「と、というか、VTuberを卒業するつもりだったとかなにも聞いてないんですけど」
話をそらすためか意趣返しのつもりか、ややむくれながら紗倉さんはうめく。
「そりゃ言ってないですから」
「なんで言ってくれなかったの。悩んでたら、相談にだって……」
「悩みとかがあったわけじゃないんだ。ただリレー配信でも言ったけど、僕は自分がVTuberに向いているとは、今でも思ってない。たまたまなにかがうまくいっているだけの高校生。雨宿ソーダの名前や姿を世界に残すことができたら、それはそれで、やりきった一つの形だと思っていたから」
だから正直、紗倉さんからコラボの話が来たときはすごく困ったし、考えた。
紗倉さんとのコラボの話は、姉さんがらみだったこともあって受けることにした。でも僕はそれからVTuberをやめようという気持ちは変わらなかった。
せっかくだから桜木ココアを登録者十万人まで送り届けたあと、どうやってフェードアウトしようかと考えていたほどだ。
「でも安心してよ。今は、VTuberをやめようなんて思ってない。やめるつもりだったやつが言っても説得力ないかもだけど。少なくともこれからも、高校生VTuber雨宿ソーダを、続けて行くよ」
高校が近くなってくる。
正門が見えてきた。
終業式はもう終わっている時間だろうから、僕たちは終業のホームルーム中のクラスに乗り込むことになる。
高校の連中には、一学期は高校に来ないと思われているだろう。
紗倉さんは一時的不登校だし、僕に至っては停学開けだ。
そんな事情にプラスあの八十時間耐久だ。VTuberをしていること、身バレ、ネットで話題沸騰のバカたれども。
僕や紗倉さんのことを知らない人間なんて、高校に一人といないだろう。
「雨宮くんは、怖くないの?」
遅い足取りをさらに遅くした紗倉さんが尋ねてくる。
僕は目をぱちぱちとしばたかせる。
「え? 滅茶苦茶怖いけど。怖くないわけないでしょ。手汗見る? ぎっとぎとだよ」
鞄を持つ手は汗でぐっしょり。
夏で暑いからというわけでは当然なく、高校でこれからどんな目で見られるかと考えればさすがに焦燥という熱が胸を焼く。
僕だって配信上で、ネットを間に挟んでいるから、あれだけ好き放題にできるのだ。面と向かって目の前の人と話すのは訳が違う。
「まあでも、なんとかなるさ」
楽観的にそう言って、僕は鞄を背負い直す。
「なんでそんなに、笑っていられるの?」
紗倉さんは三つ編みにした髪に触れながら暗くうつむく。
「私は、やっぱり怖いよ。もう隠れることなんてできないし、逃げ出したい。高校に通わない、もう行かない、その方が楽なんじゃないかって、そればかり考えちゃう。それなのに、どうして雨宮くんは、そんなに、笑っていられるの?」
問われ、僕は眼前にある高校を見上げ、そしてまた笑う。
「この世界は、僕たちが思っているほど、イカれてないと信じてるからだよ」
世界は綺麗で美しく、誰にとっても優しいもの、なんて簡単にそんなこと言えない。
僕たちは人の残酷さを知っていて、面白半分で人を傷つける人間がいることを知っている。人の世界に土足で踏み込み、好き放題に荒らし回って、蜜を吸い上げるようなこと平気でできるやつもいる。
でも。
「いろんな人がいる。害意や憎悪、悪意で誰かを傷つける人間は腐るほどいる。だけど、それ以上に絶対、優しい人や温かい人、誰かを助けることができる人間の方が多いって、信じてる。この世界は、思ったよりもイカれていない。だから僕も、逃げずに世界に関わっていこうと思ってる」
僕が不登校になった原因のいじめ。
太陽カルアさんを卒業に追い込んだ炎上。
桜木ココアを追い詰めたYouTube。
僕たちの周りにはいろんな悪意があふれている。
