第32話 森に、二つの癒やしが生まれました
最初に困ったのは、場所だった。
「……入りませんね」
リリィは小屋の入口から中を見て、腕を組んだ。傷ついた角の小獣、翼を休めている鳥型の魔物、柔らかな布の上で静かに横たわるアンデッドの狐――そこへ今朝、新しく脚を傷めた兎型の魔物までやってきた。銀狼と翼竜は外で過ごせるが、怪我をしている子たちはそうはいかない。
「そりゃ、こうなるよな」
ガイルが苦笑する。
「何がですか?」
「怪我した魔物がここに来れば助けてもらえるって、森の中で広まってるんじゃないか?」
「魔物同士で?」
「俺に聞くなよ」
リリィにも分からなかった。ただ、銀狼と翼竜が元気になって森を歩き回るようになってから、傷ついた魔物が少しずつ小屋へ来るようになったのは確かだった。
「でも、このままだと寝る場所がありません」
「だから言っただろ。ちゃんと作ろうって」
ガイルの後ろには、村人が十人近く集まっていた。材木、縄、大きな布、桶、工具――さらには荷車いっぱいの藁まである。
「……こんなに?」
「村のみんなで話したんだ」
老人が答えた。
「お前さん一人に何もかもやらせるわけにもいかんからな」
「でも、私、お金を払えません」
「誰が金の話をした」
「建物を作るなら必要ですよね?」
「こっちだって助けてもらっとる」
老人は森の道を指した。
「守護獣のおかげで森へ入りやすくなった。薬草も採れる。ガイルは命を助けてもらった。それに最近じゃ、村の怪我人までお前さんに傷の洗い方を聞きに来てるだろう」
リリィは少し困った。
「それは、できることをしているだけです」
「こっちも同じだ」
老人が笑った。
「できることをする。それでいいんだろ?」
その言葉には反論できなかった。
*
まず作ったのは、食事を用意する場所だった。今までの小さな竈では、人数が増えると追いつかない。村の職人が石を組み、二つの鍋を同時に使える大きな竈を作った。
「こっちは魔物用ですね」
リリィが言う。
「人間用と分けるのか?」
「食材も量も違いますから。それに、衛生的にも分けた方が安心です」
棚も増やした。肉、根菜、果実、乾燥豆、魔力を多く含む木の実――それぞれ置く場所を決める。
銀狼が肉の棚へ鼻を近づけた。
「あなたの食べ放題棚ではありません」
銀狼が何食わぬ顔で離れる。
「今、絶対に見てましたよね?」
村人たちが笑った。
その時、新しい竈で薪がぱちりと爆ぜた。少し離れたところにいた翼竜の身体が、一瞬だけ強張る。リリィはすぐに気づいた。以前のように大きく後ずさることはない。それでも翼竜は火の近くへは来ず、竈から数歩離れた場所で足を止めていた。
「そこなら大丈夫ですか?」
翼竜が小さく首を動かす。
「じゃあ、そこでお願いします」
無理に近くへ呼ばない。翼竜はしばらく火を見ていたが、やがて落ち着いたように身体から力を抜いた。火を怖がらなくなったわけではない。ただ、自分が安心できる距離を覚えた。それで十分だと、今のリリィは思えた。
次に作ったのは、傷ついた生きた魔物たちの休養場所だった。屋根をつけて雨風を防ぎ、身体の大きな魔物でも横になれるよう、区画は広めに取った。床は水が溜まらないよう少し高くし、乾いた寝藁を敷く。
「元気な子と、怪我をしている子は分けたいです」
「喧嘩するからか?」
「それもあります。でも、傷がある子は感染もしやすいですから」
水桶も個別に近い形で置き、食事量も一頭ずつ確認する。同じ魔物だから同じだけ食べさせる、とはしない。身体の大きさ、傷、活動量、食欲、その日の状態――それを見て決める。
「ずいぶん細かいな」
ガイルが言う。
「同じじゃないですから」
リリィには、もう迷いがなかった。
そして、生きた魔物たちの場所から少し離れたところに、もう一つ静かな区画を作った。
「ここは?」
村人が尋ねる。
「アンデッドの子たちです」
一瞬、作業の手が止まった。やはりアンデッドを怖がる者はいる。それは仕方のないことだとリリィも思う。
「同じところでは駄目なのか?」
「駄目というより、分けた方がいいです」
リリィは説明した。
「身体が傷んでいる子もいます。生きている子の傷と触れないようにしたいんです。それに、あまり動かない子が多いので、静かな場所の方がいいと思います」
「なるほど」
「怖いから離すんじゃありません」
その一言を、リリィは付け加えた。
