第一章:堕ちた竜と、贄の少女
天より堕ちて、二年——。
かつて竜の頂に君臨した者は、記憶の中でしか翼を広げられない。裏切りの夜、彼は光と共に地に堕とされた。そして今、力なき王として、人の街を歩いている。
夕暮れの空が、赤く滲んでいた。
竜王・紅蓮は、閉じていた瞼をゆっくりと開いた。頭の中では、まだあの夜の光景が渦を巻いている——裏切り、堕落、そして墜落。
(……二年、か)
心の中で呟く。あの日から数えて、もう二年が経っていた。それでも、失った力の半分すら、まだ取り戻せていない。人の姿を保つだけで精一杯の日もある。
「まったく、面倒なことだ」
彼は独り言のように呟き、埃っぽい石畳の道を歩き始めた。
そのとき、遠くから鈍い音が聞こえた。鞭が肉を打つ音。そして、押し殺したような呻き声。
紅蓮は足を止め、視線だけをそちらへ向けた。
村の広場——十字の木组みに、一人の少女が縛られていた。
彼女は、ぐったりと項垂れている。艶やかな黒髪だけが、夕陽を受けて美しく光っていた。纏っているのは赤い上衣と、同じ色の裾の長い衣。しかし、その身にはまだいくつかの装飾品が揺れている——かつては大切にされていたことを物語るように。
少女がゆっくりと顔を上げた瞬間、紅蓮は目を細めた。
左右で色の違う瞳。
一つは深い紅、もう一つは澄んだ蒼。異なる色を宿したその瞳が、まっすぐに彼を見つめていた。
彼女もまた、彼を見ていた。
「十万ゴールドだ!」
広場に響いた声に、紅蓮は視線をそちらへ移した。恰幅の良い老人が、下卑た笑みを浮かべて叫んでいた。その目に宿る欲は、隠しようもないほど粗野だった。
兵士が声を張り上げる。
「他に付け値をする者は!」
沈黙が広場を包む。誰も、あの老人に逆らおうとはしない。
紅蓮は、少女の瞳から目を離せずにいた。彼女は痩せ細り、明らかに衰弱している。何週間もまともに食べていない者の顔だ。それでも、あの瞳だけは、まだ何かを訴えるように輝いていた。
「十万プラチナ」
紅蓮の声が、静かに広場に落ちた。
一瞬の静寂。
兵士たちが、次いで爆笑した。
「プラチナ十万だと!? 貴様、正気か!」
「あの女に大金を払うだと、頭がおかしいのか。あの女がこの村にいるせいで、我々はどれほどの戦に敗れてきたと思っている——不吉を招く目だぞ!」
紅蓮は、その嘲笑を涼しい顔で受け流した。彼にとって、金額など路傍の石ころほどの意味も持たない。
「それが俺の意思だ。手続きを進めろ」
彼の声には、逆らうことを許さない静かな重みがあった。老人が何か言いかけたが、兵士たちは面倒くさそうに手続きを済ませ、少女の縄を解いた。
「持っていけ」
投げやりにそう言うと、兵士は少女の背を押した。
彼女はよろめき、力なく前へと倒れ込んだ。とっさに紅蓮が受け止めると、彼女は一瞬、彼の胸に顔を埋めるように抱きついた。
温かい。そして、あまりにも軽い。
しかし彼女はすぐに我に返ったように身を離し、慌てて頭を下げた。
「……すみません」
声は掠れていた。長らく使われていなかった声だ。
紅蓮は何も言わず、ただ彼女の腕を軽く支えると、そのまま村を後にした。
夜になる頃、二人は森の中にいた。
「あ、あの……この森は……」
少女の声が震えていた。この森にまつわる恐ろしい噂を、彼女もよく知っているのだろう——凶暴な獣が棲み、迷い込んだ者は二度と戻らないという。
「心配するな」
紅蓮は、木の傍ら、川のせせらぎが聞こえる場所で足を止めた。彼が指先を軽く動かすと、枯れ枝に炎が灯り、静かな焚き火が二人を照らし始めた。
少女は目を丸くして、その火を見つめていた。
紅蓮は手早く食事の準備を始めた。彼女のために器を差し出す。
少女は、その器をじっと見つめたまま、何も言わなかった。まるで、それを受け取ることさえ躊躇っているかのように。
「怖がるな。俺は、あいつらとは違う」
紅蓮は短くそう言うと、自分の分の食事を食べ始めた。
少女はしばらくその横顔を見つめていたが、やがて小さく手を伸ばし、器を受け取った。一口、また一口——次第にその手の動きは早くなり、気づけば夢中で食べ続けていた。
何週間もの飢えが、彼女の中で堰を切ったように溢れ出していた。
紅蓮は何も言わず、ただ静かにその様子を見守っていた。焚き火の火は、川面に映る星々と共に、二人を静かに照らし続けていた。
この夜、竜王は知らなかった——己が拾い上げたこの少女が、これから先の運命を、大きく揺るがすことになるとは。
そして少女もまた、知らなかった。この静かな男が、天より堕ちた竜の王であることを。
森の奥で、小さな焚き火が二つの孤独を、そっと繋ぎ始めていた。




