第3話 その魔物は、まだ助かる
森の中は、小屋から見ていたよりずっと暗かった。
頭上を覆う枝葉が夕暮れの光を遮り、足元には木の根が複雑に伸びている。少し急げば転びそうになるので、リリィは水筒と布を抱えたまま慎重に進んだ。
「クゥ……」
また声がした。
さっきより近い。
「今、行きます」
返事をしてから、リリィは自分で少し変だと思った。
相手が人間とは限らない。それどころか、この森には魔物がいると聞かされている。
けれど、あの声が苦しんでいることだけは分かった。
低い枝をくぐり、茂みを避ける。
そこで足元に黒いものを見つけた。
土の上に、小さな染みが点々と続いている。
リリィはしゃがみ込んだ。
指では触れず、顔を近づけて確かめる。
「血……」
まだ乾ききっていない。
量は多くないが、一滴ではない。森の奥へ向かって点々と続いている。
リリィは周囲を見回した。
獣に襲われた何かが逃げたのかもしれない。
逆に、怪我をした魔物そのものが潜んでいる可能性もある。
怖くないわけではなかった。
胸の奥がきゅっと縮む。
それでも、血の跡を見た瞬間から、頭の中では別のことが動き始めていた。
出血は続いているのか。
歩ける状態なのか。
意識はあるのか。
呼吸は。
体温は。
なぜそんな順番で考えるのか、リリィ自身にも分からない。
ただ、ひどく懐かしい感覚だった。
白い廊下。
慌ただしい足音。
誰かが叫ぶ。
運ばれてくる人を見て、自分が最初に確かめるべきことを頭の中で並べている。
そんな景色が一瞬だけ浮かび、消えた。
「……今は、こっちです」
リリィは立ち上がった。
血の跡を追う。
十歩ほど進んだところで、茂みの向こうから低い唸り声がした。
「グルル……」
リリィの足が止まった。
今度の声は、さっきまでとは違う。
明らかな威嚇だった。
枝の隙間から、二つの赤い光がこちらを見ている。
「……いた」
そっと一歩横へ動く。
茂みの向こうにいたのは、一匹の狼だった。
ただし、リリィが知っている狼とはまるで違う。
身体は大型犬ほどある。
全身を覆う毛は黒く、その周囲には煙のような靄がまとわりついていた。靄は風もないのに揺らめき、ときどき生き物のように身体の表面を這っている。
目は血のように赤い。
額のあたりから黒い角のようなものまで突き出していた。
もし屋敷の人間が見れば、間違いなく叫んだだろう。
魔物だ、と。
討伐しろ、と。
リリィも、一瞬だけ息を呑んだ。
「怖い……」
小さく声が漏れた。
すると狼が身を起こそうとした。
「グルッ!」
「動かないで!」
思わず強い声が出た。
狼も驚いたのか、一瞬動きを止める。
そこでリリィは気づいた。
後ろ脚が震えている。
立ち上がろうとしても、身体を支えられていない。
右の脇腹には大きな傷。
毛が血で固まり、その周囲だけ黒い靄が不自然に濃くなっている。
肋骨が浮いて見えるほど痩せていた。
「……ひどい」
怖さより先に、別の感情が出てきた。
こんなになるまで、どれくらい森をさまよっていたのだろう。
リリィはその場にしゃがんだ。
急に近づかない。
正面から手も伸ばさない。
狼はこちらを警戒している。
「大丈夫です。近づきません」
「グルル……」
「今は、ですけど」
狼の耳がわずかに動いた。
リリィは離れた場所から観察した。
呼吸が速い。
一回一回が浅い。
口が少し開いている。
舌が乾いているように見える。
出血だけではない。
「お水も飲めていないんですね」
水筒を出した。
けれど、いきなり口元へ持っていくことはしない。
近くにあった平たい石のくぼみへ少量だけ水を注ぎ、ゆっくり狼の方へ押した。
「飲めそうなら、どうぞ」
狼は動かない。
赤い目だけがリリィを追っている。
「毒なんて入れてません」
言ってから、そんな説明が通じるのかと思う。
それでもリリィは少し後ろへ下がった。
しばらく待つ。
狼の鼻が動いた。
水の匂いを確かめている。
やがて、ゆっくりと頭を下げた。
一度。
二度。
ほんの少しだけ水を舐める。
「飲めましたね」
リリィの声が明るくなった。
すると狼が顔を上げ、また低く唸った。
「分かっています。勝手に喜んでごめんなさい」
リリィはまた少し距離を取った。
水を飲める。
意識もある。
こちらを警戒する力も残っている。
状態は悪いが、すぐに命が消える段階ではないかもしれない。
ただ、脇腹の傷が気になる。
黒い靄が邪魔をしてよく見えないが、刃物で切られたような傷だった。
その近くの毛に、何か硬いものが絡んでいる。
「……あれは?」
リリィは目を凝らした。
黒い金属片。
小さな鎖のようなものが、毛に食い込んでいる。
自然についたものではない。
誰かが使った道具だ。
「罠?」
狼が再び唸る。
「触りません。まだ触りませんから」
まず状態を確かめる。
リリィは呼吸を数えた。
速い。
傷の周辺には腫れもある。
身体は痩せているのに腹部だけ少し張っている。長くまともな食事を取れていない可能性が高い。
