第7話 まずは、この家を病気にならない家にします
森の奥から響いた大きな鳴き声を聞いた翌朝、リリィが最初に始めたのは武器作りではなかった。
大掃除だった。
「新しい子が来るかもしれませんから」
小屋の前で袖をまくると、銀狼が不思議そうに首を傾げた。
昨日の鳴き声の主が何者なのかは分からない。怪我をしているのか、本当にこちらへ来るのか、それすら分からなかった。
けれど、もし助けを必要とする魔物が現れた時、この小屋では狭すぎる。
それ以上に問題なのは、汚いことだった。
自分と銀狼だけで暮らすなら、その都度掃除すれば何とかなる。しかし傷ついた魔物が増えれば話は違う。
「怪我をしている子を、この床へ直接寝かせるわけにはいきません」
リリィは小屋の中を見回した。
最初に来た日は、雨風をしのげるだけでありがたかった。
今見ると問題だらけだ。
床板の隙間には泥が入り込み、壁際には古い布や藁が積まれている。暖炉の横には食料と薪が一緒に置かれ、飲み水の桶もすぐそばだ。
「まず、分けましょう」
何をどこへ置くのか。
それを決めるところから始めた。
入口に近い右側は、汚れても掃除しやすい場所。
奥の暖炉近くは寝床。
食べ物は棚を直して床から離す。
飲み水は蓋のできる容器へ入れる。
使用済みの布や汚れたものは、きれいなものと絶対に混ぜない。
頭の中で次々と決まっていく。
どうしてそこまで気になるのかは、もう少し分かってきていた。
前の自分は、病気や怪我をした人たちの世話をしていた。
それだけではない。
病気を広げないため、清潔なものと汚れたものを分けることを何度も繰り返していた。
「治してから考えるんじゃ遅いこともあるんですよね」
銀狼へ説明しながら、古い布を外へ運ぶ。
銀狼も後ろをついてきた。
「これは捨てるものです」
床へ置いた古い布を示す。
銀狼が鼻を近づける。
「汚いので触らないでください」
銀狼は布の端を咥えた。
「あ」
次の瞬間、そのまま小屋の外へ走っていく。
「ちょっと!」
リリィが追いかけると、銀狼は布を咥えたまま得意そうに振り返った。
「それは遊ぶものじゃありません!」
尻尾が大きく動く。
「返してください!」
銀狼が逃げる。
数日前までまともに歩けなかったとは思えない。
「走るのもまだ禁止です!」
結局、小屋の周りを半周してから布を取り返した。
リリィは肩で息をしながら銀狼を睨んだ。
「元気になったのは嬉しいですけど、患者さんは言うことを聞いてください」
銀狼は座っている。
反省しているようには見えない。
「……次やったら朝ご飯を少し遅らせますよ」
耳がぴんと立った。
「そこには反応するんですね」
ようやく掃除へ戻る。
まず床の泥と埃を掃き出した。
次に寝床。
乾いた草を新しく集め、日当たりのいい場所で一度しっかり乾燥させてから使う。
湿った寝床は身体を冷やす。それに、嫌な匂いも残りやすい。
銀狼が使っている寝床も一度全部外へ出した。
「今日はこちらを干します」
銀狼が自分の布を見ている。
「夜までには戻しますから」
少し不安そうなので頭を撫でておいた。
次は水場だった。
小屋から沢までは近い。
それ自体は便利なのだが、これまでリリィは洗い物も水汲みも同じ場所でしていた。
さらに森の動物が水を飲む場所も近い。
「これもよくないですね」
少し上流を飲み水専用にする。
洗い物は下流。
汚れた布をすすぐなら、さらにその下。
そして排泄する場所は沢から十分離す。
簡単な印を木へつけながら、区域を決めていく。
銀狼もついてきた。
「こっちがお水です」
銀狼を見る。
「そっちは駄目ですよ」
狼にどこまで通じているのか分からない。
だが、この子は思っているよりずっと賢い。
リリィが飲み水を汲む場所では、沢へ直接入らず岸から水を飲むようになった。
「分かってるんですね」
頭を撫でる。
銀狼が得意そうに胸を張った気がした。
昼までに、水と寝床の整理は終わった。
リリィはミーナにもらった最後の干し肉と森の木の実で簡単な昼食を取った。
