3.ふなたび①
港町コラレシュタットを出てティル・ナ・ノーグ港に寄港したその船は、一階が二等船室と貨物、二階が一等船室と食堂、船尾楼に特別船室と船首楼には展望台を備えた、定員百名にのぼる大きな船だった。
慌ただしく旅行の荷造りをして家族へのお土産を用意したコレットは、案内された一等船室でしばし悩む。
(ずっとご一緒なのはうれしいけど、着替えは……)
船室の中には、クラウスがぎりぎり足を伸ばせるくらいの寝台が二つと小テーブル、洗面台がある。風呂は共同のものが一階にあるからいいとして、朝の身支度はどうすればいいのだろう。ある程度の時間を過ごした夫婦なら問題ないだろうが、新婚三日目のコレットには、この部屋はあまりにもクラウスが近すぎる。
(せめて、衝立かカーテンがあればいいのに)
何か代わりになるものはないかとコレットが室内を見回していると、コンコンと扉がノックされた。「はい」と返事をすると、クラウスが顔をのぞかせた。
「もうすぐ出港だ。甲板へ出ないか」
「はい」
休暇中のため、クラウスはいつもきっちり整えている髪を、自然のままに下ろしている。額にかかる横分けの髪が彼を少し若く見せて、コレットは着替えの悩みなど忘れて微笑んだ。
見送りに来てくれた友人たちに手を振り、コレットはクラウスと肩を寄せて沈む夕日を眺める。再び先ほどの悩みを思い出したのは、夕食を終えて部屋に戻ってきたときだった。
「どうした?」
気遣わしげに覗き込んでくる碧の瞳は、どこまでも優しい。仕方なくコレットが理由を話すと、クラウスは「なんだ、そんなことか」と苦笑した。
「言ってくれれば、廊下で待つ」
「そんな、クラウス様を追い出すようなことをしては申し訳ないです」
「君に嫌な思いをさせるよりはいい」
ぽんと頭を撫でられ、コレットは泣きそうなくらい幸福な気分になる。つん、とクラウスの服の裾を引くと、よしよしとさらに撫でてくれた。大きな手のひらの感触が心地いい。コレットが目を閉じて体をクラウスに預けようとすると、すっとクラウスが離れた。
「寝る前に、船内の確認をしてきてもいいだろうか?」
「え、あ、はい」
騎士の心得が骨の髄まで沁み込んだクラウスは、見知らぬ場所で眠ることなどできない。船内の様子や非常時の備えを確かめておきたいと言うので、コレットは素直に見送った。本心では、もっと撫でていてほしかったのだけれど。
(これから、ずっと一緒なのだもの。焦っちゃいけないわ)
あまり甘え過ぎて、煩わしく思われるのも嫌だ。離れてしまった温もりに残念な気持ちになりながらも、コレットは今のうちにと荷解きをはじめた。
船室を出て階段を上がったクラウスは、周りに誰もいないことを確かめてから、片手で顔を覆って壁に寄りかかる。すっかり陽が落ちたせいで見えないが、手で隠しきれなかった耳の端が赤い。
「……」
深呼吸を三回。
胸の動悸がおさまるのを待って、クラウスは落ち着いて考えることにする。
これから一週間と少し、コレットとあの狭い船室で起居を共にすることになる。この船はコレットの故郷のごく近くまで行くらしく、その後、馬車で一昼夜ほどで実家に着くという。
コレットの実家を訪ねる目的は、結婚の許可を得ることだ。決して物見遊山ではない。礼儀を重んじるクラウスにとって、いくら領主主催で結婚式をしたとしても、コレットの両親に認められるまでは正式な夫婦ではないと思う。
だから。
柔らかな髪だとか、白い頬だとか、赤くしっとりとした唇だとかの感触を思い出してはいけない。抱き寄せたときの、細い腰や胸のふくらみやクラウスの名を呼ぶ甘い声も、思い出してはいけない。
一軒家とて耐え難いと思ったのに、なんの拷問か。
クラウスは、コレットに先に寝ているよう言えばよかったと思いながら、胸を押さえて星空を見上げた。
出港の翌日。
ティル・ナ・ノーグで風の妖精の加護を受けた船は、帆を大きく広げて順調に進んでいた。
コレットは、クラウスがまだ眠っている間に身支度を整え、一人甲板に出て朝日にきらめく海面を眺めていた。
すると、一人の若い男が声をかけてきた。
「おはようございます。気持ちのいい朝ですね」
コレットも、風に揺れる赤い髪を手で押さえてあいさつを返す。
「おはようございます。本当に、いいお天気で気持ちがいいです」
「お一人ですか?」
