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第26話 強いからこそ、傷つけない

 銀狼の唸り声が、森の奥まで響いた。


 黒い靄が銀色の毛並みを包み、足元の土がわずかに震える。頭上では翼竜が大きく翼を広げ、木々の葉を激しく揺らした。


 さらに森のあちこちから、いくつもの気配が近づいてくる。


 護衛たちは剣へ手をかけたまま動けなかった。


「旦那様……」


 一人が声を絞り出す。


「これ以上は無理です」


「何をしている! たかが魔物だぞ!」


 バルガスが怒鳴る。


 だが声には、さっきまでの勢いがなかった。


 銀狼が一歩前へ出た。


 それだけで、護衛の一人が後ずさる。


 前脚が地面へ触れた瞬間、硬い土に亀裂が入った。


 バルガスの顔から血の気が引く。


「な……」


 銀狼は飛びかからない。


 ただ、そこに立っている。


 それだけで十分だった。


 今の銀狼が本気で突進すれば、人間など簡単に吹き飛ばされる。


 翼竜も同じだ。


 一度羽ばたけば強い風が巻き起こり、クラリッサが悲鳴を上げて母親へしがみついた。


「いやっ!」


 マリアンヌも娘を抱き寄せる。


 翼竜は二人へ近づかなかった。


 ただバルガスたちとリリィの間へ降り立ち、翼をいっぱいに広げている。


 その後ろに、リリィがいる。


 守護獣たちは誰も襲っていない。


 それでも伯爵家の一行は、立っているだけで精いっぱいだった。


「下がれ……」


 護衛隊長が言う。


「全員、ゆっくり下がれ。走るな」


「なぜ私が逃げなければならん!」


 バルガスは言い返したが、足は動かなかった。


 膝が震えている。


「父上……」


 エドガーも青ざめていた。


 森の奥から、さらに低い鳴き声が聞こえる。


 姿は見えない。


 だが近くにいる。


 自分たちは完全に囲まれていた。


 バルガスの呼吸が速くなる。


「こんな……こんなことが許されるか」


 肩が大きく上下している。


「私は領主だぞ。私に逆らえば、この森ごと――」


 途中で言葉が切れた。


「あなた?」


 マリアンヌが気づく。


 バルガスは胸元を押さえていた。


「はっ……はっ……」


 呼吸がさらに速くなる。


「旦那様?」


 護衛隊長も振り返った。


「どうしました」


「息が……」


 バルガスが大きく空気を吸う。


 だが、吸えば吸うほど苦しそうになる。


「息ができん……」


 リリィの表情が変わった。


 さっきまで叔父の言葉を聞いていた時とは違う。


 顔色。


 呼吸。


 姿勢。


 目の動き。


 気づいた瞬間、身体が自然に動いた。


「叔父様、ゆっくり息をしてください」


「何……?」


「たくさん吸おうとしないでください」


「息が、足りない……!」


「足りないんじゃありません。速すぎます」


 リリィはバルガスを観察する。


 呼吸は浅く、異常に速い。


 唇に明らかな青紫色はない。


 胸を強く押さえているわけでもない。


 恐怖による過換気の可能性が高い。


 さらに膝が崩れかけている。


「座ってください」


「私は……大丈夫だ」


 そう言いながら身体が傾いた。


「大丈夫じゃありません」


 リリィはすぐに言った。


 その言葉に、自分自身が少し驚く。


 前世の自分なら「大丈夫」と言う人を前にしても、自分まで無理をして動き続けていただろう。


 今は違う。


「護衛の方、支えてあげてください」


「は、はい」


 二人がバルガスの腕を取る。


 しかし銀狼の唸り声は続いていた。


 バルガスが震えるたび、その音がさらに恐怖を強めている。


 翼竜もまだ大きく翼を広げたままだ。


「そこまでです!」


 リリィの声が響いた。


 銀狼の耳が動く。


「もう大丈夫です。下がってください」


 唸り声が止まった。


 黒い靄が薄くなっていく。


「翼竜も。翼を閉じてください」


 翼竜がすぐに従った。


 森の奥に集まっていた魔物たちにも向けて、リリィは声をかける。


「みんなも大丈夫です。ありがとう」


 しばらくすると、茂みの向こうの気配が一つずつ消えていった。


 護衛たちは呆然としていた。


 さっきまで森全体が牙を剥いていた。


 それがリリィの言葉だけで静かになった。


「……助かった」


 エドガーが思わず呟く。


 バルガスは地面へ座り込んだ。


 リリィは少し離れた場所にしゃがむ。


「息を吐く方を意識してください。ゆっくりです」


「お前に……指図されんでも……」


「では、自分でできますか?」


 バルガスは答えられなかった。


「無理に深く吸わなくていいです。ゆっくり吐いてください」


