第24話 この森も、この魔物も、伯爵家のものだ
バルガスの目は、もうリリィを見ていなかった。
正確には、十一歳の姪として見ていなかった。
巨大な銀狼。
空を飛ぶ翼竜。
森の奥に潜む数多くの魔物。
そして、それらがリリィの言葉一つで動きを止める。
その光景を前にして、バルガスの頭に浮かんでいたのは、金と利益だった。
「これなら立て直せる」
低く呟く。
リリィは眉を寄せた。
「何をですか?」
「伯爵家だ」
バルガスは当然のように答えた。
「今、屋敷では魔獣の管理に莫大な費用がかかっている。治癒術師を呼ぶ回数も増えた。だがお前が戻れば、それらは減らせる」
「……」
「それだけではない」
バルガスの声に力が戻っていく。
森へ入ってからずっと、彼は疲れていた。
水が足りない。
足が痛い。
金がない。
護衛にも不満を言われる。
だが今は違った。
目の前に、すべてを解決できるものを見つけた顔をしている。
「お前には魔獣の異常を事前に見抜く力がある。傷の手当てもできる。食事を変えるだけで、これほど弱っていた魔物を強くできる」
バルガスが銀狼を見る。
「これだけの個体なら、騎士が何人必要になると思う?」
銀狼の耳がぴくりと動いた。
リリィは何も答えなかった。
「街道の護衛に使える。領地の巡回にもいい。盗賊が出ても、この狼一頭で十分だろう」
「この子は、そんなことをするために元気になったんじゃありません」
「役に立つのなら使えばいい」
即答だった。
リリィの胸の奥が冷える。
「翼竜はもっと価値がある」
バルガスは今度は小屋の屋根を見る。
「空から領地を監視できる。急ぎの伝令にも使える。王都まで飛ばせるなら、他家がいくら払うと思う?」
「この子は売り物じゃありません」
「売るとは言っていない」
「同じです」
「全く違う」
バルガスは苛立ったように手を振った。
「伯爵家の戦力として活用すると言っているんだ。お前がきちんと管理すればいい」
管理。
活用。
戦力。
リリィが銀狼たちについて考える時には、一度も使ったことのない言葉ばかりだった。
銀狼に必要な食事は何か。
どれくらい走ればいいか。
疲れていないか。
翼竜の翼に負担はないか。
今日は飛びたいのか、休みたいのか。
スライムが少しでも穏やかに形を保てる場所はどこか。
リリィが考えてきたのは、いつもその子自身のことだった。
叔父が考えているのは違う。
何に使えるのか。
どれくらい得をするのか。
それだけだった。
「それに、お前の治療も金になる」
「治療?」
「村人に無料でやっているのだろう?」
「できることを手伝っているだけです」
「それを無料でする必要がどこにある」
バルガスは呆れたように言った。
「怪我人を治し、体調を整える。金を取ればいい。貴族や商人なら高額でも払う」
「私は治癒魔法を使えません」
「結果が出れば同じだ」
「同じではありません」
「細かいことだ」
リリィは言葉を失った。
自分がずっと大切にしてきた違いを、叔父は一言で切り捨てた。
治せること。
治せないこと。
助けられること。
助けられないこと。
それでも、できることを探すこと。
スライムから教わったばかりの大切なことだった。
バルガスにとっては、結果と利益以外は「細かいこと」なのだ。
「お前が患者を診る。魔物を育てる。その金で伯爵家を立て直す」
「私が?」
「当然だ」
「私は、それをしたいと言っていません」
バルガスが怪訝そうな顔をした。
「したいかどうかなど関係ない」
「……関係ない?」
「お前はアークライト家の人間だ。家が危機にあるなら力を貸すのは義務だろう」
また同じだった。
家族だから。
育ててやったから。
伯爵家の娘だから。
リリィ自身が何を望むのかは、一度も尋ねない。
マリアンヌが小さく口を開いた。
「あなた、もう少しリリィの話も――」
「何を聞く必要がある」
バルガスは妻の言葉まで遮った。
「子供が森暮らしを気に入っている。それだけだろう。屋敷へ戻れば、そのうち目も覚める」
