第2話 追放されたけれど、屋敷より森の方が快適かもしれない
追放を言い渡されたあとも、リリィの日常は驚くほど普通に続いた。
叔父の書斎を出ると、廊下では使用人たちがいつも通り働いている。窓を磨く者、花瓶の水を替える者、昼食の準備について話す者。誰も、十一歳の少女が今日この屋敷から追い出されるとは知らないようだった。
リリィは自分の部屋へ戻った。
部屋といっても、伯爵令嬢が使うにはずいぶん狭い。屋敷の北側、使用人部屋に近い一室で、置かれているのは小さな寝台と机、古い衣装棚だけだった。
持っていくものを選ぼうとして、リリィは困った。
「……あまりありませんね」
衣装棚を開けても、普段着が三着。冬用の外套が一枚。靴も今履いているもの以外は、つま先がきつくなった古い一足しかない。
机の引き出しには、乾燥させた薬草と、小さな帳面。
その帳面だけは迷わず鞄へ入れた。
誰かに教わって書き始めたものではない。
屋敷の人間や魔獣の様子を見て、気づいたことを書き留めてきただけだ。
叔父――右足のむくみ。飲酒後に悪化。
叔母――睡眠不足。食欲に波あり。
エドガー――野菜不足。水分摂取少なめ。
厩舎の赤角馬――右前脚を庇う。蹄の確認が必要。
文字にして並べると、ますます十一歳の少女の帳面には見えなかった。
リリィ自身も、ときどき不思議に思う。
なぜこんなことを記録しておきたいのだろう。
なぜ食事や傷や体調の変化を見ると、頭の中で勝手に整理してしまうのだろう。
答えはまだ分からない。
ただ、白い服を着た自分の姿だけは、最近になって以前より鮮明に浮かぶようになっていた。
たくさんの人がいる場所。
慌ただしく行き交う足音。
誰かに呼ばれれば走り、誰かが苦しめば手を伸ばす。
疲れていても休まない。
休むことが悪いことのように感じていた。
「……変な夢」
リリィは小さく呟き、帳面を鞄の底へしまった。
必要なものは、それでほとんど終わった。
屋敷を追い出されるというのに、荷物は小さな鞄ひとつ。
少し寂しい気もしたが、逆に考えれば身軽だった。
扉が叩かれた。
「リリィお嬢様」
「はい」
入ってきたのは、朝に干し果実を渡したメイドのミーナだった。
彼女はリリィの鞄を見ると、一瞬だけ表情を曇らせた。
「旦那様から……馬車の用意ができたと」
「分かりました」
「本当に、行かれるんですか?」
「行けと言われましたから」
「でも……」
ミーナは口を閉じた。
使用人が伯爵の決定に逆らえるはずもない。
リリィには、それくらい分かっている。
「大丈夫です」
「大丈夫なわけがありません。あの森は、魔物が出ます」
「そうですね」
「それにお嬢様は、まだ十一歳で……」
ミーナの声が震える。
その顔を見て、リリィは少し困った。
自分より相手の方が泣きそうになっている。
「ミーナさん」
「はい」
「朝の干し果実、食べましたか?」
思いがけない質問だったらしい。
ミーナが目を丸くする。
「……はい」
「少しは楽になりました?」
「え?」
「手の震えです」
ミーナは自分の手を見る。
しばらくして、小さく笑った。
「はい。治まりました」
「よかったです」
リリィも笑う。
追放される日に心配することではないのかもしれない。
けれど、気になっていたのだから仕方ない。
ミーナは唇を噛んだあと、自分のエプロンのポケットから布包みを取り出した。
「これを」
「何ですか?」
「厨房から少しだけ。パンと干し肉、それからリンゴです」
「持っていっていいんですか?」
「私が勝手にやりました」
それはたぶん、見つかれば叱られることだった。
リリィは受け取るのをためらった。
「ミーナさんが困りませんか?」
「大丈夫です」
今朝、自分が言った言葉と同じだった。
リリィは布包みを受け取った。
「ありがとうございます」
今度はリリィが礼を言う番だった。
屋敷の玄関には、すでに小さな馬車が待っていた。
荷物を運ぶ時に使う簡素な馬車で、貴族が乗るものではない。
叔父も叔母も見送りには来なかった。
それどころか、従兄たちの姿もない。
玄関前にいるのは御者と、荷物を確認する使用人が一人だけだった。
リリィは少しだけ屋敷を振り返った。
生まれてからずっと暮らしてきた場所。
両親との記憶も、ほんの少し残っている。
父の大きな手。
母が髪を梳いてくれた感触。
けれど二人が亡くなってから、この屋敷はずいぶん違う場所になった。
悲しくないわけではない。
ただ、涙は出なかった。
「お嬢様」
御者が声をかける。
「出発します」
「お願いします」
馬車へ乗る。
扉が閉まった。
車輪がゆっくり動き始める。
屋敷が遠ざかっていく。
リリィは窓からその姿を見ていたが、門を出たところで前を向いた。
馬車は街を抜け、やがて畑の間を進んだ。
見慣れた景色も少しずつ減っていく。
昼を過ぎる頃には、窓の外を埋めるのは木々ばかりになっていた。
舗装された道も消え、馬車が大きく揺れ始める。
御者が振り返った。
「この先ですよ」
「はい」
「……本当に、何も聞かされていないんですか?」
「森で暮らせ、とだけ」
御者は何か言いたそうだった。
