第12話 役立たずだったはずの少女
アークライト伯爵家では、治癒術師を呼ぶ回数が増えていた。
最初は三日に一度だった。
それが二日に一度になり、今ではほとんど毎日だ。
「またですか」
屋敷へ到着した治癒術師が、隠しきれない疲労を顔に浮かべた。
「西の飼育舎からお願いします」
執事が頭を下げる。
「昨日も診ましたが」
「今朝から、また黒牙牛が餌を食べなくなりまして」
「傷はすべて治したはずです」
「はい。しかし立ち上がろうとしません」
治癒術師はため息をついた。
「その後は奥様を。頭痛と吐き気が戻ったそうです」
「……承知しました」
さらに厨房では料理人が腹痛を訴え、厩舎では別の魔獣が脚を引きずっている。
治癒魔法を使えば、一時的には症状が軽くなる。
傷なら塞がる。
痛みも消える。
それなのに数日後には、また別の不調が現れた。
そして、そのたびに金が消えていった。
*
「何だ、この金額は」
バルガスの低い声が執務室へ響いた。
机には何冊もの帳簿が広げられている。
家令が向かい側で背筋を伸ばしていた。
「今月の支出でございます」
「そんなことは見れば分かる!」
バルガスが帳簿を叩く。
「なぜこれほど増えている!」
治癒術師への支払い。
魔獣用の薬。
壊された厩舎や飼育舎の修理費。
新しく雇った管理人への報酬。
体調を崩した使用人の代わりに入れた臨時雇い。
数字はどれも以前より大きくなっていた。
「特に魔獣管理費が、先月の倍近くになっております」
「餌を減らせ」
「すでに一部は減らしております」
「なら治癒術師への支払いだ」
「呼ばなければ、奥様や若様方にも影響が……」
バルガスは舌打ちした。
「金を払っているのに、なぜ治らん」
家令は答えなかった。
治癒術師に聞いても同じだ。
治癒魔法自体は効いている。
目の前の症状は確かに消えている。
それでも、また具合が悪くなる。
扉が開いた。
「あなた」
マリアンヌが入ってくる。
「今は忙しい」
「私も話があります」
「後にしろ」
「リリィのことよ」
バルガスの手が止まった。
「……またそれか」
マリアンヌは椅子へ座った。
ここ数週間で、顔色は明らかに悪くなっている。
治癒魔法を受けた直後だけは元気になるが、夜になれば頭痛や倦怠感が戻ってくる。
「やっぱり、おかしいと思うの」
「何がだ」
「あの子がいた頃は、こんなことはなかった」
「偶然だと言ったはずだ」
「偶然が何週間も続くの?」
バルガスが顔を上げた。
「お前まで、あの娘に何か特別な力があったと言いたいのか」
「力かどうかは分からないわ」
マリアンヌは首を振る。
「でも、あの子は毎日何かしていたでしょう」
「余計なことばかりな」
「本当に余計だった?」
その言葉に、バルガスの表情が険しくなった。
マリアンヌは構わず続ける。
「水を替えたり、食事の量を気にしたり、具合の悪い使用人に休むよう言ったり。魔獣のところにも毎日のように行っていたわ」
「子供の遊びだ」
「でも、その子供がいなくなってから、こうなったのよ」
バルガスが机を叩いた。
「いい加減にしろ!」
家令が小さく身を固くする。
「魔法も使えない役立たずだぞ! 十一歳の小娘一人が、この伯爵家を支えていたとでも言うのか!」
マリアンヌは黙った。
だが、その沈黙が逆にバルガスを苛立たせた。
「そんな馬鹿な話があるものか」
吐き捨てる。
その時、家令が遠慮がちに口を開いた。
「旦那様」
「何だ」
「一つ、気になるものがございます」
「今度は何だ」
「リリィお嬢様のお部屋を整理した際に見つかったものです」
家令が一冊の小さな帳面を差し出した。
見覚えがある。
リリィがいつも持ち歩いていたものだった。
「こんなものが何だ」
「中をご覧ください」
バルガスは面倒そうに表紙を開いた。
最初のページには日付。
その下に細かな文字が並んでいる。
