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第五章:荷物多すぎ問題

三月。


 別れと出会いが交錯する季節。窓の外では、春の訪れを拒むかのような冷たい雨が、容赦なくアスファルトを叩いている。そんな湿っぽく沈んだ空気など、たった一つの笑顔で、いとも簡単に塗り替えられてしまうことを、伸也はその日、思い知らされることになった。


アパートの狭い玄関に、重々しい音が響く。ドスン、ドスンと、伸也の半年分の生活が詰まっていそうな巨大なスーツケースが二つ、誇らしげに置かれた。


「お邪魔します。半年間、本当によろしくお願いします!」


そこに立っていたのは、眩しすぎるほどの清潔感を纏った拓海だった。雨の中を移動してきたはずなのに、彼の白いシャツには一滴の泥跳ねもなく、髪もセットされたままの完璧な状態を保っている。


 拓海が放った「笑顔一二〇パーセント」の威力は凄まじかった。迎え入れた伸也の母は、その瞬間、手に持っていたお玉を落とさんばかりに顔を輝かせた。


「まあまあ! 拓海くん! わざわざそんな丁寧な挨拶なんていいのよ! さあ、冷えないうちに上がって!」


母のテンションは、まるでお気に入りのアイドルを至近距離で迎え入れる女子高生のようだった。普段、伸也には「早く起きなさい」と小言ばかりの母が、今日は声のトーンが二オクターブほど高い。伸也は、その変わり身の早さに呆れながら、玄関の隅で小さくなっていた。


拓海の母親は、一族の中でも有名なキャリアウーマンだ。シングルマザーとして、男手一つ……ならぬ「女手一つ」で、大手企業の要職をこなしながら拓海を育て上げてきた。その多忙を極める母親を支えるため、拓海が幼い頃から家事全般を引き受けてきたことは親戚の間でも有名な話だ。


「拓海くんがいなかったら、あの家は回らないわよね」


 そんな叔母たちの言葉を思い出しながら、伸也は自分の部屋の隣にある、昨日まで物置同然だった六畳間を見つめた。今日からそこは、完璧な従兄の城になるのだ。


「伸也、悪いけど、少しだけ荷解きを手伝ってくれないかな?」


拓海が、困ったような、それでいて親密さを感じさせる柔らかな口調で言った。


「……なんで俺が」


 喉元まで出かかった文句を、伸也は飲み込んだ。逆らえない。それが伸也の悲しい性分であり、拓海の持つ「断らせない空気」の成せる業だった。


渋々、ガムテープを剥がし、段ボールのベロを開ける。中を覗き込んだ伸也は、思わず絶句した。


「お前……これ、本当に大学生の荷物かよ」


 中から出てきたのは、辞書のように分厚い、革装丁の洋書。使い込まれているが手入れの行き届いた、高級ブランドの腕時計コレクション。そして、ラベルを見るだけで庶民には手が出ないと分かる、琥珀色に輝くウイスキーの瓶。


「お前、まだインターンだろ……。なんだよこの、一流企業の社長室みたいなラインナップは」


「え? そうかな。普通でしょ。本は勉強用だし、お酒は……まあ、たしなむ程度だよ」


 拓海は悪びれる様子もなく、爽やかに笑う。


「あ、伸也。その時計は、母さんが初任給で買った大切なものなんだ。傷つけないように扱ってくれると嬉しいな」


 その言葉に、伸也は慌てて手を止めた。拓海の言葉には、いつも「正論」という名の重みがある。母親想いの健気な息子というカードを出されては、これ以上茶化すこともできない。


作業を進めるうちに、それまでホコリっぽかったはずの六畳間に、ある変化が訪れた。


 拓海が荷物を広げるたびに、彼の愛用している香水と、清潔感のある柔軟剤の香りが、部屋の隅々にまで充満していく。それは、伸也が持っている安物の消臭剤とは根本的に異なる、洗練された「都会の匂い」だった。


