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2.ごあいさつ<後編>




 アルムスター家の長男・ヘンリクは、父親譲りの灰色の瞳に、栗色の髪をしていた。アルマスも似ていると思ったけれど、ヘンリクは双子かと思うほどクラウスとそっくりで、父親から順に紹介されたコレットは驚いた。

 そのヘンリクが、顎に手を当て、感慨深げに言う。


「おまえに先を越されるとはなぁ」


 クラウスと一つ違いのヘンリクは、いい年をして浮いた話などなく、仕事一辺倒なのだとエリサが言った。


「だから、隣のシリルがいいわって言ったじゃないの。ヘンリクったら、ぐずぐずしてるから港の流れ者なんかにもっていかれちゃうのよ」


「シリルの気持ちだってあるだろ。それに、彼は流れ者なんかじゃないよ。大きな商船に乗ってきた、別大陸の貿易商だって話だ」


「流れ者だって貿易商だって、似たようなものだわ。気立てがよくて、よく働くいい子だったのに。

 そうだわ、確かシリルの従姉妹に同じくらいの歳の子がいたはずで」


「母さん、そのへんにしておけ。今日はクラウスの話だろう」


 放っておけばいつまでも続きそうな母子おやこの会話に、父・クスタフが割って入る。家長の一言で二人は口を閉ざしたが、エリサだけはすぐに別の話題を口にした。


「クラウス、あなたもうすぐ師団長になるんですって? おめでとう。

 街の人たちの評判もいいみたいで、母さん、嬉しいわ」


 エリサの言葉に、クラウスが片眉をあげる。なぜそれを知っているのか、と思ったのだが、「エメリッヒさんがよくお手紙をくださるのよ」の一言に納得しつつも渋い顔をした。


「まったく、余計なことばかり」


 つぶやくクラウスの隣で、コレットがくすりと笑う。コレットの笑顔を見たクラウスの父は柔らかく微笑み、


「コレットさん、と言ったかな」


と呼びかけた。


「は、はい」


「不肖の息子が世話をかけます。よろしくお願いします」


「えっ、あっ」


 突然クスタフに丁寧にあいさつをされたコレットは、緊張から頬を赤らめつつ、居住まいを正す。


「こちらこそ、あの、ふつつかものですが」


 よろしくお願いします、とコレットは続けようとした。しかし、そこに


「お父さん!」


とエリサの声が重なった。


「私は! まだ何も聞いていませんからね! 何を勝手に言ってるの」


「何っておまえ、息子が女性を連れてきて話があると言うんだぞ。結婚報告以外の何があるんだ」


「そんなこと、わからないじゃないの。

 お父さんだって、この間の手紙のときは……」


 エメリッヒは手紙にどこまで書いているんだと、クラウスがうんざりする。けれど、興奮するエリサを押さえてクスタフが持ってきたのは、ティル・ナ・ノーグ公爵家の紋章入りの、立派な封筒だった。


「確かに俺も、これは冗談だと思ったがね」


 クスタフが、封筒ごとクラウスに渡す。中身を出して広げるクラウスの手元を、コレットものぞきこんだ。


「これは……」


 封筒に入っていた、金の縁取りに透かしの入った上質のカードは、結婚式の招待状だった。


「日付は昨日だ。俺も母さんも冗談だと思って行かなかったが……もしかして本当だったのか?」


 クスタフに言われ、クラウスが頭を抱える。コレットはどんな表情をしたらいいかわからず、胸の前で手を組んでクラウスの言葉を待った。


「騎士として忠誠を誓った身とはいえ、あの方の考えることはわからん……。両親を招いてくださろうとしたことに感謝すべきか……いや、親の前であのやりとりはいくらなんでも……」


 ぶつぶつぶつ。

 日頃思ったことをなかなか口にしないクラウスも、このときばかりは違ったようで、混乱した心の内をすべて口に出す。はらはらしながら見守っていたコレットは、つん、と袖を引かれて横を向いた。


