第8話 患者さんが、一度に二匹来ました
小屋の前に落ちてきた幼い竜は、リリィが近づいた瞬間、鋭く牙を剥いた。
「ギャアッ!」
「わっ」
リリィは反射的に足を止めた。
銀狼がすぐ前へ出る。
「グルル……」
低い唸り声。
銀狼の身体に残っている黒い靄が膨らみ、幼竜を威嚇するように揺れる。
「待ってください」
リリィは銀狼の背中へ手を置いた。
「この子、怪我をしています」
銀狼は振り返らない。
目の前の幼竜から視線を外さず、低く唸り続けている。
「分かっています。怖いですよね。でも、まず状態を見ます」
幼竜は小さいといっても、リリィより身体が大きい。
頭から尾までなら二メートルほどあるだろう。
灰色の鱗。
細い四肢。
そして、身体に対して大きすぎる二枚の翼。
その翼がおかしかった。
本来なら薄く柔らかいはずの翼膜が、黒紫色に変色している。まるで火で焼かれた布のように縮み、一部には裂け目まであった。
しかも身体そのものがひどく痩せている。
「まず、あなたですね」
リリィはしゃがんだ。
幼竜が牙を鳴らす。
「近づきませんから」
呼吸を見る。
速い。
だが意識はしっかりしている。
こちらを威嚇する力も残っている。
翼から大量に出血している様子はない。
脚も動く。
ただし、立とうとすると身体が揺れた。
「栄養も足りてない……」
銀狼を見つけた時と似ている。
傷だけが問題ではない。
長い間、十分な食事を取れていないのだろう。
そこまで確認してから、リリィは木陰へ目を向けた。
もう一匹。
腐敗した泥のような色をしたスライムが、相変わらずそこにいる。
輪郭は不自然に歪み、身体の端が地面へ溶け出しているようにも見える。
けれど苦しそうに暴れてはいない。
逃げもしない。
ただ、じっとリリィを見ている。
「そっちも気になるんですけど……」
二匹を交互に見る。
どちらから診るべきか。
リリィは少しだけ迷った。
その瞬間、頭の奥に懐かしい感覚が戻ってくる。
白い部屋。
何人もの人。
全員が助けを必要としている。
でも、全員を同時には見られない。
だから。
今すぐ命に関わる人から。
「……順番」
リリィは小さく呟いた。
ここにいるのは人間ではない。
けれど考え方は同じだ。
幼竜は呼吸が速く、翼を傷め、栄養状態も悪い。
一方、スライムは異様な姿ではあるものの、今すぐ状態が急変しているようには見えない。
「先に、この子です」
リリィが幼竜を指すと、銀狼が振り向いた。
「順番です」
リリィは銀狼へ説明した。
「向こうの子もあとで見ます。だから今は、この子を怖がらせないでください」
銀狼は幼竜を見る。
幼竜も牙を剥く。
二匹の間にぴりぴりした空気が流れた。
「喧嘩したら、二匹ともご飯は後です」
銀狼の耳がぴくりと動いた。
幼竜には通じていないだろう。
しかし銀狼は、渋々といった様子で一歩後ろへ下がった。
「ありがとうございます」
リリィは幼竜へ向き直った。
「今から少しだけ近づきますね」
「ギャッ!」
「嫌ですよね。でも翼を見ないと困ります」
一歩。
幼竜が身を縮める。
もう一歩。
牙は見えている。
それでも飛びかかってはこない。
リリィは手を伸ばさず、まず近くから翼を観察した。
黒紫色の部分は、ただ焦げているわけではなかった。
皮膜の内側から染み出したような色だ。
「これも……黒い靄と似てる?」
銀狼が呪具によって変わっていたことを思い出す。
この幼竜にも、人為的な何かが起きたのかもしれない。
ただ、それを調べるのは後だ。
今は、この子が今夜を越えられる状態にする。
リリィは用意したばかりの傷病個体用の場所を見た。
「昨日、片づけておいてよかった……」
まさか翌日に使うことになるとは思わなかったが。
問題は、どうやって入ってもらうかだった。
「歩けますか?」
幼竜が身体を起こそうとする。
前脚を立てる。
後ろ脚も。
一瞬立ち上がったが、すぐによろめいた。
「無理しなくていいです」
リリィが近づこうとした時、銀狼が動いた。
「え?」
幼竜の横へゆっくり回り込み、逃げ道を塞がない距離で止まる。
そして小屋の入口を見る。
幼竜を見る。
もう一度、入口を見る。
「案内してくれるんですか?」
銀狼はそのまま数歩進んだ。
幼竜が警戒しながら見ている。
やがて、ふらつきながら銀狼の後を追い始めた。
「すごい」
リリィも慌てて続く。
途中で二度ほど休んだものの、幼竜は自分の脚で小屋まで入った。
