第33話 11歳の保護者と、世界一やさしい森
いつの間にか、森にはいろいろなものが来るようになっていた。怪我をした魔物、呪われた魔物、年老いて群れについていけなくなった魔物、身体を失ってなお動き続けるアンデッド。そして最近では、人間までやって来る。
「リリィちゃん、こっちの子、朝からあまり食べてないぞ」
「あとで見ます!」
「この布はどこに干す?」
「アンデッド用なら、奥の竿です!」
「パン焼けたよ!」
「銀狼に見つからないところへ置いてください!」
朝から森は騒がしかった。
リリィは小屋と休養場所の間を行ったり来たりしている。最初に見るのは、昨日来たばかりの角のある魔物だった。
「おはようございます。傷、見せてくださいね」
前脚に巻いた布を外す。赤みは昨日より減っている。嫌な臭いもない。
「よさそうです。でも、今日はまだ走っちゃ駄目ですよ」
魔物が立ち上がろうとする。
「駄目です」
座る。
「よろしいです」
その後ろでは、老いた鳥型の魔物が餌をゆっくりついばんでいた。若い個体と同じ量は食べられず、硬い木の実も避けている。
「今日は少し柔らかくしましょうか」
帳面へ書き込む。
次はアンデッド用の静かな区画。狐型のアンデッドは昨日と大きな変化なし。骨の鳥も、定位置で身体を休めている。そして。
「おはようございます」
足音に反応して、スライムの輪郭が揺れた。
「今日も来てくれましたね」
最近は、リリィが朝の見回りを始める時間になると、決まって寝床の端まで出てくる。治ってはいない。これからも生き返ることはない。それでも、輪郭が急激に崩れることは少なくなった。
リリィは手を洗い、清潔な布を取る。
「今日はここだけきれいにしましょう」
身体の端についた汚れを、そっと拭う。強く擦らず、形を変えない。終わると、スライムが小さく揺れた。
「はい。おしまいです」
その時、背中へ重みがかかった。
「重いです」
振り向かなくても分かる。銀狼だった。完全に取り戻した銀毛は、朝日を浴びると眩しいほど白く光っている。
「さっきご飯食べましたよね?」
銀狼はリリィの肩へ顎を載せたまま動かない。
「甘えても追加はありません」
尻尾だけが揺れる。その上から大きな影が差した。翼竜だ。
「あなたは何を――」
口に何かくわえている。リリィは目を細めた。
「それ、厨房の干し肉ですよね?」
翼竜が止まった。
「置いてください」
動かない。
「夕ご飯、少なくしますよ」
すぐに干し肉が地面へ置かれた。
「どうして二匹とも食べ物になると素直なんでしょう」
近くにいた村人たちが笑った。
*
昼が近づくと、森の中央に長い食卓が出された。本当は食卓と呼ぶほど立派なものではない。村人たちが余った板をつなぎ合わせ、脚をつけただけの長い台だ。椅子も揃っておらず、丸太や古い木箱、小さな腰掛けなど、座れれば何でも使う。
その上に、今日の食事が並んだ。豆と根菜のスープ、焼いたパン、村で採れた卵、森の香草を使った肉料理、果実を煮た甘いものまである。
「今日は豪華ですね」
「旅人が昨日置いていった肉があるからな」
ガイルが大鍋を運びながら言った。
「それと婆さんたちがパンを焼きすぎた」
「焼きすぎたんじゃないよ。最初からここへ持ってくる分だよ」
老人の女性が言い返す。
「そうなんですか?」
「最近ここは食べる人数が多いからね」
確かに多かった。村人、旅人、怪我が治り、そろそろ森へ戻ろうとしている魔物、銀狼、翼竜。食事の必要がないスライムやアンデッドたちは少し離れた静かな場所にいるが、同じ時間を一緒に過ごしている。
リリィは食卓を見渡した。ふと、昔の朝を思い出す。伯爵家の長い食卓、真っ白な布、銀の食器、柔らかなパン、肉、果物――上等な料理が並んでいた。でも自分の前には、硬い黒パンと薄いスープだけの日があった。家族全員が同じ場所にいるのに、ずっと、一人だった。
「リリィ?」
声をかけられて我に返る。
「どうした?」
「いえ」
リリィは首を振った。
「ちょっと昔を思い出していました」
「嫌なことか?」
ガイルが聞く。
リリィは食卓を見る。不揃いな皿、形の違う椅子、焼き色にばらつきのあるパン。銀狼はすでに自分の器を覗き込み、翼竜は隣の肉まで確認している。
「昔より、こっちの方がいいです」
「そりゃよかった」
それ以上、誰も聞かなかった。
「じゃあ食べようか」
「はい」
