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第4話 魔法がなくても、できることはある

 小屋の中には、血の匂いが残っていた。


 リリィは暖炉に火を入れ、床へ座り込んだ銀狼を見つめた。


 正確には、まだ銀狼とは呼べない。


 全身は黒い靄に覆われ、赤い目だけが暗がりの中で浮かんでいる。脇腹には深い傷があり、そこへ黒い鎖のようなものが食い込んでいた。


 さっきまで森の中で見た時より、傷の状態がよく分かる。


「まず、これですね」


 リリィは金属片を見た。


 取り外したい。


 だが、急いではいけない。


 何かが刺さっているからといって、何も考えず抜けばいいわけではない。抜いた途端に出血が増えることもある。


 なぜ自分がそんなことを知っているのか。


 今は考えないことにした。


「動かないでくださいね」


「グルル……」


「分かっています。嫌ですよね」


 狼は低く唸ったが、立ち上がろうとはしなかった。


 もうその力もあまり残っていないらしい。


 リリィは少し離れた場所へ器を置き、水を入れた。


「もう少し飲めそうですか?」


 狼はしばらくこちらを見ていたが、やがてゆっくり顔を近づけた。


 舌が水へ触れる。


 一口。


 二口。


 三口目で顔を上げた。


「それくらいにしましょう」


 器を下げる。


 もっと飲みたそうにも見えたが、一気に飲ませるのは怖い。


 身体はひどく弱っている。


 肋骨が浮くほど痩せ、毛には艶がない。


 長い間、まともに食べられていなかった可能性が高い。


 そんな時に大量の食べ物を与えれば、それで元気になるとは限らない。


「少しずつです」


 リリィは自分にも言い聞かせる。


 屋敷では、弱った人間や魔獣に治癒魔法をかければ、それで終わりだった。


 傷は塞がる。


 熱は下がる。


 痛みも薄れる。


 だから皆、それ以外のことをあまり気にしない。


 何を食べていたのか。


 どれくらい眠っていたのか。


 身体を清潔にできていたのか。


 そもそも、なぜ弱ったのか。


 リリィには、その方が気になった。


「傷だけじゃないですよね」


 狼へ話しかけながら、もう一度全身を見る。


 呼吸はまだ速い。


 毛の下の皮膚は乾いている。


 身体の末端は少し冷たい。


 出血に加えて脱水。


 栄養不足。


 疲労。


 そして、あの黒い靄。


 見たことのないものだった。


 けれど、それと命の危険は別に考えた方がいい。


「黒いのは……あとです」


 狼の耳がぴくりと動く。


「今すぐ困っていることからやります」


 まず傷を洗う。


 小屋にあった古い布は使えない。埃や汚れがついている。


 リリィは持ってきた布の中から比較的きれいな部分を選び、沢から汲んだ水を火にかけた。


 沸かしたあと、少し冷ます。


 その間に手もよく洗った。


 狼が不思議そうに見ている。


「汚れた手で触ったら、傷が悪くなるかもしれませんから」


 説明してから、リリィは首を傾げた。


「……これも知ってる」


 頭の奥が、また少し疼いた。


 白い部屋。


 手を洗う。


 何度も何度も。


 指の間まで。


 爪の周りまで。


 誰かに言われたのではない。


 自分が誰かへ教えていたような気がする。


 感染。


 そんな言葉が浮かんだ。


「かんせん……」


 口にすると、妙にしっくりきた。


 傷口から悪いものが入り込めば、身体の中で広がる。


 それを防ぐ。


 だから清潔にする。


 リリィは冷ました湯を布へ含ませた。


「少ししみるかもしれません」


 狼が身構える。


「噛まないでくださいね」


 返事の代わりに牙が少し見えた。


「それ、どっちです?」


 リリィは困った顔をした。


 それでも手を伸ばす。


 傷の周囲についた血と泥を、少しずつ拭う。


 狼の身体がびくりと震えた。


「痛いですよね。ごめんなさい」


 もう一度。


 ゆっくり。


 力を入れすぎない。


 黒い靄が指先へ絡みつきそうになり、リリィは一瞬手を止めた。


 冷たい。


 煙のようなのに、触れた場所だけ体温を奪われる感覚がある。


「これが原因なのかな……」


 よく見ると、傷へ食い込んでいる黒い金属片から靄が湧いているように見えた。


 鎖には細かな文字のようなものまで刻まれている。


 自然にできたものではない。


「誰かにつけられたんですね」


 狼の赤い目が細くなる。


 リリィはそれ以上触れなかった。


 今は完全に外すのが怖い。


 まず汚れを落とし、傷の状態を安定させる。


 できる範囲だけでいい。


 全部を一度に解決しようとしない。


 そう考えた瞬間、また知らない記憶が浮かんだ。


 忙しい部屋。


 何人もの人。


 全部を助けようとして走り回る自分。


 誰かが言う。


 休んでください。


 大丈夫です。


 まだできます。


 そう答える自分。


 そして次の瞬間、視界が暗くなる。


「……っ」


 リリィは額を押さえた。


 胸が少し苦しくなる。


 狼がこちらを見る。


「大丈夫です」


 反射的に答えてから、リリィは苦笑した。


「今のは、私に言った方がよさそうですね」


 火のそばへ座り直す。


 一度深く息をする。


 全部をやる必要はない。


 今できることから。


 それは目の前の狼にも、自分自身にも同じなのかもしれない。


 傷をある程度きれいにすると、次は身体を温めた。


