第5話 私のご飯、魔法より効いてませんか?
翌朝、リリィは目を覚ますと同時に身体を起こした。
暖炉の火はほとんど消え、赤い熾火だけが残っている。窓の隙間から差し込む朝の光が、薄暗い小屋の床を細く照らしていた。
最初に確認したのは、自分の荷物でも朝食でもない。
昨夜運び込んだ狼だった。
「……大丈夫ですか?」
狼は外套と乾いた草を重ねた寝床の上で丸くなっている。
眠っている。
呼吸はある。
昨夜より明らかにゆっくりしていた。
リリィは音を立てないよう近づき、その場へしゃがんだ。
黒い靄はまだ身体を覆っている。赤い瞳も、目を開けばきっとそのままだろう。
けれど、脇腹の傷が違っていた。
「やっぱり……」
昨日は皮膚が大きく裂け、血で固まった毛の奥に赤い肉まで見えていた。
それが今は、傷口の端がかなり寄っている。
完全に塞がったわけではない。
だが、一晩で起きる変化ではない。
リリィは自分の目がおかしくなったのではないかと思い、昨日洗った周囲まで慎重に確かめた。
「こんなに早く治るものじゃないですよね」
狼の耳が動く。
起こしてしまったらしい。
赤い目がゆっくり開いた。
「おはようございます」
返事はない。
ただし、昨日のようにすぐ牙を剥くこともなかった。
「傷、見せてもらってもいいですか?」
「グル……」
「それは駄目ですか?」
リリィが手を引くと、狼は身体を少し動かした。
脇腹が見える。
どうやら拒絶ではなかったらしい。
「ありがとうございます」
傷へ直接触れないように観察する。
腫れが少し引いている。
出血も止まっている。
周囲にあった黒い靄も、傷の近くだけ薄くなっていた。
リリィは昨夜使った鍋を見た。
残ったスープが少しだけ入っている。
「まさか……あれ?」
水分。
塩気を抜いた干し肉。
柔らかな香草。
少量のリンゴ。
特別なものは何も使っていない。
そもそもリリィは治癒魔法を使えない。
もし使えたなら、伯爵家であれほど役立たず扱いされてはいなかっただろう。
「でも、食べたあとに光りましたよね」
狼が首を傾げた。
「私も分からないんです」
なぜか相談するように答えてから、リリィは立ち上がった。
まず朝の水を用意する。
昨日と同じように少量ずつ。
狼は最初ほど警戒せず、水を飲んだ。
次にリリィは自分の朝食を準備した。
パンを少し。
残しておいたリンゴ。
狼のためには、昨日より少しだけ量を増やしたスープを作ることにする。
身体の状態が改善しているからといって、急に普通の食事へ戻してはいけない。
そう考えると、頭の中に知らないはずの知識がまた浮かんでくる。
回復期。
消化。
たんぱく質。
糖質。
水分。
そして、運動する身体が傷ついたあとに何を補給すればいいのか。
「前の私は、こんなことばかり勉強していたのかな」
思い出そうとすると、白い服だけではない光景も見えた。
運動着を着た人たち。
汗を流す選手。
食事の記録。
体重や体調を書き込んだ表。
食事を作る人と話しながら、必要な栄養について説明している自分。
看護とは少し違う。
けれど、人の身体を見るというところではつながっている。
「食事のことも、かなり勉強していたみたいですね」
全部は思い出せない。
それでも、狼に何を食べさせればいいか考える時だけ、知識が自然に出てくる。
リリィは鍋へ水を入れた。
昨日より干し肉を少し増やし、十分に塩を抜く。香草は柔らかな部分だけ。リンゴもほんの少し。
濃くしすぎない。
量も増やしすぎない。
「元気になってほしいからって、いっぱい食べさせるのは違います」
狼が鍋の方を見ている。
「昨日より食欲があります?」
鼻がひくひく動いた。
リリィは笑った。
「それはいいことですね」
スープが完成する頃には、狼は身体を起こしていた。
昨日は立つだけで崩れそうだったのに、今日は前脚をしっかり床についている。
リリィが皿を置く。
「熱くないですよ」
今回は待たなかった。
狼がすぐに顔を近づけ、舐め始める。
「そんなに急がなくてもなくなりません」
昨日とは別の意味で心配になるほど勢いがある。
リリィは途中で皿を少し引いた。
「はい、一回休憩です」
「ガウ」
「怒っても駄目です」
初めて、はっきり抗議された。
それだけ元気が戻ったのだと思えば嬉しい。
少し時間を置いてから残りを与える。
狼は綺麗に食べきった。
「完食ですね」
リリィが皿を持ち上げた、その直後だった。
狼の身体から淡い光が漏れた。
昨日と同じだ。
「また……!」
今度は見間違いではない。
光は腹の辺りから全身へゆっくり広がり、脇腹の傷へ集まっていく。
裂けた皮膚がわずかに動く。
傷が縮んでいく。
黒い靄が光に押されるように薄くなった。
狼自身も驚いたらしく、自分の脇腹を振り返る。
リリィは息を呑んだ。
「食事に、何かあるんだ」
問題は何なのか。
料理そのものなのか。
使った材料なのか。
この森だからなのか。
リリィは昨夜採った香草を一本手に取った。
見た目は屋敷の厨房で使われていたものによく似ている。
だが、森で摘んだ時から少し気になっていた。
葉に触れると、わずかに温かい。
朝日に透かすと、葉脈の奥を淡い光が走っているようにも見える。
「魔力……?」
