第八章:家という言葉と、照れ隠しの拳
「家」という言葉には、屋根や壁以上の意味がある。
それは誰かと共に在る場所――そして、その意味を初めて知る夜が訪れようとしていた。
夜も更け、二人は縁側に並んで腰を下ろしていた。新しく買った髪飾りが、彩の黒髪の中で月光を受けて淡く輝いている。
「今日は、楽しかったです」
彩がぽつりと呟いた。
「ああ」
紅蓮は星空を見上げたまま、短く答えた。
しばらくの沈黙の後、彩が口を開いた。
「紅蓮さんにとって、『家』って何ですか?」
唐突な問いに、紅蓮はわずかに眉を動かした。
「……なぜ、そんなことを聞く」
「今日、あのおばあさんに『新婚さん』って言われて……それで、考えたんです。わたしにとって、ここが初めて『家』と呼べる場所なんだなって」
彩は膝を抱えるようにしながら、続けた。
「昔の村では、ずっと『居場所がない』って感じてました。家族の中にいても、ずっと一人ぼっちみたいで。でも、ここは……」
「ここは?」
「不思議と、安心するんです」
彩は少し照れたように微笑んだ。紅蓮はその横顔を、しばらく黙って見つめていた。
「俺にとっての家、か」
紅蓮は静かに呟いた。
「かつて、俺には玉座があった。だが、あれは家ではなかった。ただの……居場所を持たない者の、仮初めの場所だったのかもしれない」
彩は、彼の言葉に静かに耳を傾けていた。
「今は、ここが――」
紅蓮は、そこで一度言葉を切った。それから、ぶっきらぼうに付け加えた。
「……悪くない、と思っている」
その不器用な言い方に、彩は思わず微笑んだ。
「ふふ、紅蓮さんらしいですね」
しばしの静寂の後、紅蓮が思い出したように口を開いた。
「そういえば、聞いておきたいことがある」
「なんですか?」
「婚姻について、お前はどう考えている」
「――っ!?」
彩の顔が、瞬時に真っ赤に染まった。
「な、なんで急にそんな話……!」
「お前のためだ」
紅蓮は真剣な表情のまま続けた。
「俺はお前をあの場所から連れ出した。だが、それは俺が一生お前を食わせ続けるという意味ではない」
彼の脳裏には、一つの考えがあった――もし彼女が将来、自分の意思でここを離れたいと思ったとき、彼女自身の足で立てるようにしておかねばならない、と。誰かに依存するのではなく、彼女自身が選べるように。
しかし、その言葉は彩の耳には、まったく違う響きで届いていた。
「……つまり、わたしはいつか、ここを出ていかなきゃいけないってことですか?」
「そうは言っていない」
「じゃあ、なんでいきなり結婚の話なんて……」
彩は俯きながら、それでも小さく、悪戂っぽい笑みを浮かべた。
「――もし、そういうことを言いたいなら。別に、結婚しなくても、その……夜を共にするだけなら、必要ないと思いますけど」
「……は?」
紅蓮の動きが、一瞬止まった。
彩は真っ赤な顔のまま、それでも視線を逸らさずに彼を見つめていた。悪戯心と、羞恥心がないまぜになったような表情だった。
紅蓮は、しばし言葉を失っていた。それから――
コツン。
彼の拳が、少し強めに彩の頭に落ちた。
「痛っ……!」
「馬鹿なことを言うな」
紅蓮の声は、いつもよりわずかに上ずっていた。
「そういう、くだらないことを考えるんじゃない」
「く、くだらなくないです! ちゃんと考えて――」
「黙れ」
紅蓮はそう言うと、そっぽを向いた。夜の闇に紛れて見えづらかったが、その耳は、うっすらと赤く染まっていた。
彩は頭を擦りながらも、そんな彼の様子に気づき、くすりと笑った。
「……もしかして、照れてます?」
「そんなわけがあるか」
「顔、赤いですよ」
「夜風のせいだ」
「今日は、風なんて吹いてませんけど」
紅蓮は答えず、ただ黙って夜空を見上げ続けた。彩はそんな彼の隣で、満足げに微笑みながら、そっと肩を寄せた。
二人の間に流れる沈黙は、気まずさではなく、どこか温かなものだった。
不器用な言葉と、照れ隠しの拳――それでも、その夜二人の間には、確かな何かが芽生えていた。
「家」とは、屋根の下にあるものではなく、誰かと共に築いていくものなのかもしれない。
彩はそう感じながら、静かに目を閉じた。紅蓮もまた、彼女の隣で、これまで感じたことのない穏やかな夜を過ごしていた。