「?」


 低いテーブルを囲むように置かれたソファの、斜め隣に腰かけていたトゥーレと目が合う。トゥーレはびっくりしたように肩を震わせ、ソファの肘掛けに腰を下ろしていたヴァリオの太ももをべちんと叩いた。


「馬鹿、何すんだよ」

「何っておまえが腹減ったっていうから」

「今、そういう話じゃないだろ」

「だっていい匂いがするって、ずっと言ってるだろ」


 仲のいい年少組は、何やらこそこそと言い合っている。二人のやりとりに「あっ」と思い出したコレットは、持参した菓子をエリサに差し出した。


「あの、これ私が作ったんです。お口に合えばいいのですが……」


 受け取った箱を開けるエリサに、トゥーレとヴァリオが飛びつく。中には、トッピングを変えた小型のカップケーキがぎっしり詰まっていた。


「うっまそー!」


「林檎にチョコレートに生クリームに、これ何だ? 赤いのと紫のと黄色いのと……」


「ラズベリーとブルーベリーとかぼちゃです。中にペースト状にした餡も入っています」


「すげー! 食べていい? ねぇ、食べていい?」


 ヴァリオが、エリサとコレットを交互に見る。コレットはにこりと微笑み、エリサが渋々うなずこうとしたところで、アルマスがぽんと手を打った。


「そうか! “コレットの菓子工房”!」


「ん?」


 ヘンリクがアルマスを見やる。エリサとクスタフは首を傾げ、ヴァリオとトゥーレは口に運びかけていた手を止めた。


「その箱、どこかで見たことがあると思ったんだよな。そっか、コレットさんってあのコレットさんだったのか。

 クラウスにぃ、甘いもの好きだもんなぁ。すげぇ、納得!」


 腕を組み、うんうんと首を振るアルマスに、クラウスの両親と兄弟は疑問符を投げかける。いい機会だとクラウスが説明をしようとすると、それを待たずにエリサが口を開いた。


「“あの”ってどういうことなの?」


「コレットさんはさ、街で超有名な菓子職人なんだ。菓子大会で優勝したりお城に献上するお菓子を作ったりする、すごい人なんだよ。

 ほら、前、シリルが並んで買ってきたって言ってた林檎のお菓子。あの店さ」


「あぁ!」


 ヘンリクが「わかった」と声を上げる。それを皮切りに、他の面々も「外側がパイ生地の」とか「中に林檎のジャムが入ってるやつ?」などと言い出し、ニーヴ(エログ・)を讃え(フルール・オ)る花(ニーヴ)のことを言っているのだとコレットにもわかった。


「どおりでうまい!」

「あ、ヴァリオ、もう食ってる! ずるい!」

「トゥーレも食えばいいだろ。ほら、父さん、母さんも」


 ヴァリオがカップケーキを配る。各々《おのおの》好みのカップケーキを手にした男性陣は、口々に「おいしい」と言って笑顔で頬張った。

 けれどその中で、エリサだけが、じっと手の上に乗ったカップケーキを見つめている。


「母さん、どうしたの? うまいよ?」


 微妙に漂う緊張感を知ってか知らずか、トゥーレが手についた生クリームを舐めながら言う。


「食わないなら、おれらが全部食っちゃうぜ?」


 ヴァリオは、エリサを横目にすでに三つ目のカップケーキに手を伸ばしている。


「……」


 息子二人に促され、エリサが黄金林檎の乗ったカップケーキを口に運ぶ。

 一口。そして二口。


「……おいしいじゃないの」


 ほっとした溜息は誰のものか。コレットのカップケーキを中心に話題はお菓子のことになり、和やかなひとときが流れた。


「だけどね」


 一人黙って食べていたエリサが最後の一口を口に入れ、お茶で喉をうるおしてから口を開く。それまでわいわいとしゃべっていた面々は、エリサは何を言い出すのかと、口を閉ざして注目した。


「うちの林檎を使えば、もっとおいしいと思うの。もうすぐ収穫できるから、今度採りにいらっしゃい」


「母さん?」


 クスタフが、妻を見る。

 クラウスとコレットは顔を見合わせ、ヘンリクはうなずき、アルマスはにやっと笑った。


「何よ。でも、でもね!