男は、くすんだ金髪を後ろで一つにまとめ、青灰色の瞳を細めて柔和な笑みを浮かべている。日に焼けた頬にはそばかすが浮かび、使い込んだマントを羽織る姿から、旅人か冒険者のように見えた。
「いえ、えーと……、連れが部屋にいます」
“夫”や“主人”という表現を使うのはまだ気恥ずかしかったコレットは、無難な言葉を選ぶのに少々迷う。
「そうですか。僕は一人旅です。あ、申し遅れました。僕の名前は、アビィシュニアン=ペンウッド。アビーとお呼びください」
「アビーさんですね。コレット=ラヴィネルです。よろしくお願いします」
コレットが言うと、アビーと名乗った男は、右手を差し出してきた。握手をするとき、コレットはアビーの手にクラウスと同じような剣だこがあることに気づいた。
「アビーさんは、お仕事は何を?」
「見ての通り、流れの冒険者ですよ。仕事を求めて世界各地を旅しています」
「そうですか。ヴィルヘルミーナにもお仕事で?」
「ヴィルヘルミーナへは、仕事というより趣味ですね。百年前に湖に沈んだというヴィルヘルミーナの城に、伝説の宝剣が眠っているという噂を聞いて、訪ねてみようと思ったんです」
「あの湖に宝剣が? 初めて聞きました」
「湖のことをご存じで?」
「えぇ。私、生まれも育ちもヴィルヘルミーナなんです。国の中心にある湖は、それはそれは美しいです。昔は湖の真ん中にお城があったそうですが、今はほとりに祠が建っているだけです」
「そうですか。となると、湖の底をさらってみないとわからないか……」
「湖の底をですか? かなり深いですし、夏場はともかく、今の時期は冷たくてとても入れませんよ」
「おや、そうですか。ふぅむ」
アビーは、腕組みをして考え込む。コレットは、故郷の湖に宝剣が眠るなどという話があっただろうかと、記憶を辿った。けれど、それらしい話は思い出せなかった。
「お役に立てなくてすみません」
「いえいえ。
僕、ヴィルヘルミーナを訪れるのは初めてなんです。よろしければ、かの地について、もう少し教えていただけませんか?」
「そうですね。えーっと……」
何から話せばいいのだろう。コレットが頭の中を整理しようとしていると、船室から甲板にあがる階段に、大きな影が見えた。
「あ、すみません。連れが探しにきたようです」
「そういえば、そろそろ朝食の時間ですね。また機会がありましたら、よろしくお願いします」
アビーはほがらかにあいさつをし、クラウスが甲板にあがりきる前にコレットの前から姿を消した。
「おはよう」
コレットを見つけたクラウスが、碧の瞳を細める。
「おはようございます、クラウス様。今日もいいお天気ですね」
「あぁ。……今のは?」
「アビーさんとおっしゃる方で、冒険者だそうです。伝説の剣を探してらっしゃるのですって」
クラウスは、アビーが消えた方向に目をやる。何か考え込む様子のクラウスに、コレットはどうしたのかと問おうとしたけれど、息を吸い込んだ拍子にくしゃみがでた。
「くしゅんっ」
「大丈夫か」
「すみません。ちょっと冷えてしまったようです」
朝の海風は、長時間あたるには少々冷たい。コレットが肩を抱くようにすると、クラウスがコレットの手に自分の手を重ねた。
「本当だ。冷たいな」
「クラウス様は温かいですね」
コレットがにこりと微笑む。クラウスもかすかに微笑み返して、先ほどコレットが眺めていた海面に目を移した。
「……あれは」
まぶしそうに眇められていた瞳が、厳しさを帯びる。
コレットも、クラウスの体に走った緊張を感じ取って海面を見やる。するとそのとき、船が大きく揺れた。
「きゃ……っ」
船底に、何かが当たったような衝撃。よろめいたコレットを、力強い腕が支えた。
「ありがとうございます」
コレットがクラウスを見上げて微笑む。クラウスは黙って頷き返し、船のへりに手を掛けて海面を覗き込んだ。
黒く巨大な影が、船の下を通り過ぎていく。船室から飛び出してきた人々も影に気付き、「魔物だ」「化け物だ」「いや鯨だろう」と口々に叫びながら海面を指さした。
黒い影は、それ以上船にぶつかってくることはなく、だんだんと小さくなって海の底に沈んで行く。反対に人々は増え続け、甲板は野次馬でいっぱいになった。
「皆様! お部屋にお戻りください! 只今より乗組員が安全の確認をさせていただきます!」
騒ぎを聞きつけた船長がやってきて声を張り上げる。
しばらくして、船体に特に問題はないことが確認され、航海は予定通り続けられることになった。