それでもそれ以上に、きっと善意があると信じている。
「辛いことも悲しいこともあるけど、それでもやっぱり、この世界が好きなんだろうね」
それと、もう一つ。
「紗倉さんさ、本名が紗倉心愛なのに、VTuberの名前に桜木ココアなんてネットリテラシーもない名前を使ってたでしょう。ジュニアアイドルをしていたころの名前なんて、ココア。そのまんまだ。ずっと疑問だったんだ」
紗倉さんはわずかに眉を下げた。
「でも昔の話を知って、少しわかった。紗倉さんはアイドルを追われることになったけど、それでも、本当はすごく悔しかったんだろうって。だから昔の自分を引き継ぐために、名前をほとんど変えなかった。桜木ココアにしたんじゃないかって」
気付く人は気付けばいいと思っていたのだろう。
自分はここにいる。
アイドルを辞めさされても、私はここにいる。
負けてやらないぞというメッセージ。
それこそが、桜木ココアに込められた意味なのではないかと。
「桜木ココアなんて世間に喧嘩売った名前をしておいて、今更日和ってんじゃないよ。僕だって世間に中指立ててVTuberやってるんだ。それでも、こんな僕たちを受け入れてくれる人がたくさんいる。この高校だって、きっと紗倉さんに優しい人がたくさんいる。もし馬鹿な連中ばっかりだったら僕たちが助けるし、逃げ出したくなった一緒に逃げてあげる。だから、僕と一緒に、また高校に行ってみようよ」
紗倉さんは、迷うように揺らしていた瞳を、少しだけ潤ませたように思えた。
しかしふっと口元を緩めると、深々とため息を吐いた。
「はぁ……本当に、雨宮くんは変な人だね。さすが、雨宿ソーダくん」
「なんかそこはかとなく馬鹿にしてない?」
「大丈夫だって。そんな雨宮くんも、世界は受け入れてくれる。私も、受け入れてくれる。世界はそこまでイカれていないんでしょ?」
紗倉さんは意地悪げにそう言うと、持っていた鞄を地面に置いた。
どうしたのかと思っていたら、突然、三つ編みにしていた髪をほどいた。真夏の風に誘われて、艶髪がふわりと広がる。
「なんか、いろいろ取り繕うのが面倒くさくなっちゃった。もう私の顔とかネットに出てるのに、隠したってしょうがないもんね」
そう言いながらどこから取り出したのか、ブラシで髪を整えていく。
さらに黒縁眼鏡を外し、ケースに入れてポケットにしまった。
飾りっ気のない容姿。
そこにはアイドル時代の溌剌とした面影を感じさせる、紗倉心愛の姿があった。
「よしっ、私も取り繕わない! 当たって玉砕してやる! かかってこいや世間の風評! 元ジュニアアイドルココア、現在VTuber桜木ココア! これより高校に乗り込ませていただきます!」
高校に向かって拳を突きつける紗倉さん。
まだ少し手が震えているようではあったが、それでも果敢に立ち向かう勇気を持って、紗倉さんは高校に向かう。
「ほらほら、雨宮くんも早く行くよ。さっさとしないと、全部終わって、みんな帰っちゃう」
僕はその様子におかしくなって笑ってしまう。
「なに笑ってるの? どこか髪が跳ねてたりする」
「いや、紗倉さんはそうやって、取り繕わずに素直に笑っている方が、似合っているなと思ってね」
一瞬呆けたように口を開けた紗倉さん。
しかし、途端に顔を真っ赤にする。
「は、はぁああ? もう変なこと言わないでっ。言っておきますけど、これでもし私がメンタルブレイクしたりしたら、雨宮くんには責任を取ってもらいますからね」
「責任? どうやって?」
「そ、それくらい自分で考えてっ」
「難しいこというね。まあでも、なんなりとお供しますよ」
普通の高校生がそうするようにわちゃわちゃと言い合いながら、僕たちは歩き始めた。
なにが待っているかわからない。
それでも、僕たちが進むべき場所へと、進んでいく。




