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第9話 食べない子には、理由があるはずです

 翼竜は、少しずつ食べるようになった。


 けれど、スライムは何も食べなかった。


 翌朝も、その次の朝も。


 リリィが小屋の外へ出ると、腐敗色のスライムは同じ場所にいた。


 少し離れた木陰。


 輪郭の一部が崩れ、地面へ溶け出しているような姿のまま、こちらを見ている。


「おはようございます」


 リリィが声をかけても反応はない。


 ただ、逃げもしなかった。


 足元には昨夜置いた皿がある。


 中身はそのまま。


 一口も減っていない。


「これも駄目でしたか……」


 リリィは皿を回収した。


 三日目だった。


 最初は木の実を柔らかく煮たもの。


 次は、もう少し甘い果実。


 今日は水分を多く含んだ森の実を潰し、薄く伸ばしたものを用意していた。


「スライムって、何を食べるんでしょう」


 屋敷にいた頃、野生のスライムを詳しく観察したことはない。


 そもそも伯爵家では、魔物は討伐するか使役するものだった。


 弱っている魔物へ食事を与える人間など、ほとんどいなかった。


 リリィは新しい皿をスライムの前へ置いた。


「昨日より柔らかいですよ」


 反応はない。


「甘い方が好きだったりします?」


 やはり動かない。


 しばらく待ったが、スライムは食事ではなくリリィを見ているだけだった。


「……まだ怖いのかな」


 無理に近づくのはやめた。


 銀狼も最初はそうだった。


 食べ物を置いても、こちらを警戒してなかなか口をつけなかった。


 新しく来た翼竜も、最初の一口まで時間がかかった。


 この子は、もっと警戒心が強いのかもしれない。


「急がなくていいですからね」


 リリィは立ち上がった。


「食べたくなったら食べてください」


 小屋へ戻る。


 中では翼竜が寝床から顔を上げていた。


 黒紫色に変色した翼はまだ痛々しい。


 ただ、来た夜より顔つきは明らかに違っている。


「こっちは朝ご飯ですね」


 リリィが鍋を手にすると、翼竜が身体を起こした。


 銀狼もすぐ近くへ来る。


「あなたは食べたでしょう」


 銀狼は鍋を見る。


「これはこの子のです」


 それでも動かない。


「見ていても増えませんよ」


 銀狼は仕方なさそうに寝床の横へ座った。


 翼竜は、そんな銀狼をちらりと見る。


 最初の夜は互いに威嚇していた二匹だが、今は同じ小屋にいることを受け入れ始めているようだった。


 リリィは翼竜の状態に合わせ、昨日より少しだけ肉を増やした。


 根菜を柔らかく煮、水分も多めにする。


 食事を置くと、翼竜はすぐに口をつけた。


「ゆっくりですよ」


 勢いはある。


 ただし、以前のような焦る食べ方ではない。


 途中で止まり、水を飲み、また食べる。


 食事が終わった頃には、器の中身はきれいになくなっていた。


「今日も完食ですね」


 リリィは翼竜の頭へ触れようとして、一度止まった。


 まだ直接触られることには慣れていない。


「翼を見てもいいですか?」


 翼竜がこちらを見る。


 以前ならすぐ牙を見せていた。


 今は少し身を固くするだけだ。


 リリィはゆっくり翼へ手を伸ばした。


 黒紫色の翼膜。


 最初に見た時は硬く縮み、ほとんど広げられない状態だった。


 今は少し柔らかさが戻っている。


 傷も乾き始めていた。


「食事が効いてますね」


 銀狼と同じだ。


 身体そのものが回復するにつれて、呪いに侵された部分にも変化が出ている。


 リリィは翼の付け根へ目を向けた。


「ちょっと動かしてみます?」


 翼竜が首を傾げる。


「痛かったらすぐやめましょう」


 リリィは少し離れた。


 翼竜が右の翼を動かす。


 ゆっくり。


 まだ半分にも満たない。


 だが以前より明らかに開いた。


「すごい!」


 リリィが思わず声を上げる。


 驚いた翼竜が翼を閉じた。


「あ、ごめんなさい」


 銀狼がこちらを見る。


「嬉しくて」


 翼竜も少し不満そうだった。


「でも無理はしません。今日はそこまでです」


 もっと動かせるかもしれない。


 けれど、できるからといって続ける必要はない。


 少しずつ。


 その子の身体に合わせる。


 それが一番大切だ。


 昼になると、リリィは再びスライムのところへ行った。


「……やっぱり」


 朝に置いた食事は減っていなかった。


 スライム自身もほとんど場所を変えていない。


「甘いものも違うんですね」


 リリィは考えた。


 果物。


 柔らかい木の実。


 水分の多い食事。


 どれも駄目。


「じゃあ……魔力?」


 この森の食材には、普通の土地より強い魔力が含まれている。


 銀狼や翼竜の回復が速い理由の一つでもあるはずだ。


