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第3話 お金に名前は書いてない(後編)

2.

明は黒板の前に立った。夏休み前の生徒会室、聴衆は三人。腕組みの八田、興味津々の籠宮、成り行きでパイプ椅子に座らされた恵。


「まず、クイズをひとつ。恵さんは、映画好きでしたよね」


「え、まあ、うん」


「じゃあ想像してください。1,800円でチケットを買って映画館に行きました。ところが入口で、チケットを失くしたことに気づいた。財布に現金はまだある。もう一度1,800円払って、チケットを買い直しますか?」


「うーん......買い直さない、かなあ。なんか、同じ映画に3,600円払うのって、ばかばかしいじゃん」


「なるほど。じゃあ二問目。今度はチケットを買う前に、財布から1,800円・千円札と八百円分の小銭を落としたことに気づいた。財布には他にまだお金がある。映画のチケット、買いますか?」


「買うよ。お金落としたのは悔しいけど、それとこれとは別っていうか」


「はい、今『それとこれとは別』って言いましたね。でも冷静に並べると、二つの状況、財布から見れば完全に同じなんです。どちらも『1,800円分の損をした後で、1,800円払えば映画が観られる』。失ったのがチケットという紙か、現金かの違いだけ。なのに、チケットだと『やめる』、現金だと『買う』。答えが逆転する」


「あれ......ほんとだ。え、なんで?」


「人間の頭の中に、家計簿があるからです」


明は黒板に、財布の絵と、その中に小さな仕切りをいくつも描いた。


「人はお金を、ぜんぶひとまとめの『お金』としては扱ってないんです。頭の中で『食費』『娯楽費』『交際費』みたいな小さな財布に分けて、別々に帳簿をつけてる。


チケットを失くした場合、頭の中の『映画費』の財布にはもう1,800円の支出が記帳されてます。だから買い直すと『映画一本に3,600円』と感じて、高すぎると拒否する。でも現金を落とした場合、その損は『映画費』の財布とは別のところに記帳される。だから映画は定価のまま、普通に買える。--こういう頭の中の仕分けを、行動経済学では'' メンタル・アカウンティング ''「心の会計」と呼びます」


「心の、会計......」八田の眉が、ぴくりと動いた。


「本来、お金に名前は書いてありません。行事費の一万円札も、備品費の一万円札も、コンビニでは同じ一万円です。経済学ではこれを『お金はどれも交換可能』と言いますが、まあ要するに、区別は人間が勝手に貼ったラベルだ、ということです。ラベル自体は物理的には何の力もない。なのに、人間の行動は、ラベルに強烈に支配される」


明はチョークで例を足していった。


「たとえば、給料の一万円は大事に使うのに、懸賞で当たった一万円やギャンブルで勝った一万円は、その日のうちに豪快に使っちゃう人、いますよね。いわゆるあぶく銭ってやつです。


同じ一万円なのに、『真面目な財布』に入ったか『泡の財布』に入ったかで、扱いが変わる。会長の百均はしごも同じ構造です。『お小遣い』の財布は一円単位で節約するのに、『家の金』の財布は万単位でも誤差扱い。あれはあれ、これはこれ--財布が別だから、そうなる」


「わたし、実験材料にされてない?」


「良質なサンプルの提供、感謝します。で、八田さん」


明は八田に向き直った。


「今回の件、整理するとこうです。生徒会全体の財布には、送風機を買えるお金が現にある。規約上も流用の手続きはある。生徒の健康という、優先順位が最上位の使い道もある。


それでも出せないのは、お金が足りないからじゃなくて、『行事費』というラベルの財布から出すことに、心の会計が抵抗しているからです。ラベルは僕らが四月に自分たちで貼ったもので、貼り替える手続きも自分たちで決めてある。それでも署名できませんか」


理屈としては、詰んでいるはずだった。


だが八田は、電卓を胸に抱えたまま長いこと黙り、そして静かに首を横に振った。


「......理屈は認めます。仰木くんの説明に、反論はありません。それでも、わたしは簡単に署名したくない」


「八田さん...」


「三年前の話を、していいですか」


八田は帳簿ファイルの一番後ろから、古い決算書のコピーを抜き出した。ところどころ赤ペンで修正の入った、生々しい書類だった。


「三年前の生徒会は、流用が自由でした。『合計で足りてればいい』『必要な時に必要な所へ』。聞こえはいいでしょう。

結果、どうなったか。文化祭で盛り上がった勢いで行事費が備品費を食い、備品費の穴を部活支援費が埋め、年度末には、どの財布にいくら残ってるのか誰にも分からなくなった。


決算は三月ぎりぎりまで合わず、当時の会計は卒業式の前日まで職員室で頭を下げ続けたそうです。わたしの前任が、その後始末をした人でした。引き継ぎの日に言われたんです。『費目は檻だ。窮屈でも、檻がなければお金は逃げる』って」


