第6話 初めて、私を頼ってくれる家族
狼が自分から鼻先を触れてきた翌朝、リリィは妙な重みで目を覚ました。
「……重い」
胸元に何かが乗っている。
目を開けると、黒い靄に包まれた狼の顔がすぐそばにあった。前脚をリリィの毛布へ乗せ、ぴったり身体を寄せている。
「どうしてここにいるんですか?」
昨夜は暖炉の近くに寝床を作ったはずだ。乾いた草を敷き、布まで重ねておいたのに、そちらは空になっている。
狼は赤い目でリリィを見ただけで、動こうとしない。
「自分の寝床の方が広いですよ」
それでも動かない。
リリィは少し考え、狼の頭を撫でた。
「……一緒に寝たかったんですか?」
狼の耳が小さく動いた。
「昨日まで噛もうとしていたのに」
そう言うと、狼は不満そうに鼻を鳴らした。
「はいはい。もう言いません」
リリィは笑いながら毛布を抜け出した。
まずはいつもの確認だ。
脇腹の傷は、昨日よりさらに小さくなっている。周囲の腫れもほとんどない。黒い靄も薄くなり、耳や首元には本来の銀色の毛がかなり戻ってきていた。
「綺麗になってきましたね」
指で銀毛を撫でると、狼は気持ちよさそうに目を細めた。
「でも、まだ無茶は駄目です。傷が見えなくなっても、中まで治ったとは限りませんから」
狼は小屋の扉を見る。
「走るのは禁止です」
耳が下がった。
「そんな顔をしても駄目です」
昨日まで牙を剥いていた相手とは思えない。
リリィは朝食の準備を始めた。
狼のスープは昨日より少しだけ肉を増やす。ただし一気には増やさない。回復しているとはいえ、長く弱っていた身体にはまだ慎重さが必要だ。
鍋から香草と肉の匂いが漂い始めると、狼がすぐ隣へ座った。
「近いですよ」
一歩も動かない。
「火がありますから、もう少し離れてください」
狼は渋々一歩だけ下がった。
リリィは思わず笑った。
「食欲だけは、もうずいぶん元気ですね」
冷ましたスープを置くと、狼は待っていたように食べ始めた。昨日のような危うさはない。途中で自分から少し休み、また食べる。
身体が回復するにつれ、黒い靄もわずかずつ薄くなっている。
食べること。
眠ること。
身体を清潔にすること。
特別な魔法を使わなくても、それだけで身体は変わる。
リリィには、そのことが少し嬉しかった。
朝食のあと、水を汲むために沢へ向かうと、狼も当然のようについてきた。
「安静って言ったんですけど」
狼は知らないふりをして歩いている。
完全に寝かせておく必要はない。今の状態なら、短い距離をゆっくり歩く程度なら問題ないだろう。
「疲れたらすぐ戻りますからね」
沢で水筒を満たし、小屋へ戻る途中だった。
狼が突然、道を外れて茂みへ入った。
「どこへ行くんですか?」
追いかけようとしたところで、すぐに戻ってくる。
口には赤い木の実が一房咥えられていた。
「あ、それ」
リリィも知っている木の実だ。酸味は強いが食べられる。
狼はリリィの前まで来ると、それを地面へ置いた。
「もしかして、私に?」
狼が座る。
尻尾が小さく左右へ動いている。
リリィは木の実を拾った。
「ありがとうございます」
そう言って頭を撫でると、狼は自分から手のひらへ額を押しつけてきた。
胸の奥が、ふっと温かくなる。
屋敷にいた頃、リリィはいつも誰かの世話を焼いていた。
具合の悪い使用人がいれば気にしたし、魔獣に異変があれば様子を見た。食事がおかしいと思えば、怒られると分かっていても口を出した。
けれど、自分のために誰かが何かをしてくれることには、あまり慣れていなかった。
「私が助けたつもりだったのに」
リリィは木の実を見つめた。
「あなたも、私のことを気にしてくれるんですね」
狼の尻尾がまた動いた。
その日の午後、リリィは小屋の前で帳面を開いた。
食事量、飲水量、傷の状態、歩ける距離。黒い靄が薄くなった場所も書き込む。
最後に少し迷ってから、もう一行だけ付け加えた。
『木の実を持ってきてくれた』
身体の記録とは関係ない。
それでも消す気にはならなかった。
夜になると、リリィは狼の寝床を整えた。
「今日はちゃんとここで寝てくださいね」
狼は素直に寝床へ入った。
「分かってくれましたか」
リリィも外套にくるまり、目を閉じる。
疲れていたのか、すぐに眠りへ落ちた。
けれど、その夜。
リリィはまた白い部屋にいた。
眩しい灯り。
忙しく行き交う人々。
あちこちから自分を呼ぶ声がする。
『お願いします』
『こっちもお願いします』
もっと大人の自分が走っている。
身体は重い。
頭も痛い。
それでも足を止めない。
『少し休んでください』
誰かが言った。
『大丈夫です』
自分が答える。
『まだできます』
次の人。
その次の人。
誰も見捨てたくなかった。
自分がもっと頑張れば、全部救えると思っていた。
「……っ!」
リリィは息を呑んで目を覚ました。
暗い小屋。
暖炉の赤い火。
胸が激しく上下している。
「夢……」
身体を起こそうとして、温かいものが腕に触れていることに気づいた。
狼だった。
寝床から出て、またリリィの隣へ来ている。
身体をぴったり寄せ、こちらを見つめていた。
「……また来たんですか」
声が少し震えた。
狼は鼻先をリリィの手へ押しつけた。
「私、うなされてました?」
答えはない。
ただ、狼は離れなかった。
リリィはしばらくその体温を感じていた。
遠い記憶の中では、いつも自分が誰かを支える側だった。
苦しんでいる人がいれば走り、自分の疲れは後回しにした。
誰かに心配されても、「大丈夫」と答えていた。
今は違う。
自分が助けたはずの狼が、まるでこちらを心配するように寄り添っている。
リリィはそっと銀色の毛を撫でた。
「変ですね。私があなたを助けたはずなのに」
狼が目を細める。
「今は、私の方が助けてもらっているみたいです」
その言葉を口にすると、胸の奥にあった苦しさが少しだけ薄くなった。
リリィは再び横になる。
今度は狼を自分の寝床へ戻そうとはしなかった。
「……家族みたいですね」
小さく呟く。
ずっと空いていた場所に、何かがそっと収まったような気がした。
翌朝。
小屋を出ると、狼が突然足を止めた。
耳を立て、森の奥を見つめる。
「どうしました?」
リリィも同じ方向を見る。
鳥が一斉に木々から飛び立った。
直後、森の奥から空気を震わせるほど大きな鳴き声が響いた。
「ギャアアアアア――!」
狼が低く唸る。
リリィは息を呑んだ。
聞いたことのない声だった。
恐ろしい。
それでも、その響きの中に別のものが混じっているのが分かった。
「……苦しんでる?」
そう呟いた瞬間、リリィの足はもう森の奥へ向いていた。