 私は一生忘れないわよ! 大切な息子の結婚式に出られなかったとか、こんな可愛らしいお嫁さんのウェディングドレス姿を見られなかったとか! なんて悔しいのっ

 それもこれも、クラウス! あなたが大事なこと一言も相談しないからよ!」


 べちっとエリサがクラウスの頭を叩き、クラウスの髪が乱れる。喜ぶ間もなく呆気にとられるコレットの向かい側で、アルマスが「招待状を信じなかったのは父さんと母さんだろ」とつぶやき、彼もまた叩かれた。


「痛ってぇ!」


「うるさいわねっ

 あなたたち、いつまで休憩してるの! さっさと仕事に戻りなさい!」


 八つ当たりなのか照れ隠しなのか。おそらくその両方の母の攻撃を受けた息子たちは、そそくさと立ち上がる。


「姉ちゃんって呼んでいいのかなぁ。カップケーキごちそうさまっ

 うまかった!」


 とどめの一個を口にくわえたヴァリオが、通りすがりにコレットの肩をぽんと叩いて行く。そのあとをついていくトゥーレも、「おいしかった」とぼそっと言って駆けて行った。


「おれの方が年上みたいだけど、義姉あねになるんだよね? 改めてよろしく」


 アルマスが手を伸ばす。握手だろうかとコレットも手を出すと、その手は素通りし、コレットの頭をぐりぐりと撫でた。


っさいなぁ。ははは、かわいい」


 固い手の平で、いささか乱暴に撫でられる。コレットが首をすくめてきゅっと目を瞑ると、太い腕に救われた。


「あまり、触るな」


 胸の内に抱え込まれ、どきっとする。頭の上でアルマスの笑い声と立ち去る足音がして、ほどけた腕から顔をあげると、クラウスは口元を押さえて目を逸らしていた。


「弟に焼きもち妬くなよ」


「うるさい」


 腰に手を当て呆れたように言うヘンリクに、クラウスが言い返す。


「焼きもち?」


 こそりとコレットがつぶやくと、クラウスの目元が朱に染まった。


「え、あの」


「……」


 コレットがクラウスの顔を覗き込もうとする。するとクラウスはますます目を逸らし、ついにはコレットと反対側を向いてしまった。


「なぁに照れてんだよ!」


 ヘンリクがクラウスの首に腕を回して、がしっとつかむ。そのままソファからひきずり降ろし、抱え込むようにして押しつぶそうとした。


「……っ」


 首を絞められたクラウスは、ヘンリクの腕をつかみつつ、足払いをかける。右足をとられ、バランスを崩したヘンリクは、しかし左足でこらえて体勢を立て直した。


「こら、でかい図体して、家の中であばれないの! じゃれ合いたいなら、外でやってちょうだい!」


 今にも家具にぶつかりそうになりながら取っ組み合う二人に、エリサの喝が入る。男五人を育てた彼女の気迫は並大抵のものではなく、追い立てられるようにクラウスもヘンリクも外へ出て行ってしまった。

