第11話 魔法で治しているのに、なぜ弱る?
暴れ出した魔獣へ、治癒魔法が使われた。
淡い光が厩舎を照らし、裂けていた前脚の傷がみるみる塞がっていく。
「これで大丈夫です!」
呼び戻された治癒術師が声を上げた。
だが次の瞬間。
「グオオオオッ!」
魔獣はさらに激しく暴れた。
「なぜだ!」
バルガスが怒鳴る。
巨大な赤角馬が首を振り、残っていた鎖を壁へ叩きつける。
名前こそ馬だが、普通の馬より一回り大きい。額には赤黒い角が一本伸び、蹄にも強い魔力を持つ、伯爵家で飼育している高価な魔獣だった。
その赤角馬が完全に興奮している。
「傷は治したんだろう!」
「治っています!」
「ならなぜ暴れる!」
「私にも分かりません!」
治癒術師の声にも焦りが混じった。
使用人たちは遠巻きに取り囲むことしかできない。
近づけば蹴られる。
厩舎の壁には、すでに何本もの亀裂が入っていた。
赤角馬が再び前脚を上げる。
その動きを見て、年配の厩舎係が顔をしかめた。
「右を庇ってる……」
「何?」
バルガスが振り返る。
「右前脚です。傷は塞がりましたが、ずっと庇っています」
「だから治しただろう!」
「はい。しかし……」
男は言葉を濁した。
以前にも、この赤角馬の右前脚について注意した者がいた。
『この子、歩き方がおかしいです』
まだ小さな少女だった。
『右だけ歩幅が短いです。蹄を見てもらった方がいいと思います』
厩舎係は覚えていた。
リリィだ。
あの時は笑った。
治癒魔法を使えば済む、と。
実際、その後に一度治癒術師へ診せた。小さな傷が見つかり、魔法で塞いでもらった。
それで終わったと思っていた。
だがリリィは、その後も何度か言っていた。
『傷じゃなくて、蹄そのものが少し変な気がします』
誰も真面目に取り合わなかった。
「何をぼんやりしている!」
バルガスの声で、厩舎係は我に返った。
「申し訳ありません」
「さっさと抑えろ!」
護衛と使用人が太い縄を用意する。
しかし赤角馬へ近づこうとしたところで、また激しく暴れた。
「待ってください!」
厩舎係が思わず叫ぶ。
「今度は何だ!」
「刺激すると余計に興奮します。少し人数を減らした方が……」
「ではどうしろと言う!」
厩舎係は答えられなかった。
ふと、また別の声を思い出す。
『この子、少し太りすぎです』
リリィは赤角馬の腹を見ながらそう言っていた。
『餌を増やすより、少し運動させた方がいいと思います』
担当者は当時、鼻で笑った。
立派な魔獣には、たくさん食べさせる。
身体が大きくなれば強くなる。
それが正しいと思っていたからだ。
赤角馬には毎日、魔力を多く含んだ穀物を大量に与えている。
高級な餌だ。
悪いはずがない。
だが改めて見ると、腹部は不自然に膨らんでいる。
首回りにも脂肪がついている。
反対に脚は細い。
ここ数か月、運動場へ出す回数も減っていた。
屋敷の行事が続き、人手が足りなかったからだ。
「旦那様」
厩舎係が慎重に言った。
「もしかすると、傷だけではないのかもしれません」
バルガスが睨む。
「どういう意味だ」
「身体が重すぎるのではないかと。それに、蹄も一度きちんと――」
「今さら飼育方法が悪いとでも言うのか?」
「いえ、そういうわけでは……」
「最高級の餌を与えている。具合が悪くなれば治癒術師も呼んでいる。それ以上、何が必要だ」
厩舎係は黙った。
言われてみれば、その通りだと思ってきた。
高価な餌。
高価な治癒魔法。
高価な魔獣。
それだけ揃っているのだから、健康で当然だと。
赤角馬がまた大きく首を振った。
壁際の水桶を蹴り倒す。
濁った水が床へ広がった。
嫌な臭いがした。
藁も湿っている。
