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第3話 お金に名前は書いてない(前編)

今回のお話は行動経済学の「メンタルアカウンティング」を取り扱ったお話です。


1.


期末試験が終わると、学園は一気に夏の顔になる。


蝉の声、プールの塩素の匂い、そして換気のために全開にした窓から、熱風しか入ってこない生徒会室。


「暑い。暑いわ書記くん。何とかしなさい」


「僕は書記であって工事業者ではないんですよ」


仰木明は答案返却で削られた精神をうちわで扇ぎながら、夏休み前最後の決裁書類を裁いていた。この学園の歴史は古く、新校舎は冷暖房完備であるが、生徒会がある旧校舎および体育館、部室棟は扇風機頼みのままである。


と、廊下を走る音がして、生徒会室の戸が勢いよく開いた。


「さっちー! いる!?」


飛び込んできたのは小林恵だった。部活帰りらしく、テニスバッグを肩にかけたまま、額に汗が浮いている。


「恵? どうしたの、そんなに慌てて」


「うちの部、今日一年の子が倒れかけたの。熱中症の一歩手前。保健室で冷やしてもらって大事にはならなかったんだけど......ねえ、体育館の横の部室棟、あそこ本当にやばいよ。


風通し最悪だし、扇風機は三台中二台壊れてるし。屋外コートもミスト扇風機とか大型送風機とか、何かないと八月の合宿もたない。運動部のみんな言ってる」


「壊れてる扇風機って、備品申請は?」


「テニス部としてはとっくに出してる。でも『予算がない』って返ってきたって、顧問の先生が」


籠宮の眉が、すっと動いた。トラブルの気配を嗅ぎつけた時の顔である。もっとも今回ばかりは、明も同感だった。生徒が倒れかけているのだ。


「書記くん、生徒会予算の残高は」


「今、出します」


明が帳簿ファイルに手を伸ばした、その時。


「その必要はありません」


生徒会室の奥、書架の陰の定位置から、ぬっと眼鏡が現れた。生徒会会計、二年の八田 千種。左手に帳簿、右手に電卓。この人が電卓を持っていない姿を、明はまだ見たことがない。


「会計の八田です。結論から言います。備品費の残高は4,200円。大型送風機は一台4万から6万。スポットクーラーなら10万超。買えません。以上です」


「以上です、じゃないわよ。生徒が倒れかけてるのよ?」


「事情は理解します。ですが無い袖は振れません。備品費は年度当初に配分された枠を、四月の体育祭関連でほぼ使い切っています」


「じゃあ他の費目は?」明が横から帳簿を覗き込んだ。「......あれ。行事費、73,000円も余ってるじゃないですか。体育祭が雨で午前打ち切りになった分、テント代とか飲料代が浮いたやつ。印刷費も二万近く残ってる。合計すれば送風機2台、余裕で買えますよ」


「それは行事費と印刷費です」


八田は、それがどうかしたのか、という顔で言った。


「備品は備品費から買うものです。行事費は行事のためのお金、印刷費は印刷のためのお金。当然でしょう」


「いや、規約を確認しましたけど、費目間の流用、禁止されてないですよね。『生徒会長の決裁および会計の副署により流用できる』って、はっきり書いてある」


「「できる」と、「していい」は違います」


電卓を握る手に力がこもった。


「言っておきますが、規約上の話をするなら、わたしの承認がなければ流用はできません。そしてわたしは承認はしません。行事費の7万は行事のお金です。備品に化けさせるわけにはいきません」


「あっそ。じゃあ話は早いわ」


籠宮が、ぽんと手を打った。


「わたしが自分のお小遣いで買うわ。送風機って6万だっけ? 3台で18万ね。週末に届くように手配--」


「「それは絶対にダメです(ダメです)」」


明と八田の声が、初めて完璧に揃った。


「な、何よ、ふたりして」


「会長、個人の金で公共の備品を買ったら、会計制度が死ぬんですよ。『困ったら会長が自腹を切る』が前例になったら、来年から誰も予算管理なんてしなくなります」


「同意見です。それに籠宮会長、あなた先月、画用紙10セットを百円ショップ三軒はしごして買った人ですよね。その人が18万をぽんと出すの、金銭感覚がどうかしています」


「どうかしてないわよ! あれはあれ、これはこれよ。百均で買うのはわたしのお小遣いの話で、18万は......その、必要経費っていうか、籠宮家的には誤差っていうか」


「......会長。今、ご自分で何て言いました?」


明は思わず聞き返した。


「え? あれはあれ、これはこれ--」


「それですよ」


明はうちわを置いた。頭の中で、ばらばらだった光景が一本につながった音がした。百円ショップをはしごする会長。「行事費は行事のお金」と言い張る八田。あれはあれ、これはこれ。


「--八田さん。ちょっとだけ、僕に時間をくれませんか。お金の話をします。というか、お金には名前が書いてない、って話を」

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