 クスタフと二人、残されたコレットは、どうしようともじもじする。


「騒々しい家でね、昔からあれの分まで兄弟やら連れ合いやらがしゃべっていたから、ずいぶん無口な男になった。

 師団長だなんて信じられないが、本当なのかい?」


「はい。ご領主さまの口から直接お聞きしました。それにクラウス様は街の人にも分隊のみなさんにもたいへん慕われています」


「そうか……。あいつがなぁ……」


 コレットは、クスタフのしみじみとした声音に、息子を思いやる温かな気持ちを感じる。


「私も、お菓子作りで悩んでいたときにクラウス様に助けていただいて……。その後も本当にいろいろと親身になってくださったんです」


「それが縁だったのかい?」


「は、はい」


 にこりと笑うクスタフに、コレットは頬を染めてうつむいた。


「コレットさん、ごきょうだいは?」


「兄が一人います」


「ほぉ。コレットさんはティル・ナ・ノーグ(ここ)の出身じゃないだろう? いずれは故郷に帰るのかい?」


「いえ、こちらでお店をかまえてから、もうずっとティル・ナ・ノーグ(ここ)でやっていこうと思っていました。両親は辛かったら帰っておいで、なんて言ってましたが、絶対に弱音を吐かないでがんばろうと……。

 幸い、隣人やお客さんに恵まれて、お店も軌道に乗っています」


 コレットは、顔を上げてクスタフと目を合わせる。静かな口調の中にも芯の強さを感じたクスタフは、ふむとうなずいて質問を続けた。


「そうか、それはよかった。今は住まいは?」


「今まではお店の二階が住まいだったのですが、ご領主様がクラウス様におうちをくださって、あの、そこに住むことに……」


「でも、店は続けるんだろう?」


「はい。クラウス様にはまだ話していないのですが、人を雇って続けていけたらなって思っています。このところ、私一人では切り盛りできないくらいになっていたので、ちょうどいいかなって」


 それは、昨日店に荷物を取りに行った際に、メリルと相談していたことだった。店に通うのに時間がかかる分、住み込みの見習いを雇って、仕込みや片づけをしてもらってはどうかと。


「だそうだよ、母さん」


「いいんじゃないの? 自分の好きな道を見つけて働けるなんて、すばらしいことだわ」


 不意に戸口から聞こえてきた声に、コレットは驚く。振り向けば、いつのまにかエリサが立っていた。


「クラウスも体力が有り余ってるみたいだから、果樹園の剪定を頼んできたわ。アルマスたちは畑のほうで畝づくりの続き」


「あぁ、わかった。

 うちはね、畑と果樹園、両方あるんだ。果樹園ではいろいろな種類の果物を少しずつ扱っているから、さっきエリサが言っていたように、よかったら今度見ていってくれ」


「ありがとうございます」


「こいつはね、クラウスが騎士になるって言ったときに、騎士団なんかに近付いて、貴族の変な女に引っかかったらどうするんだってそれだけを心配してたんだ。コレットさんのようないい人が来てくれてうれしいよ」