「必要な場所が違うだけです」
アンデッド用の場所には、身体の形が崩れにくいよう柔らかい布を多めに使い、地面からの湿気を避けるため木の台も作った。洗浄用の布と水桶は、生きた魔物用とは完全に分ける。
スライムの寝床も、そこへ移すことになった。
「嫌だったら戻してもいいですからね」
リリィは新しい場所の前へスライムを連れていった。柔らかな布、直射日光を避けた屋根――風は通るが、強くは吹き込まない。スライムはしばらく動かなかったが、やがてゆっくり布の上へ移る。
「気に入りました?」
輪郭が小さく揺れた。
「よかった」
アンデッドの狐も、その少し離れた場所で静かに横になった。
*
水場も整え直した。飲み水を汲むところ、食器を洗うところ、汚れた布を洗うところ――それぞれをさらに離す。
「ここの水、本当にきれいになったな」
村人が桶を持ちながら言った。
「上流側を汚さなければ、かなり違います」
「前は全部同じところで洗ってたぞ」
「それはやめましょう」
「はい、先生」
「先生じゃありません」
リリィは即座に否定した。
「じゃあ、お医者様?」
「それも違います」
「魔獣使い?」
「もっと違います」
皆が笑う。リリィは少し考えた。医者ではない。治癒術師でもない。魔物を従わせているわけでもない。管理している、という言葉もしっくりこなかった。
「お世話をしてるだけです」
「それじゃ名前にならんな」
ガイルが言う。
「保護してるんだから、保護者でいいんじゃないか?」
「保護者?」
「銀狼たちの」
リリィは三匹を見る。銀狼は新しく作った日陰で寝ている。翼竜は材木運びを手伝ったあと、竈から少し離れた屋根の上で休んでいた。火の音がしても、そこならもう逃げない。スライムは新しい布の上。
「……それなら、いいかもしれません」
誰かを治す人ではない。誰かを強くする人でもない。怖いものを無理に克服させる人でもない。その子に必要なものを考え、安心して過ごせるようにする。
「保護者、ですか」
口にすると、不思議と馴染んだ。
*
数日後。小屋の周囲は、以前とはすっかり変わっていた。大きな建物が建ったわけでも、立派な病院でも、魔獣を閉じ込める施設でもない。木造りの屋根、清潔な寝床、食事を作る竈、整理された水場。小さな畑には根菜や薬草の芽が並び始めている。
食べられる子には、温かい食事がある。その日の夕方も、大鍋から湯気が上がっていた。肉と根菜を柔らかく煮たスープは、弱っている子には薄めに、元気を取り戻してきた子には少し肉を多く。
銀狼は当然のように一番近くで待っている。
「あなたは患者さんじゃないでしょう」
尻尾が振られる。
「だから量は増えません」
少し離れた屋根の上では、翼竜も鍋を見ていた。竈の火との間には、今もちゃんと距離がある。けれど薪が爆ぜても、もう飛び去ることはなかった。
リリィはそれを見て微笑む。近づけなくてもいい。昨日より一歩進まなくてもいい。その子が安心していられる場所を、自分で選べればそれでいい。
反対側の静かな区画には、食事の匂いを必要としない子たちがいる。スライム、狐型のアンデッド、新しく来た小さな骨の鳥――そこでは騒がず、急かさず、身体を清潔にして、落ち着いていられる場所を保つ。食べることで身体を癒やす子、食べられなくても穏やかな時間を守る子。二つの癒やしが、同じ森の中に並んでいた。
「これでいいんですね」
リリィは夕暮れの森を見渡した。全員を同じように治せなくてもいい。元気にならない子がいてもいい。怖いものを完全に克服できない子がいてもいい。ここへ来た時より少し楽に、少し安心して、その子なりに過ごせればいい。それなら、自分にも続けられる。毎日、全部を救わなくても。今日はここまで、と言える。
その時だった。森の入口の方から、人の話し声が聞こえた。
「こっちで合ってるのか?」
「村で聞いたんだから間違いないって」
「本当に魔物がいるんだろうな?」
リリィが振り向く。旅装の男たちが三人、道を歩いてきていた。そのうちの一人が、小屋や休養場所を見つける。
「あったぞ!」
別の男が声を弾ませた。
「ここが噂の、魔物まで元気になる森らしいぞ」
リリィの動きが止まった。
「……噂?」
銀狼は聞こえなかったふりをして顔を逸らした。翼竜も何食わぬ顔で空を見上げる。
リリィは二匹を交互に見た。
「あなたたち、何か知っています?」