 なら、もっと魔力の強いものなら反応するかもしれない。


 リリィは以前見つけていた青い木の実を思い出した。


 触るとわずかに温かく、暗い場所ではほんのり光る。


 魔力が強いことは明らかだったので、自分ではまだ食べていない。


「少しだけなら試せるかな」


 実を一つだけ取り、潰して皿へ入れる。


 スライムの前へ置いた。


「これは今までと違いますよ」


 スライムは動かない。


 リリィは少し離れた場所へ座った。


 一分。


 二分。


 五分。


 何も起こらない。


「食べ物の種類じゃないのかな……」


 思わず口にする。


 そこで気づいた。


 スライムはずっとこちらを見ている。


 皿を見た様子が、一度もない。


 食べ物を置いた時も。


 種類を変えた時も。


 ずっと。


 リリィだけを見ていた。


「……食べたいわけではない?」


 呟く。


 その時、スライムの輪郭がわずかに揺れたように見えた。


「え?」


 リリィは身を乗り出した。


「今、動きました?」


 もう一度見ても、何も変わらない。


 見間違いだったのかもしれない。


 そもそもスライムの身体は柔らかい。風でも揺れるだろう。


「何をしてほしいんでしょう」


 聞いても答えはない。


 リリィは困った。


 具合が悪いなら、何かしたい。


 食べられないなら理由を探したい。


 けれど本人が何を必要としているのか分からなければ、勝手に決めつけるのも違う。


 前の自分なら、どうしていただろう。


 ふと考える。


 もっと試したかもしれない。


 もっと方法を探したかもしれない。


 何か結果が出るまで、止まれなかったような気もする。


 リリィは皿を見た。


「……今日はやめましょう」


 魔力の実を回収する。


「無理に食べさせるのは違いますよね」


 スライムへ向き直った。


「まだ私を警戒しているのかもしれませんし」


 銀狼だって時間がかかった。


 翼竜もそうだった。


 この子には、この子の時間があるのだろう。


「来たくなったら、もう少し近くまで来てもいいですよ」


 リリィはそれだけ言って戻った。


 その日も、スライムは木陰から動かなかった。


 翌朝。


 リリィが小屋の扉を開ける。


「おはようござい――」


 言いかけて止まった。


 スライムがいる。


 昨日より少しだけ小屋に近い。


「……来たんですか?」


 反応はない。


 けれど昨日までいた木の根元から、ほんの数歩分だけ距離が縮まっていた。


 リリィは笑った。


「おはようございます」


 食事を食べなくても。


 まだ触れられなくても。


 少なくとも、ここへ来ること自体は嫌ではないらしい。


 その後も、朝になるとスライムは小屋の近くへ現れた。


 食事には口をつけない。


 リリィが作業している時は、少し離れた場所から見ている。


 そして夕方になると、森の木陰へ戻る。


 奇妙だった。


 けれどリリィは、それ以上急がないことにした。


 一方、翼竜の回復は順調だった。


 数日後。


 小屋の前でリリィが見守る中、翼竜は再び翼を広げた。


 右。


 左。


 黒紫色は残っている。


 それでも今度は、両方の翼が大きく開いた。


「そこまで!」


 リリィが声をかける。


 翼竜は素直に翼を畳んだ。


「今日は十分です」


 銀狼が横から翼竜の匂いを嗅ぐ。


 翼竜が軽く鼻先で押し返す。


 もう喧嘩にはならない。


「いい感じですね」


 リリィは二匹を見て笑った。


 そして少し離れた木陰を見る。


 そこには今日も、スライムがいる。


 翼竜は良くなっている。


 銀狼も元気になった。


 なのに、あの子だけは何も変わらない。


 その違いが少しだけ気になった。


 けれど、今はまだ答えが出なかった。


     *


 同じ頃。


 森から遠く離れたアークライト伯爵家では、朝から怒鳴り声が響いていた。


「どういうことだ!」


 バルガスが執務机を叩く。


 机の前には、魔獣飼育を担当する使用人が青ざめた顔で立っていた。


「昨日までは、確かに歩いておりました。治癒術師にも診せています。傷もありません」


「なら、なぜ倒れる!」


「それが……分かりません」


 バルガスの眉間に深い皺が刻まれた。


 最近、屋敷では妙なことが続いている。


 使用人の体調不良。


 飼育している魔獣の食欲低下。


 怪我でも病気でもないのに、日に日に元気を失っていく個体。


 治癒魔法をかければ、一時的には良くなる。


 それなのに、また悪くなる。


「治癒術師をもう一度呼べ!」


「それが……」


「何だ」


 使用人は一度唾を飲み込んだ。


「旦那様。また一頭、魔獣が倒れました」


 バルガスの顔から怒りが消えた。


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