第九章:繋いだ手と、町の噂
触れ合う手のひらは、時に言葉よりも多くを語る。
そして、二人だけが気づいていなかった変化に、周りの人々はとっくに気づき始めていた。
朝、ギルドへ向かう道すがら、彩は何気なく紅蓮の隣を歩いていた。
石畳の道は少し歩きにくく、彩の足元がふらついた瞬間、紅蓮の手が自然に彼女の手を掴んでいた。
「……あっ」
彩は驚いて彼を見上げた。紅蓮は特に気にする様子もなく、そのまま歩き続けている。
「危ないから、掴んでおく」
「は、はい……」
彩は小さく頷いたが、それきり紅蓮はその手を離そうとしなかった。危ない場所はとっくに過ぎたというのに。
彩もまた、あえてそれを指摘しなかった。繋がれた手のひらから伝わる温もりが、なんだか心地よかったから。
二人は、そのまま手を繋いだまま、ギルドへと向かった。
道の途中、market街の露店で店番をしていた青年が、二人を見て笑顔を浮かべた。
「よう、今日も仲良さそうだな、お前ら」
「べ、別に、これは――」
彩が慌てて言い訳しようとすると、紅蓮が先に答えた。
「ああ、そうだ」
「こ、紅蓮さん!?」
彩の顔が赤く染まる。青年は愉快そうに笑った。
「隠さなくていいって。この町じゃ、お前らのことは有名だぜ。ほら、あの商人を追い払った時の話とか、二人で仲良く買い物してる姿とか」
「有名、ですか……?」
彩が戸惑いながら尋ねると、青年は頷いた。
「ああ。みんな言ってるよ、『あの二人はお似合いだ』ってな」
彩はさらに顔を赤らめたが、紅蓮は特に表情を変えることなく、繋いだ手に、ほんの少しだけ力を込めた。
「そうか。悪くない評判だ」
その一言に、彩は隣を見上げた。紅蓮の横顔には、隠しきれない満足げな色が浮かんでいた。
ギルドでの手続きを終えた帰り道、二人は町外れの小さな橋の上で足を止めた。川面には、夕暮れの茜色が映り込んでいる。
「そういえば」
彩がふと口を開いた。
「今朝から、ずっと手、繋いだままですね」
「気づいていたのか」
「気づいてないわけ、ないじゃないですか」
彩がくすりと笑うと、紅蓮は繋いだ手を軽く持ち上げ、まじまじと見つめた。
「……離した方がいいか?」
「いえ」
彩は即座に首を振った。
「このままが、いいです」
紅蓮はその答えに、わずかに目を細めた。彼は彩の手を、より確かな力で握り直した。
「なら、このままでいい」
橋の欄干に並んで寄りかかりながら、二人はしばらく無言で夕焼けを眺めていた。
不意に、彩が紅蓮の方を振り向いた。
「紅蓮さん」
「なんだ」
彼女の瞳――左右で異なる色を宿したその瞳が、夕陽を受けてきらきらと輝いていた。紅蓮は思わず、その瞳に見入っていた。
「……いえ、なんでもないです」
彩は、そう言って柔らかく微笑んだ。しかし、その視線は彼の唇の辺りに、一瞬だけ留まっていた。
紅蓮もまた、その意味を察したように、ゆっくりと彼女の方へと顔を近づけた。
二人の距離が、驚くほど自然に縮まっていく。
あと少しで、唇が触れ合う――そんな距離まで近づいた、その時。
「おーい、そこの二人!」
橋の向こうから、先ほどの青年の声が響いた。
「――っ!」
二人は、弾かれたように身を離した。彩の顔は、これ以上ないほど真っ赤に染まっていた。
「あの店主のおっちゃんが、余った果物やるから取りに来いってさ! 早くしないと、他の客に取られるぞー!」
青年はそう言い残すと、そのまま去っていった。
橋の上には、気まずい沈黙が流れた。
「……その、今のは」
彩がしどろもどろに言いかけると、紅蓮は小さく咳払いをした。
「果物を、取りに行くか」
「そ、そうですね!」
二人はどこかぎこちなく歩き出したが、繋がれたままの手は、決して離れることはなかった。
触れ合いかけた距離は、思いがけない邪魔によって中断された。
それでも、二人の間に流れる空気は、確実に変わり始めていた。
町の人々の目にも、その変化は明らかだった――かつて怯えた少女として村を追われた彩は今、誰よりも幸せそうな笑顔を浮かべる一人の女性として、この町に受け入れられ始めていたのだから。
そして紅蓮もまた、気づき始めていた。この温かな日常を、何があっても守り抜きたいという、確かな想いを。