「私はここにいたいです」
「だから、それは子供の我が儘だ」
リリィは静かに叔父を見た。
屋敷にいた頃もそうだった。
『お水を替えた方がいいです』
余計なことだ。
『この子、歩き方がおかしいです』
子供が口を出すな。
『少し休んだ方がいいと思います』
役立たずのくせに。
何を言っても、最初から聞くつもりがなかった。
今も同じだ。
違うのは、リリィの方だった。
「それから」
バルガスが周囲を見回した。
「この森についても整理が必要だな」
「森?」
「ああ」
バルガスは木々を指した。
「これだけ魔物が集まっているなら利用価値がある。薬草も豊富なようだし、珍しい食材もある」
リリィの表情が硬くなる。
「何をするつもりですか?」
「管理する」
「誰が?」
「アークライト伯爵家がだ」
リリィは耳を疑った。
「どうしてですか?」
バルガスはむしろ、なぜ分からないのかという顔をした。
「この一帯はアークライト領に属している」
「だから?」
「領地にあるものは領主が管理する。当然のことだ」
銀狼がわずかに頭を上げる。
「森の魔物を登録し、使えるものを選別する。薬草や魔力の強い果実も勝手に採らせる必要はない。伯爵家が管理して売れば収入になる」
「待ってください」
「村人にも採取料を払わせればいいな」
「叔父様」
「それから、この小屋も――」
「やめてください」
リリィの声が少し強くなった。
バルガスが止まる。
「何だ」
「ここはみんなが暮らしている場所です」
「だから管理すると言っている」
「銀狼も翼竜も、森の魔物たちも、叔父様のものじゃありません」
「領地の中にいる」
「だからって、物になるんですか?」
バルガスはため息をついた。
「十一歳のお前には領主というものが分からんのだ」
「分からなくていいです」
「何?」
「生きている子を、土地の中にいるから自分のものだと言うなら、そんなことは分かりたくありません」
護衛たちが黙って二人を見ていた。
バルガスの顔が険しくなる。
「お前がどう思おうと事実は変わらん」
「変わります」
「変わらん!」
声が森へ響く。
「この森はアークライト領だ! ならば森の資源も、そこに棲む魔物も伯爵家の財産だ!」
リリィの中で、何かがすとんと落ちた。
怒りではなかった。
悲しみとも少し違う。
理解だった。
この人は、ずっと同じなのだ。
自分を迎えに来たと言った。
家族だと言った。
伯爵家へ戻れと言った。
けれど一度も、
森で怖くなかったか。
怪我をしていないか。
ちゃんと食べているか。
ここで幸せなのか。
そう聞かなかった。
リリィの帳面を読んだ時も、考えたのは「役に立つ」だった。
銀狼たちを見ても「戦力になる」。
手当ての知識も「金になる」。
森を見ても「財産になる」。
全部同じだった。
「……やっと分かりました」
リリィが言った。
「何がだ」
「叔父様たちは、私が必要なんじゃないんですね」
バルガスが眉を寄せる。
「何を言っている」
「私ができることが必要なだけなんです」
「同じことだろう」
「違います」
今度は、はっきり言えた。
「全然違います」
自分でも驚くほど、胸は静かだった。
役に立たなければ捨てられる。
役に立つと分かれば取り戻される。
その間に、リリィ本人はいない。
だったら。
もう、この人に認めてもらう必要もなかった。
「くだらん話は終わりだ」
バルガスが苛立ったように吐き捨てた。
そして護衛へ向き直る。
「リリィを馬車へ乗せろ」
護衛たちが動かなかった。
「聞こえなかったのか?」
「旦那様……」
「連れて帰るだけだ。早くしろ」
護衛隊長がためらいながら、一歩前へ出た。
銀狼の耳が立つ。
翼竜も屋根の上で身体を起こした。
けれど。
その二匹より先に。
リリィ自身が一歩前へ出た。
「いいえ」
護衛隊長が止まる。
リリィはバルガスから目を逸らさなかった。
「話は、ここからです」




