第4話 180円の孤独(後編)
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放課後の生徒会室。
黒板の前に明、聴衆は籠宮、恵、八田、そして藁にもすがる顔の戸井である。
「まず、人間の頭の仕組みの話からします。恵さん、またクイズです。うなぎ屋に入りました。メニューは三つ。松が三千円、竹が二千円、梅が千二100円。どれ頼みます?」
「え、竹かなあ。松は高いし、梅だとなんかケチった感じするし」
「はい、竹。日本人の大半がそう答えます。じゃあ次。同じ店で、メニューが二つしかなかったら? 竹二千円と、梅千二100円」
「......それなら梅でいいかな。二択だと、梅が別にケチって感じしないし」
「気づきました? 竹二千円の中身は一文字も変わってないのに、松があるかないかで、恵さんの選択が変わったんです。松の役目は、売れることじゃありません。竹を『真ん中の無難な選択』に見せることです。人間は極端を避けて、真ん中を選びたがる。世間で'' 松竹梅の法則 ''なんて呼ばれてるやつです」
「あー......わたし、うなぎ屋の手のひらの上だったんだ......」
「もうひとつ、土台の話をします。人間の頭は、値段や数字を、それ単体では評価できないんです。必ず、何かと比べて判断する。そして厄介なことに、最初に見た数字が、錨みたいにその場の基準になってしまう。船の錨、アンカーです。だから'' アンカリング効果 ''と言います」
明は黒板に、船と錨の絵を描いた。絵心は特にない。
「実験もあります。ただのルーレットを回して出た数字を見せられただけで、その後に答える全然関係ないクイズの数字--たとえば『国連加盟国のうちアフリカの国は何パーセント?』の答えが、ルーレットの数字に引っ張られる。大きい数字を見た人は大きく答え、小さい数字を見た人は小さく答える。本人たちは引っ張られた自覚すらありません。数字ってそのくらい、比べる相手に無防備なんです」
「セールの『定価五千円のところ、本日2,980円!』もそれね」と籠宮。「五千円って錨を先に沈めておいてから、2,980円を見せる」
「その通りです。2,980円が高いか安いかなんて本当は物によるのに、五千円の隣に置かれた瞬間、安く感じる。で、ここからが本題です。うちの購買の文具棚を思い出してください。棚に沈んでる錨は、何円ですか」
「......100円」戸井が呻いた。
「定番ノートの100円」
「そうです。あの棚では、100円がすべての基準です。その世界で180円は『八割高い』としか読めない。学園ノートは、品質で負けたんじゃありません。比べる土俵を、たった一種類の隣人に決められてしまっただけなんです。180円が孤独に戦ってるんですよ、あの棚は」
「じゃあ、どうすんの? 100円ノートを棚から下げる?」と恵。
「ダメです。定番を消したら普通に客が離れます。逆です。棚に、もう一人、上を増やすんです」
明はチョークを持ち直し、黒板に三段の棚の絵を描いた。
「提案はこうです。学園ノートの上位版を作る。表紙を革風の特装にして、創立記念の限定ナンバリングでも入れて、一冊380円。数は少なくていい、むしろ少ない方がいい。これを学園ノートの隣、一番目立つ位置に置きます。すると棚はこうなる。100円の定番、180円の学園ノート、380円の特装版」
「松竹梅だ」恵が声を上げた。「学園ノートが、竹になった」
「それだけじゃありません。錨も変わります。棚の一番目立つ場所に380円が沈めば、180円は『半額以下のお手頃な良品』に化ける。中身は一ページも変わってないのに、です。ついでに値札の書き方も変えます。今は『学園ノート 180円』とだけ書いてあるでしょう。あれを『糸かがり上製・国産上質紙 180円』にする。100円ノートと同じ土俵の紙束じゃなくて、特装版と同じ土俵の工芸品側だと、棚の上で名乗らせるんです」
戸井は黒板を食い入るように見ていたが、ひとつだけと手を挙げた。
「その特装版、売れなかったらどうする? 380円のノートなんて、高校生は買わないだろ」
「売れなくていいんです。それの仕事は売れることじゃなくて、そこに立ってることですから。うなぎ屋の松と同じです。......ただ、経験的に言うと、たぶん少しは売れますよ。限定ナンバリング入りなんて聞いたら、記念に欲しがる人は必ずいます。卒業生への贈り物とか」
「ちょっと待ってください」
それまで黙って聞いていた八田が、眼鏡を光らせた。
「仰木くん。理屈は見事ですけど、それ、要するにお客を誘導する技術ですよね。中身を変えずに、並べ方と見せ方だけで買わせる。......正直に聞きます。それは、騙してることになりませんか」
生徒会室が、少し静かになった。
明はチョークを置いて、少し考えてから答えた。
「いい質問だと思います。線引きをはっきりさせておきます。嘘の情報を出したら、それは騙しです。ありもしない定価を書いて割引に見せかけるとか、品質を偽るとか。それは論外です。
今回やるのは、本当の情報を、比べやすい形に並べ直すことだけです。180円という値段も、糸かがり上製という中身も、全部本当のこと。ただ、人間はどうせ『何かと比べて』しか物を判断できない生き物なので、その比べる相手を、こちらで用意する。