「お父さん! 余計なこと言わないでちょうだい」


「ははっ

 夕飯、食べていくだろう? 母さんの料理はうまいぞ。菓子も、職人さんには負けるが、なかなかなもんだ」


「もしかしてクラウス様もそれで……」


「まぁ、舌は肥えてるほうだと思うよ。何せ材料が新鮮だからね」


「材料だけじゃないわ。私なりに研究してるのよ。コレットさん、今度一緒にお料理しましょうね」


「は、はい」


 エリサがにっこりと笑う。コレットは、まだぎこちないながらも少しずつクラウスの両親に受け入れてもらえそうな気がして、心からの笑みを浮かべた。






 エリサの心づくしの手料理と祝いの酒で夕食は盛り上がり、クラウスとコレットはそのまま泊ることになった。

 夜半、酔い覚ましに外に出たクラウスは、空を見上げるコレットに会った。


「寝ていなかったのか」


「なんだか、寝付けなくて」


 勧められた酒を全て断るのは悪いと思い、少し呑んだら目が冴えてしまった。街の中よりも明るく見える星空に誘われて外に来出たのだと、コレットは言った。


「泊ることにまでなってしまって、悪かった」


「大丈夫です。とっても賑やかで、楽しいです」


 エリサに借りたショールを肩に掛け、コレットが微笑む。酒のおかげで少々大胆になれたクラウスは、コレットを引き寄せ、細い肩を抱いた。


「……まだ、実感がない」


「え?」


 クラウスは、コレットの髪に顔をうずめて言う。耳にかかる吐息がくすぐったくてコレットが身をよじると、クラウスは碧の瞳をひたりと合せて、


「君が、俺の妻だという実感が、ない」


と言った。


「えっと、私も実はあんまり……。でも、今日クラウス様のご家族にお会いして、少し実感がわきました」


 クラウスの腕の中で、コレットがはにかむように笑う。クラウスはその微笑みに吸い寄せられかけて、実家の庭であることに気付いて自制した。


「?」


 溜息をつくクラウスを、コレットが不思議そうに見上げる。クラウスはごまかすようにコレットの髪を撫でると、昼間、アルマスがこの髪をぐりぐりと触っていたことを思い出した。

 まったく、あいつは勝手に触りやがって、と心の中で悪態をつき、それが独占欲であることに思い至って、クラウスは己の心を恥じる。コレットが自分の兄弟と仲良くしてくれるのは、喜ばしいことだ。それなのにくだらない焼きもちなど妬いて、コレットを困らせてはいけない。そう思っても、アルマスの馴れ馴れしい態度は我慢ならなかったし、実は、コレットがヘンリクにやけに親しみを込めた微笑みを見せるのも嫌だった。

 コレットにすれば、クラウスとヘンリクが似ているところを見つけるたびについ笑ってしまうのだが、そんなことはクラウスは知らない。また、これまでコレットの周りにいる男性と言えば分隊員が多く、クラウスの目の前では特にコレットに近付かないように気を遣ってきたので、嫉妬とはほとんど縁のないクラウスだった。


「……しゅんっ」


 コレットが小さくくしゃみをする。筋肉で覆われたクラウスと違い、自分と同じように動くのが不思議なくらい華奢なコレットは、夜風に吹かれて肩を震わせた。


「冷えてしまったか。呼び止めてすまない」


「いいえ。くす。クラウス様ったら、謝ってばっかり」


「すまな……いや、その」


 そういえば、今日はクラウス自身も気を遣って、謝罪の言葉を口にすることが多かったように思う。本当に言うべきことはそうではないと思い、クラウスはコレットの頬を撫でるとほんの少し口の端を上げた。


