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第二章:名前と、二つの色を持つ瞳

名を知るということは、始まりの証だ。

しかし彼はまだ、自らの正体を明かしてはいなかった——堕ちた王という重荷を、この少女に背負わせるには、まだ早すぎたから。

【本文】

朝の光が、木々の間から柔らかく差し込んでいた。

昨夜の焚き火はすでに消え、二人は森の小道を並んで歩いていた。彩は昨夜よりも幾分か顔色が良くなっていたが、それでも足取りはまだ重い。

「そういえば、まだ名を聞いていなかったな」

紅蓮が、前を向いたまま口を開いた。

「……彩、です」

小さな声だった。まるで、自分の名を口にすることすら久しぶりであるかのように。

「彩、か」

紅蓮はその名を一度繰り返すと、小さく頷いた。

「俺は紅蓮だ」

彩は一瞬、彼の横顔を見つめた。短く名乗っただけの彼の姿には、それ以上の説明を許さない静けさがあった。彼女はそれ以上、何も尋ねなかった。

そのとき、木々の奥から低い唸り声が響いた。

「……!」

彩の身体が強張った。茂みの奥から、牙を剥いた獣の群れが姿を現す——A級指定、森狼の群れ。人一人など、瞬く間に喰い千切る力を持つ危険種だ。

彩の足はすくみ、動かなかった。衰弱した身体では、逃げることすらままならない。

「大丈夫だ」

紅蓮の腕が、彼女の胸元をふわりと抱き寄せた。守るような、しかしどこまでも自然な仕草だった。

「動くな」

その一言と共に、彼は前へ踏み出した。

彩が瞬きをする間もなく、それは終わっていた。紅蓮の指先が一閃するたび、狼たちの首が宙を舞い、血飛沫すら上げる暇もなく地に伏していく。まるで、庭先の野良犬を追い払うかのような——彼にとってその程度の脅威でしかなかった。

数秒後、森には静寂が戻っていた。

彩は、言葉を失ったまま彼を見つめていた。

「……あなた」

彼女の声が震える。

「……強いんですね」

「当然だ」

紅蓮は素っ気なく答えると、返り血一つ払うことなく歩き出した。自分がかつて天の頂に君臨した竜の王であることは、口にしなかった。まだ、その時ではない。

歩き始めた彼を見て、彩は慌てて声をかけた。

「あの、獣は……持っていかないんですか?」

「なぜ持っていく必要がある? もう死んでいるだろう」

「ギルドで売れます。あれだけの数なら、かなりの金額に」

紅蓮は少し考えるように立ち止まり、それから軽く肩をすくめた。

「……そうか。ならば、持っていくとしよう」

彼は事もなげに狼の群れをまとめて担ぎ上げると、再び歩き出した。彩はその怪力に、もはや驚くことすら諦めたように、ただ黙ってついていった。

昼過ぎ、二人は近くの町に辿り着いた。町の門をくぐる前、紅蓮はフードのついた外套を取り出し、無造作に顔を覆った。

町に足を踏み入れた瞬間、周囲の視線が一斉にこちらへ集まった。

彩の肩が、びくりと強張った。

(また、私の目を……)

彼女は俯きかけた。長年、あの視線に晒され続けてきた身体が、反射的に竦んでしまう。

しかし、人々の視線は彼女ではなく、紅蓮が担ぐ巨大な狼の死骸に注がれていた。ざわめきが広がる。

「おい、あの数……一人で狩ったのか?」

「馬鹿な、A級の群れだぞ……」

紅蓮はその声に構わず、近くを歩いていた住人に声をかけた。

「ギルドはどこだ」

「え、あ……ちょ、ちょっと待っててくれ!」

慌てた様子でその住人が駆け出し、ほどなくしてギルドマスターらしき壮年の男が姿を現した。

「一体何事——」

言いかけて、男は言葉を失った。紅蓮の足元に積まれた狼の群れを見て、目を見開く。

「これを、あんたが……森でこいつらが暴れてるって報告が入ってたばかりだぞ。まさか、一人で……」

紅蓮は淡々と頷いた。ギルドマスターは信じられないという顔のまま、震える手で報酬を差し出した。

「あんた、腕が立つな。どうだ、うちのギルドに——冒険者になる気は?」

「いや」

紅蓮は間髪入れずに断った。

「俺は冒険者ではない」

それだけ言うと、彼は彩を促し、その場を後にした。ギルドマスターは去っていく背中を、しばらく呆然と見送っていた。

町の食堂で、二人は遅い朝食をとった。異世界からの来訪者が営むという評判の店は、異国風の内装と、見慣れない料理の数々で賑わっていた。

彩が椅子に座ると、周囲の視線が再び彼女に集まった。今度こそ、彼女の左右で色の違う瞳に向けられたものだった。

彩は身を縮めるように俯いた。長年染み付いた癖だった。

紅蓮はそれに気づいていたが、あえて何も言わず、ただ料理を彼女の前に置いた。

「食え」

短い一言だったが、そこには何の他意も含まれていなかった。彩はゆっくりと顔を上げ、小さく頷いた。

食事を終えた後、紅蓮は彩を近くの衣料品店へと連れて行った。

「新しい服を選べ」

「え……」

彩は戸惑い、着古した赤い衣の袖を握りしめた。

「でも、これは……」

「遠慮するな」

紅蓮は静かに、しかし有無を言わさぬ調子で促した。彩はしばらく躊躇っていたが、店主に勧められるまま、一着、また一着と手に取っていった。

試着室から出てきた彩の姿に、店内が一瞬静まり返った。

淡い色のワンピースに身を包んだ彼女は、これまでの怯えた少女の面影とは違う、凛とした美しさを纏っていた。艶やかな黒髪が、新しい服の色によく映えている。

彩は自分の姿を鏡に映し、頬をわずかに赤らめた。

「……似合いますか?」

「ああ」

紅蓮は短く、しかし確かにそう答えた。

名前を交わし、初めての力を目にし、そして初めて新しい服に袖を通した一日——

彩にとってそれは、これまでの人生になかった、静かな幸福の欠片だった。

一方、ギルドマスターは去っていく二人の背を見送りながら、確信していた——あの男は、ただの人間ではないと。

そしてこの出会いが、この町に、そして竜の世界に、どのような波紋を広げていくのか——まだ、誰も知らない。

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