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第25話 私は、もうあなたたちを救いません

 リリィは、バルガスの前から退かなかった。


 屋敷にいた頃なら考えられなかったことだ。


 怒鳴られれば身体が縮んだ。声を荒らげられれば、自分が悪いのだと思った。何か言いたいことがあっても、最後には「ごめんなさい」と口にしていた。


 けれど今は違う。


「叔父様」


「何だ」


「伯爵家で、今何が起きているんですか?」


 突然の問いに、バルガスが眉をひそめた。


「お前には関係ない」


「関係があるから、私を連れ戻しに来たんですよね?」


 返事はない。


 リリィは叔父の顔を見た。


「赤角馬はどうなりました?」


 バルガスの表情がわずかに動く。


「黒牙牛は? 叔母様の頭痛は? エドガーお兄様のお腹は?」


「なぜ知っている」


「分かっていましたから」


 リリィは静かに答えた。


「ずっと前から」


 赤角馬は太りすぎていた。歩き方もおかしかった。蹄も悪くなり始めていた。


 黒牙牛は水をあまり飲まなくなっていた。寝床は湿り、食欲も落ちていた。


 マリアンヌは眠れていなかった。


 エドガーは野菜も水分も足りていなかった。


「私は何度も言いました」


「その話はもう聞いた!」


「でも、叔父様は聞いてくれませんでした」


 リリィは声を荒らげなかった。


 それがかえって、バルガスを苛立たせた。


「だから何だ! 今さら責めるつもりか!」


「責めていません」


「なら何を言いたい!」


「どうしてそうなったのかです」


 バルガスが黙る。


「傷ができたら、治癒魔法を使えばいい。具合が悪くなったら、治癒術師を呼べばいい。魔獣が暴れたら、拘束すればいい。使用人が倒れたら、別の人を雇えばいい」


 一つずつ、リリィは言葉にした。


「ずっと、それを続けてきたんですよね」


「金を払っている。それの何が悪い」


「悪いことが起きてからしか、見ていないんです」


 バルガスの顔が険しくなる。


「病気にならないようにすること。怪我をしないようにすること。水をきれいにすること。食事を整えること。疲れている人を休ませること。魔獣に合った世話をすること」


 どれも派手ではない。


 治癒魔法のように傷が光って消えることもない。


 けれど、毎日の小さな積み重ねが身体を守る。


「そんなものは使用人にやらせればいい」


「その使用人が倒れたら?」


「別の者を雇う」


「また、その人も倒れたら?」


「……」


「ずっと、誰かが何とかしてくれると思っていたんじゃないですか?」


 バルガスの頬が引きつった。


「十一歳の子供が、領主に説教するつもりか」


「違います」


 リリィは首を振った。


「私は、もう何とかしませんって伝えているんです」


 マリアンヌが息を呑んだ。


「リリィ……」


 リリィは叔母にも目を向けた。


「叔母様も、眠れないなら休まないといけません。治癒魔法をかけても、また同じ生活をしたら同じように具合が悪くなります」


 次にエドガーを見る。


「お兄様も、お腹が痛くなってから薬を飲むだけじゃなくて、普段の食事を変えないといけません」


「ぼ、僕は……」


 エドガーは言い返しかけて、黙った。


 森へ来る途中にも腹を痛めていた。


 リリィは責めたいわけではなかった。


 だから、そこで言葉を止めた。


「私は、前まで全部自分で何とかしようとしていました」


 自分の小さな手を見る。


「誰かが具合を悪くしたら、もっと早く気づけなかった私が悪い。魔獣が弱ったら、もっとちゃんと見ていればよかった。誰かが助からなかったら、もっと頑張ればよかったって」


 前世でも同じだった。


 眠らずに働いた。


 疲れていても「大丈夫です」と答えた。


 救えない人がいるたびに、自分の努力が足りなかったのだと思った。


「でも、違いました」


 リリィは小屋のそばにいるスライムへ目を向けた。


 崩れかけた身体。


 食事を必要としない子。


 どれほど栄養を考えても、どれほど工夫しても、生き返らせることはできなかった。


「あの子に教えてもらったんです」


 バルガスもスライムを見る。


「何だ、あの気味の悪いものは」


 銀狼の耳が動いた。


 リリィはそれを手で制した。


「治せない子です」


「なら捨てればいい」


「捨てません」


 即答だった。


「治せなくても、清潔にできます。身体が崩れにくいようにできます。安心できる場所も作れます」


「そんなことをして何になる」


「その子が、その子のままでいられます」


 バルガスは理解できないという顔をした。


 以前なら、その顔を見ればリリィの方が不安になっただろう。


 自分の考えがおかしいのではないか、と。


 今は違った。


「できないことを認めるのは、逃げることではありません」


 リリィはゆっくり続けた。


「できないことが分かったら、できることを考えればいいんです」


 そして、ようやく一番言いたかったことへたどり着いた。


「私にも、できないことがあります」


 バルガスが鼻を鳴らす。


「だったら屋敷へ戻って――」


「あなたたちを変えることです」


 言葉が止まった。


 森が静かになる。


「何?」


「叔父様も、叔母様も、お兄様も、お姉様も。私がどれだけ言っても、自分で変わろうとしなければ変えられません」


「お前……」


「食事を変えることも、ちゃんと休むことも、魔獣のお世話を見直すことも、私の代わりに誰かがやり続ければいいことじゃありません」


 バルガスの顔が赤くなっていく。


 それでもリリィは続けた。


「屋敷が大変なのは分かりました。でも、だから私が戻って全部元通りにするのは違います」


「家族を見捨てるのか!」


 その言葉に、胸が少しだけ痛んだ。


 以前のリリィなら、それだけで折れていたかもしれない。


 見捨てる。


 救わない。


 そんな言葉が怖かった。


 自分が頑張れば何とかなるなら、頑張らないことは悪いことだと思っていた。


 でも、もう違う。


「はい」


 リリィは静かに答えた。


「私は、もうあなたたちを救いません」


 マリアンヌが目を見開いた。


「それは、嫌いだからじゃありません」


 リリィは続ける。


「自分で変わるしかないことを、私が代わりにやってしまったら、また同じになるからです」


 不思議だった。


 そう言った瞬間、胸の奥から重いものが落ちた。


 前世からずっと抱えていたもの。


 もっと頑張らなければ。


 もっと助けなければ。


 自分がやらなければ。


 その声が、初めて遠ざかった。


「私は、私にできることをします」


 銀狼を見る。


 翼竜を見る。


 スライムを見る。


「でも、できないことまで背負いません」


 バルガスの身体が震えた。


「この……恩知らずが!」


 怒声が森に響いた。


「私がここまで迎えに来てやったというのに!」


 護衛隊長が警戒する。


「旦那様」


「黙れ!」


 バルガスがリリィを指さした。


「もう話す必要はない! 連れていけ!」


 護衛たちは動かなかった。


「聞こえないのか!」


 その瞬間。


 森の奥から低い唸り声が聞こえた。


 一つではない。


 右から。


 左から。


 さらに背後から。


 銀狼も静かに立ち上がる。


 頭上では翼竜が翼を広げた。


 護衛隊長が剣の柄に手をかけながら、青ざめた顔で周囲を見た。


 森そのものが。


 リリィと伯爵家の間に、立ちはだかろうとしていた。



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