生徒会室が静かになった。蝉の声だけが続いている。


「だから、わたしは檻を守ってきました。融通が利かないと言われても。......それが間違ってるって言うんですか」


「いえ」


明は、ゆっくり首を振った。


「間違ってません。むしろ今の話で、腑に落ちました。心の会計って、実は欠陥とは言い切れないんですよ」


「え?」と恵。


「さっきは失敗例ばかり話しましたけど、人がお金を財布に分けるのは、理由があるんです。人間は自分の意志力を信用できない。ぜんぶ一つの財布に入れておいたら、目先の楽しいことに使い尽くしてしまう。


だから先に『これは食費、これは貯金』と檻に入れて、自分の手が届かないようにする。ラベルは、未来の自分の暴走に対する、鍵なんです。三年前の生徒会は、その鍵を全部外して失敗した。八田さんの費目厳守は、その反省として完全に合理的です」


「じゃ、じゃあ結局どっちなのよ」籠宮が焦れた。


「檻は正しいの? 正しくないの?」


「檻は正しい。ただ、檻には扉が要る、って話です」


明は黒板に、仕切りのある財布の絵をもう一度描き、仕切りの一箇所に小さな扉を書き足した。


「檻を全部壊すのも、扉なしで完全に密閉するのも、どっちも極端なんです。三年前の失敗は『いつでも誰でも流用できた』こと。今回の問題は『実質、誰も流用できない』こと。だったら答えは、扉の開く条件を、あらかじめ決めて紙に書いておくことです。八田さん、こういう規定を追加するのはどうですか」


明は決裁用紙の裏に、その場で条文の下書きを書いた。


1.費目間流用は、生徒の安全・健康に関わる場合に限り認める。

2.流用額は当該費目残高の八割を上限とする。

3.流用時は会長決裁・会計副署に加え、流用理由と金額を生徒会だよりで全校に公開する。

4.年度末決算で流用の妥当性を総括し、次年度予算に反映する。


「条件は狭く、手続きは面倒に、そして全部公開。これなら『なんとなく足りないから隣の財布から』は起きません。檻は守られたまま、命に関わる時だけ、記録を残して扉が開く。


三年前の再発防止としても、今日の送風機としても、これが両立点だと思います」


八田は下書きを手に取り、眼鏡の奥で二度、三度と読み返した。それから電卓を、こん、と机に置いた。


「......第二項、上限は八割ではなく七割。それと第三項、公開は生徒会だよりに加えて職員会議への報告も。ここまで呑むなら、承認します」


「呑みます」


「では、流用決裁、行事費より五万八千円。大型送風機二台と、テニス部の扇風機修理費。今日中に発注をかけます」


八田はそう言って、伝票の束に向かって猛然と手を動かし始めた。その手つきが心なしか嬉しそうに見えたのは、たぶん気のせいではない。


「やった--! ありがと、さっちー! 仰木くんも! あと会計の先輩も!」


恵が跳ねるように立ち上がった。


*


数日後。部室棟に据えられた大型送風機は、運動部の間で「神様」と呼ばれているらしい。


そして生徒会室には、なぜか小林 恵が居着き始めていた。


「お礼に雑用くらい手伝うよ。夏休み、どうせ午前練だけだし。あ、このプリント綴じればいいの?」


「助かるけど......恵、あなた本当にいいの? うちの生徒会、変な事件ばっかり舞い込むわよ」


「知ってる。それ込みで面白そうだから来てるの。あ、そういえばさ」


恵はふと、籠宮の左手首に目を留めた。青い石のブレスレッド。


「それ、まだ付けてるんだ。占いの館のやつ」


「証拠品として保管中よ。しょ・う・こ・ひ・ん」


「保管って言うか、もう完全に愛用してない? ......ま、可愛いからいいけど」


明はプリントを綴じる手を止めずに、ふたりのやり取りを聞き流した。今回の一件は、送風機の風のようにさっぱりした後味だった。誰かの悪意も、不可解な人物も出てこない。暑さと、古い校舎と、三年前の失敗が生んだ、ごく普通の、人間くさいトラブル。


そう。事件なんて、本来これくらいの手触りのものだ。


だから明は、この夏の時点ではまだ何も比べていない。妙に鮮やかに整った事件と、こういう泥くさい事件との、手触りの違いなんてものを。


「書記くん、手が止まってるわよ」


「止まってません。......ほら、恵さんも。綴じたら次こっちの束です」


「はーい」


窓の外で、蝉が鳴いている。生徒会室の夏は、まだ始まったばかりである。


行動経済学ノート:


メンタルアカウンティング:


人間が心の中で「食費」「娯楽費」のように、お金の出所や用途に応じて仮想の「財布(口座)」を分け、別々に管理してしまう心理的傾向を指します。


本来、1万円はどこから来た1万円であっても価値は同じであり、交換可能です。しかし、人間は「自分で稼いだ1万円」と「懸賞で当たった1万円」を区別し、前者は大切に使い、後者は気軽に使ってしまうといった行動をとります。


これは、心の中で別々の「ラベル(名前)」を貼った財布(心の会計)で管理しているためです。


参考文献:


・リチャード・セイラー『行動経済学の逆襲』

・ダン・アリエリー『予想どおりに不合理』

お手数ですがポイントを入れてくださると助かります。

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