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第10話 リリィが消えた伯爵家

 リリィを森へ追放してから、数週間が過ぎた。


 アークライト伯爵家では、誰もその名前を口にしなくなっていた。


 少なくとも、表向きは。


「……頭が痛いわ」


 朝食の席で、マリアンヌが額を押さえた。


 向かいではエドガーが腹をさすっている。その隣のクラリッサも、いつもの半分ほどしかパンを食べていなかった。


 そして当主バルガスは、椅子へ座ったまま不機嫌そうに右足を揉んでいる。


「また腫れてるんですか?」


 クラリッサが尋ねた。


「少し疲れているだけだ」


「昨日もそう言ってたじゃない」


「うるさい」


 バルガスはワインへ手を伸ばした。


 朝食だというのに、すでに二杯目だった。


 その手を見て、マリアンヌが何か言いかける。


 だが結局、黙った。


 以前なら別の声が飛んできた。


『叔父様、今日はお酒を控えた方がいいと思います』


 頼んでもいないのに。


『塩気の強いものも少し減らしてください』


 余計なお世話だと、何度叱ったか分からない。


 バルガスは苛立ったように杯を飲み干した。


「治癒術師はまだ来ないのか」


「昼頃には到着すると聞いています」


 使用人が答える。


「もっと早く呼べ」


「申し訳ございません」


 マリアンヌが小さく息を吐いた。


「私も診てもらうわ。昨夜、ほとんど眠れなかったの」


「私も」


 クラリッサが言う。


「朝から身体がだるいの」


「お前は夜更かししているからだ」


 バルガスが切り捨てる。


 すると今度はエドガーが顔をしかめた。


「父上、薬はありませんか」


「今度は何だ」


「腹が……」


「またか」


「またじゃありません!」


 声を荒らげた拍子に腹が痛んだらしく、エドガーが身体を丸める。


 クラリッサが呆れた顔をした。


「お兄様、前にも――」


 そこで言葉を止めた。


 全員が、同じことを思い出したからだ。


『最近、お腹が張っていませんか?』


 あの朝。


 リリィは食卓でそう言った。


『ここ数日、お通じがあまりないのでは?』


「……くだらん」


 バルガスが吐き捨てた。


 誰も何も言っていないのに。


「何が?」


 マリアンヌが尋ねる。


「あの娘のことだ」


 食卓が静かになる。


「たまたま当たっただけだ。人の顔色をじろじろ見て、適当なことを言っていただけだろう」


 クラリッサがパンをちぎりながら言った。


「でも、私が夜更かしすると、いつも水を置いていったわ」


「使用人にやらせればいいことだ」


「そうだけど」


 エドガーも気まずそうに続けた。


「俺の食事にも、よく野菜を入れろって……」


「だから何だ」


「別に」


 それ以上、誰も続けなかった。


 だが、一度思い出すと妙なことばかり浮かんできた。


『お水、もう少し飲んでください』


『今日は脂っこいものを控えた方がいいです』


『その傷、先に洗った方がいいですよ』


『この魔獣には餌を増やさないでください。今は運動が先です』


 鬱陶しいほど細かかった。


 聞かれもしないのに口を挟む。


 魔法も使えないくせに、食事だの睡眠だの水分だのと、毎日のように何かを言っていた。


 誰もまともに聞いてはいなかった。


 それでもリリィは勝手に、水差しを補充した。


 厨房へ行って料理人に頼み、野菜を増やした。


 小さな切り傷を見つければ洗わせた。


 魔獣の水桶が汚れていれば交換していた。


 いなくなってから、その全部がなくなった。


 マリアンヌがぽつりと言った。


「最近、屋敷の人間まで体調を崩していない?」


 バルガスが眉をひそめる。


「使用人など、いつでも誰かが具合を悪くする」


「でも多くないかしら。昨日も厨房の娘が倒れたでしょう」


「働き方が足りんのだ」


「それだけ?」


「何が言いたい」


 マリアンヌは少し迷った。


「リリィがいた頃は、こんなに続かなかった気がするの」


 バルガスの顔が険しくなった。


「まさか、あの役立たずのおかげだったとでも言うつもりか?」


「そうは言ってないわ。でも――」


「偶然だ」


 強い口調で遮る。


「あの娘は治癒魔法ひとつ使えない。人間の身体を治す力などない」


 確かにそうだった。


 だからこそ、誰もリリィのしていたことを「治療」とは考えなかった。


 水を飲ませる。


 食べるものを変える。


 眠らせる。


 身体や部屋を清潔にする。


 そんなことで病気を防げるなど、この家の誰も考えたことがなかった。


 病気になれば魔法で治せばいい。


 それが、この世界では当たり前だった。


 昼過ぎ、呼びつけられた治癒術師が屋敷へ到着した。


 まずバルガスの足。


 次にマリアンヌの頭痛。


 エドガーの腹痛。


 クラリッサの倦怠感。


 次々と治癒魔法をかけていく。


 淡い光に包まれると、症状は確かに軽くなった。


 バルガスは足首を動かした。


「ほら見ろ」


 腫れが完全に消えたわけではないが、痛みはなくなっている。


「魔法があれば十分だ」


 マリアンヌも顔色を取り戻していた。


 エドガーも、


「楽になった」


 と腹を押さえるのをやめる。


 バルガスは満足そうに頷いた。


「あの娘がいなくなったことと、何の関係もない」


 治癒術師へ報酬を払い、帰らせる。


 夕食にはいつも通り、脂の多い肉と濃い味つけの料理が並んだ。


 バルガスはワインを飲み、エドガーは肉を何度もおかわりした。


 マリアンヌも、昼間の不安を忘れたようだった。


 やはり考えすぎだったのだ。


 治癒魔法で治る。


 それなら何も問題はない。


 その時だった。


 屋敷の外から、甲高い悲鳴が聞こえた。


「きゃあああっ!」


 食卓の全員が顔を上げる。


 直後。


 何か巨大なものが壁へ激突したような音が響いた。


 ガンッ、と窓ガラスまで震える。


「何事だ!」


 バルガスが立ち上がった。


 廊下を誰かが走ってくる。


 扉が勢いよく開き、厩舎係の男が転がり込むように食堂へ入ってきた。


「旦那様!」


「騒々しいぞ!」


「魔獣が……!」


 男の顔は青ざめていた。


「鎖を引きちぎりました!」


「何?」


「止められません! 誰か、誰か来てください!」


 外から、獣の凄まじい咆哮が響いた。


 バルガスの顔から、さきほどまでの余裕が消えた。





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