「両親に、会ってくれてありがとう」


「はい」


 コレットが、温もりを求めるように体を寄せる。クラウスは、ちらりと周囲の気配をさぐったあと、細い腰に手をまわし、甘やかな唇に口づけた。


「ん……」


 小さな、声が漏れる。


 二度三度と繰り返される口づけを、またたく星だけが見ていた。






 翌朝、出勤のために朝早く出発しようとしていたクラウスとコレットに、クスタフとエリサが見送りに出てきた。兄弟たちはまだ寝ているようだ。


「あのね、クラウス。そういえば、封筒がもう一通あったのよ。

 私たちからのお祝いだって言って渡しなさいって手紙が添えられてたの。これもいたずらだと思ってたんだけど、あっちが本物ってことはこれももしかして」


 エリサが、昨日とは別の封筒をクラウスに差し出す。またもやティル・ナ・ノーグ公爵家の封蝋がされた中身は――


「ヴィルヘルミーナ行きの、乗船券?」


「……私の実家です」


 コレットの言葉に、アルムスター家の一同が注目する。そこへ「出港日は?」と冷静に尋ねたのは、クスタフだった。


「今日の夕方の便だ」


 乗船券を確認したクラウスが答える。


「新婚旅行ってことだろうなぁ。ご領主様も、ずいぶんとまぁ」


 太っ腹というか、遊び心が過ぎるというか。クスタフは、農業を営む者にとって、街に住む者よりもさらに雲の上の存在に感じる領主の思いがけない贈り物に、溜息をついた。


「クラウス様、あの、お仕事は」


「師団長着任は来月と聞いている。君の故郷までは確か二週間弱だったか」


「はい」


 行って帰って、ちょうどひと月。着任式の日にちを考えると、数日は向こうで過ごす余裕がありそうだった。


「すべて計算の上のようだな」


 この分では、出勤しても休暇扱いになっていそうだ。どうしたものかとクラウスが頭を悩ませると、エリサが言った。


「行ってくればいいじゃないの。いつかはごあいさつしなくちゃならないんだし、タダで旅行できるなんて、めったにないわ」


「おまえ……」


 あまりにあっさりした言い様に、クスタフが呆れ返る。エリサはそんな夫の顔をものともせず、コレットの肩を叩いて微笑んだ。


「ご両親にもよろしく言ってちょうだい。いいお嫁さんが来てくれて喜んでたって。本当の娘のように大事にしますって言ってたって伝えて」


 コレットは、エリサの思いがけない言葉に涙を浮かべる。エリサはそんなコレットを抱きしめ、よしよしと背中を撫でた。


「クラウス、あなた、こんなにかわいいコレットさんに苦労かけたら許しませんからね」


「あぁ」


「昨日から苦労かけてたのは、むしろおまえ……ぐっ」


 クスタフが、エリサの肘打ちをくらって声を詰まらせる。仲のよい二人の様子にコレットが笑い、コレットの笑顔を見たクラウスもまた、肩を抱き寄せて微笑んだ。






 船が出る。

 一か月の休業となった菓子工房は、その間に住み込みの見習いを探してくれるとメリルが言っていた。

 見送る分隊員の顔が晴れやかなのは、祝いのためというより、今日から始まるはずだったしごきがなくなったからか。


「どうなさいました?」


 クラウスが小さくなるティル・ナ・ノーグの街を眺めていると、コレットがクラウスの腕に手を添えて覗き込んできた。


「いや……」


 つい先日まで、師団長になるかどうか悩んでいたのはなんだったのだろう。クラウスがそう言うと、コレットが笑った。


「くすくす。そうですね。私も、この間までクラウス様とお別れしなくてはならないのかと、思い悩んでいました」


 そういえば、そんなことを言っていたと、改めてクラウスは肝が冷える思いをする。


「頼むから、それは二度と口にしないでくれ」


 別れなど、仮想の話でも嫌なのだ。クラウスが言うと、コレットは「はい」と嬉しそうに笑った。


「ヴィルには一発くらい殴られるかもしれんな」


 クラウスは、以前出会ったコレットの兄を思い出す。あの頃は、まさかこうなるとは思っていなかったが、過保護な義兄の性分はよくわかっていた。


「兄は……そうですね。すみません……」


けないように、気を付ける」


「ふふっ

 と、すみません、実は祖父も」


 孫娘にベタ甘な祖父がいるのだと、コレットが言う。


「父君ではなく、祖父君が?」


「えぇ。父は、まぁ、普通というか。クラウス様なら絶対に文句はないと思うのですが」


 母も大丈夫。問題は兄と祖父だと真剣な表情で言うコレットに、クラウスは急に不安になった。


「その、後で対策を教えてくれ」


「はい。二人とも私の我が儘はいくらでも聞いてくれるのですが、こればっかりはなんとも……。

 一緒に考えましょう」


 時間はたっぷりあるのですから、とコレットが付け加える。


「これから一か月間、ずぅっとご一緒ですものね」


 好きな人とずっと一緒で、故郷にも帰れる。コレットが喜びを満面の笑顔で表すと、クラウスが首を振って否定した。


「一か月ではない」


「え?」


 一生だと、言ったクラウスの顔が赤いのは夕陽のせいか。


「そのためには、ヴィルと祖父どのを何とかせねばな」


「はい」


 コレットと一緒にいるために努力をしようと言うクラウスに、コレットも頬を染める。


 心地よい海風が、二人の髪を揺らす。


 コレットはクラウスの腕に頭を預け、大きな手に指をからめた。





 空が、海が、赤く染まる。







 二人はしっかりと手をつないだまま、いつまでも水平線を眺めていた。



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