しかし結局、口を閉じた。
しばらく進み、馬車が止まる。
リリィが降りると、目の前には深い森が広がっていた。
背の高い木々が何重にも重なり、昼間なのに奥は薄暗い。
鳥の声がする。
草むらから何かが動く音も聞こえた。
「ここから先は馬車では行けません」
「分かりました」
リリィは鞄を持った。
御者は馬車から食料袋をひとつ下ろしてくれた。
中には水筒と数日分の簡単な保存食が入っている。
「旦那様からです」
「ありがとうございます」
叔父からの最後の情け、ということなのだろう。
御者は馬車へ戻りかけたが、途中で止まった。
「お嬢様」
「はい?」
「悪いことは言いません。森の浅いところから出ない方がいい。夜になる前に雨風をしのげる場所を探してください」
「はい」
「水も、流れているものを探してください。よどんだ水は飲まないように」
リリィは少し驚いた。
「ありがとうございます」
「……それくらいしか言えませんから」
御者は申し訳なさそうに視線を逸らした。
馬車が走り出す。
リリィはその場に立ったまま、遠ざかる音を聞いた。
やがて何も聞こえなくなる。
本当に一人になった。
森の風が髪を揺らした。
怖い。
その感情は確かにあった。
魔物がいる。
どんな場所かも知らない。
今夜眠れる場所さえ決まっていない。
十一歳の自分だけで、何とかしなければならない。
心臓がいつもより速く打っている。
それでも不思議なことに、屋敷の書斎で叔父と向き合っていた時より息はしやすかった。
リリィは深く息を吸った。
土と木の匂いがした。
「……まず、お水ですね」
怖がっているだけでは何も変わらない。
日が沈むまで、まだ時間がある。
リリィは周囲を見回した。
木々の生え方。
地面の傾斜。
苔。
鳥の飛ぶ方向。
少し離れた場所から、かすかに水音が聞こえる。
「こっちかな」
歩き始める。
ほどなく細い沢を見つけた。
澄んだ水が石の間を流れている。
リリィはすぐに飲まず、少し上流まで歩いた。動物の死骸や汚れがないか確認する。
問題なさそうだ。
水筒へ補給した。
次は食べ物。
森には木の実や草が多い。
だが、見たことがあるように思えても、確信できないものには手を出さない。
「知らないものを食べてお腹を壊したら、もっと困ります」
ミーナが持たせてくれた食料もある。
今日すぐ飢えるわけではない。
水がある。
食べ物も少しある。
残る問題は寝床だった。
リリィは周囲を歩きながら、ふと笑いそうになった。
屋敷では、何をしても誰かの許可が必要だった。
厨房へ入れば怒られる。
薬草を摘めば余計なことをするなと言われる。
魔獣小屋へ行けば危ないから近づくなと言われる。
今は誰もいない。
「どこへ行ってもいいんですね」
口に出してから、自分でも驚いた。
追放されたのに。
少し楽しい。
もちろん、浮かれている場合ではない。
リリィは頬を軽く叩いて気を引き締めた。
さらに森を進む。
しばらくすると、不自然に木々が途切れた場所があった。
草に埋もれるようにして、小さな建物が見える。
「……家?」
近づいてみる。
古い狩猟小屋らしい。
屋根の一部は傷んでいるが、大きな穴はない。扉も傾いているものの残っている。
慎重に中を確認した。
誰もいない。
古い机と椅子。
崩れかけた棚。
灰の残った暖炉。
埃と蜘蛛の巣だらけだが、床は抜けていない。
「使えそうです」
リリィの声が少し明るくなる。
まず窓を開けた。
空気を入れ替える。
床に積もった埃を外へ掃き出す。
寝る場所だけでも綺麗にしたい。
古い布はそのまま使わず、まとめて端へ寄せた。何がついているか分からないからだ。
夢中になって作業しているうちに、窓から入る光が赤くなってきた。
「今日はここまでですね」
リリィは持ってきた外套を床へ敷き、その上に座った。
ミーナにもらったパンを半分食べる。
干し肉は明日のために残した。
リンゴをひと口かじる。
甘い。
豪華な伯爵家の食事とは比べものにならないほど質素だった。
でも、不思議なくらい落ち着いて食べられた。
誰も怒鳴らない。
誰もこちらの皿を見ていない。
誰にも「役立たず」と言われない。
リリィはリンゴを膝に置いた。
「……静かですね」
夕暮れの森から、鳥の声が聞こえる。
風が木々を揺らす音。
遠くで水が流れる音。
寂しい。
でも、嫌ではない。
ここなら、自分で考えて、自分で決められる。
そう思った時だった。
森の奥から、かすかな音がした。
「……?」
リリィは顔を上げる。
また聞こえた。
小さな鳴き声。
低い唸りではない。
獲物を威嚇する声でもない。
「クゥ……」
弱々しい。
苦しそうだった。
リリィは立ち上がった。
森はもう暗くなり始めている。
御者からも、夜は出歩かない方がいいと言われた。
何がいるのか分からない。
行かない方がいい。
頭ではそう分かっていた。
もう一度、鳴き声がした。
今度はさらに小さい。
リリィは鞄から布と水筒を取り出した。
「……怪我をしているの?」
自分でも呆れるほど、身体は迷わなかった。
小屋を出る。
そして十一歳の少女は、暮れ始めた森の奥へ足を踏み入れた。




