第二十章:痕跡と、生き残った者
深層に刻まれた爪痕は、そこで何が起きたのかを、雄弁に物語っていた。
絶望の淵に残された、小さな命の灯――それを見つけることもまた、二人の使命だった。
十五階層の通路は、これまでの階層とは明らかに異なる、重苦しい気配に満ちていた。壁面には、深く抉られたような爪痕が幾筋も刻まれている。
「これは……」
彩が、その痕を見つめながら、声を震わせた。
「かなりの力を持つ何かが、暴れた跡だな」
紅蓮は、爪痕の深さを確かめるように、指先でなぞった。人間の武器で付けられるものとは、明らかに異なる痕跡だった。
さらに進むと、開けた空間に差し掛かった。そこには、崩れた天幕や、壊れた武器、散乱した荷物が残されていた。
「野営地の跡、でしょうか」
「行方不明になった、ギルドの冒険者たちのものかもしれない」
紅蓮は、慎重に周囲を見渡した。血痕らしきものが、地面に点々と残されている。しかし、遺体は見当たらなかった。
「彩、油断するな」
「はい」
彩は短剣を握りしめ、紅蓮の後に続いた。
野営地の奥、崩れた岩の隙間から、微かな呻き声が聞こえてきた。
「――っ! 誰か、いるようです!」
彩が声を上げると、紅蓮はすぐさまその場所へと向かった。岩の隙間に、一人の男が横たわっていた。ギルドの紋章が刻まれた装備は、無残に破損している。全身には、深い傷が刻まれていた。
「しっかりしろ!」
紅蓮が声をかけると、男はうっすらと目を開けた。
「……ま、また、化け物が……」
譫言のように呟く男に、彩はすぐさま鞄から回復薬を取り出した。
「大丈夫です、助けが来ました。これを飲んでください」
彩が回復薬を男の口元へと運ぶと、男はかろうじてそれを飲み込んだ。淡い光が傷口を包み込み、みるみるうちに出血が止まっていく。
しばらくして、男の呼吸が、幾分か安定した。
「……ここは」
「十五階層だ。お前は、行方不明になっていたギルドの冒険者か」
紅蓮が尋ねると、男は弱々しく頷いた。
「そうだ……俺たちは、この階層の調査に来て……だが」
男の表情に、恐怖の色が浮かんだ。
「深層の主が、目を覚ましたんだ」
「深層の主?」
彩が、聞き慣れない言葉に眉を寄せた。
「本来なら、もっと下の階層で眠っているはずの存在だ……。だが、何かのきっかけで、目覚めてしまった。それ以来、あの化け物の眷属たちが、次々と上の階層に溢れ出るようになった」
紅蓮は、静かにその言葉を聞いていた。
「その主とやらは、何者だ」
「分からない……。だが、途方もない力を持っている。俺たちのパーティーは、ほとんどが……」
男は、そこで言葉を詰まらせた。仲間を失った事実を、口にすることすら辛いのだろう。
彩は、その苦しみに寄り添うように、そっと男の手を握った。
「よく、生き延びてくれました。もう、大丈夫です」
男の目に、微かな涙が浮かんだ。
「他に、生存者は?」
紅蓮が尋ねると、男は力なく首を振った。
「分からない……。俺は、崩れた岩の隙間に逃げ込んで、なんとか生き延びただけだ。他の仲間が、どうなったのかは……」
「そうか」
紅蓮は、深く息を吐いた。彼は懐から、もう一枚の脱出スクロールを取り出し、男に握らせた。
「これを使え。ギルドまで、直接転移できる」
「あ、あなたは……?」
男が驚いたように尋ねると、紅蓮は短く答えた。
「この異常事態を調査しに来た者だ。お前は、もう休め」
男は、震える手でスクロールを握りしめた。
「……頼む。深層の主を、止めてくれ。このままでは、いずれこの迷宮は、王都にまで被害を及ぼすことになる」
「分かっている」
紅蓮が頷くと、男はスクロールを発動させた。淡い光と共に、彼の姿が掻き消えた。
男が去った後、彩は静かに紅蓮を見上げた。
「深層の主……ですか」
「厄介な相手のようだな」
紅蓮の表情には、これまでにない緊張感が滲んでいた。
「彩、覚悟はいいか。この先、さらに危険な戦いが待っているかもしれない」
彩は、短剣を握る手に力を込めた。
「はい。あなたと一緒なら、どんな相手だろうと、立ち向かえます」
その言葉に、紅蓮は静かに頷いた。彼は彩の手を取り、しっかりと握りしめた。
「行くぞ。深層の主とやらの、正体を暴きに」
二人は、崩れた野営地を後にし、さらなる深層へと足を踏み入れていった。薄暗い通路の奥から、禍々しい気配が、確かに二人を待ち受けていた。
生存者から語られた「深層の主」の存在――それは、これまでの脅威とは、明らかに一線を画すものだった。
失われた仲間たちの無念を胸に、二人はさらなる深層へと歩を進めていく。
紅蓮の心には、一つの確信があった。この迷宮の異常事態の裏に、単なる偶然以上の何かが潜んでいるという確信が。
そして、その真実に近づくにつれ、二人を待ち受ける運命は、より大きな試練へと姿を変えていくことになる。