銀狼にも別の器で食事を出す。
今までは自分が使った器を洗ってそのまま狼にも使うことがあった。
これからはそれもやめる。
「これは私。これはあなた」
二つの木皿を並べる。
「新しい子が来たら、その子にも別のものを用意します」
感染する病気があるかもしれない。
口の中に傷があるかもしれない。
何が原因で弱っているか分からない相手同士で、同じ器を使い回すのは避けた方がいい。
銀狼がリリィの皿へ鼻を近づける。
「だから、それは私のです」
鼻先を押し戻す。
「分けた意味がなくなります」
銀狼は自分の皿を見る。
次にリリィの皿を見る。
「量も同じじゃありません。身体の大きさが違いますから」
銀狼は納得していない顔だった。
午後は小屋の奥を片づけた。
そこには古い木箱や壊れた道具が積まれている。
使えるものだけを残して外へ運ぶと、二匹ほどなら横になれそうな空間ができた。
リリィはそこを見て考えた。
「ここは、怪我をしている子の場所にしましょう」
銀狼の時は、自分と同じ場所で世話をするしかなかった。
だがこれから魔物が増えれば、元気な子と傷ついた子を同じ場所へ置くのは危険なこともある。
病気なのか、怪我なのか。
うつるものなのか。
最初は分からない。
「少なくとも、様子が分かるまでは少し離しておいた方が安全です」
床を掃除し、新しい乾いた草を敷く。
布も一枚だけ置いた。
豪華ではない。
薬もない。
魔法もない。
それでも、最初に銀狼を運び込んだ夜より、できることは確実に増えていた。
夕方。
リリィは小屋の外へ出た。
「終わりました」
腰へ手を当てて、改めて中を見る。
古びた小屋であることに変わりはない。
壁は傷んでいるし、家具もほとんどない。
それでも床は清潔になった。
寝床には乾いた草。
食べ物は棚。
水は蓋をした桶。
食器も分けた。
傷ついた魔物を休ませる場所まである。
初めてここへ来た時とは、ずいぶん違う。
銀狼が小屋へ入り、自分の寝床を確認する。
しばらく匂いを嗅いだあと、その場へ伏せた。
「気に入りました?」
尻尾が一度床を叩く。
リリィも中へ入った。
暖炉へ火を入れる。
夕食の鍋をかける。
小さな火の明かりが、片づいた室内を照らした。
その光景を見ているうちに、リリィの中に不思議な感覚が生まれた。
ここへ来た日は、ただ今夜を生き延びる場所だと思っていた。
翌日も、その次の日も。
いつ追い出されてもおかしくない仮の場所。
そんな気がしていた。
けれど今は違う。
自分で掃除した。
自分で置き場所を決めた。
自分で食事を作る。
隣には銀狼がいる。
誰から許可をもらったわけでもない。
でも。
「ここなら……暮らせます」
リリィは静かに言った。
銀狼が顔を上げる。
「私たちの家にしても、いいですよね」
銀狼の尻尾が床を叩いた。
それを返事だと思うことにした。
夜。
リリィは片づけたばかりの小屋で眠りにつこうとしていた。
銀狼も隣の寝床で丸くなっている。
その時。
屋根の上を、何か巨大な影が横切った。
ばさっ。
翼を打つ音。
銀狼が飛び起きる。
「何?」
リリィも身体を起こした。
もう一度、翼の音。
昨日聞いた、あの鳴き声が夜空から響く。
「ギャアッ――!」
「昨日の……!」
直後だった。
屋根を何かが掠めた。
激しい音とともに、小屋の前へ巨大な影が落ちる。
リリィは扉を開けた。
月明かりの中に、幼い竜が倒れていた。
身体はまだ小さい。
だが翼は大きく、その皮膜が焼け焦げたような黒紫色に変色している。
「この子……」
リリィが一歩踏み出す。
銀狼が警戒して前へ出た。
その時、視界の端で何かが動いた。
「……?」
少し離れた木陰。
そこに、もう一匹いた。
泥の塊のような、丸い何か。
薄暗い緑とも茶色ともつかない、腐ったような色。
輪郭がところどころ崩れ、今にも地面へ溶けてしまいそうなスライムだった。
幼い竜とは違い、こちらへ近づいてはこない。
ただ木陰から。
じっとリリィだけを見ていた。




