第5話 ポスターは脅かす(後編)
行動経済学を題材にしているだけに、行動経済学の本を読み込み、整合性が取れるようにしていますが、専門家が査読したらどんなツッコミ受けるやら・・・。
3
放課後の生徒会室には、いつもの面子に加えて、文芸部新部長の柏木さんが招かれていた。
小柄で、話す前に一度必ず息を吸う、生真面目そうな二年生である。
「じゃあ授業じゃなくて、作戦会議を始めます」
黒板の前に立った明は、まず恵の方を向いた。
「恵さん、いつものクイズです。今からコイン投げをします。表が出たら、僕が恵さんに二万円払います。裏が出たら、恵さんが僕に一万円払う。一回勝負、やります?」
「やんない」
「即答ですね。でも計算すると、この賭け、恵さんが得なんですよ。もらえる方が払う方の二倍で、確率は半々。十回やれば、ならして一回あたり五千円のプラスです」
「わかるけど、やだ。だって裏が出たらわたしが一万円失うんだよ? 二万もらえるかもより、一万取られるかもの方が、こわいもん」
「今の一言が、今日の授業の全部です」
明は黒板に大きく天秤の絵を描き、片方の皿に「得」、もう片方に「損」と書いた。そして「損」の皿を、ぐっと下に傾けて描いた。
「人間の心の天秤は、最初から傾いてるんです。同じ一万円でも、もらう喜びより、失う痛みの方が、だいたい二倍くらい重い。だから期待値がプラスの賭けでも降りるし、百円の値上げには猛烈に腹が立つのに、百円の値下げは三日で忘れる。これを損失回避と言います。
人間は、得を求める生き物である以上に、損から逃げる生き物なんです」
「なんでそんな不公平な天秤なの?」
「あくまで説ですが、大昔のご先祖様の暮らしを考えるとですね。獲物を一頭取り損ねても死にませんけど、毒蛇を一回見落とすと死にます。良い報せを聞き逃すより、悪い報せを聞き逃す方が致命的だった。だから僕らの脳は、危険や損失の情報に敏感な個体の子孫なんです。で、ここからが掲示板の話です」
明は昼休みの写真を黒板に貼った。
「『楽しいよ』は得の情報です。『損してるよ』は損の情報です。通りすがりの生徒の脳は、どっちに反応するようにできてるか。
もう分かりますよね。あの掲示板で起きたのは、ただの偶然じゃありません。損を語るポスターが構造的に勝つ場所で、全員が最適化した結果、ああなったんです」
「じゃ、じゃあ」柏木さんが、息をひとつ吸ってから手を挙げた。
「うちも、その、脅すポスターを作れば......いいんでしょうか。正直、気が進みませんけど......」
「半分正解で、半分不正解です。順番に行きます。まず、脅し合戦そのものは止めます。これは生徒会の仕事です」
明は決裁用紙に、その場で規約の下書きを書いた。
1.募集ポスターに記載できるのは、自部の活動に関する事実のみとする。
2.他部・帰宅部への言及、および根拠を示せない不利益の記載を禁止する。
3.掲示位置は抽選で決め、一部一枚とする。
「他人を下げる文句と、根拠のない脅しを禁止する。これで軍拡競争の弾薬を断ちます。剛田先生には『全面禁止の代わりに、このルールで生徒会が管理します』と持っていく。
先生が欲しいのは秩序であって禁止そのものじゃないので、たぶん呑みます。そして柏木さん、ここからがあなたの番です」
「は、はい」
「さっき『脅すのは気が進まない』と言いましたね。それでいいんです。嘘や誇張で脅すのは論外です。でも--本当のことを、損の側から語るのは、脅しじゃありません」
「......どういう、ことですか?」
「例を出します。お医者さんが手術の説明をするとき、『成功率は九十パーセントです』と言うのと、『十人にひとりは助かりません』と言うのとでは、患者さんの受ける印象がまるで違う。でも中身は完全に同じ情報です。
スーパーの牛肉の『赤身七十五パーセント』と『脂身二十五パーセント』も同じ。同じ事実でも、得の額縁に入れるか、損の額縁に入れるかで、人の反応は変わる。これを行動経済学では、額縁「フレームの効果」と言います。この手法を使えば、嘘をつかなくても額縁を選ぶことはできる」
明はチョークを置き、柏木さんに向き直った。
「文芸部の今のポスター、確か『部誌を年二回発行、初心者歓迎、楽しく活動中』でしたよね。全部本当で、全部得の額縁です。そして誰の足も止めない。
柏木さん、逆から聞きます。今年、文芸部に誰も入らなかったら、何が失われますか。本当のことだけで答えてください」
柏木さんは、少し黙った。それから、ぽつりぽつりと話し始めた。