昨日交換するはずだったものが、そのまま残っていた。
最近、使用人の欠勤が増え、厩舎の掃除も遅れがちになっている。
そういえば。
『お水、汚れていますよ』
また、リリィの声が浮かぶ。
『昨日も同じ水でした。替えてあげてください』
『寝床も湿っています。これでは皮膚が悪くなります』
毎日のように厩舎へ来ていた。
勝手に水を替えようとして、邪魔だから出ていけと叱られたことさえある。
厩舎係は目の前の赤角馬を見た。
傷は治っている。
しかし身体が健康とは、とても言えない。
「……まさか」
小さく呟いた。
傷を治すことと。
健康にすることは。
同じではないのか。
「もう一度、治癒魔法を!」
バルガスの命令で考えが途切れた。
「しかし旦那様、傷はすでに――」
「暴れているんだ! どこか悪いに決まっている!」
治癒術師が困惑しながら杖を構える。
再び淡い光が赤角馬を包んだ。
表面にできていた小さな擦り傷まで消える。
だが。
「グオオオッ!」
赤角馬は止まらない。
「なぜだ!」
バルガスの苛立ちは頂点に達した。
結局、最後に使われたのは治癒魔法ではなかった。
拘束魔法だった。
護衛の一人が魔法陣を展開し、光の縄を赤角馬の脚へ絡ませる。
一本。
二本。
四肢を拘束された赤角馬が、地面へゆっくり倒れる。
なおも荒い息を吐いていたが、ようやく暴れることはできなくなった。
「最初からこうすればよかったんだ」
バルガスが吐き捨てる。
厩舎係は倒れた魔獣を見る。
赤角馬の胸は大きく上下していた。
疲れきっている。
怒っているというより、苦しんでいるように見えた。
「旦那様」
「何だ」
「一度、飼育環境そのものを見直した方が――」
「まだ言うか!」
バルガスが振り返った。
「お前はこの魔獣の管理責任者だろう」
「はい」
「なら、この状態になった責任もお前にある」
厩舎係の顔が固まる。
「私、ですか」
「他に誰がいる」
「ですが、餌の量も運動の回数も、以前から――」
「言い訳をするな」
バルガスは冷たく遮った。
「今日限りで解雇する」
「旦那様!」
「この程度の魔獣すら管理できない者を置いておく理由はない」
厩舎係は何か言おうとした。
しかし周囲の使用人たちは全員目を逸らした。
誰も助けてはくれない。
男は唇を噛み、頭を下げた。
「……承知しました」
厩舎から去っていく。
その背中を見送りながら、バルガスは衣服についた埃を払った。
「まったく。最近は使えない者ばかりだ」
誰も答えなかった。
倒れた赤角馬の横で、水桶から流れ出した濁った水だけが床を広がっていった。
その日の夜。
屋敷はようやく静けさを取り戻した。
赤角馬は拘束したまま厩舎へ寝かせてある。
新しい管理人は明日探せばいい。
バルガスはそう考え、いつも通りワインを飲んで寝室へ入った。
深夜。
再び咆哮が響いた。
「グギャアアアッ!」
バルガスは飛び起きた。
「今度は何だ!」
廊下へ出る。
同時に、反対側から使用人が走ってくる。
「旦那様! 西の飼育舎です!」
「赤角馬なら拘束しただろう!」
「違います! 黒牙牛が暴れています!」
「何だと?」
遠くで木材が折れる音。
さらに別の方向から、女性の悲鳴が聞こえた。
「誰か! 厨房で人が倒れました!」
「こちらもです!」
「メイド長が急に吐いて……!」
声が重なる。
一つではない。
魔獣。
使用人。
家族。
屋敷のあちこちで、次々と異変が起きている。
バルガスは廊下の中央に立ち尽くした。
昨日までは、一つずつなら偶然だと思えた。
治癒魔法を使えば済むと思っていた。
だが今夜は。
屋敷そのものが、内側から壊れ始めているようだった。