リリィも自分の場所へ座る。
「いただきます」
皆の声が重なった。
スープを口にする。豆は柔らかく、根菜の甘みも出ていて、肉の旨味が温かな汁へ溶け込んでいた。
「おいしい」
「リリィちゃんが味つけしたんだろ」
「それでもおいしいものはおいしいです」
「自画自賛だな」
笑い声が上がる。リリィも笑った。
その足元へ、冷たい感触が触れる。
「あ」
スライムだった。
「こっちまで来たんですか?」
食事はできない。それでも最近は、みんなが集まる時間になると、ゆっくり食卓の近くまで来るようになっていた。
「ここにいます?」
リリィは足元へ柔らかな布を敷いた。スライムがその上へ移る。
「どうぞ」
食べられないから、一緒にいられないわけではない。それでよかった。
*
午後は、また忙しくなった。村の子供が転び、旅人が靴擦れを作り、若い魔物が傷口を舐めすぎてリリィに止められる。翼竜が水桶をひっくり返し、銀狼が洗いたての布の上で寝た。
「どうしてそこで寝るんですか!」
銀狼は気持ちよさそうに目を閉じる。
「それ、今洗ったばかりです!」
「リリィちゃん、こっちの魔物も見てくれ!」
「今行きます!」
リリィは走りかけた。その腕を、村の女性が掴む。
「待ちなさい」
「え?」
「朝からずっと動いてるでしょう」
「でも、あの子が」
「今すぐじゃないと危ないの?」
リリィは魔物を見る。呼吸は落ち着いていて、出血もない。
「……危なくはないです」
「じゃあ、先に座る」
「でも」
「水も飲む」
木の器を渡された。
「リリィも休みなさい」
その言葉に、リリィは一瞬だけ動きを止めた。前世では、休んでいる暇があるならもう一人見られると思っていた。屋敷では、役に立てるならもっとやらなければと思っていた。けれど今は、自分が走り続けようとすると、止めてくれる人がいる。
「……はい」
リリィは素直に座った。水を飲む。冷たくておいしい。
銀狼が近づいてくる。
「今は休憩です」
銀狼も隣へ伏せた。翼竜も日陰へ入る。少し離れたところでスライムが揺れている。
「みんなも休憩ですね」
リリィは木にもたれた。今日はまだやることがある。あの魔物の傷も見たいし、畑の草も抜きたいし、アンデッド用の布も交換したいし、夕食の仕込みも必要だ。でも、全部を今しなくてもいい。
「今日はここまでにすることも、大事なんですよね」
村の女性が笑う。
「やっと分かったかい」
「最近、少しだけ」
リリィも笑った。
前世では、救えなければ自分の努力が足りないと思っていた。もっと知識があれば、もっと早く気づけば、もっと働けば――そうすれば全員を救えるのではないかと。でも、そんなことはできない。治せる命には、できるだけ手を尽くす。治せない命には、その子に必要な形で寄り添う。自分ではできないことなら、誰かに頼る。そして、誰かを守るために、自分まで壊してしまわない。それが今のリリィにとっての「保護者」だった。
*
夕方。一日の仕事がようやく落ち着いた。西の空が橙色に染まり、森の影が長くなる。
「今日はここまで」
リリィは帳面を閉じた。以前なら、あと一つだけと思っていたかもしれない。今は違う。続きは明日でいい。
銀狼が伸びをする。翼竜も屋根の上で翼を畳んだ。スライムはリリィの足音を追うように、ゆっくり近づいてくる。
その時、森の入口から、かすかな音がした。銀狼が顔を上げ、翼竜も同じ方向を見る。
「誰か来ました?」
リリィも目を凝らした。木の陰に、一つの影がある。
魔物だった。まだ若い。身体にはいくつもの傷があり、毛は汚れ、片脚を庇っている。こちらへ来たいのに、怖くて進めないらしい。
銀狼が立ち上がり、翼竜も屋根から降りる。スライムも、遅れてリリィの後ろを動き始めた。
「大丈夫です」
リリィはゆっくり歩き出した。昔のように、すぐ食べ物を持って駆け寄ることはしない。まず見る。この子が何に困っているのか、何ができるのか、何ができないのか――それを知るところから始める。
傷ついた魔物は、まだ怯えていた。リリィは少し離れたところで立ち止まり、しゃがんだ。そして微笑む。
「大丈夫ですよ。まずは、あなたのことを教えてください」
夕暮れの森に、銀狼の銀毛が光る。翼竜が静かに翼を畳む。足元ではスライムの輪郭が、小さく揺れている。
今日もまた、新しい家族がやって来た。
この森はきっと、これからもっと素敵な場所になっていく。