一度にたくさん食べさせてはいけない。
まず水分。
保温。
傷を清潔にする。
それから少量の食事。
考えが自然にまとまっていく。
「……どうして私、分かるんでしょう」
自分で呟いた。
また頭の奥に景色が浮かぶ。
横たわる人。
細い腕。
点滴。
食べられなくなった人に、少しずつ栄養を入れていく。
痩せているからといって、急にたくさん与えてはいけない。
身体が受け止められないことがある。
「そうだ……」
リリィは額を押さえた。
知っている。
自分はこういうことを、知っている。
理由はまだはっきりしない。
でも今は、それで十分だった。
目の前の命を助けるのに使えるなら、使えばいい。
リリィは狼を見る。
「ここでは治療できません」
もちろん返事はない。
「小屋まで来てもらいたいんですけど……歩けます?」
狼が立とうとする。
前脚に力を入れた瞬間、身体が大きく揺れた。
「だめ!」
反射的にリリィが近づく。
「ガウッ!」
牙が閃いた。
リリィは慌てて手を引いた。
指先のすぐ前で牙が空を噛む。
心臓が跳ねた。
「……びっくりしました」
狼も肩で息をしている。
噛みつこうとしただけで、体力を使ったらしい。
リリィは少し考えた。
「あなたも怖いんですよね」
自分よりずっと大きな牙。
赤い目。
禍々しい黒い靄。
怖い。
でも、この子からすれば、自分も知らない人間だ。
怪我をして動けない時に近づいてくる相手など、怖くて当然だろう。
「私も怖いです」
リリィは正直に言った。
「だから、お互いさまですね」
狼の耳がまた動いた。
今度は唸らなかった。
リリィは持ってきた布を広げた。
これだけでは担架にはならない。
けれど身体の下へ少しずつ通せれば、引くことはできるかもしれない。
「嫌でしょうけど、ここに置いていく方が危ないです」
リリィはゆっくり近づいた。
狼の喉から低い音が漏れる。
「噛んでもいいとは言いませんよ。痛いので」
また一歩。
「でも、傷は見せてください」
さらに一歩。
狼の牙が見える。
それでも飛びかかってはこない。
リリィは手の甲を見せながら、ゆっくり布を近づけた。
あと少し。
その時だった。
狼の身体を覆っていた黒い靄が、突然大きく揺れた。
「え?」
靄の奥から、何かが突き出る。
黒い鎖。
細い鎖が脇腹の傷へ食い込み、その先には棘のついた金属片が絡みついていた。
狼が苦しそうに身体を震わせる。
リリィの表情が変わった。
ただの怪我ではない。
誰かが、この子に何かをした。
けれど今、それを調べている余裕はない。
まず生かす。
それが先だ。
「少し我慢してください」
リリィは布を狼の身体の下へ通した。
牙がすぐ横にある。
手が震える。
それでも止めなかった。
少しずつ。
傷を圧迫しないように。
身体をできるだけ揺らさないように。
何度も休みながら、狼を布の上へ移した。
「重い……」
当然だった。
十一歳の少女が一人で運べる重さではない。
それでも引くしかない。
リリィは布の端を両手で握った。
「行きますよ」
力を込める。
少しだけ動いた。
「よし」
もう一度。
足元が滑る。
腕が痛い。
数歩進むだけで息が上がる。
それでもリリィは止まらなかった。
途中で振り返るたび、赤い目がこちらを見ている。
「大丈夫です」
自分にも言い聞かせるように繰り返した。
「もう少しです」
森はすっかり暗くなっていた。
小屋が見えた時には、リリィの手のひらは布との摩擦で真っ赤になっていた。
ようやく中へ運び込み、床へ敷いた外套の上に狼を横たえる。
「着きました」
リリィもその場へ座り込んだ。
腕が震えている。
背中まで汗で濡れていた。
少し休みたかった。
けれど狼の呼吸を見て、すぐに立ち上がる。
「休むのはあとです」
水。
清潔な布。
灯り。
傷を見るために必要なものを並べた。
黒い靄は相変わらず不気味に揺れている。
赤い目も消えていない。
魔物なのだろう。
危険な存在なのかもしれない。
それでもリリィには、もう別のものにしか見えていなかった。
傷ついている。
痩せている。
水分も足りない。
ひどく疲れている。
なら、今やるべきことは決まっている。
リリィは狼のそばへ膝をついた。
今度は牙を向けられなかった。
脇腹の傷を慎重に確認する。
深い。
けれど、致命的な場所は外れているように見える。
出血も、今すぐ止まらなくなるほどではない。
呼吸は苦しいが保たれている。
水も飲めた。
意識もある。
そして何より。
生きようとしている。
リリィは小さく息を吐いた。
「大丈夫」
狼の赤い目が、わずかに動く。
「あなたは、まだ助かります」
その言葉を口にした瞬間。
なぜかリリィには、それが初めて言った言葉ではないような気がした。
遠い記憶の中でも、同じように誰かへ言ったことがある。
そんな気がした。
リリィは袖をまくる。
「まず、傷をきれいにしましょう」
夜は、まだ始まったばかりだった。




