第28話 伯爵家は、自分で壊れました
リリィが何もしなくても、アークライト伯爵家の問題は止まらなかった。
むしろ、森から戻ったバルガスを待っていたのは、これまでより大きな問題だった。
「正式調査だと?」
執務机の上に置かれた公文書を見て、バルガスは声を荒らげた。
王国領政監督局。
領主が適切に領地を管理しているか調査する機関だ。
通知書には、調査対象となる項目が並んでいた。
街道の補修遅延。
農業用水路の管理不全。
魔獣飼育施設で相次いだ事故。
使用人の大量離職。
医療費と魔獣管理費の急増。
さらに、領民から提出された複数の申告。
「こんなもの、誰が出した!」
「複数の村からだそうです」
家令が答える。
「村人ごときが伯爵家を告発したというのか!」
「告発というより、生活上の問題について改善を求めたものかと」
「同じことだ!」
バルガスは通知書を机へ叩きつけた。
「リリィだ。あの娘が余計なことを吹き込んだに違いない」
家令は何も言わなかった。
リリィが屋敷を追放される以前から、水路の修繕依頼は届いていた。
街道の穴についても同じだ。
魔獣管理の問題も、突然始まったわけではない。
ただ今までは、誰かが表面に出る前に処理していた。
使用人が掃除する。
厩務員が異常に気づく。
そして、その隙間を十一歳の少女が埋めていた。
それがなくなった。
積み上がっていた問題が、一斉に見えるようになっただけだった。
*
調査官が屋敷へ来たのは、三日後だった。
三人の役人と、領内の会計を確認する書記官。
彼らは最初に帳簿を求めた。
「この半年分の支出記録を」
「なぜ伯爵家の帳簿を見せなければならん」
バルガスが不機嫌そうに言う。
「正式調査ですので」
調査官は表情を変えなかった。
帳簿が開かれる。
治癒術師への支払い。
魔獣施設の修繕。
新規雇用。
退職した使用人への精算。
借入。
さらに借入。
「支出が急激に増えていますね」
「仕方がなかった。家の者が相次いで体調を崩した」
「原因の調査は?」
「治癒術師を呼んだ」
「原因についてです」
「治療したのだから、それで十分だろう」
調査官の筆が止まった。
次に魔獣飼育施設を確認した。
赤角馬。
黒牙牛。
ほかにも数頭。
傷自体は治癒魔法で塞がれている。
しかし餌の記録は不十分。
運動量の記録もない。
水桶には汚れが残り、寝床の一部は湿っていた。
「管理記録は?」
「以前の管理人が辞めた」
「その前の記録です」
「そんなものまで必要なのか」
調査官は答えず、厩舎に残っていた書類を調べた。
そこで、一冊の小さな帳面が提出された。
「これは?」
「リリィお嬢様が残されたものです」
家令が答えた。
バルガスの顔が変わる。
「それは関係ない!」
しかし調査官はページを開いた。
赤角馬の歩様。
体重の増加。
蹄の異常。
黒牙牛の食欲低下。
水桶。
寝床。
日付とともに細かく記録されている。
「この記録者は?」
「当時十一歳のリリィ・アークライトです」
「専門の魔獣管理者ではなく?」
「はい」
調査官がバルガスを見る。
「この異常について報告を受けていましたか?」
「子供の戯言だと思っていた」
「つまり、報告は受けていた」
「……」
書記官の筆が動いた。
バルガスの顔が険しくなる。
*
調査は屋敷だけでは終わらなかった。
領内の村。
街道。
水路。
使用人。
辞めた厩務員。
治癒術師。
次々と聞き取りが行われた。
そして一週間後。
バルガスは再び調査官と向かい合っていた。
「結論から申し上げます」
机の上には分厚い報告書が置かれている。
「アークライト伯爵領では、複数の管理不全が確認されました」
「だから、それはリリィがいなくなったからだ!」
バルガスは待っていたように言った。
「あの娘が突然いなくなったせいで屋敷の管理が乱れた。魔獣も体調を崩した。家族まで――」
「リリィ・アークライト嬢は、十一歳ですね」
「それが何だ」
「十一歳の少女です」
調査官は淡々と言った。
「その少女一人がいなくなっただけで領主家の管理体制が崩壊したのであれば、それ自体が重大な管理不全です」
バルガスが口を閉じた。
「違う。あの娘は特殊な能力を持っていた」
「正式な役職は?」
「ない」
「報酬は?」
「家族に報酬など必要ない」
「管理権限は?」
「子供に与えるわけがないだろう」
「では、権限も報酬もない十一歳の少女が、実質的に複数の問題を未然に防いでいたことになります」
調査官は帳面を示した。
「そして領主であるあなたは、その報告を繰り返し無視していた」
「……」
「これは少女がいなくなったことが原因なのではありません。少女がいなければ維持できない体制を放置していたことが原因です」
バルガスは反論しようとした。
だが言葉が出なかった。
調査官はさらに続ける。
