第1話 役立たず令嬢は、家族の不調が全部わかる
アークライト伯爵家の朝食は、毎朝ほとんど同じ時間に始まる。
長い食卓には、焼きたての白パン、香草を詰めた鶏の丸焼き、濃いチーズ、蜂蜜をかけた焼き菓子、色鮮やかな果実が並ぶ。銀の食器は磨き上げられ、窓から差し込む朝日を眩しいほど反射していた。
ただし、それは伯爵家の人間すべてに用意された朝食ではない。
食卓のいちばん端に座るリリィ・アークライトの前には、昨日の残りらしい硬い黒パンと、具のほとんど入っていない薄いスープだけが置かれていた。
「いただきます」
リリィは小さく手を合わせ、パンをスープへ浸した。
十一歳の少女には少々硬すぎるパンだったが、ゆっくり噛めば食べられないことはない。それよりも、リリィには向かい側に座る叔父の様子の方が気になっていた。
叔父のバルガスは、アークライト伯爵家の現当主である。亡くなったリリィの父に代わって家督を継ぎ、この屋敷と領地を管理している。
そのバルガスの右足首が、昨日より腫れていた。
リリィはパンを噛みながら、こっそり確認する。
靴下の上からでも分かる。明らかなむくみだ。顔も少し赤い。昨日の夕食では塩漬け肉を何度もおかわりし、そのあと酒をかなり飲んでいた。
だから、できれば今日は控えた方がいい。
分かっている。
言わない方がいいことも。
「叔父様」
それでも口が勝手に動いた。
「なんだ」
「昨日より右足が腫れています。今日はお酒と塩気の強いものを少し控えた方がよろしいかと」
食卓が静かになった。
リリィは黒パンを持ったまま固まった。
しまった。
叔父の眉間に、太い皺が一本刻まれる。
「……朝から何を言い出す」
「足がむくんでいますから」
「それくらい見れば分かる」
「でしたら――」
「そういう意味ではない!」
怒鳴り声が食堂に響いた。
使用人たちが一斉に視線を伏せる。
リリィも肩をすくめたが、なぜ怒られたのかはよく分からなかった。具合が悪そうだから知らせただけなのだ。
「魔法もまともに使えないお前が、伯爵家の当主に医者の真似事か?」
「医者の真似をしたつもりはありません」
「では何だ」
「気になったので」
叔父の顔がさらに赤くなる。
これは言い方を間違えたらしい。
リリィはスープへ視線を落とした。
「申し訳ありません」
「まったく……誰に似たのだ、その余計な口だけ達者なところは」
バルガスは吐き捨てるように言い、肉料理へ手を伸ばした。
その皿には、朝から厚切りの燻製肉が何枚も載っている。
リリィは言いかけた言葉を飲み込んだ。
今それを食べるのは、あまりおすすめできません。
言えばまた怒られる。
今度こそ黙っていよう。
そう決めて横を見ると、叔母のマリアンヌが顔をしかめながら紅茶を飲んでいた。今日はいつもより顔色が白い。唇にもあまり色がない。
リリィは視線を逸らした。
見ない。
気づかない。
そう思った直後、マリアンヌが眉間を押さえた。
「頭が痛いわ」
「昨夜もあまり眠れていないのではありませんか?」
また口が動いた。
叔母がぎろりとリリィを見る。
「どうしてあなたに分かるの?」
「目の下が少し暗いので。それと、昨日の夕方から何度も欠伸をしていました」
「人の顔をじろじろ見るなんて、行儀が悪いわね」
「申し訳ありません」
リリィはもう一度謝った。
本当に難しい。
体調の悪い人を見つけても黙っていればいいだけなのに、それがなかなかできない。
なぜなのか、自分でも分からなかった。
ときどき、知らないはずの光景が頭に浮かぶことがある。
白い壁。白い服。消毒液の匂い。
誰かの手首に指を当てている自分。
数字が並んだ画面。
疲れきった身体で廊下を歩きながら、それでも「まだできる」と考えている自分。
夢なのか、記憶なのか。
十一歳のリリィには説明できない。
ただ、人の顔色を見ると、何となく身体の状態が分かることがあった。食事を見れば、何が足りないか、何を摂りすぎているかも妙に気になる。
「リリィ」
従兄のエドガーが不機嫌そうに呼んだ。
「はい」
「さっきからこっちを見るな」
「見ていません」
「見てただろ」
「少しだけです」
「なんでだよ」
リリィは迷った。
今度こそ余計なことを言わない方がいい。
「別に何でもありません」
「気になるだろ。言えよ」
「でも怒ると思います」
「怒らない」
本当だろうか。
リリィは少し考えてから答えた。
「最近、お腹が張っていませんか?」