「......部誌が、今年で39号なんです。40年、一度も途切れずに出てて。部員が四人だと、来年は出せません。40号が、出ないまま終わります。
それから、天文部と共同でやってる合同誌の企画も......あと、私に小説の書き方を教えてくれた先輩たちの、添削ノートの綴りが部室に17冊あって、引き継ぐ人がいなくなったら、あれもたぶん、処分に......」
「はい。今の話、そのまま貼りましょう」
明は新しい紙に、下書きを書いた。
『文芸部誌、次の40号が最終号になるかもしれません。 40年続いた誌面と、先輩たちの添削ノート17冊の、次の持ち主を探しています。 あと一人。締切は10月31日。』
「......脅してません。一行も嘘がありません。でも、読んだ人の頭には『自分が行かなければ、40年が終わる』という損の額縁がかかる。得の額縁の『楽しいよ』では素通りした人の足が、これなら止まります。
これをずるいと思いますか?」
柏木さんは、下書きを長いこと見つめてから、首を横に振った。
「いえ。......これ、全部、私が本当に怖いと思ってることです。それを、そのまま書いてもらっただけなので」
「それが線引きです」明は頷いた。「実在しない損をでっち上げたら詐欺です。序章...、じゃなかった、少し前に僕らが出会ったインチキ占い師がやってたのがそれです。『これを買わないと不幸になる』という、ありもしない損の額縁。同じ道具なんですよ、本当に。
だからこそ、事実だけ、という一線は絶対に守る。天文部にも囲碁将棋部にも、同じ作り方を教えます」
4
規約は月曜に施行され、剛田先生は「生徒会がやるなら」と全面禁止を引っ込めた。掲示板から果たし状は消え、代わりに静かな、しかし妙に足を止めさせるポスターが並んだ。
天文部は『11月8日の皆既月食、望遠鏡なしで見るつもりですか。部の反射望遠鏡は今年、見る人がいなければ倉庫に眠ります』で二名獲得。囲碁将棋部は『県大会常連の三年生が引退しました。教わるなら、記憶が新しい今年だけです』で一名。
そして文芸部には、10月29日、締切二日前に一年生がひとり、部室の戸を叩いた。「添削ノートって、まだありますか」が第一声だったという。
「...というわけで、五部すべて基準クリア。めでたしめでたし、よ」
10月最後の定例会で、籠宮は上機嫌に報告書を閉じた。
「お疲れさまでした。......しかし、今回もまた、妙に綺麗に着地しましたね」
「何よ、自分で解決しといて不満そうね」
「不満じゃないですけど。......いえ、何でも」
明は言葉を呑み込んだ。最初の一枚、先々週、軍拡競争の引き金を引いた『入らないと損』系の最初のポスター。
あれがどの部の物だったのか、規約施行のついでに全部活に確認したのだが、名乗り出た部が、結局ひとつもなかったのだ。どの部も「うちが貼り始めたんじゃない、対抗しただけだ」と言う。
全員が対抗しただけなら、最初の一発は、誰が撃った?
「あ、そうだ、さっちー。文芸部の柏木さんがね、お礼にって部誌の39号くれたよ。あと仰木くんには『額縁の話、部誌のコラムに書いていいですか』って」
「どうぞ、と伝えてください。出典もちゃんと......」
言いかけて、明はふと気づいた。籠宮が、報告書の上で頬杖をついたまま、自分の左手首を、じっと見ていることに。
「会長?」
「......ん? ああ、いえね。ちょっと変なことを考えてたの」
籠宮は、ブレスレッドの青い石を、指先でくるりと回した。
「先週の火曜、わたし、これを家に忘れて登校したのよ。留め具の調子が悪くて、直しに出す前の日でね。その日、何にもなかったのよね。
ポスターの件が生徒会に来たのは水曜、これを付け直した日。文化祭の公募騒ぎの日も、万灯回廊の日も、購買の日も......そういえば、付けてた気がするのよね、これ」
「......偶然でしょう。会長は基本、毎日付けてるんですから、何かが起きる日に付けてる確率が高いのは当たり前です」
「そうよねえ。ふふ、変なの。まるでこれが面白いことを呼んでるみたい」
籠宮は笑って頬杖を解いた。冗談の口調だった。本人の中でもまだ冗談のつもりなのだろう。
ただ、その日の帰り際、明は見た。
鞄を持った籠宮が、生徒会室の戸口で一瞬立ち止まり、外そうとしたのか無意識か、ブレスレッドの留め具に指をかけて。
そして結局、外さないまま戸を閉めたのを。
下のポイントを入れてくださると助かります。




