第4話 180円の孤独(前編)
第4話は、アンカリング効果と松竹梅の法則(極端の回避性を題材にした話です。
1
二学期の始業式が終り、購買部が静かに燃えていた。
もちろん比喩である。
「中間監査の結果を報告します。購買委員会の九月第一週の売上、対前年比で8%減。原因は商品『学園ノート』の在庫の山です」
九月最初の生徒会定例会。会計の八田 千種が、電卓を片手に淡々と報告書を読み上げていた。窓から差し込む初秋の光が、議長席の籠宮 沙知代の手首で、青い石にちらりと跳ねた。
「学園ノートって、あれよね。夏休み前に購買委員会が張り切って企画してた、創立記念のオリジナルノート」
「はい。表紙に校章の箔押し、中紙は国産の上質紙、綴じも糸かがりの上製。原価を考えれば良心的な価格設定です。一冊180円。初回発注は500冊。
で、二学期開始から一週間での販売数は」
八田は、そこで一拍おいた。
「11冊です」
「じゅういち......」
「このままだと、購買委員会は十月の文化祭出店の仕入れ資金を、この在庫に寝かせたまま迎えることになります。先日、費目流用の規定を作ったばかりですが、言っておきますけど、企画の失敗の穴埋めに流用は認めませんからね。規定第一項、安全と健康に関わる場合に限る、です」
「分かってるわよ。......でも変ね。現物、ここにあるんでしょ? 見せて」
八田が見本を机に置いた。明も横から覗き込む。深緑の表紙に金の校章。手に取ると、ページがしっとりと開く。正直、180円には見えない。300円と言われても納得する出来だった。
「良い物じゃない。何で売れないのよ」
「購買委員長の戸井くんいわく、『手に取るところまでは行くんです。でも、隣の棚を見て、戻すんです』と」
「隣の棚?」
「大手メーカーの、ごく普通の100円ノートです」
2
翌日の昼休み、明と籠宮、それに「面白そうだから」と付いてきた小林 恵は、購買部の現場に立っていた。
購買委員長の戸井は、二年生にしては商売っ気のある男で、しかし今日はその商売っ気がしおれていた。
「見ててください。......ほら、また」
女子生徒がひとり、文具棚の前に立つ。学園ノートを手に取り、ぱらぱらとめくる。表情が少し緩む。悪くない、という顔だ。それから彼女の視線が、すっと左に滑る。100円ノートの棚。値札を見比べる。数秒の沈黙。そして学園ノートは静かに棚へ戻された。彼女は100円ノートを二冊持ってレジへ向かった。
「一日中、あれの繰り返しです。品質では負けてないはずなんです。触った人はみんな『いいね』って言うんですよ? なのに、最後は必ず100円が勝つ」
「値段で負けてるんだから当然じゃないの?」と恵。「八十円も高いんだよ?」
「でも恵さん、あなた駅前のカフェで五100円のフラペチーノ飲んでますよね。ノートの八十円差は許せなくて、カフェに五100円は払える。それ、何でです?」
「う......な、なんか、それとこれとは」
「はい、頂きました『それとこれとは』。会長、これ、値付けの問題というより、たぶん比べ方の問題です」
明は棚の前で腕を組んだ。
「戸井先輩。ひとつ聞きますが、この文具棚、ノートは今、何種類置いてます?」
「二種類だよ。うちの学園ノートと、定番の100円ノート」
「二種類、ですか」
明は、100円ノートと学園ノートを一冊ずつ手に取り、左右の手で秤のように持ち上げた。
「じゃあ、お客さんの頭の中では、こういう問題になってるわけです。『100円の普通のノートと、180円のちょっと良いノート、どっちを買うか』。
この勝負、学園ノートはまず勝てません。なぜなら、この棚で最初に目に入る数字が『100円』だからです。基準が100円になった瞬間、180円は『八割も高い贅沢品』になる」
「基準、って?」
「説明します。けど、その前に」
明はポケットから小銭入れを出し、学園ノートを一冊、レジに置いた。
「まず一冊買います。話はそれからで。......いや、だって、いいノートですよこれ。統計の勉強用にちょうどいい」
11冊目の売上に、戸井が少しだけ泣きそうな顔をした。
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