 何度か繰り返す。


 少しずつ呼吸が落ち着いていく。


 顔色も戻り始めた。


 その様子を、マリアンヌは黙って見ていた。


 森へ捨てた相手を、リリィは助けている。


 さっきまで無理やり連れ帰ろうとしていた夫を。


 財産として魔物まで奪おうとした夫を。


 それなのに、自分たちはどうだっただろう。


 森へ来てから一度でも、リリィに聞いただろうか。


 ここで怖くなかったのか。


 怪我をしなかったのか。


 夜は眠れたのか。


 食べるものは足りていたのか。


 十一歳の子供が一人で森へ置かれて、どんな気持ちだったのか。


 迎えに来たつもりでいた。


 家族だから帰ってくるのが当然だと思っていた。


 けれど自分たちは、リリィが今どうしているのかすら、何一つ尋ねていなかった。


 マリアンヌは初めて、そのことに気づいた。


 リリィはバルガスの呼吸が落ち着いたことを確認して立ち上がる。


 マリアンヌは思わず声をかけた。


「リリィ……」


「何ですか?」


「どうして止めたの?」


 その問いに、リリィは少し考えた。


「何をですか?」


「あの魔物たちよ」


 マリアンヌは銀狼を見る。


「バルガスは、あなたを無理やり連れ帰ろうとしたのよ」


「はい」


「それなのに……」


 最後までは言わなかった。


 けれどリリィには分かった。


 このまま守護獣たちに威嚇させておけばよかったのではないか。


 少しくらい怖い思いをさせても。


 あるいは、傷つけられても仕方がなかったのではないか。


 そう聞いている。


 リリィは首を振った。


「必要がありませんから」


「でも」


「もう近づいてきませんでした」


 護衛たちも止まっている。


 バルガスも立てない。


 危険はなくなった。


「だったら、それ以上はしません」


 銀狼がリリィの横まで戻ってくる。


 リリィはその頭を撫でた。


「この子はすごく強くなりました」


 銀狼の耳が動く。


「翼竜もです」


 翼竜も首を伸ばしてくる。


「だからこそ、必要のない相手を傷つけたら駄目です」


 クラリッサがぽつりと言った。


「……腹が立たないの?」


 リリィは少し考える。


「立っています」


「じゃあ、どうして?」


「腹が立つことと、傷つけることは別だからです」


 クラリッサは黙った。


 リリィはバルガスを見る。


 追放された。


 役立たずと言われた。


 今は価値があるから戻れと言われた。


 銀狼たちまで財産にしようとされた。


 許してはいない。


 たぶん、すぐには許せない。


「傷つけないのは、許したからではありません」


 バルガスが顔を上げる。


「必要がないからです」


「……私を憐れむつもりか」


「違います」


 リリィは即答した。


「叔父様が苦しくなっていたから止めただけです」


「だから、それが――」


「具合が悪い人がいたら、できることをします」


 淡々とした言葉だった。


「でも、それで屋敷へ戻るわけではありません」


 バルガスの顔が強張る。


「助けたんだから、許した。そういうことでもありません」


 リリィはようやく、自分の中にあるものを分けて考えられるようになっていた。


 助けること。


 許すこと。


 従うこと。


 戻ること。


 全部、別のことだ。


 前世の自分は、誰かを助けるなら最後まで背負わなければならないと思っていた。


 今は違う。


 目の前で倒れそうなら手を貸す。


 それでも、その人の人生までは背負わない。


 それでいい。


「少し休んでから帰った方がいいです」


 リリィが言う。


 バルガスは返事をしなかった。


 地面に座ったまま、荒い呼吸を少しずつ整えている。


 誰も口を開かなかった。


 銀狼も伏せた。


 翼竜も翼を畳み、小屋のそばへ戻る。


 森に静けさが戻ってきた。


 マリアンヌは、そんなリリィを見つめていた。


 屋敷にいた頃より顔色がいい。


 身体も以前よりしっかりして見える。


 銀狼がそばにいても怯えず、翼竜にも自然に触れている。


 この森で、リリィがどう暮らしてきたのか。


 本当なら、最初に聞くべきだった。


 なのに自分が最初に口にしたのは、「家族だから帰りなさい」だった。


 マリアンヌの胸に、今までとは違う痛みが残った。


 しばらくして。


「リリィ」


 小さな声で呼ぶ。


 これまでとは違う。


 命令でもない。


 叱責でもない。


 そして初めて、帰ることが当然ではないと分かった上で尋ねた。


「……本当に、帰らないの?」




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