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第29話 ざまぁより、温かい朝ご飯

 伯爵家がどうなったのかという知らせが届いた朝、リリィは目玉焼きをひっくり返すかどうかで悩んでいた。


「リリィちゃん、聞いてるか?」


「聞いてます」


 小屋の入口では、ガイルが少し困った顔をしている。


 フライパンの上では二つの卵が焼けていた。白身の縁には香ばしい焼き色がつき、黄身はまだ柔らかい。


「伯爵家に王国の監督官が入ったんだぞ」


「はい」


「領地経営の権限もかなり減らされたらしい。別邸も馬車も売るって話だ」


「そうですか」


 リリィは黄身の表面を見た。


 今日はひっくり返さないことにする。


 このくらいなら、パンをつけて食べるとちょうどいい。


「……それだけ?」


 ガイルが聞いた。


 リリィは振り向いた。


「他にもあるんですか?」


「いや、そうじゃなくてな」


 ガイルは頭を掻く。


「ほら、あんたを森へ追い出した家だろ。もっとこう……何か思うことがあるのかと」


「ありますよ」


「あるのか」


「卵をもう少し焼くか迷っています」


「そっちじゃない」


 リリィは少し笑った。


 銀狼がその声に反応して尻尾を振る。


 翼竜は小屋の屋根から顔だけを突き出し、朝食の匂いを嗅いでいた。


「あなたも後でご飯ですよ」


 翼竜の首が少し引っ込んだ。


 ガイルがため息をつく。


「まあ、リリィちゃんがそれでいいならいいけどさ」


「ありがとうございます」


「村の連中は結構騒いでるぞ。領主様がついに罰を受けたって」


「そうなんですね」


「本当に興味ないな」


「ないわけじゃありません」


 リリィは火を弱めた。


 以前なら、きっと気になっていただろう。


 叔父が困っていると聞けば、自分にできることがあるのではないかと考えた。


 叔母が体調を崩したと聞けば、食事や睡眠のことを心配した。


 魔獣が暴れれば、原因を探した。


 頼まれていなくても。


 拒絶されても。


 自分がもっと頑張れば、少しは良くできると思っていた。


 でも今は、違う。


「伯爵家には、王国の人が来ているんですよね?」


「ああ」


「だったら、必要なことはその人たちがすると思います」


「ずいぶん割り切ったな」


「全部を私がしなくてもいいって分かったので」


 ガイルは一瞬黙ったあと、頷いた。


「それは、そうだな」


 リリィは焼き上がった卵を皿へ移した。


 昨日の残りのパンを薄く切って、火のそばで軽く炙る。


 そこへ村でもらった葉野菜と、小さく切った果実を添える。


 派手ではない。


 伯爵家の朝食と比べれば、ずっと質素だ。


 けれど卵は温かい。


 パンも香ばしい。


 自分が食べたいものを、自分のために作った朝食だった。


「ガイルさんも食べます?」


「いいのか?」


「卵はもうありませんけど、スープならあります」


「十分だ」


 小さな鍋には、昨夜作った豆と野菜のスープが残っている。


 少し水を足して温め直すと、根菜の甘い匂いが立ち上った。


 ガイルの分を器へよそう。


「助かる」


「熱いので気をつけてください」


「怪我人じゃなくても言うんだな」


「火傷しますから」


 二人で小屋の前へ座った。


 銀狼には肉と根菜。


 翼竜には魔力を含む木の実を少し混ぜた食事。


 スライムには食事を置かない。


 代わりにリリィは寝床の布が乾いていることを確認した。


「今日は大丈夫そうですね」


 スライムの輪郭が小さく揺れる。


 ガイルがそれを眺める。


「最初は、その子にも飯を食わせてたんだよな」


「はい」


「今は食わせない」


「必要ないって分かったので」


 リリィは目玉焼きへパンの端をつけた。


 黄身がとろりと崩れる。


 熱い黄身がパンへ染み込み、少しだけ塩を振った白身と一緒に口へ入れる。


「……おいしい」


「いい顔するなあ」


「卵、久しぶりだったので」


 屋敷にいた頃にも、卵はあった。


 ただし、自分の皿へ来るとは限らなかった。


 今は一個の卵を、誰にも遠慮せず食べられる。


 それだけで十分に贅沢だった。


「伯爵家の連中、これからどうなるんだろうな」


 ガイルがスープを飲みながら言った。


「分かりません」


「気にならない?」


 リリィは少し考えた。


 叔父の顔。


 叔母の声。


 エドガーとクラリッサ。


 嫌だった記憶もある。


 少しだけ寂しい記憶もある。


 全部消えたわけではない。


 たぶん、これからも時々思い出す。


「救えるものは、できる範囲で助けます」


 リリィは銀狼を見る。


「この子みたいに」


 次に翼竜を見る。


「時間をかければ元気になれる子もいます」


 そしてスライム。


「治せなくても、できることがある子もいます」


 最後に、自分の皿へ視線を戻した。


「でも、私が背負わなくていいものもあります」


 伯爵家の経営。


 叔父の考え方。


 家族が自分で変えなければならない生活。


 そこまでリリィが抱える必要はない。


「だから、伯爵家のことは……」


 少しだけ間を置いた。


「終わったことです」


 言ってみても、胸は痛まなかった。


 冷たくなったわけではない。


 どうでもよくなったのとも違う。


 ただ、自分の手から離したのだ。


「そっか」


 ガイルもそれ以上は聞かなかった。


 森には朝の光が差している。


 温かいスープ。


 焼いたパン。


 半熟の目玉焼き。


 隣には銀狼。


 屋根には翼竜。


 少し離れたところにはスライム。


 今のリリィにとって大切なのは、こちらだった。


「いただきます」


「もう半分食ってるだろ」


「気持ちの問題です」


 リリィがもう一口パンを食べる。


 その時だった。


 銀狼の鼻が、すっとリリィの皿へ伸びた。


「駄目です」


 ぴたりと止まる。


「あなた、自分の分を食べたでしょう?」


 銀狼が目玉焼きを見る。


 リリィを見る。


 もう一度、目玉焼きを見る。


「そんな顔をしても駄目です」


 銀狼は諦めない。


 少しずつ鼻先が近づいてくる。


「近いです」


 その様子を屋根から見ていた翼竜まで降りてきた。


「どうしてあなたまで来るんですか!」


 翼竜の視線も皿へ向いている。


「これは私の朝ご飯です!」


 右から銀狼。


 左から翼竜。


 リリィは慌てて皿を胸元へ引き寄せた。


「二匹とも自分のを食べたでしょう!」


 銀狼が一歩。


 翼竜も一歩。


「だーめーでーす!」


 ガイルが腹を抱えて笑い始めた。


 静かだった朝が、一気に騒がしくなる。


 その騒動の少し外側で。


 ぽよん。


 スライムの輪郭が揺れた。


 そしていつもの寝床から、ゆっくりと。


 リリィたちの方へ近づき始めた。




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