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第四章:小さな傷と、初めての夜

守る者と、守られる者――その関係が、少しずつ形を変え始める。

きっかけは、いつも些細なものだ。ほんの小さな傷、ほんの短い沈黙。それだけで、二人の距離は静かに縮まっていく。

新しい家に住み始めて数日が経った。

その日の夕方、彩は水を汲みに近くの井戸へと向かった。紅蓮はまだ慣れない台所仕事に苦戦している最中で、彼女は「少しくらいなら」と一人で外に出たのだった。

井戸の縁に足をかけた瞬間、彼女の身体がぐらりと傾いた。

「――あっ」

古びた石畳に足を滑らせ、彩は地面に倒れ込んだ。手をついた拍子に、手のひらが小さな石で切れる。

「痛……」

大した傷ではない。ただの擦り傷だ。それでも、じんわりと血が滲んでくる。

「彩!」

家の中から飛び出してきた紅蓮の声が、思いのほか鋭かった。彼は瞬時に彼女の傍に膝をつき、その手を取った。

「大丈夫か」

「え、あ……はい、ただの擦り傷で――」

「見せろ」

有無を言わさぬ声だった。彩は戸惑いながらも、手のひらを彼に差し出した。

紅蓮は傷口をじっと見つめた。ほんのわずかな切り傷。彼にとっては、取るに足らないほど些細なものだとわかっているはずだった。それでも、彼の眉間には、微かな皺が寄っていた。

「……平気だ、これくらい」

彩は小さく笑おうとした。しかし紅蓮は何も言わず、指先に淡い光を灯した。温かな光が傷口を包み込むと、痛みがすっと引いていく。

「治療魔法、ですか……?」

「大したものじゃない」

素っ気ない答えだったが、彩は彼の指先が、必要以上に優しく自分の手を包んでいることに気づいていた。

「……ありがとう、ございます」

紅蓮は答えず、ただ小さく頷いただけだった。しかし、彼の視線は、彼女が手を引くまで、彼女の手のひらから離れなかった。

その夜、二人は縁側に腰を下ろし、静かな夜空を眺めていた。虫の音だけが、二人の間を満たしていた。

「……あの」

彩が、ぽつりと口を開いた。

「今日は、ありがとうございました。傷のことも、それに――出会った日からずっと」

紅蓮は星空を見上げたまま、答えなかった。彩は少し俯き、続けた。

「わたし、ずっと考えていたんです。どうして、あなたはわたしを助けてくれたのか。この瞳を見ても、怖がらなかった理由も」

「怖がる理由がない」

紅蓮は静かに言った。

「ただの目の色だ。それだけで、お前という人間が変わるわけじゃない」

その言葉に、彩の胸の奥が、じんと熱くなった。これまで誰も、そんな風に言ってくれた人はいなかった。

「……昔から、そうだったんです」

彩は、震える声で語り始めた。

「生まれつき、この瞳の色が違うことで、村ではずっと『不吉の子』と呼ばれてきました。戦に負けるたび、疫病が流行るたびに、わたしのせいにされて……両親も、わたしを見るのが怖いと言って、家を出て行って」

紅蓮は、黙って彼女の言葉に耳を傾けていた。

「だから、誰かにこんな風に見てもらえるなんて、思ってもみませんでした」

彩の瞳に、涙が薄く滲んだ。

紅蓮はゆっくりと手を伸ばし、彼女の頭に優しく触れた。ぶっきらぼうな仕草だったが、そこには確かな温もりがあった。

「もう、一人じゃない」

短い一言だった。しかし彩には、それがどんな言葉よりも心に響いた。

彼女は、彼の肩にそっと頭を預けた。

紅蓮は驚いたように一瞬身を強張らせたが、それを拒むことはしなかった。ただ静かに、彼女の重みを受け止めていた。

夜風が二人を包み、遠くで虫の音が優しく響いていた。

「……紅蓮さん」

「なんだ」

「隣にいても、いいですか。これから、ずっと」

紅蓮は、少しの沈黙の後、小さく口元を緩めた。滅多に見せない、柔らかな表情だった。

「ああ」

それだけの言葉に、彩の心は満たされていった。

星々が瞬く夜空の下、二人はしばらくの間、そのまま寄り添い続けていた。

小さな傷が、二人の間にあった見えない壁を、静かに溶かしていった。

守る者と守られる者ではなく、ただ寄り添う二人として――その夜、確かに何かが変わり始めていた。

しかし紅蓮の胸の奥には、まだ明かされていない秘密が眠っていた。堕ちた竜王という真実、そしていずれ訪れるであろう、天界からの追手――

穏やかな夜は、いつまでも続くわけではないと、彼自身が誰よりも理解していた。

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