昨日作ったばかりの奥の場所へ横になる。
「ちゃんと使ってくれましたね」
リリィは嬉しくなったが、すぐ作業へ移った。
まず水。
小さな器へ入れて置く。
幼竜は警戒したまま飲まない。
そこで銀狼が自分の水皿へ顔を近づけ、何度か舐めた。
幼竜がそれを見る。
しばらくして、恐る恐る自分の皿へ鼻先を寄せた。
一口。
もう一口。
「飲めました」
リリィは声を抑えた。
褒めすぎて驚かせない。
次は食事だ。
銀狼に作っているものを、そのまま与えるわけにはいかない。
竜と狼では身体の作りが違う。
しかも初めての食事だ。
「最初は少なめですね」
肉を細かくし、しっかり煮る。
森で採った柔らかい根菜を少量。
水分を多くして、食べやすくする。
鍋が煮える間、リリィは何度も幼竜の様子を確認した。
銀狼はその少し離れた場所へ座っている。
いつもなら鍋のすぐ横まで来るのに、今日は幼竜の方を見ていた。
「心配なんですか?」
銀狼の耳が動く。
「昨日までは自分が患者さんだったのに」
今ではすっかり先輩の顔だ。
リリィは小さく笑った。
食事を冷まし、幼竜の前へ置く。
「食べられそうですか?」
幼竜は匂いを嗅いだ。
牙を見せる。
「取ったりしませんよ」
リリィは少し離れる。
幼竜は皿を見ている。
銀狼を見る。
また皿を見る。
なかなか食べない。
「警戒してるのかな……」
その時だった。
銀狼が自分の空になった皿を鼻先で押した。
ころん、と音を立てる。
そして幼竜を見る。
「まさか、食べても大丈夫って教えてるんですか?」
偶然かもしれない。
けれど幼竜は、再び皿へ顔を近づけた。
舌がスープに触れる。
一口。
すぐ顔を上げる。
何も起きない。
もう一口。
今度は肉も口へ入った。
「食べた……」
それからは少しずつ早くなった。
まだ勢いよくとはいかない。
途中で休みながら、それでも皿の三分の二ほどを食べる。
「十分です」
リリィは残ったところで皿を下げた。
「今日はこれくらいにしましょう」
幼竜は不満そうに皿を見る。
その反応に、リリィは安心した。
「もっと食べたいなら、明日また作ります」
食欲がある。
それだけでも大きい。
幼竜は寝床へ伏せた。
銀狼もその横から少し離れた場所へ座る。
まるで見守っているようだった。
「あなた、本当に先輩みたいですね」
リリィが銀狼の頭を撫でる。
数日前はこの子自身が、牙を剥きながら食事を拒んでいた。
今では新しい患者が食べるのを見届けている。
「元気になるって、すごいですね」
ようやく一段落した。
そこでリリィは、小屋の外を見た。
「……もう一匹」
忘れていたわけではない。
木陰のスライムだ。
外へ出る。
夜はすっかり深くなっている。
それでもスライムは同じ場所にいた。
逃げていない。
近づいてもいない。
「待たせてごめんなさい」
リリィは少し離れた場所へしゃがんだ。
近くで見ると、やはり不思議な姿だった。
普通のスライムなら、透明感のある身体をしている。
この子は違う。
濁った緑褐色。
ところどころ色が黒ずみ、輪郭も崩れている。
「どこか痛いんですか?」
反応なし。
「お腹は空いています?」
反応なし。
声が届いているのかすら分からない。
「……まず、ご飯を試してみましょうか」
幼竜に作ったものとは別に、木の実を柔らかく煮たものを少量用意した。
スライムが何を食べるか知らない。
だから刺激の少なそうなものから試す。
小さな皿を、手が届かない程度の距離へ置いた。
「ここに置いておきますね」
スライムは動かない。
ただ、リリィを見ている。
「怖かったら、私がいなくなってから食べても大丈夫です」
それだけ言って小屋へ戻った。
幼竜の呼吸を確認し、銀狼にも寝るよう言ってから、リリィ自身も横になった。
今日は一気に二匹も増えた。
明日からもっと忙しくなる。
そう思いながら眠りについた。
翌朝。
目を覚ましたリリィは、まず幼竜を確認した。
眠っている。
呼吸も昨夜より落ち着いている。
「よかった」
次に外へ出る。
スライムは昨日と同じ木陰にいた。
「おはようございます」
そして皿を見る。
リリィの足が止まった。
「……あれ?」
昨夜置いた食事が、そのまま残っている。
一口も。
ほんの少しさえ。
減っていなかった。
リリィはスライムを見る。
スライムもまた、昨日と同じように。
食事ではなく、リリィだけをじっと見つめていた。




