第三章:安らぎの家と、欲深き瞳
どこかに根を下ろすということは、初めて“居場所”を得るということだ。
しかし、静けさが訪れる時、必ずそれを乱そうとする者が現れる——欲に取り憑かれた者の目は、いつも美しいものに向けられる。
町での買い物を終えた後、紅蓮は宿を探すことにした。
「ここで少し休むとしよう」
彼が足を止めたのは、町外れにある小さな宿だった。古びてはいるが、静かで落ち着いた雰囲気が漂っている。
宿の主人は彩の瞳に一瞬視線を留めたが、それ以上は何も言わず、部屋の鍵を差し出した。紅蓮の放つ、有無を言わさぬ空気に気圧されたのかもしれない。
部屋に入ると、彩はぎこちなく部屋の隅に立ち尽くした。ベッドは一つしかない。
「あの……」
「俺は床でいい」
彩が何かを言う前に、紅蓮はあっさりとそう告げた。彼女はほっとしたような、それでいて少し複雑な表情を浮かべ、小さく頷いた。
その夜、彩は久しぶりに柔らかい寝床の上で眠りについた。長年感じたことのない安堵が、彼女の中に静かに広がっていた。
翌朝、二人は町の中心部を歩いていた。彩はすでに新しい服にも少しずつ慣れ始め、以前よりも幾分か表情が和らいでいた。
そんな折、豪奢な馬車が二人の傍らで止まった。
「おや、これはこれは。珍しい瞳をお持ちの方だ」
馬車から降りてきたのは、恰幅の良い、絹の衣に身を包んだ商人だった。年齢は四十半ばほどか、指には幾つもの宝石が輝いている。その目は、彩の瞳に注がれたまま、粘着質な笑みを浮かべていた。
彩の身体が、反射的にこわばった。
「わたくし、商会を営むバルトロという者です。お嬢さん、そのお美しい瞳……いえ、あなた自身に、大変興味を持ちましてね」
バルトロは彩の腕に触れようと手を伸ばした。
その手が彼女に届く前に、紅蓮の手が静かにその手首を掴んでいた。
「――っ!?」
バルトロが息を呑む。紅蓮の握力は、痛みというよりも、まるで万力に挟まれたかのような感覚を彼に与えていた。
「彼女に触れるな」
紅蓮の声は、静かだった。しかしその静けさこそが、何よりも恐ろしかった。
バルトロの額に、冷や汗が滲む。
「し、失礼した……! あなたの連れとは知らず……ですが、彼女をわたくしに譲っていただけないだろうか。相応の対価は――」
「彼女は商品ではない」
紅蓮は手を離すと、バルトロを一瞥もせずに言い放った。
「二度は言わない。目障りだ、消えろ」
その一言に込められた圧に、バルトロは震え上がった。護衛たちすら、紅蓮に近づくことを本能的に拒んでいるようだった。
「し、失礼した……!」
商人は逃げるように馬車へと駆け込み、そのまま去っていった。
彩は、呆然とその光景を見つめていた。
「……大丈夫か」
紅蓮が振り返ると、彩は小さく頷いた。しかし、その瞳には戸惑いの色が浮かんでいた。
「どうして、そこまで……」
「気に入らなかったからだ。それだけだ」
紅蓮はぶっきらぼうにそう答え、再び歩き出した。彩はその背中を見つめながら、胸の奥に、何か温かいものが灯るのを感じていた。
その日の午後、二人は宿の近くにある小さな空き家を見つけた。ちょうど町の外れ、静かな通りに面した一軒家だった。
「ここを借りるとしよう」
紅蓮は迷う様子もなく、大家に金を払い、鍵を受け取った。
古びてはいるが、しっかりとした造りの家だった。彩は部屋の中を見回しながら、どこか夢を見ているような表情を浮かべていた。
「わたし……ちゃんとした家に住むの、久しぶりです」
その声は、これまでで一番柔らかいものだった。
紅蓮はその横顔を見つめながら、小さく頷いた。彼にとってもまた、これは慣れない感覚だった――誰かのために「居場所」を作るという行為は。
窓の外では、夕陽が静かに町を染めていた。
欲深き商人の一件は、静かな町にわずかな波紋を残した——「あの瞳の少女に手を出す者は、無事では済まない」という噂と共に。
だが紅蓮にとって、それはどうでもよいことだった。彼の心を占めていたのは、ただ一つ――彩が、初めて心から安らいだ表情を見せたという事実だけだった。
二人だけの家に、静かな夜が訪れようとしていた。