エドガーの手が止まった。
「……は?」
「ここ数日、お通じがあまりないのでは?」
「なっ……!」
エドガーの顔が一瞬で真っ赤になった。
食卓の反対側で、妹のクラリッサが吹き出す。
「お兄様、便秘なの?」
「違う!」
「でも昨日もずっとお腹触ってたじゃない」
「うるさい!」
リリィは小さく首を傾げた。
「野菜をほとんど召し上がっていませんから。水分も少ないですし、少し食事を変えれば――」
「リリィ!」
叔父の怒声が飛んだ。
「はい」
「黙って食べろ!」
「……はい」
今度こそリリィは黙った。
黒パンをスープへ沈める。
やはり、体調の話は嫌われるらしい。
けれど分からない。
痛いところがあるなら、早く気づいた方がいい。
悪くなる前に防げるなら、その方がいい。
そんな当たり前のことが、この家ではなぜか歓迎されなかった。
アークライト伯爵家では、身体に何か問題が起きれば治癒魔法を使えばいい、と考えられている。
頭が痛ければ治癒術師。
怪我をすれば治癒術師。
飼っている魔獣が傷つけば治癒術師。
だから、食事や睡眠、清潔さについて細かく気にするリリィは、昔から変わった子供だと言われてきた。
ましてリリィ自身には、ろくな魔法の才能がなかった。
火を灯すこともできない。
水を生み出すこともできない。
治癒魔法など論外だ。
貴族の子供なら幼い頃から何かしらの属性魔法を発現するのが普通なのに、リリィには何もなかった。
だから叔父は、ことあるごとに言う。
役立たず。
伯爵家の恥。
食費だけかかる厄介者。
リリィは、もうその言葉に傷つくことも少なくなっていた。
傷つかなくなったというより、期待しなくなったのかもしれない。
朝食を終えると、リリィは自分の皿を持って立ち上がった。
使用人へ任せてもいいのだが、自分のものくらい自分で片づけたい。
厨房へ向かおうとすると、背後から叔父の声がした。
「リリィ」
「はい?」
「あとで書斎へ来い」
いつもの叱責だろうか。
「分かりました」
返事をして食堂を出る。
廊下を歩いている途中、若いメイドが壁際に立っているのが目に入った。
顔色が悪い。
リリィは足を止めた。
「ミーナさん」
「は、はい、お嬢様」
「大丈夫ですか?」
「え?」
「朝から何も食べていませんよね」
メイドが目を丸くする。
「どうして……」
「手が少し震えています。それと、さっき厨房で何度もお水を飲んでいたから」
リリィは自分のポケットを探った。
朝食の席で手をつけなかった小さな干し果実がひとつ入っている。
「これ、食べてください」
「でも、お嬢様の……」
「私はパンを食べましたから」
半ば押しつけるように渡す。
ミーナは戸惑いながらも受け取った。
「ありがとうございます」
その一言に、リリィは少しだけ笑った。
屋敷では何を言っても余計なことだと叱られる。
それでも、たまにこうして誰かが受け取ってくれる。
だから多分、自分はやめられないのだろう。
具合の悪い人を見て、見なかったことにするのが苦手なのだ。
その日の午前。
リリィは叔父の書斎を訪れた。
重い扉を開けると、バルガスだけでなく、叔母も座っていた。
机の上には一枚の書類が置かれている。
いつもの説教とは雰囲気が違う。
「座れ」
「はい」
リリィは椅子へ座った。
叔父はしばらく彼女を見つめていた。
やがて書類を指先で叩く。
「お前も十一歳だ」
「はい」
「いつまでも伯爵家で遊ばせておくわけにはいかん」
遊んでいたつもりはなかった。
掃除もした。
薬草も乾燥させた。
魔獣小屋の水も毎朝確認していた。
ただ、言っても意味がないので黙っていた。
「そこで決めた」
叔父は冷たい声で続けた。
「リリィ。お前には今日、この屋敷を出てもらう」
リリィは瞬きをした。
「……今日ですか?」
叔父は、泣き出すと思ったのだろう。
満足そうに椅子へ身体を預けた。
「そうだ。領地外れの森まで馬車を出してやる。それ以上は面倒を見ない」
森。
魔物が出ると聞いている。
十一歳の子供を一人で放り出す場所ではない。
怖くないはずがなかった。
それなのに。
リリィの胸に最初に浮かんだ感情は、恐怖とは少し違った。
もう、怒鳴られなくていい。
誰かの顔色をうかがいながら食事をしなくてもいい。
何かに気づくたび、口を閉ざさなくてもいい。
そんな考えが浮かんでしまった。
リリィは自分でも少し驚きながら、叔父を見た。
「分かりました」
今度は叔父の方が瞬きをした。