『叔父様――右足のむくみ。飲酒後に強くなる。塩気の多い食事が続いている』
バルガスの眉が動いた。
次の行。
『叔母様――睡眠時間が短い。朝食を抜く日が増えている。水分も少ない』
『エドガーお兄様――野菜不足。水分摂取少なめ。腹部の張りあり』
「……何だ、これは」
ページをめくる。
家族だけではない。
使用人の体調。
厨房の食材。
水桶の交換日。
さらに魔獣についても、細かな記録が残されていた。
『赤角馬――右前脚を庇う。蹄の形が左右で違う。体重増加。餌を増やすより運動が必要』
バルガスの指が止まった。
暴走した赤角馬だ。
さらにページをめくる。
『黒牙牛――食欲が落ちている。水桶の汚れが強い。寝床が湿っている。傷はないが元気がない』
現在、立てなくなっている魔獣。
記録の日付は、リリィが追放されるより前だった。
マリアンヌが帳面を覗き込む。
「こんなことまで書いていたの?」
家令が頷いた。
「ほぼ毎日です」
「誰かに頼まれて?」
「いいえ」
バルガスはさらに読み進めた。
赤角馬については、何週間も前から体重増加が書かれている。
蹄の異常も一度ではない。
黒牙牛も同じだ。
食欲の変化。
水の状態。
寝床。
小さな傷。
そのどれも、問題が大きくなる前から記録されていた。
「なぜ報告しなかった」
バルガスが家令を睨んだ。
家令は一瞬言葉に詰まった。
「リリィお嬢様は、何度も報告されております」
「私にか?」
「はい」
バルガスの顔が固まる。
覚えていないわけではない。
『この子、太りすぎです』
『蹄を見てもらった方がいいです』
『水が汚れています』
何度も聞いた。
そして、そのたびに。
『余計なことをするな』
そう言った。
「……しかし」
バルガスは帳面を閉じた。
「こんなものは、見たことを書き留めただけだ」
マリアンヌが静かに言った。
「それが全部、今起きていることにつながっているのよ」
「たまたまだ」
「まだそう言うの?」
バルガスは答えなかった。
もう一度帳面を開く。
今度は支出帳簿と並べて見る。
赤角馬の不調が悪化した時期。
黒牙牛が倒れた時期。
使用人の体調不良が増えた時期。
すべて。
リリィがいなくなったあとだった。
あの娘は治癒魔法を使えなかった。
だから何の役にも立たないと思っていた。
だが。
病気になってから魔法で治すのではなく。
病気になる前に、小さな異常を見つけていたのだとしたら。
「まさか……」
バルガスは椅子へ深く座った。
頭の中で数字が動く。
毎日の治癒術師への支払い。
魔獣の損害。
人員の補充。
飼育施設の修理。
もしリリィが戻れば。
以前のように異常を見つけさせれば。
この支出を止められるかもしれない。
マリアンヌが言った。
「あなた」
「何だ」
「あの子に、ひどいことをしたと思わない?」
バルガスは顔を上げた。
「なぜ私が謝る必要がある」
マリアンヌが目を見開く。
「今の話を聞いていたでしょう?」
「聞いたからこそだ」
バルガスは帳面を閉じた。
さっきまでとは目の色が違っていた。
「リリィには価値がある」
「……価値?」
「これだけのことが分かるなら、森で遊ばせておく方が損失だ」
マリアンヌが呆然とする。
「あなた、まさか」
「あの娘はアークライト家の人間だ」
バルガスは立ち上がった。
「家のために能力を使うのは当然だろう」
そこに後悔はなかった。
十一歳の少女を森へ捨てたことへの罪悪感もない。
あるのは、一度手放したものが想像以上に有用だったという認識だけだった。
バルガスは呼び鈴を鳴らした。
家令が姿勢を正す。
「人を集めろ」
「何をなさるおつもりで?」
「決まっている」
机の上には、リリィが残した小さな帳面。
バルガスはそれを自分の手元へ引き寄せた。
「森を捜せ」
そして、当然のことを命じるように続けた。
「リリィを連れ戻せ」




