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第27話 さようなら、伯爵家

「……本当に、帰らないの?」


 マリアンヌの問いに、リリィは迷わなかった。


「帰りません」


 森の中に、静かな声が落ちた。


 バルガスは地面に座ったまま、顔を上げる。


 エドガーもクラリッサも、何も言わなかった。


 少し前までなら、リリィ自身もここまで即答できたか分からない。


 伯爵家は嫌なことばかりだった。


 それでも十一年間暮らした場所だ。


 部屋があった。


 ミーナがいた。


 見慣れた廊下や庭もあった。


 家族と呼ばれる人たちもいた。


 だから追放された直後は、いつか呼び戻されたら帰るのだろうかと、どこかで考えていた。


 けれど今は違う。


「私はここで暮らします」


 リリィはそれだけを言った。


 マリアンヌが唇を動かす。


「でも、こんな森でずっとなんて……」


「暮らせています」


「今はそうでも、冬になったら?」


「準備します」


「病気になったら?」


「できることをします。できなかったら、人に助けてもらいます」


「魔物に襲われたら?」


 リリィは横を見る。


 銀狼が伏せたまま、こちらを見上げていた。


 少し離れたところには翼竜もいる。


「その時は、みんなで考えます」


「みんなって……」


「私一人じゃありませんから」


 マリアンヌは黙った。


 その言葉を聞きながら、クラリッサは銀狼を見ていた。


 少し前まで、自分たちへ牙を向けていた巨大な魔物だ。


 けれど今は、リリィの足元で静かに伏せている。


 リリィが触れれば目を細める。


 屋敷にいた頃のリリィは、こんな顔をしていただろうか。


 いつも誰かの機嫌を窺っていた。


 食卓では小さくなり、何か言えば父に叱られ、すぐに謝っていた。


 今の方が、ずっと自然に笑っている。


 そのことがなぜか胸に引っかかった。


 バルガスが苛立ったように地面へ手をつく。


「まだそんなことを言っているのか。ここにいるのは魔物ばかりではないか」


「違いますよ」


 声がした。


 伯爵家の者たちが、一斉に振り向く。


 森の道から、数人の村人が歩いてきていた。


 先頭にはガイルがいる。


「リリィ!」


「ガイルさん?」


 リリィが驚く。


「どうしたんですか?」


「帰りが遅いから、ちょっと様子を見に来た」


 その手には籠があった。


 後ろの老人も袋を抱えている。


「昨日言っておった豆を持ってきたぞ」


「こんな時に?」


「こんな時だからだ」


 老人はバルガスたちを見た。


 護衛の剣。


 疲れ切った伯爵一家。


 そして、その向かいに立っている十一歳の少女。


 何が起きていたのか、おおよそ察したらしい。


 ガイルがリリィの隣まで来る。


「この人たちは?」


「伯爵家の方です」


「……ああ」


 ガイルの表情が変わった。


 リリィが追放されたことまでは、すでに聞いている。


「迎えに来たそうです」


「帰るのか?」


「帰りません」


「そうか」


 それだけだった。


 理由も聞かない。


 本当にいいのかとも言わない。


 ガイルは頷いて、持っていた籠を小屋の前へ置いた。


「じゃあ、これ。村のみんなから」


「ありがとうございます」


「それと、明日また板を持ってくる。雨が増える前に屋根の端、直した方がいいだろ」


「あ、そうでした」


「一人でやるなよ。俺たちも来るから」


 老人も続けた。


「冬の薪も、そろそろ集め始めた方がええ。森の木なら何でも燃やしていいわけではないぞ」


「教えてください」


「もちろんだ」


 何でもない会話だった。


 けれどマリアンヌたちは、それを黙って聞いていた。


 リリィが助けてもらっている。


 同時に、リリィも村人たちから頼られている。


 どちらかが一方的に世話をしているのではない。


 ここには、ちゃんと関係ができていた。


 エドガーは無意識に腹へ手を当てた。


 森へ来る途中、傷みかけた肉を食べて腹を壊した。


 護衛には止められていた。


 それでも、「少しくらい大丈夫だ」と聞かなかった。


 屋敷でも似たようなことがあった。


『お水、もう少し飲んだ方がいいです』


『野菜も食べてください』


『最近、お腹が張っていませんか?』


 リリィは何度も言っていた。


 そのたびに、自分はどう答えていただろう。


 余計なお世話だ。


 子供のくせに。


 そんなふうに笑った気がする。


 今日、護衛の言葉を無視した自分と、何が違うのだろう。


 そこまで考えて、エドガーは顔を逸らした。


 答えを出すのは、まだ怖かった。


「お前たち」


 バルガスが立ち上がろうとする。


「これはアークライト家の問題だ。部外者は口を出すな」


 ガイルが眉をひそめた。


「俺たちは何も口出してませんよ」


「なら帰れ」


「リリィが困っているなら帰りません」


「貴様……領主に逆らうつもりか!」


 銀狼が顔を上げる。


 リリィはその頭へ軽く手を置いた。


「大丈夫です」


 それからバルガスを見る。


「叔父様、もう終わりにしましょう」


「何?」


「私が帰るかどうかの話です」


「まだ――」


「帰りません」


 もう一度言った。


 今度は、誰にも届くようにはっきりと。


「叔父様たちが困っていることは分かりました。でも、それを私が全部直すことはしません」


「家を見捨てると言うのか」


「はい」


 バルガスの顔が歪む。


 リリィは言葉を足した。


「でも、恨んで困らせたいわけでもありません」