「水路修繕の先送り。街道整備費の流用。魔獣飼育施設の人員不足。記録管理の欠如。そして急激な借入増加。いずれも、リリィ嬢の判断で行われたものではありません」
一つずつ。
逃げ道が塞がれていく。
「すべて、領主側の判断です」
*
処分はすぐに決まった。
アークライト伯爵家の爵位そのものが即座に失われるわけではなかった。
だが領地経営についての権限は大幅に制限された。
会計には王国側の監督官が入る。
税収の使用にも承認が必要となった。
不採算になっていた魔獣飼育施設は縮小。
維持できない土地の一部も整理対象となった。
借入返済のため、王都にある別邸や宝飾品、余剰馬車まで売却することになった。
「これはアークライト家への侮辱だ!」
バルガスは最後まで叫んだ。
けれど、以前のようにその一声で人が動くことはなかった。
「この絵も売るのか!」
「返済計画に含まれております」
「祖父の代からあるものだぞ!」
「借入金も残っておりますので」
家令の返事も淡々としていた。
使用人の数も減った。
広い屋敷の一部は閉鎖された。
食卓に並ぶ料理も少なくなった。
バルガスは何度も同じことを言った。
「リリィさえ戻れば」
魔獣は立て直せる。
治療費も減らせる。
森の魔物を使える。
金を稼げる。
「リリィさえ戻れば、全部元に戻る」
けれど。
もう誰も返事をしなかった。
マリアンヌは、森で見たリリィを思い出していた。
自分たちに囲まれていた時より、銀狼や村人たちのそばにいる時の方が、ずっと穏やかな顔をしていた。
そして、自分たちはその理由を何一つ尋ねなかった。
どうして森で暮らせたのか。
怖くなかったのか。
辛くなかったのか。
何を食べ、どこで眠り、誰に助けられたのか。
迎えに行ったつもりで、帰れと命じただけだった。
今さら「戻ってきて」と言うことが、本当にあの子のためになるのだろうか。
マリアンヌには、もう以前のように頷けなかった。
エドガーは食卓の皿を見つめていた。
以前より料理が少ない。
けれど、以前の自分なら文句を言っていたその量でも、今は黙って食べている。
森へ行く途中、護衛の忠告を無視して傷みかけた肉を口にし、腹を壊したことを思い出す。
リリィも昔から何度も言っていた。
水を飲め。
野菜も食べろ。
食べすぎるな。
体調が悪いなら休め。
自分は一度でも真面目に聞いただろうか。
リリィがいなくなったから体調を崩したのではなく、言うことを聞かなくなった自分が、以前の生活へ戻っただけではないのか。
そんな考えを、まだ誰かに話す気にはなれなかった。
だが、「リリィさえ戻れば」という父の言葉にも同意できなかった。
クラリッサはもっと別のことを思い出していた。
自分たちを怖がっていたはずの銀狼。
それでもリリィが止めれば、必要以上には近づかなかった。
怖がる自分へ飛びかかることもなかった。
相手が嫌がれば、距離を取る。
リリィもそうしていた。
では、自分たちはどうだったのだろう。
リリィが帰りたくないと言っているのに、家族なのだから戻るべきだと決めつけた。
父だけではない。
自分も、最初はそれを当然だと思っていた。
クラリッサは父を見る。
バルガスはまだ同じことを言っている。
「リリィさえ戻れば――」
以前なら、そうだと思ったかもしれない。
今は、その言葉の続きを聞くのが少し嫌だった。
家令も返事をしなかった。
リリィの帳面を何度も調査官へ渡したのは彼だった。
そこには、少女一人の努力で隠されていた問題が、日付とともに残っていた。
誰も、バルガスへ反論はしなかった。
謝罪もしない。
自分たちがすべて間違っていたと認めたわけでもない。
ただ、もう以前のようには頷けなかった。
沈黙だけが、長い食卓に残った。
バルガスだけが、その沈黙の意味に気づかなかった。
「何を黙っている。リリィを連れ戻せば済む話だろう」
誰も答えない。
リリィが戻れば解決するのではない。
少なくとも三人は、そのことに気づき始めていた。
自分たちが変わらなければ、何も変わらない。
伯爵家を壊したのは、追放された十一歳の少女ではなかった。
問題を見ないふりをしてきた伯爵家自身だった。
*
同じ朝。
森の小屋では、じゅう、と小気味いい音がしていた。
「よし。今日はきれいに焼けました」
リリィは小さなフライパンを覗き込む。
村からもらった卵を二つ。
白身の縁は香ばしく焼け、中央の黄身はつやつやと盛り上がっている。
横では銀狼が真剣な顔で見つめていた。
「これは私のです」
尻尾が止まった。
「あなたの朝ご飯は、もう器に入っていますよ」
銀狼がそちらを見る。
そしてまた目玉焼きを見る。
「見ても増えません」
屋根から翼竜が顔を覗かせる。
足元では、スライムの輪郭がリリィの足音に合わせて小さく揺れた。
パンを焼く香りが、小屋の中へ広がっていく。
リリィは皿へ目玉焼きを載せた。
「では、朝ご飯にしましょうか」