この世界では、魔力は人間だけが持つものではない。
植物にも、獣にも、土地にも宿っている。
高価な薬草に魔力が含まれることくらいなら、リリィも知っている。
だが、この森では普通に生えている草にまで、思っていた以上の魔力が含まれているのかもしれない。
そこへ身体の状態に合った食事を組み合わせた。
リリィは狼を見る。
「必要なものを、必要な形で食べたから?」
仮説でしかない。
試したこともない。
それでも、昨夜と今朝の二回とも、食べたあとに回復が加速している。
「治癒魔法みたい……」
屋敷で何度も見たことがある。
治癒術師が魔力を注げば、傷が光に包まれ、少しずつ塞がっていく。
まさに今、それと似たことが起きている。
「もしかして」
リリィは狼と鍋を交互に見た。
「私のご飯、魔法より効いてませんか?」
狼が何を言っているのか分からないという顔でこちらを見る。
「ですよね。私も変なことを言ってると思います」
ただし、良いことばかりではない。
リリィはすぐに傷を確認した。
回復が速いからこそ、変な状態で皮膚が塞がったら困る。
黒い金属片もまだ残っている。
周囲の汚れを取り除き、傷がどう塞がっているか確かめる。
「これを外さないと」
問題は、傷へ食い込んだ黒い鎖だった。
昨日より傷が回復したことで、金属片の形が分かりやすくなっている。
細い棘がいくつもあり、毛と皮膚に絡んでいるだけで、深く身体の中まで刺さっているわけではなさそうだ。
これなら外せるかもしれない。
「痛いと思います」
狼を見る。
「でも、このまま傷が閉じたら、中に残ってしまいます」
狼は動かない。
リリィはそれを許可だと受け取った。
昨日洗っておいた小さな金属製の道具を火にかけ、冷ましてから使う。
手も洗う。
狼の身体をできるだけ動かさないように押さえながら、棘を一本ずつ毛から外していく。
黒い鎖へ触れると、やはりひどく冷たい。
指先から身体の奥まで冷え込むようだった。
「これ、普通の道具じゃないですね」
狼が低く唸る。
「もう少しです」
一つ。
もう一つ。
最後の棘が抜ける。
「取れた!」
リリィが鎖を持ち上げた。
その瞬間だった。
狼を覆っていた黒い靄が大きく揺れた。
「えっ」
煙のようなものが一気に傷口から噴き出し、リリィは思わず後ろへ下がった。
狼が身体を震わせる。
赤い目が強く光る。
「大丈夫!?」
飛びつく寸前で踏みとどまる。
今、無闇に触らない方がいい。
黒い靄が渦を巻く。
だが数秒後。
少しずつ薄くなり始めた。
狼の輪郭が、今までよりはっきり見えてくる。
「……あれ?」
リリィは目を凝らした。
黒い毛だと思っていた部分。
靄が薄くなった脇腹の辺りだけ、色が違う。
朝の光を受けて、小さく輝いている。
銀色だった。
「あなた……」
リリィが近づく。
狼は疲れたように床へ伏せたが、もう唸らない。
リリィは恐る恐る毛へ触れた。
柔らかい。
そして確かに銀色。
黒い靄の下には、本来の毛並みが隠れている。
「黒い狼じゃなかったんですね」
耳の後ろにも、わずかに銀色が覗いている。
黒く禍々しく見えていた姿そのものが、本来の姿ではない。
傷へ絡んでいた黒い鎖。
そこから湧いていた靄。
赤く染まった瞳。
全部つながっているように思えた。
「もしかして、あれに呪われたんですか?」
狼は答えられない。
だが、リリィの手から逃げることもしなかった。
誰がこんなものをつけたのか。
何のためなのか。
今は分からない。
ただ、一つだけ分かる。
「元に戻れるかもしれませんね」
リリィは銀色の毛をそっと撫でた。
食事で身体が回復するほど、黒い靄も薄くなる。
なら、焦る必要はない。
傷を治す。
食べる。
眠る。
少しずつ体力を取り戻す。
その先に、この子本来の姿がある。
「じゃあ、まず元気になるところからです」
リリィが立ち上がる。
すると狼も前脚を伸ばし、ゆっくり身体を起こした。
「あ、まだ立たない方が――」
言い終わる前に、狼が立った。
四本の脚で、しっかり床を踏んでいる。
少しふらついた。
それでも倒れない。
「立てた……!」
リリィが思わず近づく。
狼は一歩だけ歩いた。
そして、リリィの前で止まる。
赤い目がじっと彼女を見る。
まだ怖い顔だった。
黒い靄も残っている。
大きな牙だってある。
それなのに昨日ほど怖く感じなかった。
「どうしました?」
狼がゆっくり顔を近づける。
リリィは少し身構えた。
けれど牙は出てこない。
冷たい鼻先が、彼女の手の甲へ触れた。
「……え?」
一度だけ。
確かめるように鼻を押しつける。
それから狼は、何事もなかったように寝床へ戻っていった。
リリィはその場で自分の手を見つめた。
触れられた場所が、まだ少し冷たい。
「今のって……」
昨日は近づくだけで牙を剥かれた。
今日は自分から触れてきた。
リリィの口元が自然に緩む。
「少しだけ、信用してくれました?」
寝床の狼は目を閉じている。
答えるつもりはないらしい。
「そういうことにしておきます」
リリィは笑いながら鍋を片づけ始めた。
窓から朝日が差し込む。
その光の中で、狼の身体を覆っていた黒い靄が一瞬だけ揺れた。
そして耳の先に、昨日まではなかった銀色の毛が、もう少しだけ広がっていた。