 伸也はため息をつき、早くも胃のあたりに鈍い痛みを感じていた。この完璧な男と、たった一枚の壁を隔てて半年も暮らす。その事実だけで、自分の生活が根底から覆されていくような、静かな恐怖があった。


「よし、あらかた片付いたな。ありがとう、伸也。助かったよ」


一段落つくと、拓海はふいに、整理されたばかりのカバンから、丁寧に畳まれた布切れを取り出した。


 それは、見慣れない……しかし、妙に仕立ての良さそうな「エプロン」だった。  拓海はそれを迷いのない動作で首にかけ、腰紐を慣れた手つきでキュッと結んだ。そのシルエットは、どこかのキッチンスタジオから飛び出してきた料理研究家のようだ。


「今日から、俺が晩飯を作るよ。叔母さんも、引っ越しの受け入れ準備とかで疲れているだろうし」


「えっ、拓海くんが!? そんな、悪いわよ! お客様なのに!」


キッチンから駆け寄ってきた母が、恐縮して手を振る。しかし、拓海はすでにキッチンの換気扇のスイッチを入れ、冷蔵庫の中身を確認し始めていた。


「いいんですよ。家の母さんも忙しくて、夜は僕が作ることが当たり前でしたから。料理は僕にとっての息抜きなんです。叔母さんに、僕の得意料理を食べてほしくて」


 その完璧な台詞に、母はもうメロメロだった。


「まあ! 理想の息子だわ!」と、頬に手を当てて感動している。


「あ、伸也。お前は料理できないだろ? 包丁持たせると危ないし、邪魔だから向こうで座ってな。あ、それと勇太に漢字ドリルでも教えてやってよ」


拓海は爽やかな笑顔のまま、一切の淀みなく伸也を「邪魔者」として認定した。その言い方は決して攻撃的ではない。むしろ、「不器用な弟を思いやる兄」としての優しさに満ちていた。


 それなのに、伸也はあっさりと自分の家のキッチンから追放されてしまった。


リビングに追いやられた伸也は、ソファーに座りながら、キッチンの様子を眺めるしかなかった。


 トントントン、と心地よいリズムでまな板を叩く音。  ジュッ、と香ばしい匂いと共に上がる湯気。  拓海はまるでもともとこの家の主であったかのように、滑らかな動線で料理を作り上げていく。母は横で、「あら、そんな切り方があるの?」「隠し味は何?」と、拓海との会話を心底楽しそうに弾ませている。


そこにあるのは、間違いなく「幸せな家庭」の光景だった。


 だが、伸也はその中心に自分が入れないことに、言いようのない疎外感を覚えた。


 拓海という「光」がやってきたことで、今まで自分たちが営んできた不器用で、しかし平穏だった生活が、一瞬にして「改善すべき対象」に書き換えられてしまったかのような。


 拓海は何も悪くない。むしろ、至れり尽くせりの完璧な振る舞いだ。母親への気遣いも、家事の能力も、すべてが称賛されるべきものだ。


「伸也、お茶淹れたから。あと、これ、勇太が描いた絵だよ。見てやって」


 拓海がキッチンから、丁寧に淹れられた緑茶と、勇太が持ってきた自由帳を差し出してきた。


 その指先は綺麗で、エプロン姿さえも一つのファッションのように着こなしている。


伸也は、差し出された茶碗の温もりに指先を這わせながら、これから始まる半年間に思いを馳せた。


 外では依然として春の雨が降り続いていたが、部屋の中は拓海の存在によって、異常なほどに明るく、温かかった。その温かさが、伸也には少しだけ息苦しかった。  完璧な従兄、拓海。


 彼の「優しさ」という名の侵食が、今、静かに、そして誰にも止められない勢いで始まったのだ。


「いただきます」


 食卓に並んだ料理は、彩り豊かで、プロが作ったような見栄えだった。


 母の歓声が響く中、伸也は一口だけ料理を口に運んだ。  悔しいほどに、美味しかった。

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