......それでもこの技術が使う側の胸三寸なのは、八田さんの言う通りです」
明は、ふと、ヨヨバシ 占いの館の件を思い出していた。
「たとえば『これを付ければ幸運になる』って売り文句。あれも、比べる相手'' 付けなかった場合 ''を客の頭の中にこっそり作らせる技術でした。道具は同じなんですよ。正直な商売にも、いんちきな商売にも、同じ刃物が使える。だから使う側が、嘘を混ぜないと決めておくしかない。購買委員会でやるなら、値札の情報はすべて事実、割引の偽装はしない。このふたつを守ってください。それが条件です」
「......分かった。約束する」戸井が頷いた。
「決まりね!」籠宮が手を叩いた。
「特装版の表紙のデザイン、わたしが監修するわ。籠宮家御用達の文具店を紹介して--」
「予算内でやってください。規定第一項」と八田。
4
三週間後。
学園ノートは週60冊以上のペースで売れていた。棚の主役は完全に入れ替わり、戸井は会う人ごとに松竹梅の法則を語る面倒な男になった。特装版も、予想通り「少しは」売れた。第一号の購入者は籠宮である(「監修者が買わなくてどうするのよ」)。
事件は、めでたく解決した。
はず、だった。
「仰木くん、ちょっと」
十月に入ったある日、明は八田に購買部の倉庫へ呼び出された。八田の手には棚卸しの帳簿。その顔は、費目流用を拒否した日より険しかった。
「棚卸しで、数が合わない商品が出ました。......いえ、正確に言うと、帳簿に存在しない商品が、棚から出ました」
八田が指したのは、倉庫の棚の隅。文具の段ボールの陰に、それは五冊、きちんと積まれていた。
濃紺の、明らかに高級なノートだった。布張りの表紙に、細かな模様の箔押し。値札シールには手書きで『舶来手帳 1,200円』とある。
「発注記録なし。納品書なし。仕入台帳のどこにもありません。戸井くんも購買委員の誰も、発注した覚えがない。それどころか、夏休み前の棚卸しの時にはなかったはずなんです。少なくとも、わたしの帳簿にはない」
「業者の誤納品では?」
「値札まで付いてですか? うちの購買の値札シールで、うちの値札の書式で?」
明は一冊、手に取った。ずしりと重い。紙質は学園ノートの特装版すら霞むほどで、1,200円でも安いくらいの品だった。奇妙なのはどこにもメーカー名がないことだ。奥付も、ブランドの刻印もない。
代わりに、表紙の縁に沿って箔押しの模様が一周していた。
細い縄が幾重にも絡み合ったような、組紐の模様。
どこかで見た。
万灯回廊の一件で委員たちが証言した、OGのストール。組紐みたいな、外国の刺繍模様。そしてもっと前。ヨヨバシ 占いの館のフードの縁。
「仰木くん? 顔色が悪いですよ」
「......いえ。何でも」
明は口の中で呟き、ノートを閉じた。偶然だ。組紐模様なんて、世界中どこにでもある。北欧にも、日本の組紐にも、ケルトにも。柄が似てるなんて話は、証拠として弱すぎる。弱すぎる、が。
「これ、どう処理します? 仕入元が不明じゃ、売るに売れないし」
「規定通り、拾得物に準じて職員室に届けます。ただ......気味が悪いので、記録用に一冊、生徒会で保管しようかと」
「あ、それ、僕が預かります。資料として」
自分でも思いがけないほど、するりとその言葉が出た。八田は怪訝な顔をしたが、帳簿に「一冊、生徒会書記預かり」と几帳面に書き込んだ。
*
「へええ、何それ。かっこいいノートじゃん」
生徒会室に戻ると、プリントを綴じていた恵が目ざとく見つけて寄ってきた。籠宮も書類から顔を上げる。
「購買の倉庫から出てきた、出所不明の高級品です。誰も仕入れてないのに、値札付きで棚に並んでました」
「なにそれ、怖っ」
恵は表紙の箔押しを指でなぞり。ふと、その手を止めた。
「......この模様。ねえ、これ、どっかで見たことあるような」
「え?」
「んー、どこだったかなあ。......あ! 思い出した。ヨヨバシ 占いの館だ。ほら、あのしつこい占い師の人、フードにこんな感じの刺繍入ってなかった? 私、目の前で十分も粘られたから、フードの柄ばっかり見てたんだよね。そういえばさ」
恵は、ノートから顔を上げて、心底不思議そうに言った。
「あの占い師、結局、何だったんだろうね? あれだけ粘っておいて、最後は沙知代に押し付けて逃げてさ。売り物のはずのブレスレットをタダであげて、それっきり。......商売として、全然成立してなくない?」
商売として、成立していない。
その一言が、明の頭の奥で、妙に長く反響した。あの日、占い師の売り文句は論理としては崩れていた。だが、最初に売りつけたかったはずの相手を捨てて、別の相手に無償で渡して消えるという、崩れた後の行動。あれは、そもそも売る気のある人間の動きだったか?
売る気がなかったのなら。あの十分間の押し問答は、何のための時間だった?
「ちょっと、ふたりして何暗い顔してるのよ」
籠宮が呆れた声を出した。左手首で、青い石が揺れる。
「占い師なんてそんなものでしょ。気まぐれで、いい加減で。ほら、手が止まってる。文化祭まであと一ヶ月切ってるのよ、書類、書類」
「......はい」
明は謎のノートを机の引き出しにしまい、鍵をかけた。
考えすぎだ。今はそう思うことにした。
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