「なら戻ればいい!」


「それは別です」


 助けることと、従うことは違う。


 許すことと、戻ることも違う。


 前の自分なら、その境目をうまく分けられなかった。


 誰かに求められたら、応えなければならないと思っていた。


 今は分かる。


「私はここで暮らします。それだけです」


 長い説明はしなかった。


 何をされたか、一つずつ数える必要もなかった。


 硬いパン。


 役立たずという言葉。


 聞いてもらえなかった忠告。


 森へ置き去りにされた日。


 忘れてはいない。


 けれど、それを全部ぶつけても、自分の居場所が変わるわけではない。


 リリィはもう、伯爵家に分かってもらうために生きる必要がなかった。


 クラリッサは、そんなリリィの横顔を見ていた。


 父に言い返しているのに、怒鳴ってはいない。


 自分たちを追い払おうともしていない。


 ただ、自分の居場所を自分で決めている。


 屋敷にいた頃、クラリッサはそれを「気が弱い」と思っていた。


 何を言われても強く言い返せない子だと。


 でも、本当に弱かったのだろうか。


 少なくとも今の自分には、父へ「帰りません」と言う勇気はない。


 そして、そんなリリィを守ろうとする銀狼は、怖がる相手には近づかなかった。


 リリィを連れ帰るためなら本人の気持ちは関係ないと言った父と、どちらが相手の気持ちを見ているのだろう。


 その考えが浮かび、クラリッサは慌てて目を伏せた。


 まだ、父が間違っているとは言えない。


 けれど以前のように、リリィだけがおかしいとも思えなくなっていた。


 バルガスはしばらく黙っていた。


 やがて護衛隊長が口を開く。


「旦那様。日が暮れる前に戻った方がよろしいかと」


「……」


「帰路にも時間がかかります」


 その言葉に、バルガスはようやく森を見回した。


 ここへ来るだけでも苦労した。


 水も少ない。


 家族も疲れている。


 これ以上留まる余裕はない。


「勝手にしろ」


 低く吐き捨てた。


「後悔しても知らんぞ」


「はい」


 リリィは静かに答えた。


 バルガスは何か言い返そうとしたが、結局やめた。


 護衛たちが一家を促す。


 マリアンヌは最後までリリィを見ていた。


「……元気でね」


 かすかな声だった。


 リリィは少しだけ迷ってから答える。


「叔母様も」


 それ以上は言わなかった。


 エドガーは一度だけリリィを振り返った。


 何か言おうとしたように口を開いたが、結局そのまま閉じる。


 クラリッサも銀狼の隣に立つリリィを見た。


「……」


 言葉は出なかった。


 二人とも謝らなかった。


 自分たちが間違っていたと認めたわけでもない。


 ただ、来た時と同じ気持ちのままでは帰れなくなっていた。


 リリィは二人の背中を追わなかった。


 銀狼も翼竜も動かない。


 村人たちも黙って見送った。


 やがて木々の間へ一行が消える。


 さらに遠く。


 馬車の車輪が動き出す音がした。


 それも少しずつ小さくなる。


 完全に聞こえなくなったところで。


「……あ」


 リリィの膝から力が抜けた。


 ガイルが慌てる。


「リリィ?」


「大丈夫です」


 反射的に答えてから、リリィは止まった。


 また言ってしまった。


「……いえ」


 小さく首を振る。


「ちょっと、大丈夫じゃないです」


 その場へ座り込んだ。


 膝が震えている。


 手も震えていた。


 平気だったわけではない。


 怖かった。


 叔父が怒鳴るたび、昔の自分が身体の奥で縮こまっていた。


 腕を掴まれそうになった時も。


 帰れと命令された時も。


 本当はずっと怖かった。


 それでも言えた。


 帰らない、と。


 銀狼が近づいてきた。


 何もせず、リリィの横へ身体を寄せる。


 反対側には翼竜が座った。


 そして、足先へ冷たい感触が触れた。


「……あなたも来たんですか」


 スライムだった。


 いつの間にか寝床からゆっくり移動してきたらしい。


 リリィの靴へ身体を寄せている。


「みんな、心配性ですね」


 笑おうとした。


 けれど声がうまく出なかった。


 代わりに涙が一粒落ちた。


「あれ……」


 頬を拭う。


 もう一粒。


 止めなくていいと思った。


 悲しいわけではない。


 屋敷へ帰りたかったわけでもない。


 ただ。


「終わったんですね」


 そう口にした途端、涙が増えた。


 銀狼の毛へ顔を埋める。


 温かい。


 翼竜が背中へそっと鼻先を寄せる。


 足元ではスライムの輪郭が小さく揺れた。


「私、帰らなくていいんですね」


 誰も答えない。


 それでも、三匹がそばにいる。


 リリィはしばらくそのまま泣いた。


 十一歳になってから初めて。


 何かを救えなかったからではなく。


 ようやく、自分を救えたことに安堵して泣いた。


     *


 その頃。


 アークライト伯爵家では、一通の公文書が届いていた。


 王国の印が押された封筒を、留守を預かる家令が受け取る。


 宛名はバルガス・アークライト伯爵。


 差出人を確認した家令の顔から、血の気が引いた。


 領政監督局。


 封を開く。


 そこに記されていたのは、最近の税収減少、街道と水路の管理不全、魔獣飼育施設での事故、領民から相次ぐ申告について。


 そして最後には、こうあった。


『以上の事由により、アークライト伯爵領の領地経営について正式調査を実施する』



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