 暖炉から少し離れた場所へ寝床を作る。近すぎれば暑いし、離れすぎれば意味がない。


 外套と乾いた草を重ねた。


 狼は警戒しながらも、その上へ身体を預ける。


「次は食べ物ですね」


 リリィは持っているものを確認した。


 ミーナからもらったパン。


 干し肉。


 リンゴ。


 どれも、そのまま弱った狼へ与えるには向いていない気がする。


 森で見つけた木の実もある。


 しかし知らないものを使うのは怖い。


「お肉は……塩が強すぎますね」


 干し肉を少し舐めてみる。


 かなり塩辛い。


 そのまま与えるのは避けた方がいい。


 リリィは小屋の棚を探した。


 古い鍋がひとつ残っていた。


 錆びた部分はあるが、内側をよく洗えば使えそうだ。


「まず洗います」


 それから火にかける。


 湯を沸かし、干し肉を少量入れて塩気を抜く。


 さらに昼間、森を歩いていた時に見つけた食べられる草を取り出した。


 これだけは知っている。


 屋敷の厨房でも使われていた香草だ。


 柔らかい葉の部分だけを細かく刻む。


「固いものは、今はやめましょう」


 リンゴも少量。


 皮をむき、細かく刻んで煮る。


 肉をたくさん入れたい気持ちはあった。


 痩せているのだから、たくさん食べればいい。


 普通ならそう思うかもしれない。


 けれど、リリィの頭の中で強く警告する感覚があった。


 急に増やしてはいけない。


 少しずつ。


 身体が受け入れられる量から。


「どうしてそんなことまで知ってるんだろう」


 鍋を混ぜる。


 白い服を着た自分。


 その隣には、別の服を着た人たち。


 紙には食事の内容や数字が並んでいる。


 栄養。


 たんぱく質。


 水分。


 エネルギー。


 運動する人間の身体。


 回復に必要な食事。


 知識が、ばらばらの欠片として戻ってくる。


「私……食べ物のことも勉強してた?」


 誰に尋ねても答えはない。


 ただ、知らないはずの言葉だけが頭の中へ浮かんでくる。


 リカバリー。


 回復。


 身体を作り直すための栄養。


 リリィは鍋を見た。


 豪華ではない。


 薬でもない。


 魔法など一つも使っていない。


 ただ、弱った身体が受け入れやすいように考えた、薄いスープだった。


「……できました」


 木皿へ少量だけ移す。


 十分に冷ましてから狼の前へ置いた。


 狼は反応しない。


「お腹、空いていませんか?」


 赤い目が皿を見る。


 鼻が動く。


 それでも食べない。


「知らないものは怖いですよね」


 リリィは皿を少し離した。


「ここに置いておきます。嫌なら食べなくていいです」


 そう言って自分も少し離れる。


 狼を見張るのをやめ、残ったスープをかき混ぜる。


 数分経った。


 小さな音がした。


 ぺちゃ。


 リリィは振り向きそうになって、我慢した。


 ぺちゃ。


 もう一度。


 そっと横目で見る。


 狼がスープを舐めている。


 一口。


 休む。


 また一口。


「……食べてる」


 思わず笑顔になった。


 狼がこちらを見る。


「ごめんなさい。続けてください」


 リリィは口元を手で隠した。


 全部は食べなくていい。


 少しでも身体へ入ればいい。


 狼は時間をかけて、皿の半分ほどを舐めた。


 そこで止まった。


 リリィは皿を下げた。


「今日はこれくらいにしましょう」


 もっと食べさせたい。


 もっと栄養を取らせたい。


 早く元気にしたい。


 けれど、その気持ちを抑える。


 焦らない。


 相手の身体に合わせる。


 それが大切なはずだ。


 狼は寝床へ頭を落とした。


 呼吸はまだ速い。


 傷も残っている。


 黒い靄も消えていない。


 何一つ、治ったわけではない。


 それでも。


 水を飲めた。


 傷を洗えた。


 身体を温めた。


 少し食べられた。


 できたことは、ちゃんとある。


 リリィは暖炉の前に座り、膝を抱えた。


 屋敷では、魔法が使えない自分には何もできないと言われていた。


 何度も。


 何度も。


 だから自分でも、そうなのだと思い始めていた。


 けれど、目の前の狼は今、生きている。


 魔法なんて一度も使っていない。


「……魔法がなくても、できることはあるんですね」


 誰に言うでもなく呟く。


 その時だった。


 狼の身体が、かすかに震えた。


「どうしました?」


 リリィが近づく。


 苦しんでいる様子ではない。


 むしろ呼吸は、さっきより少し落ち着いている。


 そして脇腹。


 洗ったばかりの傷の周辺から、淡い光が漏れていた。


「……え?」


 リリィは目を見開いた。


 傷口が、ゆっくりと変化している。


 開いていた皮膚の端が、ほんのわずかではあるが近づいていく。


 黒い靄も、その周囲だけ薄くなったように見えた。


「ちょっと待ってください」


 リリィはスープの入った鍋を見る。


 次に狼を見る。


 もう一度、鍋を見る。


「私、治癒魔法なんて使ってませんよね?」


 もちろん狼は答えない。


 だが傷から漏れる光は、確かに少しずつ強くなっていた。


 リリィは呆然とその光を見つめた。


 どうやら、自分が作ったのは。


 ただのスープではなかったらしい。




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